2024/05/02

聖書の教理~(4)神の存在

 聖書は、創世記の冒頭から「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)と宣言しているように、神が存在することを当然のこととしています。「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)とも言われています。

 17世紀の科学者パスカルは「神には部分も限界もない以上(私たちは神の存在を)知ることができない」と考え、「(神の存在の賭けに)もし勝てば、すべてを獲得する。…だから迷うことなく、神にいるほうに賭けるべきだ」と言っています。そして、聖書は神がおられることが私たち人間にとってどれほど大きな利益があるかを多く教えています。「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」(ホセア6:3)。

 聖書は、人が神を知る方法をいくつか挙げています。a)世界の創造を通して(創世記1:1)、b)自然の営みを通して(ヨブ38章以下)、c)人間の良心を通して(詩篇42:2)、d)人間の歴史を通して(ダニエル2:21)、e)人間の信仰を通して(ローマ1:19-20)。

 聖書はこのように言って約束しています。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブ4:8)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)
パスカル「パンセ(中)」50-53頁、岩波文庫(2015年) 

2024/04/28

2024年4月28日の聖書日課

(クサイチゴ)

エゼキエル36:24-28
 36:24 わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。
 36:25 わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
 36:26 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
 36:27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
 36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/04/25

聖書の教理~(3)聖書の霊感

 聖書はこのように自ら主張しています。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(テモテ第二3:16)「霊感」という言葉は聖書において、「人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語った」(ペテロ第二1:21)ことを意味します。

 前回の学びの「聖書の証言」も踏まえると、聖書の霊感の特徴として次の事項が挙げられます。a)神に由来するものであり、人に由来するものではない(マタイ16:17)。b)個別的に明示するものであり、一般的な情報を示すものではない(コリント第一2:4-5)。c)人の心に生きて働くものであり、当たり障りのないことに留まるものではない(ヘブル4:12)。d)完全であり、不完全ではない(詩篇19:7)。e)聖書の言葉の一点一画まで及び、聖書を特徴づけている(マタイ5:18)。

 聖書の言葉は神の意志を表明したものであり、聖書の言葉が成就することによって神の意志がこの世に実現します。このような理解をもって聖書を読むとき、私たちは行くべき人生の道を確かに見出すことができます。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社 (1981年)

2024/04/21

2024年4月21日の聖書日課

(ムサシアブミ)

詩篇118:6-12
 118:6 主がわたしに味方されるので、
恐れることはない。
人はわたしに何をなし得ようか。
 118:7 主はわたしに味方し、わたしを助けられるので、
わたしを憎む者についての願いを見るであろう。
 118:8 主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。
 118:9 主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。
 118:10 もろもろの国民はわたしを囲んだ。
わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
 118:11 彼らはわたしを囲んだ、わたしを囲んだ。
わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
 118:12 彼らは蜂のようにわたしを囲み、
いばらの火のように燃えたった。
わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/04/18

聖書の教理~(2)聖書の証言

 教理を学ぶために一番重要なのは、聖書の証言です。「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった」(コリント第一1章21節)とあり、「聖書…が、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物である」(テモテ第二3章15節)と聖書は語っています。

 ある人々は「真理とは何か」(ヨハネ18章38節)と言いながら、心では絶対的な真理など存在しないと考えています。それに対し、キリストは絶対的な真理が存在することをしばしば言及し、「御言は真理であります」(ヨハネ17章17節)と語っています。

 聖書が真理について語るとき、以下のような特徴的な言葉を用いています。「主は言われた」(創世記22章16節)、「(聖書の言葉が)成就する」(ヨハネ19章36節)、「預言者たちにより…語られた」(ヘブル1章1節)

 また、しばしば聖書が他の聖書の部分について言及し、真理であると証言しています(ペテロ第二3章15~16節)。

 聖書の言葉を、他の聖書の言葉によって読み解くことが大切です。聖書の知識を蓄えていきましょう。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社 (1981年) 

2024/04/14

2024年4月14日の聖書日課

(ハマダイコン)

イザヤ61:1-3
 61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
 61:2 主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、
 61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために
植えられた者ととなえられる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/04/11

聖書の教理~(1)緒論

 聖書は様々な方法で読み、理解することができるかもしれません。しかし、聖書は本来意味し、伝えようとする「真理」を持っています(テモテ第二2:15)。その真理をつかむためには正しい読み方、正しい理解が必要です。「教理」はそのような聖書の真理をまとめたものです。

 「教理」を学ぶことは次のような利点があります。a)聖書が持つ権威を知ることができる(マタイ7:29)。b)きよい品性(徳)を作り出す(ペテロ第二1:5-8)。c)間違った聖書理解から守られる(マタイ22:29)。d)信仰の導き手が備えるべき知識を得る(ヨハネ3:10)。

 この聖書研究シリーズでは、教理と神学は同じものとして扱います。神学研究は次のような要素から成っています。a)釈義神学…聖書の原典(ヘブル語・ギリシャ語等)は何を語っているか。b)歴史神学…神学の歴史において聖書がどのように理解されてきたか。c)教義神学…教会は聖書をどのように理解し、定義づけてきたか。d)聖書神学…前述の諸神学を踏まえた聖書の諸概念(贖い・愛等)の研究。e)組織神学…前述の諸神学を踏まえた聖書の諸概念の体系化。

 聖書の教理について、ゆっくり一歩ずつ学んでいきましょう。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社 (1981年)

2024/04/07

2024年4月7日の聖書日課

(アマナ)

ペテロ第一1:3-9
 1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
 1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
 1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
 1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
 1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
 1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
 1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/04/04

2024年4月4日(木) 新コンテンツの紹介


  キリストの復活を祝うイースターを経て、志村教会も新しい歩みを始めています。これまで毎週掲載していた「賛美歌カラオケ」と「3分メッセージ」はいったん休止します。それぞれ最後の投稿に今までの記事のリンクを掲載しましたのでご利用ください。「聖書日課」は継続しますので引き続きご利用ください。
 今月より新しく「聖書の教理」を毎週木曜日(4月11日より)に掲載します。聖書研究資料としてご覧ください。

2024/04/01

3分メッセージ索引(2019年~2024年)

旧約聖書 章節 新約聖書 章節
創世記 1:1-53:14-196:6-8
25:31-3237:18-20
マタイ 2:7-123:114:3-44:196:1
6:9-13(主の祈り
12345678
6:2011:3012:3924:44
27:37-3828:1-7
出エジプト 2:1015:217:3-718:19
19:2024:1133:11
ルカ 2:31-324:1-27:6-78:1-3
9:12-1311:112:35-3613:15
14:1116:19-3117:20-30
19:2619:2820:1721:2-3
申命記 6:20-218:1-68:16 ヨハネ 1:231:29-341:45-462:13-17
4:365:33-396:19-206:26-35
6:516:60-718:129:35-41
10:30-31
12:315:2616:3318:37
21:12
ヨシュア 24:19 使徒 2:1-22:423:5-63:168:30-31
10:34-3512:1113:2624:14-15
士師 7:1-8 ローマ 4:7-166:56:117:47:11
11:17-2412:9
サムエル上 3:1-10 コリント第一 1:30-318:115:51
列王紀上 17:13-1419:10-13 コリント第二 3:65:48:9
列王紀下 7:9 ガラテヤ 3:296:14
歴代志下 7:11-12 エペソ 2:103:64:15:45:9
ヨブ 22:21-2823:1028:28 ピリピ 4:6-74:17
詩篇 2:7-124:619:7-14
30:4-534:18-19
49:7-867:1-2
92:12-13103:2
104:19-24111:1125:4-5
136:1145:16146:3-5
コロサイ 2:8-15
箴言 3:3 テモテ第一 4:86:12
イザヤ 9:212:340:2644:6
48:652:759:16
62:263:9
テトス 2:11-13
エレミヤ 23:1-628:931:15 ピレモン 4-10
エゼキエル 18:3137:343:4-5 ヘブル 1:510:19-25
ホセア 14:1 ヤコブ 1:2-51:172:1
アモス 5:24 ペテロ第一 2:214:16
ミカ 2:124:55:2 ペテロ第二 1:16
ゼパニヤ 3:17 ヨハネ第一 1:1-42:27
ゼカリヤ 2:10-13 黙示録 5:1221:3-4
(救いの証し) 生田新一生田ハエノ小嶋隆日高基善日高佐和子平松公平八木原海

2024/03/31

賛美歌カラオケ・目次

※2024年3月31日公開

讃21テーマ曲名
7賛美ほめたたえよ力強き主を
24頌栄たたえよ主の
27頌栄父・子・聖霊の
40-6応答唱アーメン
63主の祈り天にいます父よ
78聖餐わが主よ、ここに集い
87神の小羊罪なき小羊
98就任式緑の牧場に
99教会主イエスよわれらの
101結婚命と光たもう神よ
156詩篇目を上げわたしは見る
157詩篇いざ語れ主の民よ
189聖書の歌ちいさいこどもの
210朝夕の歌来る朝ごとに
227創造主のまことは
230待降起きよと呼ぶ声
231待降久しく待ちにし
241待降来りたまえわれらの主よ
247降誕今こそ声あげ
248降誕エッサイの根より
249降誕おさなご主イエスよ
252降誕羊は眠れり
258降誕牧人羊を
259降誕急ぎきたれ、主にある民
260降誕いざ歌えいざ祝え
261降誕もろびとこぞりて
262降誕聞け天使の歌
265降誕天なる神には 
267降誕ああベツレヘムよ
268降誕朝日は昇りて
276降誕あかつきの空の美しい星よ
297受難栄えの主イエスの
298受難ああ主は誰がため
300受難十字架のもとに
303受難丘の上の主の十字架
306受難あなたもそこにいたのか
311受難血しおしたたる
325復活キリスト・イエスは
328復活たたかいは終わり
342聖霊神の霊よ今くだり
343聖霊聖霊よ降りて
351三位一体聖なる聖なる
355神の名主をほめよわが心
358神の名小羊をばほめたたえよ
361神の名この世はみな
377宗教改革神はわが砦
402宣教いとも尊き
403宣教聞けよ愛と真理の
404宣教あまつ真清水
434神の招き主よみもとに
436神の招き十字架の血に
443回心冠も天の座も
449救い千歳の岩よ
451救いくすしきみ恵み
458信頼信仰こそ旅路を
459信頼飼い主わが主よ
461信頼みめぐみ豊けき
463信頼わが行くみち
465信頼神ともにいまして
466信頼山路こえて
467信頼われらを導く
474希望わが身の望みは
482わが主イエスいとうるわし
483わが主イエスよ、ひたすら
484愛の主イエスは
493祈りいつくしみ深い
495祈り静けき祈りの
504服従主よみ手もて
513献身主は命を
530慰め主よ試み
532慰め安かれわが心よ
536戦いみ恵みを受けた今は
560社会主イエスにおいては
577神の国聞けよ主の民

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

イスラエルと日本の横穴墓

吉見百穴・玄室

「ここにはおられません。前から言っておられたように、
よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を
見てごらんなさい。」(マタイ28:6)

 十字架で死なれたイエス・キリストは、アリマタヤの金持ちのヨセフによって新しい墓に葬られました(マタイ27:57)。その墓は岩に横穴を掘って作られたもの(横穴墓)であり、遺体を収めた後、大きな石で墓穴をふさぎました(マタイ27:60)。このことはアリマタヤのヨセフの厚意によることでしたが、心ならずも「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ53:9)という聖書の言葉通りとなりました。当時の一般庶民の墓は横穴墓ではなく、土を掘って遺体を埋めるだけの簡素な土葬墓でした。

 横穴墓はイスラエル王国時代(BC1000~BC586)に盛んに作られ、後の時代には王国時代の横穴墓が再利用されました。内部には遺体を安置する棺台(ベンチ)が設けられて、遺体が骨化した後、集骨して奥の穴(リポジトリ)に収めました。このようにして、一つの横穴墓は何世代にもわたる家族墓として用いられました。墓はいわば死後の家とみなされ、日用品の副葬物も発掘されています。

 捕囚後の時代、ギリシャ文化(ヘレニズム)の影響でイスラエルの横穴墓が変化し、骨を一つの場所に集めるのではなく一人ずつ、あるいは近親者の骨ごとに骨壺(オシュアリ)に収めるようになりました。一説によれば、これはイスラエル人の復活信仰(イザヤ66:14)の現われであると言われています。

 日本では古墳時代後期に横穴墓が用いられました。イスラエルと時と場所は違いますが、多くの共通点を見出すことができます。いわゆる古墳と同じく横穴墓は権力者の墓ですが、古墳の主ほどの権力はなく、横穴墓の文化と共に中央から地方に派遣された役人レベルの墓であると見られています。日本の横穴墓も何世代もの家族が引き続いて利用し、集骨がなされ、また後の時代には火葬された骨が小さな骨壺に入れられて横穴墓に収められました。志村教会の近場では、赤羽台(東京都北区)、吹上(埼玉県和光市)、吉見百穴(埼玉県吉見町)などの発掘例を知ることができます。

 人類は普遍的に死後の世界を思い見ていることを、埋葬の文化からうかがうことができます。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10-11)

参考資料:
長尾琢磨「第二神殿時代のユダヤ人埋葬に関する考古学的研究の課題」『史学第88号』三田史学会(2020年)
松崎元樹「東京の古墳を探る」吉川弘文館(2022年)

引用聖書:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳』2003年版

2024年3月31日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・328「たたかいは終わり」
聖書:マタイ28:1-7

もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。(マタイ28章6節)

 イエス・キリストは「安息日の前日」(マルコ15章42節)すなわち金曜日に十字架で死なれ、その日のうちに墓に葬られました。その墓は弟子の一人であるアリマタヤのヨセフが用意したものでした(マタイ27章57~60節)。
 イスラエル人は、神が週の「第七日」すなわち土曜日を「安息日」として天地創造のわざを休まれた(創世記2章3節)のにならい、安息日に一切の働きを休みます(出エジプト20章10節)。ところが、キリストを訴えた祭司長たちはわざわざその安息日にピラトに訴え出て、キリストの死体を持ち出されないように墓に番人を置き、墓石に封をしました(マタイ27章62~66節)。
 キリストの女性の弟子たちは、急な埋葬の後に改めて死体を丁寧に処置したくとも、おきてに従って安息日を休み、翌日すなわち日曜日の夜明け前に墓に行きました(マルコ16章1~2節)。しかし、そこで見たのはキリストの死体ではなく、抜け殻となった空の墓でした。御使いは彼女たちに「イエスが納められていた場所をごらんなさい」と告げました。
 イエス・キリストが復活されたことを証明することはできません。なぜなら、その証拠を私たちは目で見ることができないからです。しかし、復活しなかったと反証することもできません。なぜなら、その反証となるキリストの死体を見ることができないからです。それは、聖書の神が存在することを証明も反証もできないことに似ています。
 17世紀の科学者パスカルはこう言っています。「神は存在するか、しないかのいずれかだ。…きみはどちらに賭けるのか。…もし勝てば(神が存在すれば)、すべてを獲得する。」神の存在、キリストの復活は私たち人類の幸福のためです。キリストの呼びかけに聞き従いましょう。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章29節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは私たちの先駆けとして復活されました(ピリピ3章10~11節)。そのことを祝うイースターの日、私たちにも復活の恵みを豊かに注いでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

引用資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
パスカル「パンセ(中)」50-52頁、岩波文庫(2015年)

讃美歌21・328「たたかいは終わり」


ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

1)たたかいは終わり 主は死に勝たれた
主をほめたたえよ ハレルヤ

2)主は敵を破り 死はいま滅びた
高らかに歌え ハレルヤ

3)永遠のいのち われらにくださる
主を宣べ伝えよ ハレルヤ

4)すべての栄えは よみがえりの主に
よろこびたたえよ ハレルヤ

ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月31日の聖書日課

(写真:カルガモ)

マタイ28:1-7
 28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
 28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
 28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
 28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
 28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
 28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
 28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/24

2024年3月24日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・311「血しおしたたる」
聖書:ヘブル10:19-25

わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ…(ヘブル10章19節)

 ヘブル人への手紙は、聖書の民であるイスラエル人、別名ヘブル人に宛てて、聖書(旧約聖書)を用いて神の御子イエス・キリストを説明する手紙です(ヘブル1章1~2節)。
 イスラエル人は、モーセを通して神の宮である聖所を与えられ、聖所の前で神に礼拝をささげました(出エジプト15章17節)。その地上の聖所は、天にある真の聖所の模型であり、キリストは真の聖所で仕える大祭司であるとヘブル書は教えています(ヘブル9章24~25節)。大祭司であるキリストはあわれみ深く、神の民を助けてくださいます(ヘブル2章17~18節)。
 地上の聖所には最も奥にある至聖所があり、大祭司が一年に一度しか入ることができませんでした。すなわち、聖所での礼拝では、神のみまえに簡単に近づくことができません(ヘブル9章1~9節)。大祭司が聖所に入るためには犠牲の血が必要です(ヘブル9章25節)。キリストは自らの血を用いて、すなわち十字架の死によって全人類の罪の清め(あがない)を成し遂げられました(ヘブル9章12節)。そのため、今日私たちはキリストへの信仰によって、はばかることなく神のみまえに近づくことができるのです(ヘブル10章19節)。
 キリストを信じクリスチャンになるとき、教会では水を用いた洗礼式が行われます。それもモーセ時代の聖所の型と同様、罪の清めを意味する型です(ヘブル10章22節)。その意義を踏まえて、教会の諸儀式も味わっていただきたいと願います。教会の営みに加わって神のみまえに行き、ご一緒に神の祝福に与りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書が示す出来事を通して、また教会で行われる様々な行事を通して、神ご自身が私たちを招いておられることを学びました。その意義を正しく理解することができ、私たちも神が賜る至福の恵みに豊かに与ることができますよう願い求めます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・311「血しおしたたる」

1)血しおしたたる 主のみかしら
とげに刺されし 主のみかしら
悩みと恥に やつれし主の
痛ましきさま だれのためぞ

2)主の苦しみは わがためなり
われこそ罪に 死すべきなり
かかるわが身に 代わりましし
主のあわれみは いととうとし

3)慕わしき主よ わが牧者よ
はかり知られぬ 愛の泉
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかしき

4)主よ 主のもとに 帰る日まで
十字架のかげに 立たせたまえ
かくも悩める 主をはなれて
われはいずこ 去り行くべき

5)なつかしき主よ はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん

6)死すべき者を あがなう主よ
十字架の光 見させたまえ
み傷をあおぎ み手によらば
いまわのときも 安けくあらん

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月24日の聖書日課

(写真:カワセミ)

ヘブル10:19-25
 10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
 10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
 10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
 10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
 10:23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
 10:24 愛と善行とを励むように互に努め、
 10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/17

2024年3月17日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」
聖書:コロサイ2:8-15

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。(コロサイ2章9~10節)

 キリストの使徒パウロ(コロサイ1章1節)は、コロサイ人への手紙において「むなしいだましごとの哲学」(コロサイ2章8節)と言っています。この言葉は哲学一般を指しているのではなく、当時のギリシャ文化圏に存在した特定の哲学学派を指しています。パウロはアテネにおいて「エピクロス派やストア派の哲学者」と議論を戦わせたことがあります(使徒17章18節)。
 パウロが問題とした哲学の具体的な内容は記されていません。しかし、人をとりこにして、キリストの教えに反するような教えに従ってはならない、と命じているのです。キリストの教えは「神の徳」をもたらすものです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(コリント第一8章1節)と言われているように、知識を得た結果、人を見下すようになるならば、その種の知識は人の徳を高めるとは言えません。
 今の時代においても、人々は支配や権威を得るべく、知識においても相争うことがあるかもしれません。神の民であるイスラエル人であっても、イスラエル人の身のしるしである割礼を誇りとし、無割礼の者を差別しました(ガラテヤ6章13節)。それに対し、パウロは「手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼」(コロサイ2章11節)を重視しました。
 そして、キリストこそ「すべての支配と権威とのかしら」(コロサイ2章10節)だと言っています。そして、「無学な、ただの人たち」(使徒4章13節)であろうとも、「罪の中にあり、かつ肉の割礼がない」者であろうとも、「キリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして」(コロサイ2章13節)下さる神を知る知識に勝るものはない。そのことを至高の知識として守りなさい、とパウロは教えています。
 「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2章12節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ありとあらゆる情報にあふれ、さまざまな知識に翻弄されるような時代に私たちは生かされています。その中にあっても、私たちは間違いのない確かな知識により頼んで歩むことができますように。キリストの祈りを私たちもいたします。「真理によって…聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネ17章17節)
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」

1)あなたもそこにいたのか
主が十字架についたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

2)あなたもそこにいたのか
主がくぎでうたれたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

3)あなたもそこにいたのか
主が槍でさされたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

4)あなたもそこにいたのか
主を墓におさめたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

5)あなたもそこにいたのか
主がよみがえられたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い愛に
わたしはふるえてくる

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月17日の聖書日課

(写真:アオサギ)

コロサイ2:8-15
 2:8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
 2:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
 2:11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
 2:12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
 2:13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
 2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
 2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/11

主の祈り~目次

(1)(てん)にましますわれらの(ちち)よ。

(2)ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。

(3)御国(みくに)(きた)らせたまえ。

(4)みこころの(てん)になるごとく、()にもなさせたまえ。

(5)われらの日用(にちよう)(かて)を、今日(きょう)(あた)えたまえ。

(6)われらに(つみ)をおかす(もの)をわれらがゆるすごとく、

われらの(つみ)をもゆるしたまえ。

(7)われらをこころみにあわせず、(あく)より(すく)(いだ)したまえ。

(8)(くに)(ちから)(さか)えとは、(かぎく)りなくなんじのものなればなり。

アーメン。

2024/03/10

2024年3月10日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・300「十字架のもとに」
聖書:詩篇2:7-12

わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。(詩篇2篇7節)

 イエス・キリストは「神の御子」と呼ばれています(ローマ1章4節)。キリストが洗礼を受けた時(マタイ3章17節)、また高い山で姿が変わった時にも(マタイ17章5節)、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声が天からかかりました。この「神の御子」という言葉は、詩篇2篇で歌われているように、神によって立てられた王または君主であることを意味します(詩篇2篇6節)。
 神によって立てられた「神の御子」に支配地(嗣業)と支配力(鉄のつえ)が与えられました(詩篇2篇8~9節)。「神の御子」は他の諸国と異なり、私利私欲ではなく神の意志を実現するために権力を振るいます。「神の御子」たる王には、神からの任命を示す油そそぎが行われました(サムエル上9章16節)。キリストという言葉は「油そそがれた者」(詩篇2篇2節)を意味します。
 イエス・キリストを信じる者はクリスチャン(キリスト者)と呼ばれます(使徒11章26節)。クリスチャンという呼び名は、このような力強いキリストによる守りが約束された名前です。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(詩篇2篇12節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストに神の特別なご愛顧がかけられています。私たちにはそのキリストに従い、「これに聞け」(マタイ17章5節)と命じる御言葉がかけられました。どうぞその御言葉の通り、私たちもキリストの栄光に与ることをお許しください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・300「十字架のもとに」

1)十字架のもとに われは逃れ
重荷をおろして しばし憩う
あらし吹くときの いわおのかげ
荒れ野の中なる わが隠れが

2)十字架の上に われはあおぐ
わがため悩める 神のみ子を
たえにも尊き 神の愛よ
はかりも知られぬ 人の罪よ

3)十字架のかげに われは立ちて
み顔のひかりを たえず求めん
この世のものみな 消ゆるときも
くすしく輝く そのひかりを

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月10日の聖書日課

(写真:ハクセキレイ)

詩篇2:7-12
 2:7 わたしは主の詔をのべよう。
主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。
きょう、わたしはおまえを生んだ。
 2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え、
地のはてまでもおまえの所有として与える。
 2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、
陶工の作る器物のように彼らを
打ち砕くであろう」と。
 2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、
地のつかさらよ、戒めをうけよ。
 2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
 2:12 その足に口づけせよ。
さもないと主は怒って、
あなたがたを道で滅ぼされるであろう、
その憤りがすみやかに燃えるからである。
すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/03

2024年3月3日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
聖書:ヨハネ6:60-71

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。(ヨハネ6章63節)

 キリストは、湖のほとりに集まってきた大ぜいの群衆にパンを与える奇跡を行いました(ヨハネ6章1~14節)。その目的は、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』(マタイ4章4節)という聖書の教えを身をもって理解させるためでした。
 しかし、群衆の中のある人々は、キリストを王にかつぎあげようとしました(ヨハネ6章15節)。それはキリストが望まれたことではなく、人々はキリストの奇跡を曲解してしまったのです。キリストは「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」(ヨハネ6章26節)と指摘しました。
 キリストは「わたしは天から下ってきた生きたパンである」(ヨハネ6章51節)と言われました。しかし、人々はその意味を理解せず、キリストの弟子たちの中からも「これは、ひどい言葉だ」(ヨハネ6章60節)と言って去るものが出ました。彼らはパンの奇跡を味わいながら、キリストが約束された「永遠の命」(ヨハネ6章54節)を味わうことができませんでした。しかし、十二弟子の一人ペテロは「永遠の命の言をもっているのはあなたです」(ヨハネ6章68節)と言って理解を示しました。
 キリストは「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6章27節)と勧めています。この世の営みでは決して得られない、キリストが賜る天の恵みに与りましょう。キリストはこのように言って私たちを招いています。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。…生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7章37~38節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの内なる霊は、豪華な食事を食べても、ぜいたくな行楽に興じても、いずれは飢え、渇いてしまいます。しかし、キリストが約束された決して渇くことのない永遠の命を私たちに与えてください。日々、天からの恵みを食べて生きていくことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・297「栄えの主イエスの」

1)栄えの主イエスの 十字架をあおげば
世の富 ほまれは 塵にぞひとしき

2)十字架のほかには 誇るものあらず
この世のものみな 消えなば消え去れ

3)見よ 主のみかしら み手とみ足より
恵みと悲しみ こもごもながるる

4)恵みと悲しみ ひとつにとけあい
いばらはまばゆき 冠(かむり)とかがやく

5)ああ 主の恵みに 応うる道なし
わが身のすべてを 主の前に献ぐ

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月3日の聖書日課

(写真:メジロ)

ヨハネ6:60-71
 6:60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
 6:61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
 6:62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
 6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
 6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
 6:65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
 6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
 6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
 6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
 6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
 6:70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
 6:71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/01

2024年3月31日(日) イースター礼拝

2024年3月31日(日) 10:30~11:45
イースター礼拝

志村キリスト教会 牧師:横山唯一
〒174-0041 東京都板橋区舟渡2-7-10
TEL&FAX 03-3969-7040
E-mail: jag4mura_kyokai@yahoo.co.jp


 

2024/02/27

2024年2月25日(日) ギデオン協会宣教報告

 世界中で聖書を配布・贈呈する活動を行っている日本国際ギデオン協会の皆様が、5年ぶりに志村キリスト教会にお越しくださいました。今回は、コロナ禍においても活動を継続してきた報告を聞くことができました。
 見えるところの状況が変わらないように思えても、着実に新しい時代が始まっている、そのようなことを思わされました。今年のイースターは3月31日です。志村教会もキリストの復活の信仰に立ち、新しい歩みを踏み出したいと思います。

2024/02/25

2024年2月25日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・434「主よみもとに」
聖書:ヨハネ9:35-41

そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。(ヨハネ9章39節)

 イエス・キリストは、シロアムの池の近くに住んでいた盲人の目を開ける奇跡を行いました(ヨハネ9章7節)。それに対し、キリストが戒律により働くことが禁じられている安息日に奇跡を行ったことを問題視する人々がありました(ヨハネ9章16節)。
 キリストの奇跡を体験した人は、その体験ゆえにキリストを神からつかわされた預言者であると認めました(ヨハネ9章17節)。一方、キリストを問題視した人々は出来事を十分に確かめることなく、キリストを罪人だとしました(ヨハネ9章24節)。そして、奇跡を体験した人を追放して、出来事の検証を放棄してしまいました(ヨハネ9章34節)。キリストが「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」と言われた通りとなりました。
 キリストは、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と語りました(ヨハネ3章3節)。ある者はニコデモ(ヨハネ3章)のようにキリストに教えを求めましたが、別の者はキリストの言葉に耳を貸そうとせず、喜ばしい出来事すら目をふさぐようにして認めない者がありました。私たちはどちらの立場に立つでしょうか。
 キリストはこのようにも語っています。「わたしは父にお願いしよう。…それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14章16~17節)真理を目にし、耳にするとき、もし私たちの心がそれに従うことを好まなくても、素直に受け入れましょう。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちが真理を目にし、耳にするとき、耳が痛い思いがしても素直に受け入れることができますように。私たちを真理によって教え導いてくださいますように。真理によって私たちを聖別してくださいますように(ヨハネ17章17節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・434「主よみもとに」

1)主よ みもとに近づかん
十字架の道 行くとも
わが歌こそ わが歌こそ
主よ みもとに近づかん

2)さすらう間に 日は暮れ
石にまくら するとも
夢にもなお 夢にもなお
主よ みもとに近づかん

3)天よりとどく かけはし
われをまねく みつかい
恵みうけて 恵みうけて
主よ みもとに近づかん

4)目さめてのち ベテルの
石を立てて 捧ぐる
祈りこそは 祈りこそは
主よ みもとに近づかん

5)天(あま)がけゆく つばさを
与えらるる その時
われら歌わん われら歌わん
主よ みもとに近づかん

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年2月25日の聖書日課

(写真:ユリカモメ)

ヨハネ9:35-41
 9:35 イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。
 9:36 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
 9:37 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
 9:38 すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
 9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
 9:40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
 9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/21

讃美歌21・40-6「アーメン」

アーメン アーメン アーメン アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024/02/18

2024年2月18日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・467「われらを導く」
聖書:出エジプト17:3-7

そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。(出エジプト17章7節)

 神の民イスラエルはモーセに従い、約束の地を目指して荒野を旅し続けました。荒野の厳しい旅には、特に飲み水を必要とする子供や家畜も一緒でした(出エジプト17章3節)。ですから、イスラエルの人々にとって飲み水は死活問題であり、彼らが飲み水を求めてモーセに訴え出たことも無理もないことでした(出エジプト17章2節)。
 しかし、民の訴え方は脅迫めいたものであったようです。モーセは「彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と言って神に訴えました(出エジプト17章4節)。その後に与えられたのが「マッサ(試みの意)」の水であり、「メリバ(争いの意)」の水でした。
 後にモーセはこう語りました。「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」(申命記6章16節)「主を試みる」とは、具体的には飲み水を求めて、手段を問わずに指導者モーセに食ってかかり、神への不信を口にするような揺さぶりを、神にかけようとすることです。聖書は「目的を達するために悪をもいとわず行動する」ことを戒めています。
 聖書の神は人の願いをかえりみ、私たちの切なる祈りに応えてくださる方です。キリストが悪魔に対し『主なるあなたの神を試みてはならない』(マタイ4章7節)と命じ、その後に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7章7節)と言って私たちを教えています。私たちをかえりみてくださる神に信頼し、祈りをささげましょう(ペテロ第一5章7節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたはすべてのことをご存じです。それにも関わらず、私たちはしばしば神を信じることなく、人に対するように神をも指図するような過ちを犯してしまいます。私たちにも「マッサの水の出来事を思い出せ」と聖書は語りかけます。私たちも悔い改めつつ、信仰をもって祈る者へとしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・467「われらを導く」

1)われらを導く あがないの主よ
力強い手で 旅路を守り
そなえてください 天の糧
命のパンを

2)泉を開いて 渇きをいやし
炎と雲との 柱を立てて
行かせてください 世の旅路
主よ わが盾よ

3)ヨルダンの流れを 渡るわれらの
死の恐れ砕き 導く神よ
ほめうた歌おう 声高く
約束の地で

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年2月18日の聖書日課

(写真:オオバン)

出エジプト17:3-7
 17:3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
 17:4 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
 17:5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
 17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
 17:7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/11

2024年2月11日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・7「ほめたたえよ力強き主を」
聖書:申命記8:1-6

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。(申命記8章2節)

 出エジプトの出来事は、神の民イスラエルの試練を語っています。私たちはそこから、私たち自身の人生で経験する試練について学ぶことができます。
 四十年は、いくつか世代を重ねるほどの非常に長い期間です。その間、イスラエルの民は荒野の旅を続けていました。彼らには約束の地という目標がありましたが、そこに至るまで様々な試練を経験しなければなりませんでした。その彼らの姿に、私たちがそれぞれ歩んでいる長い人生を垣間見ることができるのではないでしょうか。
 彼らの長い旅路で経験した試練には深い意味がありました。申命記に記されたモーセの言葉は、苦しいからと言って無視したり忘れてはならず、「すべての道を覚えなければならない」と語っています。彼らが経験した苦しみとはまさに「試錬」(ヤコブ1章2節)であり、知恵をもって忍耐を働かせるべきものです。また、長い旅路の中で彼らは、神の子としてふさわしく「訓練」(申命記8章5節)されました。
 イエス・キリストは同じように荒野で試練に会われました(マタイ4章)。その際、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言って試みました。神の子とは、全知全能のスーパーマンであると誤解してはいけません。神の子は試練によって訓練された者であり、それは神の命令を守り行う(申命記8章1節)ことに徹する者です。それゆえ、キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えられました(マタイ4章4節)。
 聖書の神は今日も、神の子である私たち(ヨハネ1章12節)に天からのパンを備え、私たちの行くべき道を守り導いてくださいます。信仰をもって試練に立ち向かってまいりましょう。「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神の民であるイスラエルは約束の地を目指して荒野を旅しました。私たちも神の導きに従い、人生の歩みを完成させることができますように。荒野の旅路にあっても、私たちをいこいのみぎわに伴い、正しい道に導いてください(詩篇23篇2~3節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・7「ほめたたえよ力強き主を」

1)ほめたたえよ 力強き主を
わが心よ 今しも目さめて
たて琴 かきならしつつ
み名をほめまつれ

2)ほめたたえよ 王なるみ神を
ゆだねまつる わが身をはげまし
みつばさ 伸べたもう主の
みわざ たぐいなし

3)ほめたたえよ 救いのみ神を
そのみ手には 常に備えあり
なやめる われを導く
恵みかぎりなし

4)ほめたたえよ 恵み深き主を
いのちの雨 上より注がれ
つきせぬ そのいつくしみ
ここに現れぬ

5)ほめたたえよ 光のみ神を
生けるものよ そのみ名たたえよ
恵みを とわに忘れず
共に与え アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年2月11日の聖書日課

(写真:ホシハジロ)

申命記8:1-6
 8:1 わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。
 8:2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
 8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
 8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
 8:5 あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。
 8:6 あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/04

2024年2月4日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・355「主をほめよわが心」
聖書:ヤコブ1:2-5

なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。(ヤコブ1章4節)

 聖書は、私たちが当たり前に思っている事柄に、新しい見方と知識を与えます。例えば、愛は「不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(コリント第一13章6~7節)と言われています。そのように、本物の愛は感情のうちに留まるものではなく、正義に立ちながらすべてを肯定するものであると教えています。
 同じく、ヤコブの手紙は「忍耐」について教えています。私たちの日常でも忍耐を強いられる場面は多くあります。キリスト教の長い歴史においても、多くの信仰者が忍耐を強いられてきました。特に日本ではキリシタン時代の信仰の弾圧が思い出されますし、ヤコブ書では旧約聖書のヨブの忍耐(ヤコブ5章11節)に触れています。
 私たちは、いろいろな試錬に会った時に忍耐を強いられます。試錬は決して喜ばしいことではありません。しかし、聖書は「むしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(ヤコブ1章2節)と言っています。それは、試錬によって「忍耐が生み出される」(ヤコブ1章3節)からだと教えます。つまり、忍耐を得られるのだから試錬を喜ばしく思え、という訳です。
 そして、忍耐は「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人」を生み出します。私たちが完成した人となるために、忍耐は十分に働かせることができるものなのだ、というのが聖書の教えです。私たちも聖書の教える広い見方を身につけることができますように。「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求め」(ヤコブ1章5節)ましょう。
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは、人生の試錬に会う時に、困り果ててしまうことがあります。しかし、聖書は「むしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と教えています。どうぞ私たちに、試錬に打ち勝つ忍耐を、また忍耐によって得られる成長を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・355「主をほめよわが心」

1)主をほめよ わが心
主をほめよ 世の人よ
そのみわざに 秘められた
強い力 深い知恵

2)世のすべて とどまらず
はてしなく 変わり行く
主のことばに したがって
海のなかに 山うつる

3)造られた ものすべて
世の人も 賛美せよ
こずえ高く 鳴く鳥の
歌よひびけ 山こえて

4)主をほめよ わが心
そのみ名に ほまれあれ
主のみわざの 偉大さを
声のかぎり ほめうたえ

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年2月4日の聖書日課

(写真:マガモ)

ヤコブ1:2-5
 1:2 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
 1:3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
 1:4 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
 1:5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/31

2024年1月28日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・157「いざ語れ主の民よ」
聖書:ヨブ22:21-28

あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。(ヨブ22章21節)

 ヨブ記は、信仰の先人たちによる知恵の言葉を多く含んでいます。その知恵の言葉は、時代が変わろうとも、変わることのない普遍的な真理を語っています。
 ヨブ記は「神と和らいで、平安を得よ」と語りかけています。聖書の神は「全能者」(ヨブ22章3節)であり、隠されたことを暴いて正しくさばく神であり(ヨブ22章13節)、悪を憎み正義を守る神です(ヨブ22章19節)。
 ヨブ記の中心人物であるヨブは、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ1章1節)と言われる人でした。しかし、非常な苦難がヨブを襲った時、彼は「神はわたしの潔白を知られる」(ヨブ31章6節)と言い、神よりも自分の正しいことを主張しだしました(ヨブ32章2節)。そこで、彼の友人たちは「全能者に立ち返って、おのれを低く」せよと勧めました(ヨブ22章23節)。
 聖書の神は「高ぶる者を低くされるが、へりくだる者を救われ」ます(ヨブ22章29節)。全能の神に対し、人が自らの権利を主張することは得策ではありません。人の力を超える、神の全能の御力を求めるなら、「自らのこがね(宝)をちりの中に置き、全能者を自らのこがねと」しましょう(ヨブ22章25節)。そうすれば、ヨブがちり灰の中で悔い改めた後、神によって回復されたように(ヨブ42章)、時が来れば神が私たちを高く引き上げ、救ってくださいます(ペテロ第一5章6節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは時に思い上がってしまい、周りも自らをも見えなくなってしまうことがあります。ヨブが最後に神の前にへりくだり、神の全能の御力にすがったように、私たちにもただ神の全能によりすがる謙虚さを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/28

讃美歌21・157「いざ語れ主の民よ」

1)いざ語れ 主の民よ
味方なる 神ともに
いまさずば 敵せまり
そのほのお 燃えさかり
わがたましい 飲みつくさん

2)味方なる 神ともに
いまさずば わざわいは
あふれくる 大水の
恐るべき 波となり
わがいのち 押し流さん

3)ほめ歌え 主のみ名を
からみつく 網を裂き
逃れさる 鳥のごと
わがたましい 逃れたり
主のみ名に 助けあり

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年1月28日の聖書日課

(写真:ヤマガラ)

ヨブ22:21-28
 22:21 あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。
そうすれば幸福があなたに来るでしょう。
 22:22 どうか、彼の口から教を受け、
その言葉をあなたの心におさめるように。
 22:23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、
あなたの天幕から不義を除き去り、
 22:24 こがねをちりの中に置き、
オフルのこがねを谷川の石の中に置き、
 22:25 全能者があなたのこがねとなり、
あなたの貴重なしろがねとなるならば、
 22:26 その時、あなたは全能者を喜び、
神に向かって顔をあげることができる。
 22:27 あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。
そしてあなたは自分の誓いを果す。
 22:28 あなたが事をなそうと定めるならば、
あなたはその事を成就し、
あなたの道には光が輝く。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/21

2024年1月21日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・404「あまつ真清水」
聖書:ヨハネ第一1:1-4

わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(ヨハネ第一1章3節)

 ヨハネの第一の手紙は、その文章がヨハネによる福音書とよく似ています。両方とも文章の中で自分の名前(ヨハネ)を明らかにしていません。また簡単な言葉(いのち、言、等々)を用いて神の真理を表現しています。このことは、この手紙や福音書を書き送った相手が、手紙の書き手にとってごく親しい関係にあり、わざわざ自己紹介するまでもなかったことが考えられます。
 手紙でも、このように書いており、深い信頼関係があったことが感じさせられます。「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ第一1章4節)
 ヨハネの第二の手紙ではこのようにも語っています。「あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。」(ヨハネ第二12節)ヨハネが願うことは直接会って、親しく交わることでした。しかしそのことが叶わないと、ヨハネは親しみを込めて手紙をしたためたのでした。
 このことは、神の言葉といわれる聖書の性格とも共通することです。聖書の神は、聖書を通して読者との深い交わりを求めています。そして、深い交わりを通して「永遠のいのち」(ヨハネ第一1章2節)を与えたいと願われているのです。
 聖書は取っつきにくい書物かもしれません。しかし、聖書に親しむにつれ、そこから単なる知識以上の喜びがあふれてきます。「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」を通して、皆様に豊かな祝福が満ちあふれるようになりますように。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは私たちとの交わりを求めて、私たちの手に聖書を与えてくださいました。どうぞ、私たちは聖書を読むことを通して、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりに与ることができますように。私たちの心の目を、耳を開いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・404「あまつ真清水」

1)天(あま)つ真清水 流れきて
あまねく世をぞ うるおせる
ながく渇きし わがたましいも
汲みていのちに かえりけり

2)天つ真清水 飲むままに
渇きを知らぬ 身となりぬ
つきぬ恵みは 心のうちに
泉となりて わきあふる

3)天つ真清水 受けずして
罪に枯れたる 人草の
さかえの花は いかで咲くべき
注げ いのちの 真清水を

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年1月21日の聖書日課

(写真:ツグミ)

ヨハネ第一1:1-4
 1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
 1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
 1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
 1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/14

2024年1月14日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・189「ちいさいこどもの」
聖書:サムエル上3:1-10

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。(サムエル上3章10節)

 イスラエル人を指導する偉大な預言者であったサムエルは、祭司エリのもとで神殿奉仕を行うわらべでした(サムエル上3章1節)。サムエルは最初から預言者であった訳ではありませんでした。
 神はサムエルに呼びかけられました。しかし、サムエルは神の声であることに気づかず、祭司エリの声と勘違いしました。同じことが三度繰り返されて、ようやくエリが神の声であることに気づき、サムエルにこう言って諭しました。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」(サムエル上3章2~9節)
 この出来事は、預言者サムエルがいかにして神の御言葉を正しく聞き受け、預言者の務めを果たすようになったかを示しています。それと同時に、私たちにも神がそれぞれの方法で語りかけておられ、それに私たちが気づくべきであることをも教えています。
 私たちの手元にある聖書も「神の御言葉」として受け止めることが大切です。サムエルも最初は、神の声を聞きながら、それを神の御言葉であると知ることができませんでした。私たちも「しもべは聞きます」という素直な心持ちで聖書に向き合うならば、聖書は神からの御言葉として私たちに響いてきます。
 「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(ペテロ第二1章19節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節)御言葉を目にし、耳にしていながら悟ることのできない私たちの心を開いてください。この暗闇の時代に進むべき私たちの道を、御言葉によって示してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・189「ちいさいこどもの」

1)ちいさいこどもの サムエルは
かみさまのよぶこえ ききました
サムエルよ サムエルよ

2)ちいさいこえで きょうもまた
かみさまのよぶこえ きこえます
ぼくのなまえも わたしのも

しもべは ききます
しゅよ おはなしください

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年1月14日の聖書日課

(写真:ジョウビタキ)

サムエル上3:1-10
 3:1 わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。
 3:2 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。
 3:3 神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、
 3:4 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、
 3:5 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。
 3:6 主はまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。エリは言った、「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」。
 3:7 サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。
 3:8 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。
 3:9 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。
 3:10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/07

2024年1月7日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・87「罪なき小羊」
聖書:ヨハネ1:29-34

ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1章29節)

 イエス・キリストが宣教活動を始める前、バプテスマのヨハネが先駆者として宣教活動を行っていました。ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3章2節)と言って教え、罪を悔い改めた人々にバプテスマ(洗礼)を授けていました(マタイ3章6節)。
 ヨハネは「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである」(ヨハネ1章15節)と言って、自らは後に来るべきキリストの前備えに過ぎないと証言していました。ヨハネは人々に水によるバプテスマを授けていましたが、キリストは神の霊たる御霊によってバプテスマを授けると説明しました(ヨハネ1章33節)。水は罪を清めることの象徴でしかありませんが、御霊は罪の清めそのものを行います(コリント第一6章11節)。  そして、キリストご自身を指して「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この言葉は、御霊による罪の清めが「神の小羊」たるキリストを通して行われることを意味します。すなわち、キリストご自身が犠牲の小羊となり、十字架にかかって死なれることを示しています(ペテロ第一1章19節)。
 ヨハネはキリストを指して「このかたこそ神の子である」とも言いました(ヨハネ1章34節)。キリストは神の子の権能を用いて、信じ従う者に命を与え(ヨハネ20章31節)、神の子となる力をも与えてくださいます(ヨハネ1章12節)。新年も神の子キリストの御力を受けて、私たちも神の子としてきよく力強い歩みをさせていただきましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。新しい年の始まりにあたり、神の子キリストの導きの力を改めて味わい、その罪の清めと新しい命の恵みに与りたいと願います。どうぞ神の子としてしっかりと歩めるよう、私たちに新しい導きを下さい。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・87「罪なき小羊」

1)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ あわれみたまえ

2)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ あわれみたまえ

3)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ 平和をたまえ

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年1月7日の聖書日課

(写真:コハクチョウ)

ヨハネ1:29-34
 1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
 1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
 1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
 1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
 1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
 1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/01

2024年1月1日(月) 新年のごあいさつ

(写真:ナツメヤシ)

新年あけましておめでとうございます。

今年は元旦礼拝を始めとして、毎週日曜日の主日礼拝、
毎週木曜日の祈祷会を欠かさず活動してまいります。

新型コロナウイルス感染症はだいぶ落ち着いてきました。
今後も東京都発表の「最新のモニタリング項目の分析について
を確認しつつ、必要な対策を講じていきます。

皆様におかれましても、実り多い新年でありますように。