2020/09/27

2020年9月27日3分メッセージ



 歴代志下7章11節、12節をお読みします。
こうしてソロモンは主の家と王の家とを造り終えた。すなわち彼は主の家と自分の家について、しようと計画したすべての事を首尾よくなし遂げた。時に主は夜ソロモンに現れて言われた、「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。

 イスラエルの王ソロモンは「主の家」すなわち聖書の神を礼拝し、祈りをささげるための神殿を造ることを計画し、それをなし遂げました。
 神殿建設のために、ソロモンはそれにふさわしい綿密な準備を進めて、最高の資材と技術を惜しみなく投入しました(歴代志下2~4章)。そして完成させた後、聖書の教えに則った盛大な式典を行い、ソロモン自らイスラエルの国民全体のために祈りをささげました(歴代志下5~6章)。
 このようなソロモンの熱心な信仰と祈りに対し、神は神殿を受け入れて祝福し、神殿でささげられる祈りに耳を傾けることを約束されました(歴代志下7章15節、16節)。ソロモンの造った神殿は目を見張るような豪華さがありましたが、その内実たる信仰を伴ったものでした。
 私たちはこのソロモンの神殿建設と彼の祈りに、礼拝と祈りの模範を見ることができます。聖書の神は見た目の豪華さ以上に、私たちの礼拝と祈りの心を見られるお方です(サムエル記上16章7節)。そして私たちの心からの切なる祈りに応えてくださいます。
 もし私たちの人生に神の特別な祝福を得たいと願われるなら、ソロモンの信仰とともにエペソ2章22節の御言葉にならってまいりましょう。「そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ソロモンは彼の全身全霊をもって神を礼拝し、神に祈りをささげました。私たちも彼にならって祈りをおささげいたします。どうぞ私たちの体を神の家となして、神の祝福を受け継ぐ者とならせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/21

2020年9月27日の聖書日課

  

(写真:スイフヨウ)

歴代志下7:11-16
 7:11 こうしてソロモンは主の家と王の家とを造り終えた。すなわち彼は主の家と自分の家について、しようと計画したすべての事を首尾よくなし遂げた。
 7:12 時に主は夜ソロモンに現れて言われた、「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。
 7:13 わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、
 7:14 わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。
 7:15 今この所にささげられる祈にわたしの目を開き、耳を傾ける。
 7:16 今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/20

2020年9月20日3分メッセージ



 ペテロ第一2章21節をお読みします。
あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

 イエス・キリストの使徒ペテロは、小アジア地方(現在のトルコ・アナトリア半島)の各地に住むクリスチャンに宛てて、この励ましの手紙を書き送りました(ペテロ第一1章1、2節)。
 ペテロは「そうするように」と書いていますが、その意味するところはその言葉の前の部分に書いてあります。それは、「肉の欲を避ける」ことであり(ペテロ第一2章11節)、「国の制度に従う」ことであり(同13節)、「すべての人をうやまう」ことであり(同17節)、「主人に仕える」ことです(同18節)。
 これらのことは根本的には正しいことでありますが、時にその言葉に従うことが難しく感じることもあるのではないでしょうか。ペテロはさらに励ましとなる言葉も語っています。それは、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け」られたということです。
 キリストの生涯と語った言葉は、四つの福音書に記されています。それはまさに、ペテロが勧めた言葉の通りの生涯でした。しかし、キリストは彼に敵対する人々に苦しめられ、最後に十字架の死を遂げられました。キリストはご自分が語った言葉の通りに、「敵を愛する」生涯を遂げられました(ルカ6章35節)。
 聖書は私たちに自分勝手な生き方ではなく、正しい事に従う生き方を勧めています。正しい生き方をした結果、自らが苦しくなることがあるでしょうか。その時に、キリストを思いみてください。キリストは正しく生きる人々の苦しみを知っておられます。キリストは私たちに立場に立ち、私たちを守ってくださるお方です。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書を読むことで、正しい生き方を教えられます。聖書の言葉は私たちの心に深く入り込みます。どうぞ、聖書の教えに従う私たちを助けてください。あらゆる苦しみから救われて、キリストの道を歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/14

2020年9月20日の聖書日課

 

(写真:ハギ)

ペテロ第一2:11-25
 2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
 2:12 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
 2:13 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
 2:14 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
 2:15 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
 2:16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
 2:17 すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
 2:18 僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
 2:19 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 2:20悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
 2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
 2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
 2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
 2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
 2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/13

2020年9月13日3分メッセージ



 エレミヤ28章9節をお読みします。
平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ。

 聖書に記されている「預言」という単語は、「言葉を預かる」と書きます。この言葉とは「神の言葉」のことであり、預言者とは「神のメッセージの代言者」を意味します。預言の内容は未来の事柄だけではなく、過去の事柄について、また現在の事柄について聖書の神が語った言葉であり、預言者は神の言葉を命がけで人々に伝えました。
 しかし、聖書には預言者ハナニヤのように、自分で勝手に考え出した言葉を「神の言葉」として語る者がいました(エレミヤ28章1節)。そして、しばしば人々は平和のような耳ざわりのよい言葉を好んで聞きました。それに対し、預言者エレミヤは真の預言の言葉を判別する基準について、冒頭の聖書の言葉の通りに語りました。
 聖書の言葉は預言として、すなわち神の言葉として読む時に、救いをもたらす真の力を発揮します。さらに注意すべきことは、聖書の言葉を選り好みして読んではならないということです(第二テモテ4章3節、4節)。耳が痛くなるような聖書の個所が、かえって私たちに必要な健全な教えであることがあります。聖書をなるべく全体的に読むことが、私たちにかけがえのない心の富をもたらします(箴言参照)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはしばしば、聞きたい言葉だけに耳を開き、聞きたくない言葉に耳を閉じてしまいます。たとえ耳が痛くなるような話であっても、私たちの成長に役立つ本物の真理を知ることができますように。私たちの心の耳を開き、私たちの心に語りかけてください(サムエル上3章10節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/07

2020年9月13日の聖書日課

 

(写真:カクトラノオ)

エレミヤ28:1-17
 28:1 その年、すなわちユダの王ゼデキヤの治世の初め、その第四年の五月、ギベオン出身の預言者であって、アズルの子であるハナニヤは、主の宮で祭司とすべての民の前でわたしに語って言った、
 28:2 「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、わたしはバビロンの王のくびきを砕いた。
 28:3 二年の内に、バビロンの王ネブカデネザルが、この所から取ってバビロンに携えて行った主の宮の器を、皆この所に帰らせる。
 28:4 わたしはまたユダの王エホヤキムの子エコニヤと、バビロンに行ったユダのすべての捕われ人をこの所に帰らせる。それは、わたしがバビロンの王のくびきを、砕くからであると主は言われる」。
 28:5 そこで預言者エレミヤは主の宮のうちに立っている祭司とすべての民の前で、預言者ハナニヤに言った。
 28:6 すなわち預言者エレミヤは言った、「アァメン。どうか主がこのようにしてくださるように。どうかあなたの預言した言葉が成就して、バビロンに携えて行った主の宮の器とすべての捕われ人を、主がバビロンから再びこの所に帰らせてくださるように。
 28:7 ただし、今わたしがあなたとすべての民の聞いている所で語るこの言葉を聞きなさい。
 28:8 わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した。
 28:9 平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
 28:10 そこで預言者ハナニヤは預言者エレミヤの首から、くびきを取って、それを砕いた。
 28:11 そしてハナニヤは、すべての民の前で語り、「主はこう仰せられる、『わたしは二年のうちに、このように、万国民の首からバビロンの王ネブカデネザルのくびきを離して砕く』」と言った。預言者エレミヤは去って行った。
 28:12 預言者ハナニヤが預言者エレミヤの首から、くびきを離して砕いた後、しばらくして主の言葉がエレミヤに臨んだ、
 28:13 「行って、ハナニヤに告げなさい、『主はこう仰せられる、あなたは木のくびきを砕いたが、わたしはそれに替えて鉄のくびきを作ろう。
 28:14 万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、わたしは鉄のくびきをこの万国民の首に置いて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。彼らはこれに仕える。わたしは野の獣をも彼に与えた』」。
 28:15 預言者エレミヤはまた預言者ハナニヤに言った、「ハナニヤよ、聞きなさい。主があなたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた。
 28:16 それゆえ主は仰せられる、『わたしはあなたを地のおもてから除く。あなたは主に対する反逆を語ったので、今年のうちに死ぬのだ』と」。
 28:17 預言者ハナニヤはその年の七月に死んだ。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/06

2020年9月6日3分メッセージ



 ヨハネ8章12節をお読みします。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

 光はやみを打ち消します。暗やみの中では、物を見分けることが難しく、道をまっすぐに歩くことも困難です。そこに小さな光でもあれば物を見分けやすくなり、道から迷い出ることもなくなります。また生き物は日の光が無ければ健全に生きることができません。光は命をもたらします。
 イエス・キリストは自らを「世の光」であると言いましたが、ある人々はキリストの言葉を否定しました(ヨハネ8章13節)。彼らはまるで、キリストを自分の部屋から締め出しているようです。部屋から光を、つまり光を放つ光源を締め出してしまうなら、その部屋に残されるのは暗やみです。キリストの言葉を否定して耳をふさいでしまうなら、キリストから何も得ることはできません。
 キリストはこのような言葉も言っています。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14章6節)キリストから何らかの恩恵を受けたいなら、キリストの言葉に耳をふさぐのではなく、耳を開いて聴き、その言葉をしっかりと受け止めなければなりません。そうすればきっと心に光が当てられ、行きべき道筋が見えてくるはずです。
 キリストは「あなたがたは、世の光である」とも言っています(マタイ5章14節)。月は太陽の光を反映します。キリストの光をたくさん浴びるなら、私たちの身の回りも光に満ちてきます。光の中を歩んでまいりましょう(第一ヨハネ2章10節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々の生活の中で、光を見失ったように何もわからなくなってしまう時があります。そのような時、私たちがつまずいて希望を失うことのないよう、私たちに光を与えてください。どうぞイエス・キリストの言葉によって私たちを導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/05

イスラエル人の動物観

 神は人間に先んじて、水の生き物、空の鳥、地の生き物を「種類にしたがって」創造されました(創世記1:20-25)。その後、神は人を創造され、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられました(創世記1:28)。
 その後、神は人にそれらの多種多様な動物を名付けさせました(創世記2:19-20)。聖書、特に旧約聖書(ヘブル語)に記されている動物の生態の詳しさと種類の多さは、イスラエル人の観察力の高さを示しています。一方、魚類の名称がほとんど見られないのは、イスラエルに魚の棲める水場が少ないことが原因かもしれません。
 イスラエル人は「家畜」と「野の獣」をはっきりと区別していました(創世記1:24)。族長時代の人々は家畜を財産と見なし、家畜の多さが富を表しました(ヨブ1:3)。家畜に相当する動物の描写はかなり正確で詳しい一方、野の獣に相当する動物(例えばワシ、申命記32:11)については当時の人々の先入観に基づいていて、必ずしも動物の正確な生態を表している訳ではありません。
 一方、聖書は人間と動物の共通点も語っています(伝道3:18-21)。モーセの律法は動物に一定の権利を認めています(出23:12、レビ25:7)。神はノアと結んだ祝福の契約に動物も含めています(創世記9:9-17)。動物は日々の糧を神に祈り求め、神はその祈りに応えられます(ヨブ38:39-41)。時に、動物は神の使いとされて人を養い(第一列王記17:6)、人を正しい道へ導きます(民数記22:23-33)。聖書は動物を含む被造物の救済についても語っています(ローマ8:19-22)。
 律法において、人間の命を贖うために動物の命が犠牲とされました(出34:19-20)。しかし、犠牲とされる動物は「きよい動物」に限定され(創世記8:20)、「食べてよい生き物と食べてはならない生き物」を区別することが命じられました(レビ11章)。また異種交配は禁じられました(レビ19:19)。
 聖書は人間と動物が平和を保つべきことを語ります(ヨブ5:22-23)。動物も神の律法に服するものであり、神の契約により人と争うことがないようにされます(ホセア2:18)。私たち人類は、神の定められた区別に従い、共に神の恵みを分かち合うものとして動物に接していくべきです。 

参考資料:『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989年)より、動物関係の項目

2020/09/01

2020年9月6日の聖書日課

 

(写真:キツネノカミソリ)

ヨハネ8:12-20
 8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 8:13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。
 8:14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。
 8:15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。
 8:16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。
 8:17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。
 8:18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。
 8:19 すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。
 8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)