2023/08/07

主の祈り(1)天のわれらの父よ

天にいますわれらの父よ、(マタイ6章9節)

 イエス・キリストは弟子たちに対し、度々「主の祈り」を教えられました(マタイ6章9~13節、ルカ11章1~4節)。この祈りの言葉は、今日に至るまで世界中のクリスチャンが祈り続け、また教会でも祈り継がれてきたものです。主の祈りは、それぞれの時代の言葉に翻訳されて祈られてきました。日本語でもいくつかの翻訳の形がありますが、私たちはそれらの様々な祈りの形に共通している、主の祈りの心を学びたいと思います。
 キリスト教は、中東の聖書の民であるイスラエル人から生まれました。イスラエル人は聖書の言葉を通して彼らの信仰の営みについて、祈りについて学び、実践していました。キリストが教えられた祈りは、イスラエル人にとっても驚くべき新しいものでした。しかし、実はキリストは彼らの知っていたはずの古い聖書の教えを、新しく教えられたのでした。
 祈りを捧げる相手である聖書の神は、古くから教えられている通り「天と地とを創造された」(創世記1章1節)神です。祈り手である私たち人間は地に住むものであり、神は人の及びもつかない天に住まわれます。天は、私たちが宇宙に飛び出しても、どんなに遠くを観測しようとしても、決して探り出すことのできない世界です。しかし、天地の創造者である神は、天だけではなく私たちの世界である地にも及ぶことのできる方です(申命記30章12節)。
 しかし、キリストは私たちに「天にいます」方に向けて祈れと教えられました。しかも、「父よ」と呼びかけよ、とも教えられました。聖書の民であるイスラエル人にとって、天にいます神を「父」と呼ぶ祈りは考えられないことでした。そのことを、キリストははっきりと言葉で教えられただけでなく、自らの祈りの姿で弟子たちに示されました(マルコ14章36節)。
 キリストは祈りの言葉を授けるだけではなく、天地創造の偉大な神を父と呼んで、親しく祈りを捧げることのできる関係に招いてくださいました。私たちはキリストに御名により、「神の子」として祈ることが許されています(ヨハネ1章12節)。父なる神に感謝しつつ、気兼ねなく私たちの言葉で祈りを捧げましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)