2019/11/24

2019年11月24日3分メッセージ


愛を補うもの  中央聖書神学校1年生 平松公平

 私が彼女と付き合い始め、数か月たった時の事でした。楽しかったはずの会話の中に、しばしば、ある言葉が出るようになりました。それは、
 「どうしてわからないのだろう?」
 「どうしてわかってくれないの?」
というシンプルな言葉でした。今となっては、何を揉めていたのかも思い出せないような些細な出来事だったと思います。しかし、やがて、その言葉は、二人の関係に、理解し合えないという、大きな言葉となり、深い溝となっていきました。
 幼い頃より教会に行っていた私は、「愛」とは何かを牧師から、そして、聖書から教えられていました。当然、分かり合えるための、「相手を許す事の大切さ」も知っていました。しかし、現実に彼女と向き合う中において、その愛が必要となった時、自分の中に愛が足りない事に気づいたのです。一生懸命、相手を愛そう、許そうと思っても、目につくのは相手への至らなさ、湧き上がってくるのは、相手への怒りでした。
 「あれ?私はこんなにも酷い人間だったのだろうか?何もできない人間だったのだろうか?」
 できると思っていた私にとって、また、できていたと思っていた私にとって、突きつけられた弱い私の姿でした。そして、自分の弱さに限界がきた時、私は、この足りなさだらけの自分の姿を神に見せ、祈りました。
 「神様、何とかしてください」
 本当につぶやくような祈りでした。しかし、その祈りに神はこたえてくださいました。神からの言葉は、
 「そんな弱いあなたを私は心から愛している」
 神が自分を受け入れて下さる。なんとも言えない安心感が私の内に沸き上がり、今まで何度となく聞いてきた、神の愛を肌身に感じた瞬間でした。
 私の愛の足りなさは変わりません。しかし、弱い私を全て受け止めてくださる方の存在が分かった時、彼女への思いも少しずつ変わっていきました。許せない思いが、少しずつ、緩んでいき、愛せるものへと変えられていったのです。そして、そんな彼女と結婚に至った今も、私の愛の足りなさを感じる事は度々ありますが、それを神により補われ、私の愛は今も変えられつつあります。この神の愛の中を歩む平安をこれからも感じるものでありたいと思います。

2019/11/17

2019年11月24日の聖書日課

(写真:ツワブキ)

黙示録1:4-8
 1:4 ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、
 1:5 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
 1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。
 1:7 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
 1:8 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月17日3分メッセージ


 出エジプト2章10節をお読みします。
その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。
 神から十戒を授けられたモーセは、エジプトで奴隷とされていたヘブルびと、すなわちイスラエル人の子として生まれました。
 当時、エジプトの王であるパロはイスラエル人を弱体化させるため、新しく生まれた男の赤ちゃんを殺すよう命じていました。両親はモーセを殺すことをためらい、生きたままカゴに入れてエジプトの大河ナイルに置き去りにしました。モーセの姉は一部始終を知るため、遠くからモーセの様子をうかがっていました。
 そこに、パロの娘がやってきて、カゴを拾って中にいたモーセを発見しました。彼女はこの子が捨てられたイスラエル人の子であることを察し、あわれに思いました。それを見たモーセの姉は機転をきかせて、モーセの母親を乳母として紹介し、モーセはエジプトの王族の子として育つことになりました。
 モーセという名は「引き出す」という意味があります。その名の通り、モーセは周りの人々の心からあわれみを引き出して生き延びることができ、成長した後、彼はイスラエル人をエジプトの苦しみの中から引き出す、イスラエルの救い主となりました。
 聖書の神は人間を用いて救いの業を成し遂げられます。詩篇でもこのように歌われています。「あなたはわたしを多くの重い悩みにあわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。」(詩篇71篇20節)
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。あなたはか弱き私たち人間のすべてを知っておられ、その心の思うところを察してくださるお方です。私たちは心を込めて切に祈ります。折にかなった助けを私たちに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/11/10

2019年11月17日の聖書日課

(写真:フジバカマ)

出エジプト2:1-10
 2:1 さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。
 2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。
 2:3 しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。
 2:4 その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。
 2:5 ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、
 2:6 あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。
 2:7 そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。
 2:8 パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。
 2:9 パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。
 2:10 その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月10日3分メッセージ


願い以上のことをなさる神  志村キリスト教会 生田新一

 入信前の私は、先に入信していた妻に付き合う形で毎週礼拝に出席していました。ある聖日に、牧師から受洗を促され、それを受け入れ受洗しました。今年で四十年になりますが、信仰はまだまだ拙いものです。
 仕事でも、問題が起これば祈ってきましたが、主の御声を聴く前に自分の判断で行動する事が多くありました。土曜日、日曜日勤務の職場が続き、礼拝に出席できる職場への異動を祈ると同時に、上司に申し出ました。しかし、結果は毎週土曜、日曜日が勤務(四週に一回休めるが)の職場への異動となってしまいました。定年を五年後に控え、この職場に定年まで居る事になるのか、などと考えたりもしました。
 そんな折、住んでいる地区で区画整理事業が進められており、換地先に家を建て替えることになりました。設計業者と建設業者との打ち合わせは、毎週月曜日に休暇を取る必要も無く行う事ができました。そして翌年の九月に新しい家は完成し、牧師先生に祝福の祈りをして戴き、引っ越しました。
 新居に移った翌年の四月に、その職場で二年の勤務を終えた段階で、出先機関への異動となりました。そこでは毎週土曜、日曜日が完全に休みで、礼拝に欠かさず出席できるようになり、定年までの三年間この職場で勤めました。
 私は礼拝に出席することしか考えていませんでしたが、イエス様は、家の建築の打ち合わせの時、休暇を取らずに充分できるようにされていたことが、後になって分かり主に感謝しました。主は、私が祈り、願っている事以上の事を為して下さる方です。
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる…(マタイ福音書六章八節)

(聖書 新改訳 (C)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/11/04

2019年11月10日の聖書日課

(写真:ホトトギス)

ヨハネ8:51-59
 8:51 よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。
 8:52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
 8:53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。
 8:54 イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
 8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
 8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
 8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
 8:59 そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月3日3分メッセージ


 ローマ7章11節をお読みします。
罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した…

 聖書およびキリスト教が教える中でも特に重要な事柄の一つに「罪」があります。聖書が教える罪は、普通の罪と幾つかの共通点があります。
 第一に、罪とは法律や戒めなどに背くことです。
 第二に、罪には法律などで定められた刑罰が加えられることです。仮に法律に罪や刑罰の定めがなければ、誰も罪と定められず、罰が加えられることはありません。
 だからと言って、法律がなければ罰せられることもなくて良い、ということにはなりません。法律は私たちがより良い、安全な生活を過ごすために必要なものです。
 また私たちは法律によって強制されなくても、自らの良心により行動を戒めています。言わば良心は心の法律です。
 聖書はこれらの法律や良心に逆らう罪の恐ろしさを教えています。それは、罪は人を支配し、法律や良心に逆らわせる力があるからです。聖書はその上、「罪の支払う報酬は死である」と言っています(ローマ6章23節)。
 それと同時に、聖書は罪からの救いを約束しています。イエス・キリストは「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」であると語られています(マタイ1章21節)。キリストを信じているクリスチャンは罪とは無縁ではありませんが、キリストが罪の力から救い出してくださると信じる人々です。

 罪からの救いを求めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは罪の支配下にある、か弱き罪人です。聖書を読み、言い逃れのできない罪の現実を知りましたが、同じく聖書にはっきりと約束されている罪からの救いを求めます。私たちを罪の力から解放してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1954年版)

2019/11/01

2019年11月3日の聖書日課

(写真:チャノキ)

ローマ7:7-13
 7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
 7:8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
 7:9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
 7:10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
 7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
 7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
 7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)