マタイ6章11節をお読みします。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
昔から祈り継がれている文語体の「主の祈り」では、このように祈ります。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」この「日用」という言葉は、「日用品」の日用です。
主の祈りは「(神の)御名をあがめさせたまえ」と祈ることで、聖書の神が当然あがめられるべきであることを教えています。同じように、私たち人間は日ごとの食物がなければ生きていけないのは当然のことです。主の祈りは、身に余る贅沢ではなく、「なくてならぬ食物」(箴言30章8節)を祈り求めることが当然のことであり、そのように祈るように命じています。
また、この祈りは「きょう」一日だけに限定した祈りではありません。私たちは今日一日の糧を食べて、明日まで生きていきます。また明日も生きるために、今日一日を懸命に働きます。主の祈りは、明日に向かって生きていくための祈りです。
それで、イエス・キリストはこのように教えられました。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章34節)私たちは日ごとに主の祈りをささげつつ、明日を思い煩うことなく、今日を一生懸命に生きていきたいと思います。聖書の神は確かに私たちを養ってくださいます。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは主の祈りをささげることを通して、神が私たちを顧みておられることを知ることができました。ですから、私たちは勇気をもって今日一日の生活の祝福を祈り求めます。明日へとつながる私たちの歩みを支えてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)