エゼキエル43章4節、5節をお読みします。
主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
預言者エゼキエルの時代、イスラエルの国はバビロンの国に滅ぼされ、イスラエル人たちはバビロンに捕囚として強制的に移住させられました(エゼキエル1章1節)。祖国や家族を奪われて絶望のどん底にあったイスラエル人に向けて、聖書の神は預言者たちを通してなおも救いのメッセージを届けられました。
祖国から遠く離れた異国の地で、イスラエル人たちは慣れない生活を強いられました。それだけではなく、彼らが「主の神殿」(エレミヤ7章4節)と言って心の拠り所としていたエルサレムの神殿も破壊されてしまい、彼らの見るところ希望は何一つ残されていないように思われました(エゼキエル9章)。
しかし、神は預言者エゼキエルに、失われたはずの神殿の幻を見させました(エゼキエル40~48章)。それだけではなく、立派な神殿、すなわち神がその御名を置くために選ばれた神の宮に、神の栄光が戻って来て、神殿が神の栄光に輝いている幻を見させました。
実は、ありし日の神の宮は、立派な姿を見せていても、その中で不正が行われ(エゼキエル8章)、神の栄光が宮から去ってしまった時点で、神の宮の本来の使命は失われてしまったのでした(エゼキエル10章18~19節)。
新約聖書のコリント第一書では、このような言葉があります。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」(コリント第一3章16節)今日のクリスチャンは教会に集まって神に礼拝を捧げます。たとえどんなに立派な教会堂であっても、その中で本来あるべき神への礼拝が行われないなら、その教会は死んだも同然です。
同じ意味で、教会の本質は建物ではなく、その中に集まるクリスチャンの集まりにあります。キリストはこのように言っています。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)。信仰の集まるところに神もともにいてくださいます。ぜひ神の宮であるキリスト教会に神の祝福を求めて集まってください。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。神への信仰の集まるところに、神様ご自身が来てくださるという約束の言葉を感謝いたします。この数年間の間、私たちは一つ所に集まる機会を持つことができませんでした。どうぞ私たちの集まりを妨げるすべての障害を取り除いてください。そして共に集まり、神の栄光を仰ぎ見て、共に喜び合うことができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)