聖書:ヨハネ9:35-41
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。(ヨハネ9章39節)
イエス・キリストは、シロアムの池の近くに住んでいた盲人の目を開ける奇跡を行いました(ヨハネ9章7節)。それに対し、キリストが戒律により働くことが禁じられている安息日に奇跡を行ったことを問題視する人々がありました(ヨハネ9章16節)。
キリストの奇跡を体験した人は、その体験ゆえにキリストを神からつかわされた預言者であると認めました(ヨハネ9章17節)。一方、キリストを問題視した人々は出来事を十分に確かめることなく、キリストを罪人だとしました(ヨハネ9章24節)。そして、奇跡を体験した人を追放して、出来事の検証を放棄してしまいました(ヨハネ9章34節)。キリストが「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」と言われた通りとなりました。
キリストは、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と語りました(ヨハネ3章3節)。ある者はニコデモ(ヨハネ3章)のようにキリストに教えを求めましたが、別の者はキリストの言葉に耳を貸そうとせず、喜ばしい出来事すら目をふさぐようにして認めない者がありました。私たちはどちらの立場に立つでしょうか。
キリストはこのようにも語っています。「わたしは父にお願いしよう。…それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14章16~17節)真理を目にし、耳にするとき、もし私たちの心がそれに従うことを好まなくても、素直に受け入れましょう。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちが真理を目にし、耳にするとき、耳が痛い思いがしても素直に受け入れることができますように。私たちを真理によって教え導いてくださいますように。真理によって私たちを聖別してくださいますように(ヨハネ17章17節)。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)