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2025/04/03

聖書の教理~(29)教会の性質

 教会は、a)キリストのからだ(コロサイ2:19)、b)神の宮(ペテロ第一2:4-6)、c)キリストの花嫁(コリント第二11:2)にたとえられています。それぞれ、キリストはかしら、礎石、花婿(夫)として教会に属しています。

 新約の「教会」(マタイ16:18)は、旧約の「会衆」(出エジプト12:3)がひな型となっています。荒野に「幕屋」が神の宮として建てられた(出エジプト40章)のに対し、ペンテコステの日に教会に聖霊が注がれ(使徒2:4)、「聖霊の宮」(コリント第一6:19)が誕生しました。ダビデが神のすまいを建てたいと願った(サムエル下7章)のを受けてソロモンが「神殿」を建てましたが(列王紀上5~8章)、新約は教会こそ「神のすまい」であると言います(エペソ2:20-22)。

 キリストは昇天する前に弟子たちにこう命じました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマ(洗礼)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイ28:19-20)私たち教会は今日も主の命に従い、キリストを信ずべきことを教え、洗礼を授け、教会の交わりを保っています(使徒2:38-47)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/27

聖書の教理~(28)聖霊の賜物

 聖霊の賜物とは、教会の益となる働きをするため聖霊によって与えられる力です(コリント第一12:4-7)。コリント第一12:8-10には以下の具体例が挙げられています。一緒に参考聖句も示します。

 a)知恵の言葉(ローマ11:33)、b)知識の言(ペテロ第一3:19)、c)信仰(マタイ17:20)、d)いやしの賜物(ヤコブ5:15)、e)力あるわざ(奇蹟を行う力、ヨハネ14:12)、f)預言(コリント第一14:3)、g)霊を見分ける力(使徒5:3)、h)種々の異言(コリント第一14:5)、i)異言を解く力(コリント第一14:5)。

 聖霊の賜物の取り扱いについて、コリント第一14章で三つのことが教えられています。a)吟味されるべきである(コリント第一14:29)。b)制御されるべきである(コリント第一14:32)。c)熱心に求めるべきである(コリント第一14:39)。

 「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」(ペテロ第一4:10)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/20

聖書の教理~(27)聖霊の体験

 聖霊(神の御霊)は、キリストが約束された通りクリスチャンにくだり、様々な体験を与えます(使徒1:4-8)。

 a)罪を認めさせる。「(聖霊は)罪と義とさばきについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネ16:8)

 b)新しく生まれる。「霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならない…」(ヨハネ3:6-7)

 c)内に住まわれる。「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮」(第一コリント6:19)

 d)聖なる者とされる。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)

 e)力を受ける。「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。」(使徒4:31)

 f)永遠に体験し続ける。「わたし(キリスト)が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)

 御言葉に証しされている聖霊の体験を日々、豊かに受けましょう。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」(ガラテヤ5:25)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/03/13

聖書の教理~(26)新約の聖霊

 新約聖書において聖霊の現われは、イエス・キリストの全生涯を通して示されています。

 a)聖霊による誕生。「その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。…その名をイエスと名づけなさい。」(マタイ1:20-21)

 b)聖霊によるバプテスマ。「イエスはバプテスマを受けると…神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。」(マタイ3:16)

 c)聖霊による奉仕。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために…」(ルカ4:18)

 d)聖霊による受難。「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」(マタイ4:1)

 e)聖霊による復活。「イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊」(ローマ8:11)

 f)聖霊による昇天。「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」(使徒2:33)

 今日、キリストを信じる者に、キリストによって聖霊が授けられることが約束されています。「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/06

聖書の教理~(25)旧約の聖霊

 聖霊について、旧約聖書でも多く言及されていてその性質が示されています。

 a)創造の霊。前回学んだように、聖霊は創造の働きに関与しています(創世記1:2)。聖書において「霊」は「息」と表現されることがあります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)

 b)力の霊。神はモーセに与えた御霊を七十人の長老にも分け与え、民の重荷を担う力を与えました(民数記11:17)。人に神の力が臨むことを「主なる神の手がわたしの上に下った」(エゼキエル8:1)と表現しています。

 c)再生の霊。神はエゼキエルに「息よ、四方から吹いて来て…彼らを生かせ」と預言させ、死人がよみがえる幻を示されました(エゼキエル37:9-10)。この幻は捕囚の民が回復し、再生することを示すものでした。

 d)約束の霊。神は「わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ」(ヨエル2:28)と約束されました。新約聖書はこれを受けて、「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれた」(使徒2:33)と証ししています。

 聖霊の働きは旧約時代にも散発的に行われました。しかし、旧約時代すなわちキリスト以前は「御霊がまだ下っていなかった」(ヨハネ7:39)と言われ、「すべての者に注ぐ」という約束は後の時代に実現しています。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/27

聖書の教理~(24)聖霊の性質

 聖書の神の第三位格である「聖霊」について、聖書はその呼び名によって聖霊の性質を説明しています。

 a)神の霊。神による天地創造の業に、神の霊が関与していることが示されています(創世記1:1-2)。神の霊はキリストに下り(マタイ3:16)、キリストの弟子たちに下りました(使徒2:2-4)。

 b)キリストの霊。神の霊が「キリストの霊」(ローマ8:9)と言い換えられています。

 c)助け主。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…るであろう。」(ヨハネ14:16)

 d)聖霊(聖なる霊)。「ところが彼らはそむいてその聖なる霊を憂えさせたので、主はひるがえって彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」(イザヤ63:10)

 e)約束の霊。「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」(使徒2:33)

 f)真理の霊。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16:13)

 これらの聖霊の性質はクリスチャンを助ける力となります。「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」(エペソ1:13)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/20

聖書の教理~(23)救いの保証

 キリストは「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)と言われました。キリストから救いを受けたクリスチャンは、救いを失うことがあるでしょうか。既に受け取った救いをないがしろにしないように、キリストはこのような戒めを語られたのです。

 一方で聖書は、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)とも言っています。救いは神の業であり、神が間違いなく保証しておられますが、受け手である私たち人間には救いの事実を忘れてはならない責任があります。

 「クリスチャンの完全」という言葉があります。私たちが救いを忘れず確保するために、以下の事柄が求められます。a)罪を避けて神の御旨に従う(申命記18:13)。b)神の定めた目標に達する(マタイ5:48)。c)御霊により導かれる(ガラテヤ3:3)。d)時間をかけて結実する(ガラテヤ5:22-23)。

 神の完全な救いに与るためには、私たち自らの意思で神の御旨に従う必要があります。その時、私たちを神の御霊が助けてくださいます。「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」(ガラテヤ5:5)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/13

聖書の教理~(22)聖化

 「聖化」とは、人が「聖となる」(出エジプト40:9)ということです。聖書の言葉から学ぶと、聖化とは礼拝用具のように、神への奉仕のために取り分けられる(聖別)ことを意味します。

 聖化はいつ起こるのでしょうか。聖書は、神のわざによって瞬間的に聖化される(コリント第一1:2)ことと、人の努力によって時間をかけてゆっくり聖化される(ヘブル12:14)ことの両方を教えています。これは、人の聖化の過程には、神の働きと人の働きの両面があることを示しています。

 聖化は神によって始められます。その手段は、a)キリストの血(ヘブル13:12)、b)神の霊(コリント第一6:11)、c)神の真理の御言(ヨハネ17:17)によります。

 続いて、聖化は人の努力が求められます。その努力とは、a)聖なるものとされる信仰(ローマ6:11)、b)御霊の導きへの従順(ローマ8:13)です。キリストも語られました。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/06

聖書の教理~(21)新生

 「新生」について、聖書にその多様な意味が示されています。a)神から生れること(ヨハネ第一5:1)。b)洗われて新たにされること(テトス3:5)。c)新しき人を着ること(コロサイ3:10)。d)新しく造られること(コリント第二5:17)。e)新しいいのちに生きること(ローマ6:4)。

 キリストは「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と教えています。また聖書は、父なる神が「わたしたちを…真理の言葉によって…生み出して下さった」と言っています(ヤコブ1:18)。これらの聖書の言葉を神の約束として受け取ることが、新生された人生を歩むことに必要なことです。

 さらに、新生した人は次のような結果に至ることが約束されています。a)アブラハムに約束された神の特権の相続人となる(ガラテヤ3:29)。b)主なる神と一つの霊になる(コリント第一6:17)。c)神を愛し、罪を憎むようになり、罪を犯すことができなくなる(ヨハネ第一3:9)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/01/30

聖書の教理~(20)義認

 「義認」とは、「神が人を正しい(義)と認めること」を意味します。聖書のことばによって、義認の様々な側面を確認していきましょう。

 a)義認は、神を裁判官と見て、「神によって無罪判決が下されること」にたとえられます(ローマ8:33)。神による裁定に対しては上訴ということがなく、異議申し立ても許されないものです。

 b)義認が示す「正しさ」は、人の準拠すべき標準を示します。神によって立てられた標準に達する人はひとりもなく、すべての人が有罪とみなされています(ガラテヤ3:22)。しかし、神は信仰によって義とみなされる道を開いてくださいました(ガラテヤ3:24)。

 c)義認は、神の恵みによってのみ実現します。義とみなされるために人が代価を支払う必要がありません。キリストの血が代価として支払われたからです(ローマ3:24)。

 d)義認は、キリストの義を着せられることにたとえられます(第一コリント1:30)。神は罪人を覆うため着物を用意して着せられました(創世記3:21)。

 e)義認は、信仰によって私たちのものとすることができます。私たちは「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」(ピリピ3:9)のです。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/01/23

聖書の教理~(19)救いの性質

  聖書の約束する「救い」には三つの側面があります。a)義認:義と認められること(コリント第二5:21)。b)新生:新しく造られること(コリント第二5:17)。c)聖化:聖なるものとされて神に召されること(コリント第一1:2)。外見からは義認・新生・聖化の順番で、救いが人の外面から内面へ及ぶように見えますが、実際は救いの三面は同時に始まります。

 救われるための条件は人のうちにはなく、神からの賜物です(使徒11:18)。しかし、神の賜物が動因となって、人は二つの行動を示すことで救いに至ります。すなわち、悔い改め(マルコ1:15)と信仰(ローマ10:9-10)です。神から与えられたこれらの行動は知識に留まるものでなく、人の心を造り変え、明確な変化をもたらします。

 悔い改めは「回心」とも表します。その心の変化は一時的なものに留まらず、人生の方向を転回させるものです。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒3:19)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/01/16

聖書の教理~(18)新約の贖罪

  新約聖書も、旧約聖書が示した贖い(あがない)の教理を示しています。イザヤ書の「苦難のしもべ」(イザヤ42:1等)の生き方を、イエス・キリストはその生涯において実践しました(マタイ3:17等)。キリストは聖餐のパンと杯によって自らの苦難を示し、弟子たちに「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)と命じました。

 贖罪が必要である理由は、a)神の聖(完全)の実現のため(マタイ5:48)、b)人の罪の赦しのため(コロサイ2:13-14)、c)神の怒りを鎮めるため(ローマ2:5)です。

 贖罪がもたらす効力は、a)罪の赦し(エペソ1:7)、b)罪からの解放(ローマ6:14)、c)死からの解放(ヨハネ11:25-26)、d)永遠の命(ヨハネ3:15)、e)悪魔からの解放(ヘブル2:14-15)です。今日も贖罪の恵みは、キリストによって私たちに示されています(コロサイ1:14)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/01/09

聖書の教理~(17)旧約の贖罪

 贖い(あがない)とは、「ある物を代償として差し出して、他の物を手に入れること」を意味します。聖書においては「罪を償うこと」を意味し、贖罪(しょくざい)とも言われます。

 旧約聖書においては、イスラエル人が罪の贖いのために動物をいけにえ(犠牲)として殺し、祭壇でそのいけにえを燃やし、神にささげました。アブラハムは息子のイサクの身代わりとして雄羊を全焼のいけにえ(燔祭)としてささげました(創世記22:13)。

 また、アダムとエバが罪を犯したためエデンの園を追放された時、神は彼らに皮の着物を着せられました(創世記3:21)。つまり皮の着物を造るために動物が犠牲となって、人の裸が覆われたのでした。これらの出来事は、新約聖書のキリストの十字架による贖罪を予め示しています(使徒2:23、黙示録5:9)。

 旧約聖書で示された贖罪の出来事を通して私たちは、a)神が贖罪の手段を制定されたこと(レビ4:26)、b)犠牲は心を込めてささげられるべきこと(詩篇50:14)、c)動物犠牲は贖罪の手段としては不完全であり、キリストにより完全な贖罪が全うされる(ヘブル10:3-7)ことを知ることができます。 

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2024/07/25

聖書の教理~(16)キリストの働き

 イエス・キリストの福音の中心は、キリストが行われた働き(御業)です(コリント第一15:1-11)。キリストが数多くなされた働きのうち、三つのことを取り上げます。

 a)キリストの死:キリストは十字架にかかり死なれました。それはキリストを信じる者の罪をあがなうため(ヘブル9:15)、そして彼らに永遠の命を得させるためです(ヨハネ3:16)。キリスト、また彼を信じるクリスチャンにとって、キリストの死は終わりではなく、新しい命の始まりです。

 b)キリストの復活:キリストは死んで葬られた後、三日目によみがえりました。その事実は、キリスト一人だけに留まるものではなく、クリスチャンにも及ぶ復活の希望の根拠となります(コリント第一15:19-20)。その復活の証拠として示されたのは空の墓でした(ヨハネ20:24-29)。まさに「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と言われている通りです。

 c)キリストの昇天:キリストは弟子たちが見ている前で天に上げられ、姿が見えなくなりました(使徒1:9)。そのことは、キリストがもはや地上の見える存在ではなく、今も天において救いのため働いておられることを示しています。そして、私たちのうちに宿られる神の御霊によって、私たちもキリストと同じ天上の命によって生かされています(ローマ8:9-11)。

 キリストはこのような約束を与えておられます。「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。…ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:18-20)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/18

聖書の教理~(15)キリストの職務

 「キリスト」という言葉は「神から油注がれた者」を意味します(使徒4:27)。油注ぎは、特に旧約聖書時代において預言者(列王紀上19:16)、祭司(出エジプト28:41)、王(サムエル上10:1)の任命式において行われました。イエス・キリストはこれらの三つの職務を担われています。

 a)預言者としてのキリスト:キリストは当時の人々から預言者とみなされていました(マタイ21:11)。キリストは預言者として救いの福音を告げ(ルカ4:18-19)、天国(神の国)を告げ(マタイ4:17)、将来の出来事を告げました(ヨハネ14:29)。

 b)祭司としてのキリスト:キリストは地上の祭司ではありませんでしたが、天上の祭司として今も働いておられます。祭司は民の罪のあがないのための奉仕を担います。キリストは全人類の罪のあがないのために人と同じになられました(ヘブル2:17)。また、罪のあがないしろとして自ら犠牲となり(ヘブル9:12)、今も天において人々のためとりなしをしておられます(ヘブル7:25)。

 c)王としてのキリスト:キリストは神により永遠の祭司また王として任命されました(詩篇110:4)。キリストは永遠の王権を約束されたダビデの子孫であり(エゼキエル37:25)、きたる再臨の時、キリストは王として地上に来られて王座につかれます(マタイ25:31)。

 キリストの言葉と御業の力強さが示す権威は、神から「油注がれた者」としての権威です。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。』」(マタイ28:18)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/11

聖書の教理~(14)キリストの性質

 イエス・キリストは「あなたがたはわたしをだれと言うか」(マタイ16:15)と尋ねられました。キリストについて人々が様々に言う時、その言葉はその人々が見取ったキリストの性質(本質)を表現します。聖書はキリストをいくつかの呼び名で呼び、その名で神が明らかにした(啓示した)キリストの性質を示しています。

 a)神の子:「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17、27:54)

 b)ことば:「神は…御子によって、わたしたちに語られた」(ヘブル1:1-2、ヨハネ1:1)

 c)主:「イエスを、神は、主…としてお立てになった」(使徒2:36)

 d)人の子:「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」(マタイ9:6)

 e)キリスト:「わたしを聖別してくださった」(ルカ4:18)=「主がわたしに油を注いで」(イザヤ61:1)

 f)ダビデの子:「神は彼に父ダビデの王座をお与えになり」(ルカ1:32)

 g)イエス:「イエスと名づけなさい。彼は…罪から救う者」(マタイ1:21)

 現代でもキリストは、人々の心の思いを投影するように、様々に語られています(マタイ16:13-14)。しかし、天から示された救いの御業をキリストに期待するなら、私たちは聖書の教えに耳を傾けるべきです。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/04

聖書の教理~(13)罪の結果

 聖書が教える「罪」の性質はその呼び名に表れています。

 聖書の「罪」という言葉の元々の意味は「的はずれ」です。旧約聖書のヘブル語ではハタート(創世記4:7等)、新約聖書のギリシャ語ではハマルティア(ペテロ第一2:24等)と言います。「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼(キリスト)の上におかれた。…彼は多くの人の罪(ハタート)を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ53:6,12)

 そのほか、罪に関連する言葉として悪(創世記6:5)、暴虐(創世記6:11)、汚れ(レビ11:24)、曲ったこと(箴言4:24)、負債(マタイ6:12)、不従順(ヘブル2:2)、不法(ヨハネ第一3:4)があり、それぞれ罪を犯すことのないように戒められています。

 罪を犯した結果はのろわれています。罪は人間の基である「神のかたち」を壊し(ヤコブ3:9)、子孫に罪を伝え(詩篇51:5)、最終的に人を死に至らせます(ローマ6:23)。

 キリストの救いはこの罪と死の、両方ののろいからの救いです。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/06/27

聖書の教理~(12)罪の起源

 聖書はすべての人が「ことごとく罪の下にある」(ローマ3:9)と言っています。この「罪」という言葉、罪が示す内容について、多くの人にとって受け入れがたいものであるようです。

 ある人は「罪というものは存在しない」と言います。しかし、様々なことを経験した結果、「わたしは…罪を犯しました」と告白する人もいます(ルカ15:21)。

 ある人は「罪は避けられないものだ」と言います。しかし、聖書は「祝福とのろいをあなたの前に置いた」と言い、のろいを招くことになる罪を避けよと命じています(申命記30:19)。

 ある人は「罪は人にとって自然なことである」と言います。そのような人々に対し、「彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪とい」うと言って戒めています(イザヤ5:20)。

 ある人は「罪は妄想である」と言います。しかし、聖書は「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」と言い、ある人は罪の罪深さを悟るようになることを示しています(イザヤ9:2)。

 創世記3章は、人が罪を犯すようになったきっかけについて多くの示唆を与えています。人は神の命令に背いて罪を犯すように誘惑され(創世記3:1-6)、罪を犯した結果、罪責感が芽生え(創世記3:7-13)、罪を犯した人は神にさばかれて有罪とされます(創世記3:14-19)。しかし、神は罪を犯した人をあわれんで裸を覆われました(創世記3:21)。

 イエス・キリストの救いの最大のものは、罪からの救いです。「彼(イエス・キリスト)は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う」(マタイ1:21)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/06/20

聖書の教理~(11)人間の要素

 人間の要素にはいくつかの見方があります。それぞれの要素に分類することができるかもしれませんが、人間として生きるためにはすべての要素が不可欠であり、不要な要素であるとして切り捨てることはできません。

 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)人間が死を迎えると、人間の要素はそれぞれの出所に帰っていきます。「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」(伝道12:7)

 聖書の神は、人間のすべての要素を含んだ、全人格的な祝福を賜ります。「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って…下さるように。」(テサロニケ第一5:23)それとともに、それぞれの要素を大事に取り扱うように教えています。「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)

 私たちの体は死を経て必ず滅びます。神は人間に体が必要であることをご存じであり、新しい体を用意しておられます(コリント第一15:35-58)。「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」(コロサイ3:9-10)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/06/13

聖書の教理~(10)人間の性質

 聖書は人間の起源が神によることを語っています。神は、天地創造にあたって人間を「神のかたち」にかたどって創造し、地を治めさせました(創世記1:26-28)。人間には神の特別な愛顧と祝福がありました。

 しかし、人間は神の定めに背いて罪を犯し、神の園エデンから追放されてしまいました(創世記3章)。その時から、人間の本質的な性質である「神のかたち」がゆがめられてしまいました。

 良心(テモテ第一1:5)が汚れた良心(テトス1:15)に、知恵(ダニエル2:21)が腐った知恵(詩篇14:1)に、永遠の生命(ダニエル12:2)が束の間の生命(ハバクク2:10)に、獣を支配する者(創世記1:28)が獣にひとしく(詩篇49:20)なってしまいました。人間は自らの罪により、神の性質である「神のかたち」を損ない、失ってしまいました。

 イエス・キリストによる救いのわざの一つが、私たちの「神のかたち」を回復させることです。「彼(キリスト)は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:21)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)