ラベル 交わりの神学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 交わりの神学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019/08/13

神と親しく交わる神学 第七回 聖餐を受ける恵み


 聖餐、すなわち聖餐式において用いられる「パンと杯」(第一コリント11:26)は、それぞれ次の意味があります。
 パンはキリストのからだを意味します(マタイ26:26)。当時、パンは一つの大きな塊として焼かれ、食事の際に手で引き裂いて人々に分けられました。このことは、キリストが十字架にかけられて、そのからだが引き裂かれたことを示します。
 杯、すなわち「ぶどうの実で造った物」(マタイ26:29)は、キリストが十字架で流された「契約の血」を示します(マタイ26:28)。当時、杯といえばアルコール度の低いワインのことを意味します。教会での聖餐式は礼拝で行われることを考慮し、ワインの代わりにぶどうジュースを用いています。
 これら聖餐の食物は、あくまで過去に一回だけ行われたキリストの贖罪の十字架を示すものであり(ヘブル10:14)、キリストのからだと同等の物ではありません。しかし、キリストが私たちのために命を捧げられた尊さを鑑み、既に洗礼を受けたクリスチャンに限定して聖餐を受けることができます。まだ洗礼を受けられていない方は、聖餐を受けられませんが、聖餐式に同席して見学することができます。
 聖餐式に与る者は、聖餐式の意義を正しく理解し、聖餐を受けるのに「ふさわしく」(第一コリント11:27)あることが求められます。正しい態度で聖餐を受ける時、「主がともにいてくださる」ということを味わうことができます(マタイ28:20)。

参考図書:スプロール「聖餐とは何か」いのちのことば社、2017年

2019/07/28

神と親しく交わる神学 第六回 聖餐の意義と取扱い


 聖餐式の具体的な取扱い方法は、教会により大きな違いがあります。今回、次回と聖餐式の本質的な意義を確認しつつ、志村キリスト教会での実際の取扱いに即して聖餐の恵みを分かち合いたいと思います。
 聖餐式は、キリストが十字架にかかられる前夜の「最後の晩餐」で、キリストご自身により制定されました(ルカ22:15-20)。今日の聖餐式でもキリストが行われ、語られたことに倣って儀式を行います。
 最初の聖餐式が行われたのは、旧約の律法に定められた「過越の祭り」の最中でした。過越の祭りは、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトを脱出した「出エジプト」を記念する祭りです(出エジプト12:14)。今日の聖餐式は、キリストによる救いを記念する新約の過越の祭りとして行われます。
 イスラエル人が過越の祭りを忘れることなく毎年行っているのと同様(詩篇103:2)、志村キリスト教会では原則一か月に一回、洗礼を受けたクリスチャンが受けるものとして、日曜日の主日礼拝の中で行っています。
 また、聖餐式は私たちが過去に受けた救いの体験を記念すると同時に、将来受ける天のキリストの食卓を示しています(ルカ22:30)。キリストから受けた救いの体験を一つ一つ思い出すとともに、キリストご自身が約束された将来の恵みの数々に期待し、それらの祝福を味わいつつ聖餐式に与りましょう。

参考図書:スプロール「聖餐とは何か」いのちのことば社、2017年

2019/07/17

神と親しく交わる神学 第五回 洗礼を受ける恵み


 洗礼の儀式はキリスト教以前のユダヤ人の風習から始まりました。その儀式をバプテスマのヨハネが用いて、罪からの決別(悔い改め)の決意表明の儀式として人々に授けました(マタイ3:11)。キリストご自身もクリスチャンが従うべき模範を示すためにヨハネより洗礼を受けました(マタイ3:13-17)。
 また洗礼は、父・子・聖霊の、三位一体の神の名によって行われる(マタイ28:19)、「キリストの割礼」です(コロサイ2:11)。その意味は、洗礼は三位一体の神ご自身が権威をもって授けられるものであり、旧約の契約のしるしである割礼と同様、はっきりと目に見える形で行われる、キリストの新しい契約(新約)であるということです。
 キリストの契約が約束しているもの、すなわち神から授けられる天からの恵みは、次の事を含みます。すなわち、罪に対する死と神に対する生(コロサイ2:12)、神との結合(ローマ11:17-18)、心の新生(エペソ2:4-6)、キリストと共に歩む新しい生活(ガラテヤ2:20)を示しています。
 信仰を抱いて洗礼を受けたクリスチャンに約束されている神の恵みの数々を、今日、神は洗礼という儀式によって保証しておられます(ローマ4:11)。感謝をもって洗礼を受け、神の恵みを余すことなく受け取る者として信仰生活を歩んでまいりましょう。

参考図書:スプロール「洗礼とは何か」いのちのことば社、2016年

2019/06/30

神と親しく交わる神学 第四回 洗礼の意義と取扱い


 教会の礼典である洗礼式および聖餐式の意義と取扱いに関して、すべての教会が共有している本質的な意義があると同時に、個々の教会で行われている具体的な取扱い方の違いがあります。今回の学びでは、「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団志村キリスト教会」の具体的な取扱いに即して、二つの聖礼典の意義を学んでいきます。
 洗礼式において行われる「洗礼」は、新約聖書の原語の読みから「バプテスマ」とも言われます(使徒2:38)。教会により呼称が異なることがありますが、本質的にはすべての教会が同じ主イエス・キリストの制定された同一の洗礼を取り扱っている(エペソ4:5)ので、基本的にはクリスチャンは洗礼を生涯に一度だけ受ければ十分で、何度も洗礼を受け直す必要はありません(ヨハネ13:10)。しかし、すべてのクリスチャンは洗礼を受けた時に心に抱いた信仰を生涯にわたって保ち続けることを心がけねばなりません。
 キリストを信じる者は、特段の理由がない限り(ルカ23:43)、洗礼を受けるべきことをキリストご自身が命じています(マタイ28:19)。また洗礼そのものに特別な効力があるのではなく、クリスチャンが心に抱く信仰を公の場で表す、信仰告白の行為(第一ペテロ3:21)を意味するものですので、信仰を持たない者は洗礼を受けることができません。
 教会の正式なメンバーである教会員(信徒)となるためには、洗礼を受けた者であることが条件となっています(下記教会規則参照)。そのため、洗礼を志願する者には、個人的な信仰を持っていることだけでなく、教会員としての責任を負う意志を持っていることも求められます(第一コリント12:13)。

参考図書:スプロール「洗礼とは何か」いのちのことば社、2016年
志村キリスト教会規則第十七条第二項:
「信徒は洗礼を受け、この教会の信徒名簿に登録されている者とする。」

2019/06/09

神と親しく交わる神学 第三回 神の三つの位格


 聖書は明確に神の三つの神の位格、すなわち「父、子、聖霊」を示しています。そして、神の三つの位格がそれぞれ無秩序、無関係に働いているのではなく、互いに調和をもって世界に働きかけているのを知ることができます(ヘブル1:1-2)。
 位格(ペルソナ)という言葉は、元々はラテン語で「仮面」を意味する神学用語です。古代において仮面は演劇で用いられて、仮面を交換することで同じ役者が複数の役を演じました。教会は三位一体を、唯一の神が父、子、聖霊の三つの仮面を持っている状態と考えたのでした。
 近代において人間の内面(心)が注目されるようになり、個人がそれぞれ感じ、考えることを重視する「実存」が強調されるようになりました。それに対し、神は人間のように実存するのではなく、他の何物にも依存することなく絶対的に「存在」するものとしなければなりません。そのような意味で、神はご自身を「わたしはある」(出エジプト3:14)と名乗られました。
 教会は神の位格に関しても様々な誤解をしました。例えば、「神の三位一体とは、水が水蒸気や氷に変化するようなものだ」とする「様態論」のような誤解です。しかし、神は物質のように変化するものと考えてはなりません。教会はキリストについて「造られずに生まれ、父と同質」であると宣言しました(381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条)。
 聖書において「神は唯一」(第一テモテ2:5)であること、なおかつ父、子、聖霊が明確に区別されています(第二コリント13:13)。私たちは聖書の証言に信仰の基礎を置き、この聖書の証言に反対するすべての言説から自らを守るようにしましょう。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年

2019/05/27

神と親しく交わる神学 第二回 ただひとりの神


 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と言明し、最初から一貫して「唯一なる神」(申命記6:4)を主張しています。複数形の「エロヒム(神)」は常に単数形の動詞を取ります。
 十戒の第一戒に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)と命じられています。この命令の意味は、異教の「ほかの神々」を退けてわたし(聖書の神)を拝め、という意味ではありません。信仰の選択肢として「ほかの神々」があってはならず、ただ聖書の神のみを神と認めて拝め、という意味です。そのような意味でキリスト教は単なる「一神教」ではなく、「唯一神教」です。
 新約聖書において、多神教のギリシャ文化を見てパウロは「知られない神」(使徒17:23)について語りました。人々が様々な利益や自然の猛威に神を見出しつつ、それでもなお知られざる神の存在を恐れているのに対し、パウロはその真に恐るべき神はおひとりであることを語ったのです。
 キリスト教の歴史が積み重なるにつれ、教会に三位一体に関する誤解が生まれました。それは、「神は唯一であるので、キリストは神ではない」と主張する「単性論」です。しかし、聖書はキリストが「真に神であり真に人」(451年のカルケドン信条)であることを証言しています。
 私たちには唯一の神から、唯一の信仰、唯一の救いを与えられています(エペソ4:4-6)。与えられた確かな御言葉に信頼し、確かな信仰の歩みを続けてまいりましょう。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年

2019/05/20

神と親しく交わる神学 第一回 聖書に基づく三位一体


 「三位一体」は神学上の最難問であると同時に、神と親しく交わるための秘訣でもあります。三位一体を言葉で表現するなら、キリスト教の神は「三つにいましてひとりなる」(新聖歌137番より)神であられるということ、あるいは「神は三つの位格を持たれ、なおかつ一つの本質を持たれる」と言うことができます。
 三位一体という言葉は聖書に書かれていませんが、三位一体の考え方は聖書に含まれており、その基礎を聖書に求めることができます(基本的真理に関する宣言 第二項)。
 旧約聖書において「エロヒム」(創世記1:26)というヘブル語は「神」と翻訳されますが、文法的には複数形の言葉です。これは他の言語でも見られる「尊厳の複数」であり、神や王等の権威を表現して単数の主語として用いられます。しかし、単なる文法を超えて聖書の神の三位一体を暗示している言葉です。
 神による天地創造の業に神の霊(聖霊)が関与しています(創世記1:2)。旧約聖書で神を示す「主」を意味するヘブル語は「ヤハウェ」と「アドナイ」がありますが、詩篇110:1では「主(ヤハウェ)は、私の主(アドナイ)に仰せられる」と記されています。三位一体は各位格の関係性(交わり)の中に見出されます。
 新約聖書では、第一コリント8:6において神の唯一性を言明して「父なる唯一の神」と言い、すぐ後に「唯一の主なるイエス・キリスト」と言ってキリストにも神的な唯一性を帰しています。ヨハネ1:1では、キリストを「ことば」と表現して、「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と言っています。
 以上の通り、教会は三位一体を解明するための神学的努力を続けてきましたが、それにもかかわらず、私たちは三位一体は「神秘」(士師記13:18)に属することであると認めなければなりません。神秘は神の計りがたい知恵であり、神はご自身の知恵をもって私たちを豊かにあしらってくださいます。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年