イザヤ44章6節をお読みします。
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない」。
聖書は、信じるべき神はただひとりであると語っています。また、ただひとりの神のみを信じることを命じ、他の神々を信じることを禁じています(出エジプト20章3節)。
イザヤ44章9節以降では、神々をかたどって作られた像を「偶像」と言って論じます。結局のところ、偶像とは神そのものではなく、人間の手によって作られたものにすぎない、と訴えています。
この教えは、キリスト教が礼拝の対象として像や絵画等を用いないことの理由となります。キリスト教の文化でも優れた美術作品が数多く作られてきました。しかし、それは言わば視覚によって伝えられる神に関するメッセージです。
さらに、聖書の神は偶像の神とは異なって、私たち人間に関わりを持とうとされるお方です。聖書の神はイスラエル、すなわち神を信じる神の民をあがない、救われるお方であり、人間の「初め」から「終り」に至るまで、全人類の歴史を通して関わりを持とうとされるお方です(イザヤ44章6節)。
そして、神は私たちに御言葉をかけられ、私たちの人生の指針を示す教えを与えられるお方です(イザヤ44章7節)。神は人間にはっきりと悟らせるため、私たちの人生に奇跡を行われます。そのような体験をした者は神を証言する証人となる、と言われています(イザヤ44章8節)。ぜひ聖書のメッセージに耳を傾けてください。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるであろう。」(マタイ7章8節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たち、人間の力には限界があります。私たち自身を救う力すらありません。私たちの初めと終りを知っておられる神様。私たちに寄り添ってくださり、御言葉の通り私たちをあがない、救いの御業を見させてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)