2023/08/27

主の祈り(4)みこころをなさせたまえ

みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(マタイ6章10節)

 聖書の神の「御名」、「御国」、「みこころ」を求める祈りを続けてきました。「天にまします」神が、地に住む私たちに近づいて来るようです。まさにそのことを求めて、「天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
 主の祈りが教えているのは、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6章33節)ということです。それは、地に属する様々な物事は、天国の後に「すべて添えて与えられる」と約束されているからです。
 このように、「まだ見ていない事実を確認すること」が信仰です(ヘブル11章1節)。聖書は、目で見てわかること、自然の成り行きについては、目には見えない「神の国」の後に来るものだと教えています。
 「目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」(ローマ8章24節)私たちが現に見て、心に思い描く世界は、人の限界を超えることはできません。しかし、神の「みこころ」を求めるなら、私たちの思いを超えた世界が現れてきます。私たちの日常にも神のみこころを求めてまいりましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年8月27日の聖書日課

(写真:トロロアオイ)

ヘブル11:1-6
 11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
 11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
 11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
 11:4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
 11:5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/08/20

主の祈り(3)御国を来らせたまえ

御国が来ますように。(マタイ6章10節)

 イエス・キリストはしばしば「神の国(天国)」について教えられました(マタイ13章31節)。宣教開始の第一声も「悔い改めよ、天国は近づいた」でした(マタイ4章17節)。いわば神の国はキリストのメインテーマでした。
 主の祈りの願い事は、「御名をあがめさせたまえ」から始まっている通り、神についての願い事が前半部分に置かれています。このことは、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6章33節)と言われたキリストの教えにも共通することです。他の願いは神の国に加えて与えられると約束されています。
 神の国はこの世の国とは異なります(ヨハネ18章36節)。またこの世の国々の栄華と比較できるものではありません(マタイ4章8節)。いやむしろ、この世の富と比較にならないほど高価なものです(マタイ16章26節)。キリストは、この神の国を求めるように教えているのです。
 神の国を支配する者は神ご自身です。神の国を求める者は、神の支配に服することになり、神の大いなる力に従うことで人生の守りと導きを得ることができます。キリストはこのように約束しています。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ5章3節)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年8月20日の聖書日課

(写真:サンゴバナ)

第一コリント1:18-25
 1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
 1:19 すなわち、聖書に、
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。
 1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
 1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
 1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
 1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
 1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
 1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/08/13

主の祈り(2)御名をあがめさせたまえ

御名があがめられますように。(マタイ6章9節)

 主の祈りは、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけた後、「ねがわくは」と言って祈りの本題に入ります。
 様々な祈りと願いに先立って、神の御名があがめられ、賛美されるように祈れと、キリストは教えられました。このことは、教会の礼拝が賛美に始まり、賛美に終わることにも相通ずることです。礼拝に集う人々の思惑はそれぞれ違っていたとしても、礼拝では言葉と心を一つにして神を賛美することを必須なものとしています。
 教会で歌われる賛美歌は、神を賛美し、ほめたたえるための歌です。その賛美によって、礼拝されるべき神が天地を創造された、偉大な父なる神であることを告白します。祈りはその偉大な神に向かってささげられるものです(ローマ1章25節)。
 しかし、神によって創造された被造物である私たちは、どんなに立派に賛美歌を歌ったとしても、天地創造の神に相応しい賛美を捧げる資格や能力があるということにはなりません(ネヘミヤ9章5節)。しかし、キリストは神を賛美しなさい、と私たちに励ましています。なぜなら、神は拙い私たちの口に、神を賛美するにふさわしい賛美をも与えてくださるからです(マタイ21章16節)。
 「御名があがめられますように」という祈りの言葉は、神の御名を賛美できるのは私たち人間の能力によらないことを教えています。神の御名は、神ご自身だけがふさわしく高めることができることなのです。しかし、その神だけができることを、私たちは祈り求めることが許されています。まして、その後に続く私たちの願い事は、全能の神にとって不可能なことは何一つありません(マルコ11章22~24節)。感謝して祈り続けましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年8月13日の聖書日課

(写真:ガガブタ)

詩篇99篇
 99:1 主は王となられた。
もろもろの民はおののけ。
主はケルビムの上に座せられる。
地は震えよ。
 99:2 主はシオンにおられて大いなる神、
主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
 99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を
ほめたたえるであろう。
主は聖でいらせられる。
 99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは
堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 99:5 われらの神、主をあがめ、
その足台のもとで拝みまつれ。
主は聖でいらせられる。
 99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。
そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。
彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。
彼らはそのあかしと、
彼らに賜わった定めとを守った。
 99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。
あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、
悪を行う者には報復された。
 99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。
われらの神、主は聖でいらせられるからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/08/07

主の祈り(1)天のわれらの父よ

天にいますわれらの父よ、(マタイ6章9節)

 イエス・キリストは弟子たちに対し、度々「主の祈り」を教えられました(マタイ6章9~13節、ルカ11章1~4節)。この祈りの言葉は、今日に至るまで世界中のクリスチャンが祈り続け、また教会でも祈り継がれてきたものです。主の祈りは、それぞれの時代の言葉に翻訳されて祈られてきました。日本語でもいくつかの翻訳の形がありますが、私たちはそれらの様々な祈りの形に共通している、主の祈りの心を学びたいと思います。
 キリスト教は、中東の聖書の民であるイスラエル人から生まれました。イスラエル人は聖書の言葉を通して彼らの信仰の営みについて、祈りについて学び、実践していました。キリストが教えられた祈りは、イスラエル人にとっても驚くべき新しいものでした。しかし、実はキリストは彼らの知っていたはずの古い聖書の教えを、新しく教えられたのでした。
 祈りを捧げる相手である聖書の神は、古くから教えられている通り「天と地とを創造された」(創世記1章1節)神です。祈り手である私たち人間は地に住むものであり、神は人の及びもつかない天に住まわれます。天は、私たちが宇宙に飛び出しても、どんなに遠くを観測しようとしても、決して探り出すことのできない世界です。しかし、天地の創造者である神は、天だけではなく私たちの世界である地にも及ぶことのできる方です(申命記30章12節)。
 しかし、キリストは私たちに「天にいます」方に向けて祈れと教えられました。しかも、「父よ」と呼びかけよ、とも教えられました。聖書の民であるイスラエル人にとって、天にいます神を「父」と呼ぶ祈りは考えられないことでした。そのことを、キリストははっきりと言葉で教えられただけでなく、自らの祈りの姿で弟子たちに示されました(マルコ14章36節)。
 キリストは祈りの言葉を授けるだけではなく、天地創造の偉大な神を父と呼んで、親しく祈りを捧げることのできる関係に招いてくださいました。私たちはキリストに御名により、「神の子」として祈ることが許されています(ヨハネ1章12節)。父なる神に感謝しつつ、気兼ねなく私たちの言葉で祈りを捧げましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/08/06

2023年8月6日の聖書日課

(写真:ナツズイセン)

マタイ5:43-48
 5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
 5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
 5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
 5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)