2019/12/29

2019年12月29日3分メッセージ


 詩篇145篇16節をお読みします。
あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます。
 一年の終わりにあたり、神への感謝の賛美歌をお読みしました。
 一年を振り返ると、良かった事も悪かった事も思い出します。決して、良い事だけであった、あるいは悪い事だけであったと言うことはできないはずです。なるべく広い見方で一年間を振り返ってみましょう。
 そして、一つの出来事はそれだけで独立しているのではなく、その出来事につながる多くの小さな出来事、それも嬉しく思えるような小さな幸せに必ずつながっているものです。そのような発見は、しばしば自然の中で見ることができるでしょう。それらのものは、それぞれ独特な方法で喜びを表しています。それが、私たち人間を含む全世界の創造主である神に対する感謝の表れなのです。
 聖書の神は、自らが造り出したものたちの喜びと感謝を、喜んで聞かれるお方です。そして、すべてのものに恵みとあわれみを豊かに注がれます。聖書も、「すべての事について、感謝しなさい。」(第一テサロニケ5章18節)と教えています。神は御手を大きく開いて、私たちを良いもので一杯にしてくださいます。

 一年の感謝をもって、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。今年も良いもので私たちを満たしてくださったことを感謝いたします。あなた様の御手のうちは良いもので満ちています。来る新年も私たちを新しい恵みによって満たしてくださり、日々感謝をもって生きるものとしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/12/23

2019年12月29日の聖書日課

(写真:シクラメン)

詩篇145:10-21
 145:10 主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、
あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。
 145:11 彼らはみ国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、
 145:12 あなたの大能のはたらきと、
み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。
 145:13 あなたの国はとこしえの国です。
あなたのまつりごとはよろずよに
絶えることはありません。
 145:14 主はすべて倒れんとする者をささえ、
すべてかがむ者を立たせられます。
 145:15 よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。
あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。
 145:16 あなたはみ手を開いて、
すべての生けるものの願いを飽かせられます。
 145:17 主はそのすべての道に正しく、
そのすべてのみわざに恵みふかく、
 145:18 すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に
主は近いのです。
 145:19 主はおのれを恐れる者の願いを満たし、
またその叫びを聞いてこれを救われます。
 145:20 主はおのれを愛する者をすべて守られるが、
悪しき者をことごとく滅ぼされます。
 145:21 わが口は主の誉を語り、
すべての肉なる者は世々かぎりなく
その聖なるみ名をほめまつるでしょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年12月22日3分メッセージ


 ヘブル1章5節をお読みします。
いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と(中略)言われたことがあるか。
 この聖書の言葉は、イエス・キリストを説明する他の聖書の言葉(詩篇2篇7節)を引用しています。要するに、キリストは神に仕える御使、すなわち天使以上の存在であると言っているのです。
 キリストは宣教活動を始める前に、バプテスマのヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けました。その後、天からキリストにこのような言葉がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3章17節)。
 この言葉の通り、キリストの生涯は、クリスマスの誕生から十字架の死に至るまで、神の御旨に従い切った生涯でした。キリストは良き教えを語り、人々を心身ともに健やかに生かすため様々な事を行いました。そのようにしてキリストは神の御心を地上に現す働きをしました。
 クリスマスは、このキリストが神の業を地上にもたらすため、この地に生を受けられたことを感謝しつつ、キリストを礼拝するお祭りです(ヘブル1章6節)。クリスマスを楽しみつつ、イエス・キリストを主役としてお迎えするクリスマスでありますように。

 今年も幸いなクリスマスを迎えることができるように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。今年のクリスマスにあたり、イエス・キリストが神の御子であると語る聖書の言葉を思いみます。クリスマスの後、来る新年にもキリストの恵みによって健やかに生きることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/12/15

2019年12月22日の聖書日課

(写真:クロガネモチ)

ヘブル1:1-6
 1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
 1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
 1:3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
 1:4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。
 1:5 いったい、神は御使たちのだれに対して、
「あなたこそは、わたしの子。
きょう、わたしはあなたを生んだ」
と言い、さらにまた、
「わたしは彼の父となり、
彼はわたしの子となるであろう」
と言われたことがあるか。
 1:6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、
「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」
と言われた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年12月15日3分メッセージ


 ヨハネ1章23節をお読みします。
彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
 この言葉は、イエス・キリストの前に宣教活動を始めた「バプテスマのヨハネ」の自己紹介の言葉です。
 ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3章2節)と語り、イスラエルの人々を教えました。彼の言葉に聞き従った人々は、回心を示す儀式である洗礼を、別の言葉では「水のバプテスマ」(ヨハネ1章26節)をヨハネより受けました。
 ヨハネの許に集まってきたのは信奉者だけではありませんでした。当時のイスラエル社会の指導者たちもヨハネに注目し、彼の正体を知ろうと使者を遣わして尋問したのでした(ヨハネ1章19節)。
 彼らの問いに対して、ヨハネは冒頭の言葉の通り答えました。自分は特別な人間ではなく、後にやってくる主たるキリストの前触れである、単なる声に過ぎないのだと言ったのです。
 クリスマスはこのキリストがやってくることを伝えるものです。キリストにこそクリスマスの醍醐味があります。ぜひこの良い機会に教会でクリスマスの持つ豊かさを味わってみてください。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。一年の終わりに感謝をもってクリスマスを祝ってまいります。クリスマスの出来事のすべてが、主であられるイエス・キリストを語っています。天国の祝福と共にイエス・キリストを心に迎え入れることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/12/08

2019年12月15日の聖書日課

(写真:イロハモミジ)

ヨハネ1:19-27
 1:19さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
 1:20 すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
 1:21 そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
 1:22 そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
 1:23 彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
 1:24 つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
 1:25 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
 1:26 ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
 1:27 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年12月8日3分メッセージ


 第二ペテロ1章16節をお読みします。
わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
 この言葉を語ったペテロは、イエス・キリストの十二人の使徒の一人でした。ペテロはキリストに従ってイスラエルの国中を旅し、キリストから教えを受け、様々な奇跡を目の当たりにしました。
 ペテロが目撃した奇跡の中でも手紙にしたためて伝えたかったのは、聖なる山で見聞きしたキリストの姿のことでした。そこでキリストは突然に光り輝く姿となり、天から声が聞こえてきました(マルコ9章2~8節)。
 ペテロにとって、イエス・キリストは偉大な先生であるに留まらず、神から遣わされた救い主であり、そのことを自らの体験を語ることで伝えようとしたのです。
 キリストを信じるクリスチャンたちは、皆ペテロが感じたように、キリストがほかのものと比べられないような特別な存在であることを感じています。皆がペテロと同じ体験をしている訳ではありませんが、自分自身ではっきりとわかるような個人的な体験を持っています。
 イエス・キリストはこのように個人的にはっきりと現れてくださるお方です。今年もキリストの来臨を祝うクリスマスをご一緒にお祝いしたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。ペテロがキリストの救いの力をはっきりと知ることができたように、私たちにもキリストのご威光をはっきりと示してください。今年も喜ばしいクリスマスを迎えることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/12/01

2019年12月8日の聖書日課

(写真:ヤツデ)

第二ペテロ1:16-21
 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
 1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
 1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
 1:19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
 1:20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
 1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年12月1日3分メッセージ


 イザヤ52章7節をお読みします。
よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。
 聖書の中心的なメッセージのことを「福音」と言います。福音という言葉は、要するに「よきおとずれ」を意味していて、キリスト教的にはイエス・キリストの救いについての知らせを意味します。
 キリスト教はこの福音を広めることを使命として、約二千年の間、全世界で様々な形で活動してきました。イザヤ書の言葉の通り、宣教師は海を越えて山を越えてよきおとずれを伝え、様々な社会事業を行って平和的な活動を行ってきました。
 そのような活動の原動力は聖書の神の恵みの力であり、その力は王様のように強く、権威のあるものです。聖書の神は良い目的のために、また平和のために力を奮われるお方です。
 福音は平和を必要としている人のため、争いに巻き込まれて傷ついている人に伝えられます。キリストの降誕を祝うクリスマスの時期に、聖書が告げる福音に耳を傾けてください。キリストは「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」です。(イザヤ9章6節)
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。今年もクリスマスの時期がやってきました。私たちの身の回りでも、様々な形でイエス・キリストの福音のメッセージが伝えられています。その「よきおとずれ」に耳を傾けることができますように。伝えられた平和と救いをしっかりと受け取ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年12月1日の聖書日課

(写真:サザンカ)

イザヤ52:7-10
 52:7 よきおとずれを伝え、平和を告げ、
よきおとずれを伝え、救を告げ、
シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と
言う者の足は山の上にあって、
なんと麗しいことだろう。
 52:8 聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、
共に喜び歌っている。
彼らは目と目と相合わせて、
主がシオンに帰られるのを見るからだ。
 52:9 エルサレムの荒れすたれた所よ、
声を放って共に歌え。
主はその民を慰め、
エルサレムをあがなわれたからだ。
 52:10 主はその聖なるかいなを、
もろもろの国びとの前にあらわされた。
地のすべての果は、われわれの神の救を見る。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/11/24

2019年11月24日3分メッセージ


愛を補うもの  中央聖書神学校1年生 平松公平

 私が彼女と付き合い始め、数か月たった時の事でした。楽しかったはずの会話の中に、しばしば、ある言葉が出るようになりました。それは、
 「どうしてわからないのだろう?」
 「どうしてわかってくれないの?」
というシンプルな言葉でした。今となっては、何を揉めていたのかも思い出せないような些細な出来事だったと思います。しかし、やがて、その言葉は、二人の関係に、理解し合えないという、大きな言葉となり、深い溝となっていきました。
 幼い頃より教会に行っていた私は、「愛」とは何かを牧師から、そして、聖書から教えられていました。当然、分かり合えるための、「相手を許す事の大切さ」も知っていました。しかし、現実に彼女と向き合う中において、その愛が必要となった時、自分の中に愛が足りない事に気づいたのです。一生懸命、相手を愛そう、許そうと思っても、目につくのは相手への至らなさ、湧き上がってくるのは、相手への怒りでした。
 「あれ?私はこんなにも酷い人間だったのだろうか?何もできない人間だったのだろうか?」
 できると思っていた私にとって、また、できていたと思っていた私にとって、突きつけられた弱い私の姿でした。そして、自分の弱さに限界がきた時、私は、この足りなさだらけの自分の姿を神に見せ、祈りました。
 「神様、何とかしてください」
 本当につぶやくような祈りでした。しかし、その祈りに神はこたえてくださいました。神からの言葉は、
 「そんな弱いあなたを私は心から愛している」
 神が自分を受け入れて下さる。なんとも言えない安心感が私の内に沸き上がり、今まで何度となく聞いてきた、神の愛を肌身に感じた瞬間でした。
 私の愛の足りなさは変わりません。しかし、弱い私を全て受け止めてくださる方の存在が分かった時、彼女への思いも少しずつ変わっていきました。許せない思いが、少しずつ、緩んでいき、愛せるものへと変えられていったのです。そして、そんな彼女と結婚に至った今も、私の愛の足りなさを感じる事は度々ありますが、それを神により補われ、私の愛は今も変えられつつあります。この神の愛の中を歩む平安をこれからも感じるものでありたいと思います。

2019/11/17

2019年11月24日の聖書日課

(写真:ツワブキ)

黙示録1:4-8
 1:4 ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、
 1:5 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
 1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。
 1:7 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
 1:8 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月17日3分メッセージ


 出エジプト2章10節をお読みします。
その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。
 神から十戒を授けられたモーセは、エジプトで奴隷とされていたヘブルびと、すなわちイスラエル人の子として生まれました。
 当時、エジプトの王であるパロはイスラエル人を弱体化させるため、新しく生まれた男の赤ちゃんを殺すよう命じていました。両親はモーセを殺すことをためらい、生きたままカゴに入れてエジプトの大河ナイルに置き去りにしました。モーセの姉は一部始終を知るため、遠くからモーセの様子をうかがっていました。
 そこに、パロの娘がやってきて、カゴを拾って中にいたモーセを発見しました。彼女はこの子が捨てられたイスラエル人の子であることを察し、あわれに思いました。それを見たモーセの姉は機転をきかせて、モーセの母親を乳母として紹介し、モーセはエジプトの王族の子として育つことになりました。
 モーセという名は「引き出す」という意味があります。その名の通り、モーセは周りの人々の心からあわれみを引き出して生き延びることができ、成長した後、彼はイスラエル人をエジプトの苦しみの中から引き出す、イスラエルの救い主となりました。
 聖書の神は人間を用いて救いの業を成し遂げられます。詩篇でもこのように歌われています。「あなたはわたしを多くの重い悩みにあわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。」(詩篇71篇20節)
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。あなたはか弱き私たち人間のすべてを知っておられ、その心の思うところを察してくださるお方です。私たちは心を込めて切に祈ります。折にかなった助けを私たちに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/11/10

2019年11月17日の聖書日課

(写真:フジバカマ)

出エジプト2:1-10
 2:1 さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。
 2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。
 2:3 しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。
 2:4 その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。
 2:5 ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、
 2:6 あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。
 2:7 そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。
 2:8 パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。
 2:9 パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。
 2:10 その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月10日3分メッセージ


願い以上のことをなさる神  志村キリスト教会 生田新一

 入信前の私は、先に入信していた妻に付き合う形で毎週礼拝に出席していました。ある聖日に、牧師から受洗を促され、それを受け入れ受洗しました。今年で四十年になりますが、信仰はまだまだ拙いものです。
 仕事でも、問題が起これば祈ってきましたが、主の御声を聴く前に自分の判断で行動する事が多くありました。土曜日、日曜日勤務の職場が続き、礼拝に出席できる職場への異動を祈ると同時に、上司に申し出ました。しかし、結果は毎週土曜、日曜日が勤務(四週に一回休めるが)の職場への異動となってしまいました。定年を五年後に控え、この職場に定年まで居る事になるのか、などと考えたりもしました。
 そんな折、住んでいる地区で区画整理事業が進められており、換地先に家を建て替えることになりました。設計業者と建設業者との打ち合わせは、毎週月曜日に休暇を取る必要も無く行う事ができました。そして翌年の九月に新しい家は完成し、牧師先生に祝福の祈りをして戴き、引っ越しました。
 新居に移った翌年の四月に、その職場で二年の勤務を終えた段階で、出先機関への異動となりました。そこでは毎週土曜、日曜日が完全に休みで、礼拝に欠かさず出席できるようになり、定年までの三年間この職場で勤めました。
 私は礼拝に出席することしか考えていませんでしたが、イエス様は、家の建築の打ち合わせの時、休暇を取らずに充分できるようにされていたことが、後になって分かり主に感謝しました。主は、私が祈り、願っている事以上の事を為して下さる方です。
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる…(マタイ福音書六章八節)

(聖書 新改訳 (C)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/11/04

2019年11月10日の聖書日課

(写真:ホトトギス)

ヨハネ8:51-59
 8:51 よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。
 8:52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
 8:53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。
 8:54 イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
 8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
 8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
 8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
 8:59 そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月3日3分メッセージ


 ローマ7章11節をお読みします。
罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した…

 聖書およびキリスト教が教える中でも特に重要な事柄の一つに「罪」があります。聖書が教える罪は、普通の罪と幾つかの共通点があります。
 第一に、罪とは法律や戒めなどに背くことです。
 第二に、罪には法律などで定められた刑罰が加えられることです。仮に法律に罪や刑罰の定めがなければ、誰も罪と定められず、罰が加えられることはありません。
 だからと言って、法律がなければ罰せられることもなくて良い、ということにはなりません。法律は私たちがより良い、安全な生活を過ごすために必要なものです。
 また私たちは法律によって強制されなくても、自らの良心により行動を戒めています。言わば良心は心の法律です。
 聖書はこれらの法律や良心に逆らう罪の恐ろしさを教えています。それは、罪は人を支配し、法律や良心に逆らわせる力があるからです。聖書はその上、「罪の支払う報酬は死である」と言っています(ローマ6章23節)。
 それと同時に、聖書は罪からの救いを約束しています。イエス・キリストは「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」であると語られています(マタイ1章21節)。キリストを信じているクリスチャンは罪とは無縁ではありませんが、キリストが罪の力から救い出してくださると信じる人々です。

 罪からの救いを求めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは罪の支配下にある、か弱き罪人です。聖書を読み、言い逃れのできない罪の現実を知りましたが、同じく聖書にはっきりと約束されている罪からの救いを求めます。私たちを罪の力から解放してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1954年版)

2019/11/01

2019年11月3日の聖書日課

(写真:チャノキ)

ローマ7:7-13
 7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
 7:8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
 7:9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
 7:10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
 7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
 7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
 7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/10/27

2019年10月27日3分メッセージ


 創世記1章1節から5節までをお読みします。
初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 聖書の最初、創世記の冒頭に世界の始まりが語られます。
 世界がどのように始まり、人類が存在するようになったのか。私たち人類は遥か昔から今に至るまで、世界の始まりの謎を解明しようと様々な努力をしてきました。その結論として語られている様々な説明に、私たちは満足できているでしょうか。
 聖書が語る世界の始まりの物語は、科学者が求めるような客観的資料をほとんど提供していません。代わりに、人間を中心とする見方からは見えてこない見方、すなわち世界の創造者からの見方で世界の始まりを語っています。
 神は言葉によって世界を創造し、名づけることによって世界が存在する「意味」を与えました。創造の終わりに、神は自らが創造したものを「良い」ものであると認めました。
 聖書は、神とはどんな御方なのか、また神が語られ、行われたことを多く語っています。私たちが聖書を読む時、神を知ることを通して自らの起源を知り、自らの存在する意味を知り、自らの価値を知ることができます。聖書の神はこのように語っています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43章4節)

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは世の中の様々な情報に振り回され、自らの価値を見失ってしまうことがあります。私たちが聖書を読む時、世界の創造者である神が「良し」とされた、私たち自身の尊い価値を知ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 (C)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/10/20

2019年10月20日3分メッセージ


  ルカ19章26節をお読みします。
あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。

 イエス・キリストは次のようなたとえ話をしました。
 『ある貴族が遠い国に旅に出ました。その目的は皇帝に謁見して、自分の地方の支配権を認めてもらうためでした。
 旅に出る前に、貴族は十人のしもべに資本金を預け、主人の留守中に商売をして金を儲けることを命じました。
 あるしもべは商売をして資本金を十倍に、別のしもべは五倍に増やしました。しかし、ある別のしもべは商売をせず、預かった金を風呂敷に包んでしまっておきました。彼の目には、預かった金は無いに等しく、主人はきびしい人だと映っていたからです。
 彼らの主人は王となって帰ってきました。主人はしもべたちに預けた金を精算し、それぞれの功績に応じてしもべたちを町の代官に任命しました。しかし、主人の命令に従わなかったしもべは叱られ、預けた金は取り上げられて最も功績のあったしもべに与えられました。』
 このたとえ話は、人間には等しく人生を生きる機会が与えられていることを示しています。ある人は自分に与えられたものを不満に思い、折角の機会を生かすことができないのかもしれません。聖書は「すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5章18節)と教えています。充実した人生を生きる秘訣を聖書に学びたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たち一人びとりに与えられたものを感謝しつつ、それを見定めて生かしていく目を私たちに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/10/13

2019年10月13日(日) 聖餐式

志村キリスト教会では毎月第二日曜日に、礼拝の中で聖餐式を行っています。聖餐式とは洗礼を受けたクリスチャンが与るキリスト教の儀式です。クリスチャンではない方も見学することができますので、第二日曜日も気兼ねなくお越しください。

2019年10月13日3分メッセージ


 ヤコブ2章1節をお読みします。
私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

 キリスト教会という社会集団は、ほかの社会集団、例えば会社などとは違う特徴があります。
 第一に、教会はイエス・キリストが中心である団体です。キリストによる救いを語る聖書を行動規範として、教会は運営されており、教会員すなわちクリスチャンは日々生活することを志しています。
 第二に、教会は社会のあらゆる差別を受け入れず、キリストを信じる信仰のもとに平等を守る団体です。家族関係をはじめとする社会の様々な身分の違いについて、教会は無視している訳ではありません。しかし、それらの身分の違いによって教会内の立場の優劣を決めることはありません。また、クリスチャンでない方が信仰について知ることを願われるなら、礼拝などの教会の活動に参加されることを歓迎します。
 教会のクリスチャンはイエス・キリストの言葉と生き方に学ぶ者であり、他人より優れた熟練者であると考えないでください。聖書はキリストの教えと相いれない、人を差別するような「えこひいき」を戒めています。キリストが身をもって教えられた「愛」に、私たちは謙虚に学びたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちのうちから人を差別する「えこひいき」を取り除いてください。代わりに、イエス・キリストによって示された「愛」を実践する者として私たちを教え導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/10/12

2019年10月6日(日) 平松神学生実習開始

今月より中央聖書神学校から実習生が毎週日曜日に派遣されることになりました。神学校1年生の平松公平さん(3分メッセージ)です。来年3月まで来られますので、皆様よろしくお願いいたします。

2019年8月19日(月) ジュニアキャンプ

学校の夏休みには毎年各地でジュニアキャンプが行われます。志村教会は教会員の実家に近い関係で、西地区ジュニアキャンプに参加しています。会場は毎年恒例の国立信州国立信州高遠青少年自然の家で行われました。今年のメッセンジャーは南紀キリスト教会の寺田雄先生でした。

2019年6月16日(日) 献堂65周年記念礼拝

今年は現在地の板橋区舟渡に最初の教会堂が開設されて65年が経ちました。献堂65周年記念礼拝を、志村教会第四代牧師の長屋勇先生を説教者としてお迎えして行いました。34年間に渡り志村教会で働かれた長屋先生より薫陶を受け、新たな一歩を踏み出していきたいと思います。

2019年5月18日(土) 教区合同追悼記念会

数年ぶりに開催された関東教区(北東・南西2教区)合同追悼記念会に出席しました。都立多磨霊園にある教区共同墓地にて、先に天に召された信仰の先達たちを偲びました。

2019年4月16日(火) こども動物園の羊

板橋区立こども動物園高島平分園では、毎年ゴールデンウィークに「羊の毛刈り」イベントがあります。今年は毛刈り直前の羊を見ようとやってきましたが、一匹は既に練習台になったようでした。羊は聖書に深い縁のある動物です。『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』(詩篇23:1)

2019年3月27日(水) ユースキャンプ

学校の春休み期間中、関東北東教区主催の青少年向けのキャンプが日光オリーブの里を会場として行われました。今回は志村教会からの参加者は少なかったので、次回は大勢で参加したいと思います。

2019年1月1日(火) 元旦礼拝

今年も元旦から礼拝をもって一年を始めることができました。志村教会のすぐそばにある戸田橋からは富士山がよく見えます。今年もきれいな富士山を見ることができました。

2019/10/11

教会日記(2015年~2018年)

 2015年 献堂61周年記念礼拝
藤井敬朗師(新中野キリスト教会

 2015年 自衛消防訓練
(志村消防署蓮根出張所の協力を得て)

2016年 献堂62周年記念礼拝
長谷川忠幸師(境港キリスト教会

2016年 召天者記念礼拝
山脇久治師(志村教会初代牧師)

2017年 献堂63周年記念礼拝
 山田亘師(西東京キリスト教会

 2017年 教会堂改修工事
 
2018年 献堂64周年記念礼拝
中山規夫師(岩見沢神召キリスト教会

2018年 第14回NEW断食祈祷聖会

教会日記(2011年~2014年)

2011年 イースター講演会
齋藤又次氏(斉藤歯科医院

 2011年 献堂57周年記念礼拝
上原時江師(すわシオンキリスト教会

2012年 キッズアーク(子ども礼拝)

 2012年 献堂58周年記念礼拝
 船津恭子師(金沢キリスト教会

 2013年 献堂59周年記念礼拝

 2013年 洗礼式

2014年 献堂60周年記念礼拝

2014年 主日礼拝
吉原博克宣教師

2019/10/10

教会日記(2011年以前)

1949年、板橋区蓮根の藤化成(現・藤倉化成株式会社)
の厚生施設を借用して日曜学校が始まる

1954年6月13日、 現在地にて献堂式が行われる
初代牧師は山脇久治師(任期1954年~1957年)

1958年、第二代牧師の堀川満也師家族を囲んで
(任期1957年~1958年)

1961年、第二代教会堂の献堂式

1962年、第三代牧師の松崎実也師を囲んで
(任期1959年~1973年)

1974年、献堂20周年記念聖会
第四代牧師は長屋勇師(任期1973年~2007年)

1983年、第三代教会堂(現教会堂)の起工式
(同年竣工)

第五代牧師 内田信恵師(任期2007~2011年)
写真右端、現姓は立木

2019/10/06

2019年10月6日3分メッセージ



 詩篇49篇7節および8節をお読みします。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──

 聖書は繰り返し、財産やお金の関わり方について警告をしています。財産そのものが悪である訳ではありません。しかし、財産に強く執着することに問題が生じてきます。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であるとも聖書は語っています(第一テモテ6章10節)。
 古今東西の人類の歴史において、また私たちの身近な社会においても、財産を巡るトラブルには事欠きません。人が財産を自らのものにしようとするあまり、逆に財産がその人のすべてを支配しているような状況もよく見られるものです。
 そのような私たちに、聖書は大切な点を気づかせてくれます。それは、人が財産を持てるのは束の間のことであり、人生の終わりと共に財産とも別れを告げなければならないのです。人はどんなにお金をつぎ込んだとしても、この世で永遠に生き続けることはできません。全世界の富よりも人の命は遥かに高価で大切なものです。
 聖書の神は、私たち一人びとりに素晴らしい人生を、無償で与えてくださいました。そのことは神の愛の具体的な形です。最後に、ヨハネ3章16節をお読みします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。あなたは私たち一人びとりに、決してお金に換えることのできない大切な命を与えてくださいました。その神の愛に感謝しつつ、自分自身を愛して日々を過ごすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/29

2019年9月29日3分メッセージ



 創世記37章18節から20節までをお読みします。
兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。彼らは互いに話し合った。「見ろ。あの夢見る者がやって来た。さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」

 聖書の民イスラエル人の先祖、ヤコブには十人の息子がいました。年を取ってから、ヤコブは更に一人の息子、ヨセフをもうけました。ヤコブは息子たちの中でヨセフを一番かわいがり、ヨセフのために特別に作らせた袖つきの長服を与えました。この長服はヨセフの兄たちの憎しみの的となりました。
 兄たちを更に怒らせたのは、ヨセフが見た夢でした。その内容は、兄たちがヨセフに向かっておじぎをすることを意味するものでした。
 憎しみを募らせた兄たちは、ヨセフを殺してしまおうと思いました。彼らが話し合った結果、ヨセフは奴隷として売られてしまい、遠いエジプトの国へ連れて行かれました。兄たちはヨセフの長服を動物の血で汚し、父親のヤコブにはヨセフが猛獣に殺されたと嘘をつきました。
 兄たちはヨセフから長服を奪いましたが、ヨセフの夢は奪うことができませんでした。その後、何年も経ち、ヨセフはエジプトの国の大臣となり、兄たちがヨセフにおじぎをするという夢の内容がその通り実現しました。ヨセフが見た夢は自ら思い描いたものではなく、神から与えられたものであったからです。
 聖書の神は私たち一人びとりに対して願い、夢を持っておられます。神を信じる者は、神の夢と共に神の守りを受けることができます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。あなたは私たち一人びとりに夢を授けてくださいます。神の夢とともに私たちをお守りください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

2019/09/22

2019年9月22日3分メッセージ


 ガラテヤ6章14節をお読みします。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 この聖句の著者パウロは、自らが体験した出来事をこの言葉に重ね合わせて、私たちに向かって激しく迫るように語りかけています。
 パウロは元々はクリスチャンを敵とみなし、捕らえて牢に投げ込ような強硬なキリスト教の反対者でした。しかし、天からイエス・キリストの声を聞くという劇的な体験をして、その後はキリスト教を伝える宣教師として活躍しました。
 パウロの思いとしては、過去の自分はキリストがはりつけられて死んだ十字架に、一緒にはりつけられて死んでしまいました。そして、過去の自分が良いと思っていたこの世の価値観を失いました。それだけではなく、キリストと一緒になることによって新しい価値観を得て、キリストから与えられた新しい命によって生きていることを証言して、「私は十字架だけを誇る」と言っているのです。
 同じガラテヤ書の2章20節で、パウロはこのように言っています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちがすべての希望を失ってしまうような時に、このパウロの言葉を思い出させてください。パウロがキリストのうちに見いだした新しい命を得て、私たちも誇りをもって新しい一歩を踏み出だすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/15

2019年9月15日3分メッセージ


 ルカ14章11節をお読みします。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 この言葉は、イエス・キリストがとある食事会の場で語られたものです。聖書の民であるイスラエル人にとって食事は大変重要なものです。そこでは、食事や会話を楽しむだけではなく、宣伝やアピールをする場であり、重要な物事が決められる場でもありました。そのため、イスラエルの人々は会話の主導権を取ることのできる上座を競うようにして座ろうとしたのでした。
 イエス・キリストはその様子を見て、この世の考え方に勝る、神の国の法則を教えました。それは、神に祝福された良い働きは謙遜な人に任される、ということです。神の良い働きをしたいと思う者は、他人の上に立とうとするのではなく、かえって他人に仕えるようにしなさい、とイエス・キリストは教えました。謙遜になって自分を低くする者は、神によって高く引き立てられる。この「謙遜」こそが、キリスト教の根本的な行動原則です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。イエス・キリストの御言葉は私たちに謙遜な心を持つよう教えています。どうぞ私たちに人に仕える、奉仕の心を得させてください。そして神の御旨にかなう者として私たちを取り立ててくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/08

2019年9月8日3分メッセージ



 詩篇92篇12節、13節をお読みします。
正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

 何が正しく、何が正しくないのか。聖書は私たちに正しい事と正しくない事、すなわち善と悪について教えています。歴史や民族の壁を越えて、全人類に共通する正しさは、人それぞれの考え方や状況判断により変わるものであってはなりません。聖書の神は根本的な大原則として、モーセを通して十戒を与えられました(出エジプト20章)。
 聖書は神から与えられた教えに従う者を「正しい者」とし、正しい者の生涯をナツメヤシやレバノンスギのような長く生きる植物に例えています。逆に、神の教えに従わない「悪者」については、短い命でしかない青草に例えて、悪は繁栄しているように見えても、長く続くものではないことを教えています。
 神が聖書を通して教える「正しさ」に頼る者は、とこしえまでに至る繁栄を受けることができます。神は信じる者に永遠の命を約束しています(ヨハネ3章16節)。
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちに正しい生き方を教えてください。正しい者に約束された、とこしえまでに至る栄えを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/01

2019年9月1日3分メッセージ


 アモス5章24節をお読みします。
公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

 川の流れというものは古今東西、様々な歌でも歌われているように、人生を振り返させるものです。時に流れが曲がりくねることがあっても、絶えず水が注ぎこみ、流れ去っていきます。思い描かれる川の情景は人それぞれ違うでしょう。同じように、人生というものも人それぞれ違うものであり、川の流れに例えるならば、人それぞれの流れ方というものがあります。
 正義というものも、川や人生と同様に、人それぞれに違ったイメージを持たれるものです。そのために、意見の食い違いや争いが起きることがあるかもしれません。しかし、だからといって正義や正しさは必要ない、と言うことはできません。人間が本当の意味で仲良く、平和な生活を営むためには正義が守られていなければなりません。
 川の流れが人それぞれに違うように見えたとしても、すべての川は水が流れています。同じように、正義が私たちの人間関係の根底に流れているようにせよ、というのが聖書のメッセージです。イエス・キリストはこのように言っています。「わたしを信じる者は…その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章38節)

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちはしばしば正義を守ることの大切さを見失ってしまい、心に潤いを失ってしまいます。聖書の約束の通り、私たちの心に正義を保つことができ、心から生ける水の川が流れ出るようにしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/08/25

2019年8月25日3分メッセージ



 ルカ12章35節、36節をお読みします。
腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

 イエス・キリストは、結婚式に招かれた主人と留守中の家を守るしもべのたとえ話をしました。
 古代イスラエルの結婚式は数日にもわたって続き、いつ終わるかは予めわかりませんでした。そのため、家を守るしもべたちは主人の帰宅を何日間も待たなければなりません。しかし、主人がいつ帰って来ようとも、それが真夜中であったとしても、しもべたちは変わらぬ忠実な態度で主人を迎えるのが務めです。
 イエス・キリストは、このたとえ話の主人は自分のことであると言いました。イエス・キリストを救い主と信じ、約束されている救いを待ち望む者は、逆に主人がしもべに仕えるように、キリストから豊かな恵みを受け取ることができます。聖書の神は、心を尽くして求める者に、心を尽くして報いて下さるお方です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちが神の救いを求める時、その求めに応える時を定めておられるのは主であられるあなたです。応えを得るまで忠実に、忍耐強く待ち続ける者であらせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/08/18

2019年8月18日3分メッセージ


 ローマ12章9節をお読みします。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 「神は愛です。」聖書はこのように語っています。
 聖書が語る愛は、聖書や神の内側に留まっているものではありません。愛は神から出て人に伝わり、神から愛を受け取った人がほかの人に愛を伝えます。そのようにして、「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令が、世界中のクリスチャンによって実践されているのです。
 教会では男女が愛を誓う結婚式が行われますが、それだけではなく、聖書の愛の精神に基づく様々な活動が多くの人々に向けて実践されています。
 もし、愛とは名ばかりで偽りの愛に心傷ついた経験があるならば、神から出た本物の愛を知る必要があります。神はひとり子イエス・キリストを身代わりにして人に命を与えられました。このイエス・キリストの十字架に神の、本物の愛がはっきりと示されています。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは愛を必要としています。愛とは名ばかりの偽りの愛ではなく、イエス・キリストの十字架によって示された本物の愛を、私たちの心に注ぎ入れてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/08/13

2019年8月11日3分メッセージ


 第一列王記19章11節から13節をお読みします。
主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

 預言者エリヤは、イスラエルの人々の前で大きな奇跡を行い、神からのメッセージを伝えました。しかし、イスラエルの人々は聞き従わず、エリヤは王から命を狙われる身となってしまいました。
 「こんなに熱心にやってきたのに、なぜ人々は従わないのだ。もう十分だ!」そのように思って、エリヤは同じく偉大な預言者であったモーセゆかりの聖地、ホレブの山に向かいました。そこで驚くような光景を目にしますが、エリヤが悟ったのは、大きな奇跡の中に神はおられなかったということです。その後にエリヤが聞き取った、かすかな細い声が、エリヤが求めていた神の声でした。
 聖書の神は、探し求める者には見つけることができるお方、心からの切なる祈りに応えてくださるお方です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちの気持ちを引きつけるような目覚ましい出来事そのものではなく、物事すべての鍵を握っておられる神の御声を聞き、確かな応えを神から得ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

神と親しく交わる神学 第七回 聖餐を受ける恵み


 聖餐、すなわち聖餐式において用いられる「パンと杯」(第一コリント11:26)は、それぞれ次の意味があります。
 パンはキリストのからだを意味します(マタイ26:26)。当時、パンは一つの大きな塊として焼かれ、食事の際に手で引き裂いて人々に分けられました。このことは、キリストが十字架にかけられて、そのからだが引き裂かれたことを示します。
 杯、すなわち「ぶどうの実で造った物」(マタイ26:29)は、キリストが十字架で流された「契約の血」を示します(マタイ26:28)。当時、杯といえばアルコール度の低いワインのことを意味します。教会での聖餐式は礼拝で行われることを考慮し、ワインの代わりにぶどうジュースを用いています。
 これら聖餐の食物は、あくまで過去に一回だけ行われたキリストの贖罪の十字架を示すものであり(ヘブル10:14)、キリストのからだと同等の物ではありません。しかし、キリストが私たちのために命を捧げられた尊さを鑑み、既に洗礼を受けたクリスチャンに限定して聖餐を受けることができます。まだ洗礼を受けられていない方は、聖餐を受けられませんが、聖餐式に同席して見学することができます。
 聖餐式に与る者は、聖餐式の意義を正しく理解し、聖餐を受けるのに「ふさわしく」(第一コリント11:27)あることが求められます。正しい態度で聖餐を受ける時、「主がともにいてくださる」ということを味わうことができます(マタイ28:20)。

参考図書:スプロール「聖餐とは何か」いのちのことば社、2017年

2019/08/04

2019年8月4日3分メッセージ



 ルカ8章1節から3節をお読みします。
その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。

 聖書は、キリスト教精神の一つである奉仕、すなわち仕える精神を語っています。キリスト教のあらゆる営みは、イエス・キリストが主体的に行い、また語っていることに根差しています。キリストの弟子であるクリスチャンが行うべきことは、キリストが行かれる所につき従い、キリストが行われる事のお手伝いをすることです。これが、奉仕の精神の意味するところで、クリスチャンはキリストに仕える者であるのです。
 キリストの弟子には男性も女性もいました。彼らは自ら持てるものを用いて、自発的にキリストに仕えました。彼ら自身がキリストによる救いを体験していて、その救いがより多くの人々に行われるために、キリストにつき従って、奉仕していたのです。私たちもキリストに従い、他の人々のために奉仕することで、キリストの救いに多く与りたいものです。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。キリストの弟子たちは仕えることで、キリストの救いを多く目の当たりにすることができました。私たちも救いを期待しつつ、奉仕の精神をもって日々を歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/07/28

神と親しく交わる神学 第六回 聖餐の意義と取扱い


 聖餐式の具体的な取扱い方法は、教会により大きな違いがあります。今回、次回と聖餐式の本質的な意義を確認しつつ、志村キリスト教会での実際の取扱いに即して聖餐の恵みを分かち合いたいと思います。
 聖餐式は、キリストが十字架にかかられる前夜の「最後の晩餐」で、キリストご自身により制定されました(ルカ22:15-20)。今日の聖餐式でもキリストが行われ、語られたことに倣って儀式を行います。
 最初の聖餐式が行われたのは、旧約の律法に定められた「過越の祭り」の最中でした。過越の祭りは、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトを脱出した「出エジプト」を記念する祭りです(出エジプト12:14)。今日の聖餐式は、キリストによる救いを記念する新約の過越の祭りとして行われます。
 イスラエル人が過越の祭りを忘れることなく毎年行っているのと同様(詩篇103:2)、志村キリスト教会では原則一か月に一回、洗礼を受けたクリスチャンが受けるものとして、日曜日の主日礼拝の中で行っています。
 また、聖餐式は私たちが過去に受けた救いの体験を記念すると同時に、将来受ける天のキリストの食卓を示しています(ルカ22:30)。キリストから受けた救いの体験を一つ一つ思い出すとともに、キリストご自身が約束された将来の恵みの数々に期待し、それらの祝福を味わいつつ聖餐式に与りましょう。

参考図書:スプロール「聖餐とは何か」いのちのことば社、2017年

2019/07/17

神と親しく交わる神学 第五回 洗礼を受ける恵み


 洗礼の儀式はキリスト教以前のユダヤ人の風習から始まりました。その儀式をバプテスマのヨハネが用いて、罪からの決別(悔い改め)の決意表明の儀式として人々に授けました(マタイ3:11)。キリストご自身もクリスチャンが従うべき模範を示すためにヨハネより洗礼を受けました(マタイ3:13-17)。
 また洗礼は、父・子・聖霊の、三位一体の神の名によって行われる(マタイ28:19)、「キリストの割礼」です(コロサイ2:11)。その意味は、洗礼は三位一体の神ご自身が権威をもって授けられるものであり、旧約の契約のしるしである割礼と同様、はっきりと目に見える形で行われる、キリストの新しい契約(新約)であるということです。
 キリストの契約が約束しているもの、すなわち神から授けられる天からの恵みは、次の事を含みます。すなわち、罪に対する死と神に対する生(コロサイ2:12)、神との結合(ローマ11:17-18)、心の新生(エペソ2:4-6)、キリストと共に歩む新しい生活(ガラテヤ2:20)を示しています。
 信仰を抱いて洗礼を受けたクリスチャンに約束されている神の恵みの数々を、今日、神は洗礼という儀式によって保証しておられます(ローマ4:11)。感謝をもって洗礼を受け、神の恵みを余すことなく受け取る者として信仰生活を歩んでまいりましょう。

参考図書:スプロール「洗礼とは何か」いのちのことば社、2016年

2019/06/30

神と親しく交わる神学 第四回 洗礼の意義と取扱い


 教会の礼典である洗礼式および聖餐式の意義と取扱いに関して、すべての教会が共有している本質的な意義があると同時に、個々の教会で行われている具体的な取扱い方の違いがあります。今回の学びでは、「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団志村キリスト教会」の具体的な取扱いに即して、二つの聖礼典の意義を学んでいきます。
 洗礼式において行われる「洗礼」は、新約聖書の原語の読みから「バプテスマ」とも言われます(使徒2:38)。教会により呼称が異なることがありますが、本質的にはすべての教会が同じ主イエス・キリストの制定された同一の洗礼を取り扱っている(エペソ4:5)ので、基本的にはクリスチャンは洗礼を生涯に一度だけ受ければ十分で、何度も洗礼を受け直す必要はありません(ヨハネ13:10)。しかし、すべてのクリスチャンは洗礼を受けた時に心に抱いた信仰を生涯にわたって保ち続けることを心がけねばなりません。
 キリストを信じる者は、特段の理由がない限り(ルカ23:43)、洗礼を受けるべきことをキリストご自身が命じています(マタイ28:19)。また洗礼そのものに特別な効力があるのではなく、クリスチャンが心に抱く信仰を公の場で表す、信仰告白の行為(第一ペテロ3:21)を意味するものですので、信仰を持たない者は洗礼を受けることができません。
 教会の正式なメンバーである教会員(信徒)となるためには、洗礼を受けた者であることが条件となっています(下記教会規則参照)。そのため、洗礼を志願する者には、個人的な信仰を持っていることだけでなく、教会員としての責任を負う意志を持っていることも求められます(第一コリント12:13)。

参考図書:スプロール「洗礼とは何か」いのちのことば社、2016年
志村キリスト教会規則第十七条第二項:
「信徒は洗礼を受け、この教会の信徒名簿に登録されている者とする。」

2019/06/10

基本的真理に関する宣言

 聖書はわたしたちの信仰と実践の十全な規範である。この基本的真理に関する宣言は、わたしたちの交わりの基盤として定められたものである。(すなわち、みなが一致するためである。Iコリント1:10、使徒2:42)この宣言に用いられている表現は霊感されたものではなく、またそれを主張するものでもないが、ここに掲げられている真理は、全福音の奉仕の務めにとって必須なものと考えられる。これは聖書の真理の全てを包含しているとは言えない。しかし、これらの基本的教理に関するわたしたちの必要を包含するものである。

1.霊感された聖書
 旧約、新約からなる聖書は、逐語的に神に霊感されているもので、人間に対する神の啓示であり、信仰と行為の誤りのない権威ある規範である(IIテモテ3:15-17、Iテサロニケ2:13、IIペテロ1:21)。

2.唯一のまことの神
 唯一、まことの神は、永遠に自存の「わたしはある」者、天地の創造者、そして人類のあがない主としてご自身を啓示しておられる。神はさらにご自身を父、子、聖霊として関係と結合の原理を現わすかたとして啓示しておられる(申命記6:4、イザヤ43:10,11、マタイ28:19、ルカ3:22)。

 「崇むべき神」

 (1)用語の定義
 神に関する「三位一体」と「位格」という用語は聖書の中にはないが、聖書と調和する言葉である。それによって神についてのキリスト論に関する、わたしたちの直接的理解を「多くの神、多くの主」と区別して他の者たちに伝えることができる。それゆえわたしたちは、唯一の主は、わたしたちの神なる主、すなわち三位一体、あるいは三位格を持つ一存在であり、これは適切で、しかも完全に聖書的である、ということができる(例マタイ28:19、IIコリント 13:13、ヨハネ14:16,17)。

 (2)神格の区別と関係
 キリストは神性における位格の区別を教えられ、父、子、聖霊という関係を示す特別な用語をもって表現された。しかしこの関係と区別の様式については、説明されていないので、不可思議であり、理解することができない(ルカ1:35、Iコリント1:24、マタイ11:25-27、28:19、IIコリント 13:13、Iヨハネ1:3,4)。

 (3)父、子、聖霊なる一存在の一体性
 したがって、そのゆえに、子のうちには彼をして父ではなく子とするものが存在し、聖霊のうちには父でもなく、子でもなく、聖霊とするものが存在している。それゆえに父は生み給う方、子は生まれた方であり、聖霊は父と子から生じる方である。それゆえ神性におけるこれら三位格は統一された状態にあるゆえに、一人の全能の主なる神のみがおられ、その名は一つなのである(ヨハネ1:18、15:26、17:11,21、ゼカリヤ14:9)。

 (4)神格における同一性と協力関係
 父と子と聖霊は決して同一ではない。またその関係は混同されてはならない。また神性において分離されてはならない。また協力では対立するものではない。その関係において子は父におり、父は子におられる。交わりにおいては子は父と共におり、父は子と共におられる。権威については父は子から出たものではなく、子が父から出たものである。聖霊はその性質、関係、協力、権威について父と子から生じている。それゆえ神格におけるどの位格も他の位格から分離、独立して存在し、働くことはない(ヨハネ5:17-30,32,37、ヨハネ8:17,18)。

 (5)主イエス・キリストという称号
 「主イエス・キリスト」という名称は固有の名称である。その名称は新約聖書中では父にも聖霊にも決して用いられていない。したがって、神の子にのみ限定して用いられるものである(ローマ1:1-3,7、IIヨハネ3)。

 (6)神われらと共にいます、主イエス・キリスト
 主イエス・キリストは、その神性と永遠性においては、まさしく父なる神のひとり子である。しかし、人性においては、まさしく人の子である。したがって、彼は神であり、人であると認められる。彼は神であり人であるゆえに、神われらと共にいます、「インマヌエル」なのである(マタイ1:23、Iヨハネ 4:2,10,14、黙示録1:13,17)。

 (7)「神の御子」という称号
 「インマヌエル」という名称は、わたしたちの主イエス・キリストなる一つの人格の中に、神と人を包含するものであるから「神の御子」という称号は、彼固有の神性を示すものであり、「人の子」という称号は、彼固有の人性を示すものであるといえる。それゆえに神の御子という称号は、永遠の秩序に属し、人の子という称号は、時間の秩序に属するのである(マタイ1:21-23、IIヨハネ3、Iヨハネ3:8、ヘブル1:1-13、7:3)。

 (8)キリスト論への背反
 それゆえ、イエス・キリストが「神の御子」という称号を得られたのは、単に受肉の事実によるとか、あるいは贖いの計画にかかわったからであるとするのは、キリスト論への背反である。したがって、父がまことの永遠の父であること、子がまことの永遠の子であることを否定することは、神格における区別と関係の否定である。すなわち、それは父と子を否定するものであり、イエス・キリストが肉をもって来られたという真理の否定なのである(IIヨハネ9、ヨハネ 1:1,2,14,18,29,49、Iヨハネ2:22,23、4:1-5、ヘブル12:2)。

 (9)イエス・キリストの主としての高挙
 神の御子、わたしたちの主イエス・キリストは、罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた。天使たちともろもろの支配と権威は彼に従っている。そして主またキリストとして立てられた彼は聖霊を送られた。それはわたしたちが終末の日まで、イエスの名によって、ひざをかがめて、イエス・キリストは主であると告白して、栄光を父なる神に帰するためである。その終末の日には子が父に従い、神がすべてにおいてすべてとなられるのである(ヘブル1:3、Iペテロ3:22、使徒2:32-36、ローマ14:11、Iコリント15:24-28)。

 (10)父と子への同等の栄誉
 それゆえ、父は子にすべてのさばきをゆだねられておられるので、天上のもの、地上のものすべてにとって、ひざをかがめることは明白な務めであるばかりでなく、神につくすべての属性を御子に帰し、神のすべての名前と称号《関係を示すものを除く。(2)(3)(4)参照》に含まれるすべてのほまれと栄光をささげることは、御霊による、言葉につくせない喜びである。かくしてわたしたちは父を尊ぶのと全く等しく御子を尊ぶのである(ヨハネ5:22,23、Iペテロ1:8、黙示録5:6-14、ピリピ2:8,9、黙示録7:9,10、4:8-11)。

3.主イエス・キリストの神性

 主イエス・キリストは永遠の神の御子である。聖書は次のことを宣言している。

 (1)イエスの処女降誕(マタイ1:23、ルカ1:31,35)。

 (2)イエスの罪なき生涯(へブル7:26、Iペテロ2:22)。

 (3)イエスの奇跡(使徒2:22、10:38)。

 (4)イエスの十字架における身代わりの働き(Iコリント15:3、IIコリント5:21)。

 (5)イエスの肉体をもっての死者からの復活(マタイ28:6、ルカ24:39、Iコリント15:4)。

 (6)イエスの神の右の座への高挙(使徒1:9,11、2:33、ピリピ2:9-11、ヘブル1:3)。

4.人間の堕落

 人間は善にして、正しく創造された。神は、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」と言われた。しかし、人間は自ら罪を犯し、堕落した。それによって肉体の死ばかりか、霊的な死をも招いた。これは神からの分離である(創世記1:26,27、2:17、3:6、ローマ5:12-19)。

5.人間の救い

 人間のあがないの唯一の希望は、神の御子、イエス・キリストの流された血によるものである。

 (1)救いの条件  救いは神に対する悔い改めと、主イエス・キリストに対する信仰によって受けられる。人は恵みにより信仰によって義とされ、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となる(ルカ24:47、ヨハネ3:3、ローマ10:13-15、エペソ2:8、テトス 2:11、3:5-7)。

 (2)救いの証明  救いの内的証明は、御霊の直接的あかしである(ローマ8:16)。すべての人に対する外的証明は、義とまことの聖をそなえた生活である(エペソ4:24、テトス2:12)。

6.教会の礼典

 (1)水のバプテスマ  浸礼によるバプテスマは、聖書において命じられている。悔い改めて、キリストを救い主また主と信ずる者はみな、バプテスマを受けるべきである。こうして、バプテスマを受けた者は、キリストと共に死に、またキリストと共によみがえらされて、新しいいのちに生きることを世に向かって宣言するのである(マタイ28:19、マルコ16:16、使徒10:47,48、ローマ6:4)。

 (2)聖餐  パンとぶどうの実を要素とする主の聖餐は、わたしたちが主イエス・キリストにある神の性質にあずかることを示す象徴であり(IIペテロ1:4)、彼の苦難と死の記念、再臨の預言(Iコリント11:26)であり、すべての信者に「主がこられる時に至るまで」行なうように命じられているものである。

7.聖霊のバプテスマ

 信者はみな、主イエス・キリストの命令にもとづいて父の約束である聖霊と火のバプテスマを受ける資格があり、熱心に期待し、真剣に求めるべきである。これは初代キリスト教会においては全員の通常的経験であった。それに伴って生活と奉仕に対する力と、賜物及び伝道奉仕の働きにおける賜物の活用が与えられる(ルカ24:49、使徒1:4,8、Iコリント12:1-31)。この経験は、新生経験とは別個のものであり、その後に来るものである(使徒 8:12-17、10:44-46、11:14-16、15:7-9)。聖霊のバプテスマと共に、御霊のあふれ出るような充満(ヨハネ7:37-39、使徒4:8)、神に対する敬虔の深まり(使徒2:43、ヘブル12:28)、神への献身とその働きに対する献身の強化(使徒2:42)、キリストとそのみことば、及び失われた者に対するより実際的な愛(マルコ16:20)、などを経験することができる。

8.聖霊のバプテスマの証拠

 信者が受ける聖霊のバプテスマは、神の御霊が語らせるままに異言を語るという、肉体的な最初のしるしによって証明される(使徒2:4)。この場合において異言を語ることは、異言の賜物(Iコリント12:4-10,28)と本質的に同じであるが、その目的と用法において異なっている。

9.聖化

 聖化とは邪悪なものから離れ、神に献身する行為である(ローマ12:1,2、Iテサロニケ5:23、へブル13:12)。聖書は「きよくならなければだれも主を見ることはできない」(ヘブル12:14)といってきよい生活を教えている。わたしたちは聖霊の力によって「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(Iペテロ1:15,16)というご命令に従うことができる。
 聖化はキリストの死と復活において彼と一つであることを認めることにより、その一体性の事実を日々信仰によって確認することにより、また全機能をたえず聖霊の支配にゆだねることによって、信者の中に実現する(ローマ6:1-11,13、8:1,2,13、ガラテヤ2:20、ピリピ2:12,13、Iペテロ1:5)。

10.教会とその使命

 教会はキリストのからだであって、霊なる神のすまいであり、その大使命を果たすように神の任命を受けているものである。御霊によって生まれた個々の信者は、天に登録されている長子たちの教会の欠くことのできない部分である(エペソ1:22,23、2:22、ヘブル12:23)。
 人間に関わる神の目的は、失われた者を尋ね出して救うこと、人間によって礼拝されること、御子のかたちにかたどって信者のからだを建てあげることにあるので、教会の一部としての、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の主たる存在理由は、次のことにある。

 (1)世界宣教のための神の実行機関となること(使徒1:8、マタイ28:19,20、マルコ16:15,16)

 (2)人間が神を礼拝することのできる共同体となること(Iコリント12:13)。

 (3)御子のかたちに全うされた聖徒たちのからだを建てあげるという神の目的を達成する管となること(エペソ4:11-16、Iコリント12:28、14:12)

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、信者たちに聖霊のバプテスマを受けるように教え励ますことにより、新約聖書の使徒的原型の中にあるこの存在理由を絶えず強調するために、特に存在する。この経験は、

 (1)超自然的なしるしを伴う御霊の力によって伝道することを可能にする(マルコ16:15-20、使徒4:29-31、ヘブル2:3,4)。

 (2)神との礼拝における関係に必要な局面を加える(Iコリント2:10-16、12章、13章、14章)。

 (3)キリストのからだを建てあげるために、新約時代のように、御霊の実と賜物と働きに現わされる、聖霊の充全な働きかけに応答することを可能にする(ガラテヤ5:22-26、Iコリント14:12、エペソ4:11,12、Iコリント12:28、コロサイ1:29)。

11.奉仕の務め

 神によって召され、聖書に基づいて任命された奉仕の務めが、教会を指導する次の三つの目的のために主によって備えられている。

 (1)世界宣教(マルコ16:15-20、マタイ28:19,20)。

 (2)神への礼拝(ヨハネ4:23,24)。

 (3)御子のかたちに全うされた聖徒たちのからだを建てあげること(エペソ4:11-16)。

12.神癒

 神癒は福音の欠くことのできない部分である。病いからの解放は、あがないの中に備えられているものであり、すべての信者のもつ特権である(イザヤ53:4,5、マタイ8:16,17、ヤコブ5:14-16)。

13.祝福に満ちた望み

 キリストにあって眠った者たちの復活と、彼らが主の来臨まで生き残っている者たちとともに天に移されることは、教会の、さし迫った、そして祝福に満ちた望みである(Iテサロニケ4:16,17、ローマ8:23、テトス2:13、Iコリント15:51,52)。

14.キリストの千年期統治

 キリストの再臨には、わたしたちの祝福に満ちた望みである聖徒たちの携挙が含まれており、その後キリストは、千年の間地上で治めるために、聖徒たちと共に目に見えるかたちで帰ってこられる(ゼカリヤ14:5、マタイ24:27,30、黙示録1:7、19:11-14、20:1-6)。この千年統治は民族としてのイスラエルの救いと(エゼキエル37:21,22、ゼパニヤ3:19,20、ローマ11:26,27)、世界平和の確立(イザヤ11:6-9、詩篇72:3-8、ミカ4:3,4)をもたらす。

15.最後の審判

 死んだ悪人がよみがえらされ、そのしわざに応じてさばかれるところの最後のさばきがある。いのちの書に名がしるされていない者はみな、悪魔とその使いたち、獣とにせ預言者と共に、火と硫黄の燃える池の永遠の刑罰に入れられる。これが第二の死である(マタイ25:46、マルコ9:43-48、黙示録 19:20、20:11-15、21:8)。

16.新天新地

 「わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」(IIペテロ3:13、黙示録21章、22章)。

志村キリスト教会規則

宗教法人「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団志村キリスト教会」規則

1974年(昭和49年)12月24日 東京都知事認証施行
2010年(平成22年) 5月31日 変更規則認証施行

第1章 総則

(名称)
第一条 この教会は、宗教法人法による宗教法人であって「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッ ド教団志村キリスト教会」という。

(事務所の所在地)
第二条 この宗教法人(以下「法人」という)は、事務所を東京都板橋区舟渡2丁目7番地10号に置き、これを「牧師館」という。

(包括団体)
第三条 この法人の包括団体は、宗教法人「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」(以下「教団」という)とする。

(目的)
第四条 この法人は、神から万人に黙示せられた聖書に基き、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教義に従って福音を宣布し、主によって命ぜられたる礼典を行い、信者を教化育成し、その他この教会の目的達成のための事務を行うことを目的とする。

(公告の方法)
第五条 この法人の公告は、教会の掲示場に14日間掲示して行う。

第2章 役員その他の機関

第1節 代表役員及び責任役員

(員数)
第六条 この法人には3人の責任役員を置き、そのうち1人を代表役員とする。

(呼称)
第七条 代表役員を「主管者」といい、責任役員を「教会役員」という。

(資格及び選任)
第八条 主管者は、この教会の主任牧師の職にあり、教団の総理の認証を受けたものとする。
2.主管者以外の教会役員は、信徒のうちから教会会議において選出したものを主管者が任命するものとする。

(任期)
第九条 主管者の任期は、この教会の主任牧師の任期による。
2.主管者以外の教会役員の任期は1年とする。但し再任を妨げない。
3.補欠教会役員の任期は前任者の残任期間とする。
4.主管者及び教会役員は、辞任又は任期満了後でも、後任者が就任する時までなおその職務を行うものとする。

(代表役員の職務権限)
第十条 主管者は、この法人を代表し、その事務を総理する。

(責任役員の職務の権限)
第十一条 この法人の事務は、教会役員の定数の過半数で決し、その議決権は、各々平等とする。

第2節 代務者

(置くべき場合)
第十二条 次の各号の一に該当するときは代務者を置かなければならない。
1.主管者、又はその他の教会役員が死亡、辞任、任期満了その他の事由によって欠けた場合において、速やかにその後任者を選ぶことができないとき。
2.主管者、又はその他の教会役員が病気、旅行、その他の事由によって3ヶ月以上その職務を行うことができないとき。

(資格及び選任)
第十三条 主管者の代務者は、前条第1号に該当するときは、教職のうちから教団の理事の議において選定し、同条第2号に該当するときは、主管者が任命し、教団の総理が認証する。
2.主管者以外の教会役員の代務者は、信徒のうちから、主管者又はその代務者が任命し、教団の総理が認証する。

(職務権限)
第十四条 代務者は、主管者又は教会役員に代わってその職務の全部を行う。

(退職)
第十五条 代務者は、その置くべき事由がやんだときは、当然その職を退くものとする。

第3節 仮代表役員及び仮責任役員

第十六条 主管者は、この法人と利益が相反する事項については、代表権を有しない。この場合においては、教職のうちから教団の理事の議において仮主管者を選定しなければならない。
2.教会役員は、その教会役員と特別の利害関係がある事項については、議決権を有しない。この場合においては、信徒のうちから他の教会役員の互選によって、その議決権を有しない教会役員の員数だけ仮教会役員を選定しなければならない。

第4節 教会会議

(組織)
第十七条 この法人に教会会議をおき、主管者及びその他の教会役員及び5分の1以上の信徒をもって組織する。
2.信徒は洗礼を受け、この教会の信徒名簿に登録されている者とする。

(議長)
第十八条 教会会議の議長は、主管者の職にあるものをもって充てる。

(召集)
第十九条 教会会議は、主管者が毎年1回召集するものとする。
2.教会役員の議において必要と認めるときは、主管者は臨時に教会会議を召集するものとする。

(議決の定足数)
第二十条 教会会議の議決は、別に定める事項の外は、出席した議員の半数以上の同意を要する。

(議事)
第二十一条 教会会議は次に掲げる事項を議決する。
1.予算及び決算に関する事項
2.財産の管理に関する事項
3.規則の変更に関する事項
4.その他、主管者が重要と認める事項及びこの規則に定められた事項

第3章 財務

(資産の区分)
第二十二条 この法人の資産は、基本財産及び普通財産とする。
2.基本財産は次の財産について設定する。
一.土地、建物、その他の不動産
二.永遠保存の目的で積立てた財産
三.基本財産として指定された寄付金
3.普通財産は基本財産以外の財産、財産から生ずる果実及び一般の収入とする。

(基本財産の設定及び変更)
第二十三条 基本財産の設定または変更しようとするときは、この法人の教会会議の同意を経なければならない。

(基本財産の管理)
第二十四条 基本財産たる現金は、他の現金と区別して、確実な銀行に預け、その他適当に管理しなければならない。

(財産の処分等)
第二十五条 次に掲げる行為をしようとするときは、教会会議の同意を経て、教団の総理の承認を受けたのち、その行為の少なくとも1ヶ月前に信者、その他利害関係人に対し、その行為の要旨を示してその旨を公告しなければならない。但し、第3号から第5号までに掲げる行為が公告すべき余裕のないものであり、又は第5号に掲げる行為が1日以内の期間に係わるものである場合は、この限りでない。
一.不動産または財産目録に掲げる重要な財産を処分し、又は担保に供すること。
二.借入(当該年度内の収入で償還する一時の借入を除く)又は保証すること。
三.主要な境内建物の新築、改築、増築、移築、除却又は著しい模様替えをすること。
四.境内地の著しい模様替えをすること。
五.主要な境内建物の用途もしくは境内地の用途を変更し、又はこれらを教会の主たる目的以外の目的のために供すること。

(財産目録)
第二十六条 財産目録は、毎会計年度終了後、3ヶ月以内に前年度末現在によって作成し、教会会議の承認を経なければならない。

(経費の支弁)
第二十七条 この法人の経費は、普通財産を以って支弁する。

(予算の編成)
第二十八条 予算は、毎会計年度開始15日前までに編成し、教会会議の議決を経なければならない。
2.年度開始前に予算を教会会議で決定することができないときは、1ケ月を限り、経常の予算を作成することができる。

(予算の区分)
第二十九条 予算は、経常及び臨時の二部に分け、各々これを款項目に区分して、歳入の性質及び歳出の目的を明示しなければならない。

(予備費の設定及び使用)
第三十条 予算超過又は予算外の支出に充てるため、予算中に予備費を設けることができる。

(予算の追加及び更生)
第三十一条 予算編成後に、やむを得ない事由が生じたときは、教会役員の議において既定予算の追加または更生をすることができる。

(特別会計の設定)
第三十二条 特別の必要があるときは、特別会計を設けることができる。

(決算の作成)
第三十三条 決算は、毎会計年度終了後1ケ月以内に作成し、翌年度の教会会議の承認を受けなければならない。

(歳計剰余金及び予算外収入の処置)
第三十四条 歳計に剰余を生じたとき、又は予算外に収入があったときは、これを翌年度の歳入に繰り入れることができる。

(会計年度)
第三十五条 この法人の会計年度は、毎年1月1日に始まり、その年の12月31日に終わるものとする。

第4章 補則

第三十六条 この規則を変更しようとするときは、教会会議において出席した議員の3分の2以上の同意を経て、教団の総理の承認を経、知事の認証を受けなければならない。この法人が合併しようとするときも又同様とする。

第三十七条 教団の規則中、この法人に関係がある事項に関する規定は、この法人についてもその効力を有する。

附則
1.この規則は設立登記の完了した日から施行する。
2.この規則施行当初の責任役員は、次の通りとする。

代表役員 牧師 長屋 勇
責任役員    伊東 祐信
責任役員    荒井 康泰
責任役員    山田 いね

附則
1.この規則変更は東京都知事の認証書の交付を受けた日(平成22年5月31日)から施行する。

2019/06/09

神と親しく交わる神学 第三回 神の三つの位格


 聖書は明確に神の三つの神の位格、すなわち「父、子、聖霊」を示しています。そして、神の三つの位格がそれぞれ無秩序、無関係に働いているのではなく、互いに調和をもって世界に働きかけているのを知ることができます(ヘブル1:1-2)。
 位格(ペルソナ)という言葉は、元々はラテン語で「仮面」を意味する神学用語です。古代において仮面は演劇で用いられて、仮面を交換することで同じ役者が複数の役を演じました。教会は三位一体を、唯一の神が父、子、聖霊の三つの仮面を持っている状態と考えたのでした。
 近代において人間の内面(心)が注目されるようになり、個人がそれぞれ感じ、考えることを重視する「実存」が強調されるようになりました。それに対し、神は人間のように実存するのではなく、他の何物にも依存することなく絶対的に「存在」するものとしなければなりません。そのような意味で、神はご自身を「わたしはある」(出エジプト3:14)と名乗られました。
 教会は神の位格に関しても様々な誤解をしました。例えば、「神の三位一体とは、水が水蒸気や氷に変化するようなものだ」とする「様態論」のような誤解です。しかし、神は物質のように変化するものと考えてはなりません。教会はキリストについて「造られずに生まれ、父と同質」であると宣言しました(381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条)。
 聖書において「神は唯一」(第一テモテ2:5)であること、なおかつ父、子、聖霊が明確に区別されています(第二コリント13:13)。私たちは聖書の証言に信仰の基礎を置き、この聖書の証言に反対するすべての言説から自らを守るようにしましょう。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年

2019/05/27

神と親しく交わる神学 第二回 ただひとりの神


 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と言明し、最初から一貫して「唯一なる神」(申命記6:4)を主張しています。複数形の「エロヒム(神)」は常に単数形の動詞を取ります。
 十戒の第一戒に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)と命じられています。この命令の意味は、異教の「ほかの神々」を退けてわたし(聖書の神)を拝め、という意味ではありません。信仰の選択肢として「ほかの神々」があってはならず、ただ聖書の神のみを神と認めて拝め、という意味です。そのような意味でキリスト教は単なる「一神教」ではなく、「唯一神教」です。
 新約聖書において、多神教のギリシャ文化を見てパウロは「知られない神」(使徒17:23)について語りました。人々が様々な利益や自然の猛威に神を見出しつつ、それでもなお知られざる神の存在を恐れているのに対し、パウロはその真に恐るべき神はおひとりであることを語ったのです。
 キリスト教の歴史が積み重なるにつれ、教会に三位一体に関する誤解が生まれました。それは、「神は唯一であるので、キリストは神ではない」と主張する「単性論」です。しかし、聖書はキリストが「真に神であり真に人」(451年のカルケドン信条)であることを証言しています。
 私たちには唯一の神から、唯一の信仰、唯一の救いを与えられています(エペソ4:4-6)。与えられた確かな御言葉に信頼し、確かな信仰の歩みを続けてまいりましょう。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年

2019/05/20

神と親しく交わる神学 第一回 聖書に基づく三位一体


 「三位一体」は神学上の最難問であると同時に、神と親しく交わるための秘訣でもあります。三位一体を言葉で表現するなら、キリスト教の神は「三つにいましてひとりなる」(新聖歌137番より)神であられるということ、あるいは「神は三つの位格を持たれ、なおかつ一つの本質を持たれる」と言うことができます。
 三位一体という言葉は聖書に書かれていませんが、三位一体の考え方は聖書に含まれており、その基礎を聖書に求めることができます(基本的真理に関する宣言 第二項)。
 旧約聖書において「エロヒム」(創世記1:26)というヘブル語は「神」と翻訳されますが、文法的には複数形の言葉です。これは他の言語でも見られる「尊厳の複数」であり、神や王等の権威を表現して単数の主語として用いられます。しかし、単なる文法を超えて聖書の神の三位一体を暗示している言葉です。
 神による天地創造の業に神の霊(聖霊)が関与しています(創世記1:2)。旧約聖書で神を示す「主」を意味するヘブル語は「ヤハウェ」と「アドナイ」がありますが、詩篇110:1では「主(ヤハウェ)は、私の主(アドナイ)に仰せられる」と記されています。三位一体は各位格の関係性(交わり)の中に見出されます。
 新約聖書では、第一コリント8:6において神の唯一性を言明して「父なる唯一の神」と言い、すぐ後に「唯一の主なるイエス・キリスト」と言ってキリストにも神的な唯一性を帰しています。ヨハネ1:1では、キリストを「ことば」と表現して、「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と言っています。
 以上の通り、教会は三位一体を解明するための神学的努力を続けてきましたが、それにもかかわらず、私たちは三位一体は「神秘」(士師記13:18)に属することであると認めなければなりません。神秘は神の計りがたい知恵であり、神はご自身の知恵をもって私たちを豊かにあしらってくださいます。

参考図書:スプロール「三位一体とは何か」いのちのことば社、2018年