2020/01/27

2020年1月26日3分メッセージ


 出エジプト記33章11節をお読みします。
人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。

 聖書の神は、人が顔を合わせるように直接見ることはできません(出エジプト33章20節)。そのため、モーセの十戒も神の像を造ることを禁じています(出エジプト20章4節)。しかし、イスラエルの救世主として選ばれ、神の特別な恵みを得ていたモーセは(出エジプト33章12節)、神と顔を合わせて語ったと言われています。
 この「神と顔を合わせて語った」という意味は、モーセが友達と語らうように、神の話を聞き、神に話を聞いてもらった、ということです。その結果、モーセが願い求めたことを神は聞かれ、モーセを通して偉大な奇跡が行われました。
 モーセは必ずしも欠点のない人物ではありませんでした。イスラエルを救いたいと願うあまり人殺しまで犯し、エジプトの王に命を狙われる身となった者でした(出エジプト2章)。ただし、モーセは自分の欠点を認め、神の救いにすがる者でした。それだからこそ、モーセは自分を犠牲にしてでも、同じ弱さを抱えるイスラエルをかばう祈りをしました(出エジプト32章32節)。
 私たちもモーセにならって、神に聞き届けられる祈りをしたいものです。そのためには、自分の願いだけではなく、神が何を願われるのか、神の御心にかなう良い願いを持つことが必要です。聖書に学び、神の御心について知る者となりたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたはモーセの祈りを聞かれ、神の御力による大きな奇跡を行われました。私たちもモーセの謙遜にならいつつ、神の御心にかなった願いを持つ者となることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/01/19

2020年1月26日の聖書日課

(写真:ロウバイ)

出エジプト33:12-17
 33:12 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。
 33:13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
 33:14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。
 33:15 モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。
 33:16 わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。
 33:17 主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年1月20日3分メッセージ



姉夫婦の救い  志村キリスト教会 小嶋隆

 先日、地元の老人会の友人より、「小嶋さん、教会に行っていると聞いたけど…」と声を掛けられました。その方はこのように言われました。「実はうちの親戚で葬儀があって、教会でしたのよ。賛美歌を歌って、お祈りをして、聖書のお話しもよく理解できて、皆さんと一緒にアーメン、アーメンと言って、お別れしたのよ。」
 その話を聞いて、私は天に召された姉夫婦のことを思い出しました。私の姉もクリスチャンの方の葬儀に行った先で、イエス様に出会いました。姉は私の手をしっかり握りしめ、「私の心の中に神様がストンと入り込んで来たのよ」と言ってくれました。以前の姉は、私の言葉にも頑なに心閉ざしていたのですが、神様は姉の心をいともたやすく打ち砕いて下さいました。姉は私にこう言ってくれました。「隆ちゃん。あんたの信じている神様は本当の神様だ。」あの時の姉の喜びに満たされた顔を忘れることができません。
 その後、姉夫婦は病に倒れてしまいました。私の家から姉夫婦の家まで片道二時間以上もかかります。しかし、姉夫婦の地元にある橋本キリスト教会の牧師先生始め信徒の方々が姉夫婦を支えて下さり、また志村教会の兄弟姉妹も私を励まし、送り出して下さいました。そして、姉夫婦が入居する福祉施設、病院も、その他の必要な事柄をも備えられました。
 そして、共に八十歳を過ぎてからの信仰でしたが、神様の深いあわれみに依り、姉夫婦共々信仰告白をして、滴礼の恵みに与る事が出来ました。それから召天までの四年間の出来事においても、橋本教会の兄弟姉妹が幾度も足を運んで下さり、祈り、慰め、支えて頂きました事を感謝いたします。
 人はいつ、どの様な形で主イエス様に出会い、また信仰の恵みに依る事が出来るか、それぞれ違いがあります。しかし、「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません」と、「難しい事は何一つなく、『ただ信ぜよ』と言って下さる神様に『はい、信じます』と答えるだけでいいのよ」と、伝えて行かなければなりません。

2020年1月19日3分メッセージ


 ヨハネ1章45節、46節をお読みします。
このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。

 この聖書の言葉に登場した人、ピリポは興奮した様子で知人のナタナエルに語りかけています。「私たちは聖書に記されている救世主に出会った!その人はナザレの町出身のイエスと言うんだ。」
 イエスに出会ったのはピリポ一人だけではありませんでした。ほかの人はイエスについて、「私たちはキリストに出会った」と言っています(ヨハネ1章41節)。
 ナタナエルはその話を疑うようにして言います。「ナザレの町から、キリストなんて大人物が出るはずがない。」その言葉にピリポは反論します。「実際にイエスの所に来て、キリストであるかどうか、見て確かめてみなさい!」
 ナタナエルは疑いつつも、救世主であるキリストについては関心がありました。そのため、彼はピリポの勧めに従って、イエスに会いに行きました。その後、ナタナエルはイエスがキリストであることを認め、キリストの弟子となりました(ヨハネ1章49節)。
 イエス・キリストは救いを期待する者に確かに応えて下さいます。キリストはさらに、「これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」と語っています(ヨハネ1章50節)。皆様もぜひ、ご自分の手で聖書を開き、イエスがキリストであるかどうかをご自分の目で見て確かめて下さい。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストは「大きなことを、あなたは見る」と語られました。その言葉の通り、私たちの願いに応えて下さり、私たちがはっきりとキリストの救いの御業を見ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/01/18

展望台から見る聖書 第一回 聖書を見渡してみよう


 展望台に上ると、その下に広がる街全体を見渡すことができ、街の概略を知ることができます。聖書を街にたとえるなら、66の町々(旧約39巻+新約27巻)から構成される大都市を一つの視点から俯瞰することにより、その大都市を構成している町々をより良く理解することができるようになります。
 聖書の各書巻はそれぞれ著者も執筆された年代も異なり、歴史・詩歌・手紙等、書かれた内容も違います。しかし、一つの視点、すなわち「神によって定められた救い主(キリスト)を通しての人間の救い」という観点から見れば、聖書は驚くほど調和があり、かつ歴史に根ざしたものであることに気づきます。また聖書には極めて多くの人物が登場しますが、中心人物は一人、イエス・キリストです(ルカ24:27)。
 聖書は大きく分けると旧約聖書と新約聖書に分かれます。旧約は紀元前にヘブル語およびアラム語で書かれ、新約は紀元後にギリシャ語で書かれているように大きな違いはありますが、聖書は旧約・新約の二つで一つの書物です。両者は植物の芽(旧約)と花(新約)の関係にたとえることができます。すなわち旧約で与えられた神様の救いの約束のつぼみが、新約において開花し、成就したということです(マタイ5:17,18)。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第二回 創世記


 「人間の救い」という主題は【神】【罪】【救い】という三つのポイントに分けることができます。創世記を三つのポイントにまとめると、以下の通りです。
 (1)【神】は天と地を創造され、人間を創造された(創世記1~2章)。
 (2)人間は自分の意思で【罪】を犯し、堕落した(創世記3章)。
 (3)神は人間に【救い】の約束を与えられた(創世記3:15)。
 この神が人間を救うという約束は、御子イエス・キリストによって実現しました(第一ヨハネ3:8)。
 創世記は神により選ばれた人々(神の選び)について語っています。
 最初の人アダムの子の中でセツが選ばれ、救い主の血筋となりました。セツの子孫からはノアが選ばれ、洪水から救い出されました。ノアの三人の息子の中ではセムが選ばれました(創世記4~11章)。
 セムの子孫の中からはアブラハムが選ばれて神の民イスラエルの先祖となりました(創世記12:1~3)。このアブラハムからイスラエルの歴史が始まり、それ以前(創世記1~11章)は創世記の前置きと見ることができます。また聖書は、アブラハムが全人類に救いをもたらす福音を最初に聞いた人であると語っています(ガラテヤ3:8)。
 アブラハムの子ではイサクが選ばれ、イサクの子ではヤコブが選ばれ、イスラエル十二部族の祖となります。十二部族の中ではユダが選ばれ、王の王であるイエス・キリストの部族となりました(創世記49:10)。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第三回 出エジプト記~申命記


 エジプト時代のイスラエルの民は苦難を経験しましたが、それは神の救いの計画に則ったことでした。ヨセフに招かれてエジプトに入ることで、選ばれた家は飢饉から救われたのです(創世記45:7)。
 エジプトでの苦難は、イスラエルが国家として誕生する「生みの苦しみ」となりました。苦難を通してイスラエルは、①本当の一致団結を得ました。②神の民としての純潔を守りました。③罪の自覚と救いへの渇望を得ました(出エジプト2:23-25)。④神こそ救い主であることを知りました。⑤国民として生活する手段を習得しました。
 イスラエルがエジプトから救われた目的は、神に仕えるため(出エジプト3:12)、また全人類に仕えるため(創世記12:2,3)でした。そのため、神はイスラエルに律法を与えて教育し、神が支配する王国として整えられました(出エジプト19:5)。またイスラエルは神が住まわれる宮殿である幕屋(出エジプト25:8)での礼拝を通して、将来にメシヤによる救いが到来することを教えられました(第一ペテロ1:18-20)。
 レビ記は神への礼拝の作法を教えています(レビ19:2)。民数記は神の救いの計画は人の失敗に妨げられず成就することを教えています(民数記14:20-23)。申命記は神の救いの計画は世代を超えて成就することを教えています(申命記34章)。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第四回 歴史書(ヨシュア記~エステル記)


 神は全人類を救う使命を担わせるため、イスラエルを長い年月をかけて整えられました。イスラエルの歴史は召集(孤立)と派遣(離散)の二つの時代に分けることができます。
 ヨシュア記の時代からソロモン王の時代(第一列王記10章)までは召集の時代です。イスラエルは神の恵みにより国土を与えられ、律法によって教育され、預言者が語った預言によって救いの希望を与えられました。その過程でイスラエルは他の民族からは区別され、孤立していきました。
 ソロモン王の時代(第一列王記11章)からバビロン捕囚の時代(エズラ記~エステル記)までは派遣の時代です。イスラエルは神の御前に悪とされることを行った結果、国家としての力を徐々に失い、度々他国に攻められて敗北し、民が捕囚となって離散していきました。しかし、異教世界に置かれたイスラエルの民はその土地で神に立ち返り、異教徒に福音を伝える世界宣教の端が開かれました。彼らはその土地で現在の教会の前身にあたる会堂(シナゴーグ)に集まり礼拝しました。その後、神の預言の約束通り(ダニエル9:2)イスラエルの民は帰還を果たし、偶像礼拝を捨てて神殿礼拝を回復しました。帰還した民は律法に従って生活することを志し、律法を教える祭司が支配的な立場を占めるようになりました。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第五回 詩書(ヨブ記~雅歌)


 旧約聖書の全39巻を配列順に区分すると、次の四つに分類することができます。①律法(創世記~申命記)、②歴史書(ヨシュア記~エステル記)、③詩書(ヨブ記~雅歌)、④預言書(イザヤ書~マラキ書)。このうちの詩歌書はその文体の性質から、イスラエルの民の心情を表現していると言えます。
 ヨブ記は、正しい人ヨブ(ヨブ1:1)の苦悩を記しており、「なぜ正しい者が悩むのか」を問いかけています。
詩篇はイスラエルの賛美集です。その中には証しがあり、祈りがあり、賛美の言葉があり、さらに人間の救いに関わる預言の言葉も含まれています。
 箴言は、イスラエルの諺集です。イスラエルの長い歴史の中で人々が神に祈りつつ生活し、答えとして得た具体的な生活の知恵がまとめられています。
 伝道者の書は、別名で「伝道の書」、「コヘレトの言葉」とも言われる書巻です。伝道者(伝道1:1)が人生の様々な経験を通して得た答えは、「神を恐れよ、神の命令を守れ」(伝道12:13)ということでした。
 雅歌は、男女の愛を高らかに歌った「歌の中の歌」(雅歌1:1)です。神によって祝福された愛は「死のように強く」、また「大水もその愛を消すことができません」(雅歌8:6,7)。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第六回 預言書(イザヤ書~マラキ書)


 イスラエルの民に神の御言葉を取り次ぎ、伝道者として語ったのが預言者でした。預言者自身は普通の人間と異なりませんでしたが(ヤコブ5:17)、預言者自身の意志からではなく、聖霊により神の御言葉を語りました(第二ペテロ1:21)。ですから、預言者は自分が語った言葉を完全に理解していた訳ではありません(第一ペテロ1:10,11)。
 同じく神に仕えた祭司は、律法の定めに従って宗教儀式を守り行いましたが、しばしばその内実の宗教の生命を失いがちでした。預言者は神からの預言の言葉を語ることにより、形式のみの宗教に火を投じ、その固い殻を金槌で打ち壊す役割を果たしました(エレミヤ23:29)。
 預言者は過去、現在、未来にわたって語っています。過去については、イスラエルの先祖たちに与えられた救いの約束の成就を語っています(ミカ7:20)。現在については、当代の人々に効き目のある言葉、すなわち律法に基づいて彼らの罪を指摘しました(ホセア6:6)。未来については、救いが将来に実現することを語っています(イザヤ9:6,7)。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第七回 旧約聖書と新約聖書の間


 預言書のマラキ書が記された時代以降、新約聖書が記される時代まで聖書の記述は途絶えます。その間の時代は、エステル記に「神」の語が登場しないことに象徴されるように、神の存在が隠されているように感じます。しかし歴史の中に神の御手を見ることができ、神が密かに働かれている時代と言うことができます。
 この間の時代は四つに区分することができます。
 ①ペルシャ時代:バビロニア王国によりイスラエルの南朝、ユダ王国が滅ぼされ、民はバビロンへ捕囚となりました。彼らは神殿での礼拝を失った後、神の御言葉を文字に書き表して信仰を守り、旧約聖書が整えられていきました。その働きを担ったのがエズラ(ネヘミヤ8:1-8)を初めとする律法学者でした。その後、バビロニア王国はペルシャ王国の王クロスによって滅ぼされ、イスラエル人(ユダヤ人)は故国に帰国することができました(第二歴代誌36:22,23)。
 ②ギリシャ時代:ペルシャ王国はマケドニヤの王アレキサンダーによって滅ぼされ、地中海世界はギリシャ人に支配されました。その結果、イスラエルにもギリシャ文化が浸透し、聖書が共通語のギリシャ語に翻訳されました(七十人訳聖書)。またギリシャの世俗的文化に反対してパリサイ人が、迎合してサドカイ人が台頭しました。
 ③アンチオカスの迫害と独立戦争:アレキサンダーの帝国が崩壊した後、世界は混沌に陥りました。エルサレムでも暴動があり、シリヤの王アンチオカス・エピファネスが鎮圧しました。アンチオカスはユダヤ人を殲滅しようと目論見ますが、祭司の一族であったマカベヤ族が反旗を翻し、独立を勝ち取ります。宮きよめの祭り(ヨハネ10:22)この出来事を記念した祭りです。
 ④マカベヤ族の統治:独立を果たした後、マカベヤ族は祭司兼王としてイスラエルを統治します。しかし、国内の内乱や権力闘争で再び混沌に陥り、時の覇者であったローマ帝国により占領されました。その後、帝国の命によりヘロデが王として立てられました。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第八回 新約聖書緒論


 新約聖書も旧約聖書と同様、配列順に四つに区分することができます。旧約聖書も含めて、人間の救いに関連して説明すると以下の通りです。
 旧約聖書は、全人類の救いの準備を担いました。①福音書(マタイ~ヨハネ)は、イエス・キリストにおいて救いが現れたことを示します。②使徒の働きは、キリストの救いを宣教した使徒を初めとする教会の働きを示します。③手紙(ローマ~ユダ)は、キリストの救いの内容を説明しています。④黙示録は、天地の初めより神により計画された救いの完成について示しています。
 福音書、延いては新約聖書の背景となる世界は、福音(救いのメッセージ)のために備えられていました(ガラテヤ4:4)。世界はローマ帝国という一つの統一国家となっていて、その世界の中で平和に、共通語であるギリシャ語によって福音を宣べ伝えることができました。また世界の人々は真理を求め(ヨハネ18:38)、救いを待ち望んでいました(マタイ2:2)。
 また福音はこの世界のために与えられたものでした。初めにキリストは使徒たちに福音宣教を委ねられました(ヨハネ15:27)。新約聖書は使徒たちが「見たこと、聞いたことを」伝えるために書かれたものです(第一ヨハネ1:3)。また新約聖書は使徒たちが語った説教を記録しています(使徒10:36-43)。ですから新約聖書は「キリストの福音を伝えるための使徒による記録」であるということができます。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第九回 福音書(マタイ~ヨハネ)


 新約聖書の最初の部分に収められている福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つです。そのうちマタイ、マルコ、ルカは宣教という共通の目的があるので共観福音書と言われています。以下にそれぞれの福音書の特徴を説明します。
 ①マタイ:使徒マタイがまとめた記録。預言により約束された救い主を強調しているため、ユダヤ人的福音と言われています。
 ②マルコ:使徒ペテロが語った説教をその助手マルコがまとめた記録。勝利者であるキリストを強調しているため、ローマ人的福音と言われています。
 ③ルカ:使徒パウロの助手ルカがまとめた記録。完全な人間としてのキリストを強調しているため、ギリシャ人的福音と言われています。
 ④ヨハネ:上記三福音書を踏まえ、使徒ヨハネが独自にまとめた記録。神の御子としてのキリストを強調しており、クリスチャンに対し福音の本質を説明しています。
 福音書はすべて、キリストの生涯を本筋として語っています。キリストは宣教の生涯に入る前、三十年間の準備期間を過ごされました(ルカ3:23)。キリストの宣教活動の期間は、ヨハネ伝に記された四回の過越の祭り(2:13、5:1、6:4、11:55)を根拠として約三年半であったと言われています。福音書の最後に、圧倒的な記述の分量がキリストの福音の根本である「十字架」と「復活」に割かれています。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第一〇回 使徒の働き


 使徒の働きには、教会の誕生とその成長についての歴史が書かれています。その歴史はキリストが予告した通り(ルカ24:46-49)に進展しました。①キリストが昇天し、世界宣教の準備が整う(使徒1章)。②キリストの弟子たちに聖霊が降り、世界宣教の力を受ける(使徒2章)。③エルサレムから世界に向けて福音が宣べ伝えられる(使徒2章以降)。
 使徒の働きは二人の人物、ペテロとパウロ(ガラテヤ2:8)を中心として記述されています。ペテロはエルサレムを中心として宣教し、主にユダヤ人への使徒として活動しました(使徒1~12章)。パウロはペテロたちの宣教を引き継ぎ、ユダヤ人以外の国民(異邦人)への使徒として世界中を巡って宣教しました(使徒13~28章)。
 使徒の働きの理解の鍵となる聖句は使徒1:8で、その御言葉の通りに宣教が進展していきました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ(使徒1~7章)とサマリヤの全土(使徒8~12章)、および地の果てにまで(使徒13~28章)、わたしの証人となります。」

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第一一回 手紙(ローマ~ユダ)


 使徒たちを初めとする福音宣教の結果、世界中に教会が誕生しました。しばらくした後、これらの教会に集う多くのクリスチャンが現実の生活に信仰を適用するために、教育が必要となりました。新約聖書の手紙はこれらの教会の現実的な問題に対処するため書かれました。
 手紙は福音書に示されたキリストの福音を説明しています。福音書に示されたキリストの罪のない生涯に従い(エペソ4:22-24)、いかにしてキリストのようなきよい性質となるかを説明しています(ガラテヤ5:22-25)。
 手紙はキリストの教えを説明しています。その教えは信仰的であるとともに実際的です。救いを得る手段は信仰のみである(ローマ3:28)ことを語ると共に、信仰は現実的な行動がなければ死んだものである(ヤコブ2:26)とも語っています。
 最初の教会の時代、その時代から既に間違った教えがはびこっていました。ユダヤ人から出た律法尊重主義(ガラテヤ書参照)、異邦人から出た道徳的無秩序(ユダ書参照)等です。そのため、「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(ユダ3節)

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

展望台から見る聖書 第一二回 黙示録


 旧約聖書の最初、創世記から始められた救いの計画は、新約聖書の最後、ヨハネの黙示録で完成します。
 黙示録は、使徒ヨハネが迫害により流刑とされたパトモスという島で見た神の幻を記録したものです(黙示録1:9)。当時の世界はローマ帝国の支配下にあり、多くのクリスチャンがヨハネと同様、厳しい迫害を受けていました。黙示録はこれらのクリスチャンたちに宛てて書かれました。その内容は、キリストがありとあらゆる反対を押しのけて最終的な勝利を得る(黙示録1:7)ことを示すものであり、クリスチャンたちに励ましを与えるものでした。
 黙示録の性質をいくつか挙げることができます。①力の書:見えない世界の力が示され、神は御国のために諸勢力を治められる。②御座の書:天の御座が示され、神がまことの支配者であられ、神に従う者に支配が任される。③冠の書:王の王であるキリストの冠が示され、キリストに従う者に冠が与えられる。④戦いの書:終わりの時代にキリストと反キリストとの戦いがある。⑤勝利の書:キリストは最後の戦いに勝利を収められる。⑥救いの書:神の救いの計画の中心としてほふられた小羊(キリスト)が示され、聖徒は小羊の血によってあがなわれ、救いの勝利を得る。

参考図書:マイヤー・パールマン著『展望台から見る聖書』福音出版社

2020/01/12

2020年1月19日の聖書日課

(写真:スノードロップ)

ヨハネ1:43-51
 1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。
 1:44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。
 1:45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。
 1:46 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。
 1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。
 1:48 ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。
 1:49 ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。
 1:50 イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。
 1:51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年1月12日3分メッセージ


 エペソ2章10節をお読みします。
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。

 聖書は、キリストを信じるクリスチャンは神の作品であると語っています。クリスチャンは神の作品であり、良い行いをするように造られているので、クリスチャンは自慢してはならない、というように戒めているのです。
 しかし、私は自らクリスチャンの一人として敢えて言いたいのです。それは、クリスチャンだからといって良い行いをするとは限らず、かえって悪い行いもするではないか、ということです。
 聖書はこの点についてもこう語っています。「善を行う者はいない」(ローマ3章12節)クリスチャンであったとしても、すべての人は悪を行いうる罪人であって、良い行いをする点では実に不完全な者なのだ、ということです。
 そのような良い行いをするに非力な私たち人間のために、神はイエス・キリストをこの世にお遣わしになられました。ただ他人に自慢する程度のものではない、本当の意味での良い行いをして日を過ごすために、私たちはキリストの恵みに頼る必要があります。私たちはキリストを信じることで、神の作品としての本当の自分を見出すことができます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは他人から見られることのない、私たち自身しか知らない自分というものを知っています。しかし、聖書は私たちが神の作品であると語っています。キリストを信じることにより得られる本当の自分を見出すことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/01/06

2020年1月12日の聖書日課

(写真:ビワ)

エペソ2:1-10
 2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
 2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
 2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
 2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
 2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
 2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
 2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
 2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
 2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
 2:10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年1月5日3分メッセージ


 イザヤ40章26節をお読みします。
目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。

 今回は聖書に記された神の言葉から、新しい一年に向かっての新しい展望を見てみたいと思います。
 まず第一に、聖書は「目を高くあげて、見よ」と語っています。物事をできるだけ広い立場から、遠くに至るまで見てみましょう。それは大自然であっても、世界のあらゆる人間社会であっても、注意深く見てみるなら、最初に見えていたものとは別のものが見えてくるかもしれません。
 第二に聖書は、「これらのものを創造した者を見よ」と語っています。一つの物事だけに集中するのではなく、物事の原因となるものやその他の物事との関係などを見定めるなら、さらに深く物事の本質が見えてくるはずです。
 第三に聖書は、「神はおのおのをその名で呼ばれる」と語っています。聖書の神は創造の神であると、聖書は一貫して語っています(創世記1章1節、ローマ1章25節)。しかし、神は創造するだけではなく、物事の本質を正しい言い表すように「名前」を呼んで、神からの働きかけも行われます。同じように、私たち個々人をも知っていて、私たちが祈りの声を上げるなら、その祈りを聞かれるお方です。
 物事の本質を知る時、良い面だけでなく悪い面も見ることになるでしょう。また全く知らない、新しい物事に対して躊躇する気持ちも生まれてくるかもしれません。その時、「おのおのをその名で呼ばれる」神に信頼し、神の力に身を任せられることは幸いな事です。

 神の手に握られる幸いを求めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。新年を迎えて、新しい事に対する期待と不安が混じるこの頃です。すべてのことを知っておられる神様に信頼しつつ、新しい歩みを踏み出させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/01/01

2020年1月5日の聖書日課

(写真:マンリョウ)

イザヤ40:21-26
 40:21 あなたがたは知らなかったか。
あなたがたは聞かなかったか。
初めから、あなたがたに伝えられなかったか。
地の基をおいた時から、
あなたがたは悟らなかったか。
 40:22 主は地球のはるか上に座して、
地に住む者をいなごのように見られる。
主は天を幕のようにひろげ、
これを住むべき天幕のように張り、
 40:23 また、もろもろの君を無きものとせられ、
地のつかさたちを、むなしくされる。
 40:24 彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、
その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、
神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、
わらのように、つむじ風にまき去られる。
 40:25 聖者は言われる、
「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、
わたしは、だれにひとしいというのか」。
 40:26 目を高くあげて、
だれが、これらのものを創造したかを見よ。
主は数をしらべて万軍をひきいだし、
おのおのをその名で呼ばれる。
その勢いの大いなるにより、
またその力の強きがゆえに、
一つも欠けることはない。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)