2019/05/27

神と親しく交わる神学 第二回 ただひとりの神


 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と言明し、最初から一貫して「唯一なる神」(申命記6:4)を主張しています。複数形の「エロヒム(神)」は常に単数形の動詞を取ります。
 十戒の第一戒に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)と命じられています。この命令の意味は、異教の「ほかの神々」を退けてわたし(聖書の神)を拝め、という意味ではありません。信仰の選択肢として「ほかの神々」があってはならず、ただ聖書の神のみを神と認めて拝め、という意味です。そのような意味でキリスト教は単なる「一神教」ではなく、「唯一神教」です。
 新約聖書において、多神教のギリシャ文化を見てパウロは「知られない神」(使徒17:23)について語りました。人々が様々な利益や自然の猛威に神を見出しつつ、それでもなお知られざる神の存在を恐れているのに対し、パウロはその真に恐るべき神はおひとりであることを語ったのです。
 キリスト教の歴史が積み重なるにつれ、教会に三位一体に関する誤解が生まれました。それは、「神は唯一であるので、キリストは神ではない」と主張する「単性論」です。しかし、聖書はキリストが「真に神であり真に人」(451年のカルケドン信条)であることを証言しています。
 私たちには唯一の神から、唯一の信仰、唯一の救いを与えられています(エペソ4:4-6)。与えられた確かな御言葉に信頼し、確かな信仰の歩みを続けてまいりましょう。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年

2019/05/20

神と親しく交わる神学 第一回 聖書に基づく三位一体


 「三位一体」は神学上の最難問であると同時に、神と親しく交わるための秘訣でもあります。三位一体を言葉で表現するなら、キリスト教の神は「三つにいましてひとりなる」(新聖歌137番より)神であられるということ、あるいは「神は三つの位格を持たれ、なおかつ一つの本質を持たれる」と言うことができます。
 三位一体という言葉は聖書に書かれていませんが、三位一体の考え方は聖書に含まれており、その基礎を聖書に求めることができます(基本的真理に関する宣言 第二項)。
 旧約聖書において「エロヒム」(創世記1:26)というヘブル語は「神」と翻訳されますが、文法的には複数形の言葉です。これは他の言語でも見られる「尊厳の複数」であり、神や王等の権威を表現して単数の主語として用いられます。しかし、単なる文法を超えて聖書の神の三位一体を暗示している言葉です。
 神による天地創造の業に神の霊(聖霊)が関与しています(創世記1:2)。旧約聖書で神を示す「主」を意味するヘブル語は「ヤハウェ」と「アドナイ」がありますが、詩篇110:1では「主(ヤハウェ)は、私の主(アドナイ)に仰せられる」と記されています。三位一体は各位格の関係性(交わり)の中に見出されます。
 新約聖書では、第一コリント8:6において神の唯一性を言明して「父なる唯一の神」と言い、すぐ後に「唯一の主なるイエス・キリスト」と言ってキリストにも神的な唯一性を帰しています。ヨハネ1:1では、キリストを「ことば」と表現して、「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と言っています。
 以上の通り、教会は三位一体を解明するための神学的努力を続けてきましたが、それにもかかわらず、私たちは三位一体は「神秘」(士師記13:18)に属することであると認めなければなりません。神秘は神の計りがたい知恵であり、神はご自身の知恵をもって私たちを豊かにあしらってくださいます。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年