2020/12/27

2020年12月27日3分メッセージ



 エペソ3章6節をお読みします。
それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。

 冒頭の「それ」とは、「キリストの奥義」(エペソ3章4節)を示しています。キリストより前の時代には、神の民イスラエルとその他の国民、つまり異邦人には区別があり、神の約束を得られる資格に制限がありました(エペソ3章5節)。
 しかし、イエス・キリストがこの地上に現われ、神の約束の制限を取り除き、すべての人が神の約束にあずかることができるようにされました。そのことを可能としたのが、キリストの十字架です。
 福音は、キリストが十字架にかかられたことによって、人々の間にあった敵意を打ち壊し、人々を一つにすることを語ります(エペソ2章13~16節)。そのように、神の祝福は人々が互いに信頼し合い、平和を保つ中にもたらされます。キリストはこの世界に平和をもたらすため、すべての人の罪と敵意を一身に負わなければならなかったのです(第一ペテロ2章24節)。
 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2章14節)私たちもキリストの奥義を覚えつつ、平和を作り出すものとなりたいと思います(マタイ5章9節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの生きるこの世界に平和をもたらすため、イエス・キリストをお送りくださったことを感謝いたします。私たちも神の祝福にあずかって、平和の子として日々を歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/12/21

2020年12月27日の聖書日課

(写真:フユサンゴ)

エペソ3:2-12
 3:2 わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。
 3:3 すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。
 3:4 あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。
 3:5 この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。
 3:6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
 3:7 わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。
 3:8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、
 3:9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
 3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
 3:11 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。
 3:12 この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)


2020/12/20

2020年12月20日3分メッセージ



 ミカ5章2節をお読みします。
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

 イエス・キリストがクリスマスの夜に生まれた後、イスラエルよりはるか東の国から博士たちが長い旅をしてイスラエルの都、エルサレムにやって来ました。その話を聞いたイスラエルの王様、ヘロデはキリストの居場所を調べさせたところ、預言書のミカ書に記されている通りユダヤのベツレヘムにいることを突き止めました(マタイ2章1~6節)。
 イスラエルを治めるべきキリストは大都会に生まれたのではありませんでした。その生まれの地、ベツレヘムはイスラエルの町々の中でも小さな町でした。また、キリストは王様の住む王宮に生まれたのでもありませんでした。キリストは貧しい大工の息子として、さらには旅の途中の家畜小屋で生まれたのでした(ルカ2章1~7節)。
 神によって特別に選ばれた民、イスラエルの人々のほとんどはキリストが生まれたことに気づきませんでした。しかし、イスラエルから遠く離れていた外国人である東の博士たち、また町の外で野宿をしていた羊飼いたちがキリストの誕生を知って、会いに出かけていき、そしてキリストに出会うことができました。
 クリスマスはあなたに天からの祝福と平和を与えるために、イエス・キリストが誕生されたことを知らせています(ミカ5章5節)。このクリスマスの知らせを聞かれた皆様に天からの祝福がありますようにお祈りさせていただきます。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今年もクリスマスの季節がやってまいりました。クリスマスは、イエス・キリストが私たちに平和を与えるために誕生されたことを知らせています。私たちもクリスマスのお祝いとともに、天からの祝福と平和を味わうことができますように。今年も天からの祝福に満たされたクリスマスを過ごすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/12/17

2020年12月17日3分メッセージ



愛し励まして下さる神様  志村キリスト教会 日高佐和子

 私が教会に通い始めたのは16年前、63才の時でした。それより前に、私は小学生の頃、しばらく教会の日曜学校に通っていましたが、中学生になると行かなくなり、以後長い間教会から離れていました。
 結婚して息子二人と娘一人を授かり、忙しい日々を過ごしました。そして10代の娘を置き去りにして、京都の田舎に住んでいた両親の遠距離介護に明け暮れることとなり、娘の気持に気付けませんでした。最も母親を必要としたであろう思春期に殆ど放っておかれた娘は、20代早々うつ状態に沈み、ようやく気付いた私も共にトンネルの暗闇の中で涙に暮れることとなりました。
 そんな私達母娘を神様、イエス様は光の中へと引張り出して下さったのです。教会へ通い始めた私は、すぐに「聖書は面白い!これは生涯学び続けたい!」と、思いました。聖書には“人とはどういうものか”が克明に描かれていて、“その人間を、万物を造られた神様とは?”、“神の子なるイエス・キリストとは?その教えは?”など、学ぶ程に尽きない興味が湧いて来ます。
 それから紆余曲折はありましたが、二人で教会に通ううち、娘の心にもイエス様はしっかり入って下さり、共に再出発することが出来たのです。今、娘は結婚して仕事を頑張っており、私は礼拝、祈祷会、クリスチャンの様々な集会に行くことが楽しくてなりません。
 聖書の教えは究極のプラス思考の教えだと思います。イエス様の十字架はプラス印なのですから。“あすのための心配は無用です。”(マタイの福音書6章34節)、“私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している”(イザヤ書43章4節)と言って下さる神様がおられるとは何と嬉しいことでしょう!
 現在、競争社会に於て生き難さに悩む人も多いと思います。神の愛を知り、イエス様が共に歩んで下さることを信じることが出来れば、生きる勇気が得られるのではないでしょうか。キリストの教えの素晴らしさをお伝えしたいものと思う次第です。

2020/12/14

2020年12月20日の聖書日課

(写真:ポインセチア)

ミカ5:1-3
 5:1 今あなたは壁でとりまかれている。
敵はわれわれを攻め囲み、
つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ。
 5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。
 5:3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、
主は彼らを渡しおかれる。
その後その兄弟たちの残れる者は
イスラエルの子らのもとに帰る。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/12/13

2020年12月13日3分メッセージ



 ピリピ4章6節、7節をお読みします。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 聖書は多くの所で「恐れてはならない」(創世記15章1節)、「心配するな」(マルコ13章11節)と私たちに語りかけています。
 私たちはいろいろな物事のために恐れたり、心配することがあります。あるいは、心の恐れや心配を隠して、まるでそうではないかのように振舞うことがあります。また、他人から「心配するな」と言われたから心配しなくなるとも限りません。
 聖書が語りかける「恐れるな」という言葉には、必ず根拠があります。ピリピ書の「思い煩うな」という言葉の根拠は「神への祈り」にかかっています。
 聖書の教える「祈り」とは、呪文や自己暗示のようなものとは違います。それは聖書の神に対する切実な訴えです。聖書の神は私たちの祈りを聞いてくださるお方です(詩篇77篇1節)。ですから、「事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ」なさいと勧められているのです。
 神が私たちの祈りを確かに聞いておられることを知ることができます。それは、神に祈りを捧げるなら、「人知を超えた神の平安」が与えられます。しかし、祈りの答えがすぐに与えられるとは限りません。神の最善の時に祈りの答えが与えられることを信じ、平安な気持ちになるまで祈り続けることが、祈りの秘訣です。

 皆様の心から思い煩いから消え去りますようにお祈りさせていただきます。
 天の父なる神様。聖書は「思い煩うな」と私たちに語りかけます。全知全能の神様にすべてをお任せすることができるよう、私たちから思い煩う心を取り去ってくださり、代わりに平安な心を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/12/07

2020年12月13日の聖書日課

(写真:ヒメツルソバ)

ピリピ4:4-9
 4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
 4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
 4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
 4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
 4:8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
 4:9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/12/06

2020年12月6日3分メッセージ



 イザヤ59章16節をお読みします。
主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。

 イザヤを始めとする聖書の預言者は、神からメッセージを受け取って人々に伝える、神の代言者です。しかし、預言者も私たちと同じ人間であり、人間としての限界があり、弱さを抱えながら、人の心を持つものとして神のメッセージを受け取りました(ヤコブ5章17節)。
 預言者は神と人とをつなぐ架け橋となりました。預言者は人の代表者として神のメッセージを受け取り、それを人々が理解できるように巧みに言葉で表現しました。
 預言者イザヤがこの聖句で伝えたこと、それは神が探し求めている人が見当たらないということでした。神が探し求めたのは、この地上で正義や公平を守り行う人でした(イザヤ59章4節)。
 光がなければ何も見えないように、私たちは正しさを示す基準がなければ正しい判断をすることができません。そのような迷いの中にたたずむ私たち人類のため、神は自ら正義を示され、私たちの世界を、人生を正しく導かれます。
 神は私たちの世界に光を与えてくださいます(イザヤ60章2節)。新しい年、私たちは神の光に照らされて、迷うことなく正しい道を歩んでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは人生を正しく歩むために光を必要としています。どうぞ私たちの行くべき道に光を照らし、新しい道を開いてください。私たちが道から足を踏み外すことのないように、私たちの歩みを支えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/12/03

長谷川家の信仰の証

(写真:長谷川町子記念館前の町子像)

 「サザエさん」の作者、長谷川町子は、鹿児島出身の両親の元、1920(大正9)年1月30日、佐賀県の東多久村(現・多久市)に生まれました。
 一家で福岡県福岡市に引っ越した後、父が結核で病に伏せるようになりました。そのことがきっかけとなり、母が聖公会の教会の門をたたき、両親と娘3人、一家5人で洗礼を受けました。父は死の直前に信仰の新境地に立つことができました。

父は、母や私たちを呼んで喜びに顔を輝かせながら「神様が何もかも最善にしてくださる、何も心配することはない。お父さんも、もうこれですっかり安心した」と繰り返し言って聞かせました。(『長谷川町子思い出記念館』p56)

 1933(昭和8)年、父の召天後、一家は母の実兄である岩切重雄(国会議員、鹿児島市長を歴任)を頼って上京しました。母は既に漫画を物にしていた町子を促し、「のらくろ」作者の田河水泡に弟子入りさせました。しかし、実家に戻りたがった町子は「教会に通うため日曜日に帰宅したい」と願いました。ところが、田河家の隣が教会(日本基督教団荻窪教会)であり、田河夫妻と毎週通うことになりました。後に田河夫妻は洗礼を受けました(妻の高見澤潤子は荻窪教会長老、『信徒の友』編集長委員長等を歴任)。
 戦争が激しくなり、一家は疎開のため再び福岡に引っ越し、町子は福岡の地方新聞に『サザエさん』の連載を始めました。サザエさんの登場人物名は、自宅近く(福岡市西新、西南学院の近く)の海岸である百道浜で考案されました。
 戦後、一家は再び上京し、世田谷に居を構えました。『サザエさん』の成功で多忙になった後、町子は母と妹と一緒に矢内原忠雄が指導する無教会集会(今井館聖書講堂、目黒区中根)に出席するようになりました。
 生前の長谷川町子は人前に出ることは多くありませんでしたが、少ない機会において自らの信仰を表現しました。芸術家としての個性的な信仰の証に、私たち自身の信仰の証のあり方のヒントを得られるのではないでしょうか。

うちの家庭は信仰がないと生きていかれないんですもの。神様を認めないで生きていけない。物質生活が最上のものでなくて、精神生活が人生を向上させるものだ。いつもそう教え込まれて育ってきましたから。(『長谷川町子思い出記念館』p147)

引用資料:長谷川町子著『長谷川町子思い出記念館』朝日新聞出版

2020/12/01

2020年12月6日の聖書日課

  

(写真:センリョウ)

イザヤ59:12-20
 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、
罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、
とがは、われわれと共にあり、
不義は、われわれがこれを知る。
 59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、
退いて、われわれの神に従わず、
しえたげと、そむきとを語り、
偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
 59:14 公平はうしろに退けられ、
正義ははるかに立つ。
それは、真実は広場に倒れ、
正直は、はいることができないからである。
 59:15 真実は欠けてなく、
悪を離れる者はかすめ奪われる。
主はこれを見て、
公平がなかったことを喜ばれなかった。
 59:16 主は人のないのを見られ、
仲に立つ者のないのをあやしまれた。
それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、
その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、
救のかぶとをその頭にいただき、
報復の衣をまとって着物とし、
熱心を外套として身を包まれた。
 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、
あだにむかって怒り、
敵にむかって報いをなし、
海沿いの国々にむかって報いをされる。
 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、
日の出る方からその栄光を恐れる。
主は、せき止めた川を、
そのいぶきで押し流すように、こられるからである。
 59:20 主は言われる、
「主は、あがなう者としてシオンにきたり、
ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/29

2020年11月29日3分メッセージ



 マタイ24章44節をお読みします。
だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

 2020年は本日、11月29日よりキリストの降誕を待ち望むアドベントが始まりました。毎年祝われるクリスマスですが、今年は思いがけない特別なクリスマスとなっています。
 イエス・キリストはマタイ24章において、弟子たちに世の終りについて語っています。世の終りがいつ来るのかは誰もわからないが、その前兆を見ることができる、ということを語りました。人々はキリスト(人の子)がこの世に再び現れることについていろいろと噂をするが、キリストは人々の「思いがけない時に」(マタイ24章44節)やって来る、ということです。
 約2千年前にキリストが最初に人となって来られた時、その誕生は人々に知られることもなく、人影でひっそりとお生まれになりました。しかし、神によって導かれたごくわずかな人々がキリストの誕生を知り、キリストを拝みました(ルカ2章、マタイ2章)。これがキリストの誕生を祝った最初のクリスマスでした。
 イエス・キリストはこの世界を、私たち人類を新しく作り変えるために来られます。私たちの日常も思いがけない変化にとまどうことも多くあるかもしれません。しかし、世界が変わっても、決して変わることのない真理はあります。その真理をキリストは言葉によって言い表されました(マタイ24章35節)。私たちもキリストの御言葉を耳に聞き、本当に大事な真理を守ってくださるキリストの御業を待ち望みつつ、今年のクリスマスを迎えてまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日常生活の思いがけない変化にとまどっています。しかし、イエス・キリストは私たちの本当に大事なものを守ってくださるお方です。今この時もキリストの救いの御業が行われてまいりますように。また私たちの心も良き変化に備えをすることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年11月29日(日) アドベント開始

 今年は11月29日からクリスマスの準備期間であるアドベントが始まりました。志村キリスト教会では、感染症対策を継続しつつ、毎週日曜日の礼拝の中でクリスマスをお祝いしていきます。いろいろと特別対応なクリスマスですが、決して失われてはいけない、一番大切なものを見届けるクリスマスでありたいと願っています。

2020/11/23

2020年11月29日の聖書日課

  

(写真:キミガヨラン)

マタイ24:36-44
 24:36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
 24:37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
 24:38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
 24:39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
 24:40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
 24:41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
 24:42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 24:43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
 24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/22

2020年11月22日3分メッセージ



 ミカ2章12節をお読みします。
ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、イスラエルの残れる者を集める。わたしはこれをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく。

 預言者ミカはこのように言って、神からのメッセージをヤコブ、すなわちイスラエルの人々に伝えました。その内容は、羊のように散らばった人々を狼のような危険から守るために、神は羊飼いのようにイスラエルを集めて守られる、ということです。
 しかし、イスラエルの人々は預言者の言葉に耳を貸さず、「説教するな」と言いました(ミカ2章6節)。紀元前8世紀頃のミカの時代、イスラエルの国は外敵に悩まされながらも一時の平和を味わっていました。そのため、人々は預言者の言葉をたわごとであると思ったのです。
 しかしながら、イスラエルの歴史を顧みると、ミカの時代には二つに分かれた北の王国が既に滅亡しており(紀元前721年)、南の王国も後の時代に滅亡してしまいます(紀元前586年)。そのことは、ミカの預言が知らせた「災」の通りです(ミカ2章3節)。結局、ミカの時代の人々は目先のことだけしか考えていなかったのです。
 聖書の神は、私たちが今見ていることより遥かに広く、遠い視野を持ってメッセージを語られます。私たちは聖書の言葉に謙虚になって耳を傾けましょう。そうすれば、私たちは人の知恵を超えた、神の知恵に学ぶことができます。神は良い羊飼いとして私たちを守り、養ってくださいます(詩篇23篇1節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたの思いは私たちの思いより遥かに高く、私たちのすべてを見通しておられます。私たちは聖書の言葉に目を留め、神のメッセージに耳を傾けます。どうぞ私たちに知恵を与え、迷いのない人生を歩ませてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/16

2020年11月22日の聖書日課

(写真:カキノキ)

ミカ2:12-13
 2:12 ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、
イスラエルの残れる者を集める。
わたしはこれをおりの羊のように、
牧場の中の群れのように共におく。
これは人の多きによって騒がしくなる。
 2:13 打ち破る者は彼らに先だって登りゆき、
彼らは門を打ち破り、これをとおって外に出て行く。
彼らの王はその前に進み、
主はその先頭に立たれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/15

2020年11月15日3分メッセージ



 使徒3章16節をお読みします。
イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くした…

 この言葉は、イエス・キリストの弟子ペテロが語った言葉です。
 ペテロは同じ弟子のヨハネとともにエルサレムの神殿に行きました。そこで足の不自由な男の人に出会いました。この男の人は、神殿を出入りする人々に施しを求めていました。ペテロたちにも同じように施しを求めました(使徒3章1~3節)。
 この男の人に対するペテロの返事は期待外れな内容でした。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3章6節)。しかし、その後に起きた出来事は期待以上のことでした。それは、足の不自由な男の人が立ち上がり、歩き出したのです(使徒3章7~8節)。
 周りの人々はこの出来事にひどく驚きました(使徒3章11節)。そして、このような奇跡を起こしたペテロとは、どれほどの大人物かと思ったことでしょう。しかし、ペテロは冒頭の言葉を語り、人々の期待から外れるような答えをしました。
 ペテロはこの言葉でキリスト教の本質を語っています。それは、クリスチャンや教会がキリスト教の名のもとに様々な立派な働きをしたとしても、キリスト教の本質はキリストを信じる信仰にある、ということです。そして、すべての良い出来事の源はキリストにある、ということです。それゆえにクリスチャンや教会はキリストを語るのです。
 クリスチャンは単なる人に過ぎません。しかし、クリスチャンは聖書を通してキリストの言葉を聞き、キリストの意志に従います。そして、キリストはクリスチャンを通して偉大な力を発揮されます。皆様もキリストを信じる信仰を通して、キリストの偉大な働きが現われ出るようになりますように、祝福をお祈りいたします。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ペテロは驚くべき奇跡の源としてキリストの名を語りました。私たちも良い物事の源であるキリストをよく知ることができますように。そして私たちの生涯を通してキリストの栄光が現われ出るようになりますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/09

2020年11月15日の聖書日課

  

(写真:ノコンギク)

使徒3:11-19
 3:11 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。
 3:12 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。
 3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
 3:14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、
 3:15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。
 3:16 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。
 3:17 さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。
 3:18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。
 3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/08

2020年11月8日3分メッセージ



 マタイ3章11節をお読みします。
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

 この言葉は、バプテスマのヨハネがイエス・キリストについて説明したものです。
 当時のイスラエルでは、身を清めるために水を浴びる、バプテスマという儀式が行われていました。ヨハネは多くの人々にこれを行ったので、バプテスマのヨハネと呼ばれました(マタイ3章6節)。
 しかし、ヨハネが人々に説いたのは「悔い改めよ」ということでした(マタイ3章2節)。悔改めとは、形だけ水を浴びることではなく、自分の罪を告白して、罪から決別する意志を持つことです。むしろ、ヨハネは見せかけだけのバプテスマを止めさせようとしたのです(マタイ3章7節)。
 さらにヨハネは、自分より力のあるのはキリストであると告げます。ヨハネのバプテスマは水でしかないが、キリストのバプテスマは火のように人々から罪を除き去る力がある、と告げているのです。
 キリスト教会は、クリスチャンになろうとする人に水のバプテスマ、すなわち洗礼式を授けます。それは、洗礼の水に特別な力があるというのではなく、キリストに真の罪の清めの力があることを示すものです。罪や罪責感に苦しんでいる人は、キリストによる罪からの清めを得るために、キリストのバプテスマを受けてください(使徒2章38節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち人間には罪に打ち勝つ力はありません。ただ、聖霊と火のバプテスマを授けられるイエス・キリストにこそ、罪に打ち勝つ力があります。私たちは自らの罪を告白します。どうぞ私たちを罪の力から救い出してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/07

2020年11月7日3分メッセージ



嵐から平安の人生へ  志村キリスト教会 生田ハエノ

 青春時代、元気で仕事に勉強にまっしぐらでしたから、信仰とか神に頼るとかは心も体もひ弱い人がすることで、私は違うと思い込んでいました。
 聖書を最初に手にとったのは、岡山県津山市の高等看護学院の学生時代でした。正看護師の資格を取るために、昼は看護学院で学び、夜は津山基督教図書館高校で学びました。高校の授業の一つに聖書の時間がありました。友逹に借りた聖書を机に立てて眠り、授業が終わって寮に帰ったら、国家試験に向けて一生懸命合格を目指して勉強しました。
 クリスチャンになってから思うのは、聖書を教えておられたのは校長の森本慶三先生でした。どの学科よりも大切な時間に寝ている私を憐れんで祈って下さり、また職員室の多くの先生方、皆さんで私の救いを神様に祈っていただいたのだと思っています。
 卒業して九州の大学病院に就職しました。看護師として楽しく働き、夜勤が終わった後、寝ないで遊びに行ったり、そんな無茶苦茶な生活がたたって、日本脳炎の疑いで隔離病棟に入院させられました。40度近い高熱が4日間もつづき、死ぬか脳障害になって生きるか、絶望的な中にいた時、ベットの脇に白い衣の人が立って「安かれ」と声をかけられました。私は1年前に亡くなった父だと思って「父ちゃん」とよびました。それから不思議に熱も下がり回復に向かいました。
 その後、結婚のため上京して、子育てが始まり、私の心は大風が吹き荒れていました。そんな時、トラクトを持って訪ねて来られた人(今は牧師先生になられた大越喬子先生)に誘われて教会に導かれました。祈りの時、涙はボロボロ、鼻水は滝のようにぐしゃぐしゃ、終わってから救われたと言われ、受け入れました。3ヶ月後、私は31才で洗礼を受けました。自我の壁が崩れたけれど、私という人間が作り上げられるまで年月がかかりました。今もその途上です。
 そして入院の頃、ひしがれている私の所に来てくださった「白い衣の人」はイエス・キリスト様だとわかりました。私が初めて聖書の御言葉を覚えたのは、マタイ10章26節です。「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」最初、心の隅まで見通されて私は怖いと思いましたが、本当の神様を感じました。そして、信仰は私の人生にマイナスになったことは一度もありません。今は平安の中で、魂の休息地の中で生きています。

2020/11/02

2020年11月8日の聖書日課

  

(写真:キチジョウソウ)

マタイ3:7-12
 3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
 3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
 3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
 3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
 3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
 3:12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/01

2020年11月1日3分メッセージ



 イザヤ44章6節をお読みします。
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない」。

 聖書は、信じるべき神はただひとりであると語っています。また、ただひとりの神のみを信じることを命じ、他の神々を信じることを禁じています(出エジプト20章3節)。
 イザヤ44章9節以降では、神々をかたどって作られた像を「偶像」と言って論じます。結局のところ、偶像とは神そのものではなく、人間の手によって作られたものにすぎない、と訴えています。
 この教えは、キリスト教が礼拝の対象として像や絵画等を用いないことの理由となります。キリスト教の文化でも優れた美術作品が数多く作られてきました。しかし、それは言わば視覚によって伝えられる神に関するメッセージです。
 さらに、聖書の神は偶像の神とは異なって、私たち人間に関わりを持とうとされるお方です。聖書の神はイスラエル、すなわち神を信じる神の民をあがない、救われるお方であり、人間の「初め」から「終り」に至るまで、全人類の歴史を通して関わりを持とうとされるお方です(イザヤ44章6節)。
 そして、神は私たちに御言葉をかけられ、私たちの人生の指針を示す教えを与えられるお方です(イザヤ44章7節)。神は人間にはっきりと悟らせるため、私たちの人生に奇跡を行われます。そのような体験をした者は神を証言する証人となる、と言われています(イザヤ44章8節)。ぜひ聖書のメッセージに耳を傾けてください。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるであろう。」(マタイ7章8節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち、人間の力には限界があります。私たち自身を救う力すらありません。私たちの初めと終りを知っておられる神様。私たちに寄り添ってくださり、御言葉の通り私たちをあがない、救いの御業を見させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年11月1日の聖書日課

 

(写真:ダリア)

イザヤ44:6-17

 44:6 主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、
万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終りである。
わたしのほかに神はない。
 44:7 だれかわたしに等しい者があるか。
その者はそれを示し、またそれを告げ、
わが前に言いつらねよ。
だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。
その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。
 44:8 恐れてはならない、またおののいてはならない。
わたしはこの事を昔から、
あなたがたに聞かせなかったか、
また告げなかったか。
あなたがたはわが証人である。
わたしのほかに神があるか。
わたしのほかに岩はない。
わたしはそのあることを知らない」。
 44:9 偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。
 44:10 だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
 44:11 見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。
 44:12 鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。
 44:13 木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。
 44:14 彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。
 44:15 こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。
 44:16 その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。
 44:17 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/25

2020年10月25日3分メッセージ



 黙示録21章3節、4節をお読みします。
神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。

 新約聖書の最後の書、黙示録は私たちに希望を示す書です。神の救いがいつ行われるかは明らかにされていませんが、救いがどのようにして行われるかを明らかにしています。
 「神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる」という言葉に、私たちは深く慰められます。このことが実現するために、聖書の神は二つのことを行われます。一つ目は、新しいものがやって来ることであり、二つ目は、古いものが過ぎ去ることです(黙示録21章1節)。
 新しいものは「着飾った花嫁のように…天から下って来る」と言われてます(黙示録21章2節)。このことは、以前の3分メッセージで引用した聖句、「永遠の家を上に着る」(コリント第二5章1,2節)という言葉と一緒です。神は私たちの涙の元となる古い人生を、上から喜ばしい、新しい人生で覆われるのです。
 神は私たちの古い傷を包んで、癒してくださいます。そのために私たちに聖書によって温かいメッセージを届けられ、私たちの近くに来られています。ぜひ聖書の神をあなたの心に迎え入れてください(黙示録3章20節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは過去の痛ましい出来事を思い返し、涙に暮れることがあります。その時、神様は私たちの涙をぬぐいとって下さると、御言葉によって約束されました。私たちも過去の自分に留まり続けるのではなく、新しい人生に向かって歩き出すことができますように。私たちの心の傷を癒してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/19

2020年10月25日の聖書日課

(写真:シュウカイドウ)

黙示録21:1-4
 21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
 21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
 21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
 21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2020/10/18

2020年10月18日3分メッセージ



 詩篇34篇18節、19節をお読みします。
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

 聖書の神は、私たち人間に正しい生き方を教える「主」として私たちを導かれます。しかし、正しい生き方をすれば悩み事が消えてなくなる訳ではありません。むしろ、正しい生き方をしたことが原因となって、災いが降ってくるような体験をすることがあります。
 聖書は、まさにそのような悩みを抱えている人にこう言って励ましています。「正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」(詩篇34篇19節)
 私たちは、周りの人々との間に角が立つことを恐れて、あえてなすべき正しい事を行わないことがあるかもしれません。あるいは、そのことで自分の心が傷ついてしまうことを恐れているのかもしれません。
 確かに、聖書の教える正しい生き方に従って生きる時、私たちの心が砕かれてしまうこともあるでしょう。しかし、それでも聖書は、「悪を離れて善を行いなさい」と私たちに勧めています(詩篇34篇14節)。なぜなら、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」のだからです(詩篇34篇18節)。
 聖書の神は、私たちの傷ついた心を癒し、私たちの最も大事なところを守ってくださるお方です(詩篇34篇20節)。私たちの命を守り、幸いで満たしてくださる神に従ってまいりましょう(詩篇34篇22節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心は深く傷ついています。しかし、心の砕けた者の近くに来てくださって、癒してくださる神様に身も心もお任せします。どうぞ私たちをあらゆる災いから助け出してくださり、神様が示される正しい道を歩むことができますよう、私たちをお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/12

2020年10月18日の聖書日課

(写真:キンモクセイ)

詩篇34:15-22
 34:15 主の目は正しい人をかえりみ、
その耳は彼らの叫びに傾く。
 34:16 主のみ顔は悪を行う者にむかい、
その記憶を地から断ち滅ぼされる。
 34:17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、
彼らをそのすべての悩みから助け出される。
 34:18 主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を救われる。
 34:19 正しい者には災が多い。
しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
 34:20 主は彼の骨をことごとく守られる。
その一つだに折られることはない。
 34:21 悪は悪しき者を殺す。
正しい者を憎む者は罪に定められる。
 34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。
主に寄り頼む者はひとりだに
罪に定められることはない。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/11

2020年10月11日3分メッセージ



 コリント第二5章4節をお読みします。
この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

 この聖句で言われている「幕屋」とは、移動式の住居であるテントを意味します。パウロはこの言葉で、人間の体のことを簡単に壊れてしまうテントにたとえています。
 テントも人間の体も、不具合が起きたら直すことができますが、それでも永遠に使い続けることはできません。しかし、人間として生きていくためには、不具合の起きた体を捨てるわけにはいかず、だましだまし使い続けていかなければなりません。そのことは、私たちにとって重荷であり、苦しみであるかもしれません。
 キリスト教の約束する救いは、まさにこの人間の体の苦しみの声に応えるものです。聖書の神は、人間のために壊れることのない堅固な建物、永遠の家を備えておられます(コリント第二5章1節)。それは、イエス・キリストを信じる者のために備えられている、天のすまいです(ヨハネ14章1~3節)。
 キリストを信じる時、私たちは自分を失ってしまうのではありません。そうではなく、私たちの人間としての弱さが、天から下ってくる神の力によって覆われて、神から頂く新しい命に満ちあふれることになるのです。私たちも神を見上げて、命にあふれた神の力を身にまといたいと思います。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの毎日の生活には疲れることも、くたびれてしまうこともあります。その時、私たちの弱さに目を留めるのではなく、私たちの弱さを覆う、神の力に目を留め続けることができますように。天からの命によって私たちを満たしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/05

2020年10月11日の聖書日課


(写真:イネ)

コリント第二5:1-10
 5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
 5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
 5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
 5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
 5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
 5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
 5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
 5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
 5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
 5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/04

2020年10月4日3分メッセージ



 ヨハネ10章30節、31節をお読みします。
「わたしと父とは一つである」。そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。

 イエス・キリストは聖書の神を「父」と呼んで、「わたしと父とは一つである」と言いましたが、それを聞いた人々はキリストに殺意を覚えて、石を取りあげました。
 それほどまでに感情的になった彼ら、ユダヤ人たちは聖書の神を信仰する「聖書の民」でした。彼らにとって、キリストの言葉は自らを神と同列において、神を汚していると考えたのです(ヨハネ10章33節)。
 しかし、キリストは自らが神であると言ったのではなく、「父なる神と一つである」と言いました。その意味は、キリストが父なる神の心を知っていて、言葉とわざにおいて神の御心と一致していることを示しています(ヨハネ10章15節)。
 そして、このことはキリストだけに当てはまることではなく、私たちも「神と一つとなる」ことができることを示しています。そのために、キリストは私たちに神の御心を教え、神の特別な祝福を受けた「神の民」として、私たちを導かれます(ヨハネ10章16節)。
 キリストは言葉だけではなく、わざによって神の御心を教えられます。イエス・キリストは私たちの祈りに応えてくださり、私たちにわかる形で神の真理を示されます(ヨハネ14章6節)。

 皆様の生涯にも、父なる神の良き御業が示されますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストは私たちに、「父による多くのよいわざを、あなたがたに示した」と語られました(ヨハネ10章32節)。その御言葉の通り、聖書の神が私たちの父であられ、私たちが神の守りの中を歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/01

2020年10月4日の聖書日課

 

(写真:コスモス)

ヨハネ10:31-42
 10:31 そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。
 10:32 するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。
 10:33 ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。
 10:34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
 10:35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
 10:36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
 10:37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
 10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。
 10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。
 10:40 さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。
 10:41 多くの人々がイエスのところにきて、互に言った、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」。
 10:42 そして、そこで多くの者がイエスを信じた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/27

2020年9月27日3分メッセージ



 歴代志下7章11節、12節をお読みします。
こうしてソロモンは主の家と王の家とを造り終えた。すなわち彼は主の家と自分の家について、しようと計画したすべての事を首尾よくなし遂げた。時に主は夜ソロモンに現れて言われた、「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。

 イスラエルの王ソロモンは「主の家」すなわち聖書の神を礼拝し、祈りをささげるための神殿を造ることを計画し、それをなし遂げました。
 神殿建設のために、ソロモンはそれにふさわしい綿密な準備を進めて、最高の資材と技術を惜しみなく投入しました(歴代志下2~4章)。そして完成させた後、聖書の教えに則った盛大な式典を行い、ソロモン自らイスラエルの国民全体のために祈りをささげました(歴代志下5~6章)。
 このようなソロモンの熱心な信仰と祈りに対し、神は神殿を受け入れて祝福し、神殿でささげられる祈りに耳を傾けることを約束されました(歴代志下7章15節、16節)。ソロモンの造った神殿は目を見張るような豪華さがありましたが、その内実たる信仰を伴ったものでした。
 私たちはこのソロモンの神殿建設と彼の祈りに、礼拝と祈りの模範を見ることができます。聖書の神は見た目の豪華さ以上に、私たちの礼拝と祈りの心を見られるお方です(サムエル記上16章7節)。そして私たちの心からの切なる祈りに応えてくださいます。
 もし私たちの人生に神の特別な祝福を得たいと願われるなら、ソロモンの信仰とともにエペソ2章22節の御言葉にならってまいりましょう。「そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ソロモンは彼の全身全霊をもって神を礼拝し、神に祈りをささげました。私たちも彼にならって祈りをおささげいたします。どうぞ私たちの体を神の家となして、神の祝福を受け継ぐ者とならせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/21

2020年9月27日の聖書日課

  

(写真:スイフヨウ)

歴代志下7:11-16
 7:11 こうしてソロモンは主の家と王の家とを造り終えた。すなわち彼は主の家と自分の家について、しようと計画したすべての事を首尾よくなし遂げた。
 7:12 時に主は夜ソロモンに現れて言われた、「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。
 7:13 わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、
 7:14 わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。
 7:15 今この所にささげられる祈にわたしの目を開き、耳を傾ける。
 7:16 今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/20

2020年9月20日3分メッセージ



 ペテロ第一2章21節をお読みします。
あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

 イエス・キリストの使徒ペテロは、小アジア地方(現在のトルコ・アナトリア半島)の各地に住むクリスチャンに宛てて、この励ましの手紙を書き送りました(ペテロ第一1章1、2節)。
 ペテロは「そうするように」と書いていますが、その意味するところはその言葉の前の部分に書いてあります。それは、「肉の欲を避ける」ことであり(ペテロ第一2章11節)、「国の制度に従う」ことであり(同13節)、「すべての人をうやまう」ことであり(同17節)、「主人に仕える」ことです(同18節)。
 これらのことは根本的には正しいことでありますが、時にその言葉に従うことが難しく感じることもあるのではないでしょうか。ペテロはさらに励ましとなる言葉も語っています。それは、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け」られたということです。
 キリストの生涯と語った言葉は、四つの福音書に記されています。それはまさに、ペテロが勧めた言葉の通りの生涯でした。しかし、キリストは彼に敵対する人々に苦しめられ、最後に十字架の死を遂げられました。キリストはご自分が語った言葉の通りに、「敵を愛する」生涯を遂げられました(ルカ6章35節)。
 聖書は私たちに自分勝手な生き方ではなく、正しい事に従う生き方を勧めています。正しい生き方をした結果、自らが苦しくなることがあるでしょうか。その時に、キリストを思いみてください。キリストは正しく生きる人々の苦しみを知っておられます。キリストは私たちに立場に立ち、私たちを守ってくださるお方です。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書を読むことで、正しい生き方を教えられます。聖書の言葉は私たちの心に深く入り込みます。どうぞ、聖書の教えに従う私たちを助けてください。あらゆる苦しみから救われて、キリストの道を歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/14

2020年9月20日の聖書日課

 

(写真:ハギ)

ペテロ第一2:11-25
 2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
 2:12 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
 2:13 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
 2:14 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
 2:15 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
 2:16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
 2:17 すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
 2:18 僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
 2:19 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 2:20悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
 2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
 2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
 2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
 2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
 2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/13

2020年9月13日3分メッセージ



 エレミヤ28章9節をお読みします。
平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ。

 聖書に記されている「預言」という単語は、「言葉を預かる」と書きます。この言葉とは「神の言葉」のことであり、預言者とは「神のメッセージの代言者」を意味します。預言の内容は未来の事柄だけではなく、過去の事柄について、また現在の事柄について聖書の神が語った言葉であり、預言者は神の言葉を命がけで人々に伝えました。
 しかし、聖書には預言者ハナニヤのように、自分で勝手に考え出した言葉を「神の言葉」として語る者がいました(エレミヤ28章1節)。そして、しばしば人々は平和のような耳ざわりのよい言葉を好んで聞きました。それに対し、預言者エレミヤは真の預言の言葉を判別する基準について、冒頭の聖書の言葉の通りに語りました。
 聖書の言葉は預言として、すなわち神の言葉として読む時に、救いをもたらす真の力を発揮します。さらに注意すべきことは、聖書の言葉を選り好みして読んではならないということです(第二テモテ4章3節、4節)。耳が痛くなるような聖書の個所が、かえって私たちに必要な健全な教えであることがあります。聖書をなるべく全体的に読むことが、私たちにかけがえのない心の富をもたらします(箴言参照)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはしばしば、聞きたい言葉だけに耳を開き、聞きたくない言葉に耳を閉じてしまいます。たとえ耳が痛くなるような話であっても、私たちの成長に役立つ本物の真理を知ることができますように。私たちの心の耳を開き、私たちの心に語りかけてください(サムエル上3章10節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/07

2020年9月13日の聖書日課

 

(写真:カクトラノオ)

エレミヤ28:1-17
 28:1 その年、すなわちユダの王ゼデキヤの治世の初め、その第四年の五月、ギベオン出身の預言者であって、アズルの子であるハナニヤは、主の宮で祭司とすべての民の前でわたしに語って言った、
 28:2 「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、わたしはバビロンの王のくびきを砕いた。
 28:3 二年の内に、バビロンの王ネブカデネザルが、この所から取ってバビロンに携えて行った主の宮の器を、皆この所に帰らせる。
 28:4 わたしはまたユダの王エホヤキムの子エコニヤと、バビロンに行ったユダのすべての捕われ人をこの所に帰らせる。それは、わたしがバビロンの王のくびきを、砕くからであると主は言われる」。
 28:5 そこで預言者エレミヤは主の宮のうちに立っている祭司とすべての民の前で、預言者ハナニヤに言った。
 28:6 すなわち預言者エレミヤは言った、「アァメン。どうか主がこのようにしてくださるように。どうかあなたの預言した言葉が成就して、バビロンに携えて行った主の宮の器とすべての捕われ人を、主がバビロンから再びこの所に帰らせてくださるように。
 28:7 ただし、今わたしがあなたとすべての民の聞いている所で語るこの言葉を聞きなさい。
 28:8 わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した。
 28:9 平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
 28:10 そこで預言者ハナニヤは預言者エレミヤの首から、くびきを取って、それを砕いた。
 28:11 そしてハナニヤは、すべての民の前で語り、「主はこう仰せられる、『わたしは二年のうちに、このように、万国民の首からバビロンの王ネブカデネザルのくびきを離して砕く』」と言った。預言者エレミヤは去って行った。
 28:12 預言者ハナニヤが預言者エレミヤの首から、くびきを離して砕いた後、しばらくして主の言葉がエレミヤに臨んだ、
 28:13 「行って、ハナニヤに告げなさい、『主はこう仰せられる、あなたは木のくびきを砕いたが、わたしはそれに替えて鉄のくびきを作ろう。
 28:14 万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、わたしは鉄のくびきをこの万国民の首に置いて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。彼らはこれに仕える。わたしは野の獣をも彼に与えた』」。
 28:15 預言者エレミヤはまた預言者ハナニヤに言った、「ハナニヤよ、聞きなさい。主があなたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた。
 28:16 それゆえ主は仰せられる、『わたしはあなたを地のおもてから除く。あなたは主に対する反逆を語ったので、今年のうちに死ぬのだ』と」。
 28:17 預言者ハナニヤはその年の七月に死んだ。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/06

2020年9月6日3分メッセージ



 ヨハネ8章12節をお読みします。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

 光はやみを打ち消します。暗やみの中では、物を見分けることが難しく、道をまっすぐに歩くことも困難です。そこに小さな光でもあれば物を見分けやすくなり、道から迷い出ることもなくなります。また生き物は日の光が無ければ健全に生きることができません。光は命をもたらします。
 イエス・キリストは自らを「世の光」であると言いましたが、ある人々はキリストの言葉を否定しました(ヨハネ8章13節)。彼らはまるで、キリストを自分の部屋から締め出しているようです。部屋から光を、つまり光を放つ光源を締め出してしまうなら、その部屋に残されるのは暗やみです。キリストの言葉を否定して耳をふさいでしまうなら、キリストから何も得ることはできません。
 キリストはこのような言葉も言っています。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14章6節)キリストから何らかの恩恵を受けたいなら、キリストの言葉に耳をふさぐのではなく、耳を開いて聴き、その言葉をしっかりと受け止めなければなりません。そうすればきっと心に光が当てられ、行きべき道筋が見えてくるはずです。
 キリストは「あなたがたは、世の光である」とも言っています(マタイ5章14節)。月は太陽の光を反映します。キリストの光をたくさん浴びるなら、私たちの身の回りも光に満ちてきます。光の中を歩んでまいりましょう(第一ヨハネ2章10節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々の生活の中で、光を見失ったように何もわからなくなってしまう時があります。そのような時、私たちがつまずいて希望を失うことのないよう、私たちに光を与えてください。どうぞイエス・キリストの言葉によって私たちを導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/05

イスラエル人の動物観

 神は人間に先んじて、水の生き物、空の鳥、地の生き物を「種類にしたがって」創造されました(創世記1:20-25)。その後、神は人を創造され、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられました(創世記1:28)。
 その後、神は人にそれらの多種多様な動物を名付けさせました(創世記2:19-20)。聖書、特に旧約聖書(ヘブル語)に記されている動物の生態の詳しさと種類の多さは、イスラエル人の観察力の高さを示しています。一方、魚類の名称がほとんど見られないのは、イスラエルに魚の棲める水場が少ないことが原因かもしれません。
 イスラエル人は「家畜」と「野の獣」をはっきりと区別していました(創世記1:24)。族長時代の人々は家畜を財産と見なし、家畜の多さが富を表しました(ヨブ1:3)。家畜に相当する動物の描写はかなり正確で詳しい一方、野の獣に相当する動物(例えばワシ、申命記32:11)については当時の人々の先入観に基づいていて、必ずしも動物の正確な生態を表している訳ではありません。
 一方、聖書は人間と動物の共通点も語っています(伝道3:18-21)。モーセの律法は動物に一定の権利を認めています(出23:12、レビ25:7)。神はノアと結んだ祝福の契約に動物も含めています(創世記9:9-17)。動物は日々の糧を神に祈り求め、神はその祈りに応えられます(ヨブ38:39-41)。時に、動物は神の使いとされて人を養い(第一列王記17:6)、人を正しい道へ導きます(民数記22:23-33)。聖書は動物を含む被造物の救済についても語っています(ローマ8:19-22)。
 律法において、人間の命を贖うために動物の命が犠牲とされました(出34:19-20)。しかし、犠牲とされる動物は「きよい動物」に限定され(創世記8:20)、「食べてよい生き物と食べてはならない生き物」を区別することが命じられました(レビ11章)。また異種交配は禁じられました(レビ19:19)。
 聖書は人間と動物が平和を保つべきことを語ります(ヨブ5:22-23)。動物も神の律法に服するものであり、神の契約により人と争うことがないようにされます(ホセア2:18)。私たち人類は、神の定められた区別に従い、共に神の恵みを分かち合うものとして動物に接していくべきです。 

参考資料:『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989年)より、動物関係の項目

2020/09/01

2020年9月6日の聖書日課

 

(写真:キツネノカミソリ)

ヨハネ8:12-20
 8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 8:13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。
 8:14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。
 8:15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。
 8:16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。
 8:17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。
 8:18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。
 8:19 すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。
 8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/30

2020年8月30日3分メッセージ



 ローマ7章4節をお読みします。
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。

 キリストの使徒パウロは、同じ信仰を持つローマ在住のクリスチャンを「兄弟」と呼んで、この聖句によってキリスト信仰の神髄を教えています。
 しかし、ここで語られていることは、クリスチャンやモーセの律法に従うイスラエル人だけに関わる問題ではありません。すべての人間に関わることであり、すべての人間は縛られている存在であることを語っています。すなわち、すべての人間は「律法」に縛られていると言っているのです。
 ここで言われている「律法」とは、具体的には国の法律や人の倫理などの形をとりますが、それによって人間のあらゆる社会が維持されている大切なルールです。基本的には人間はこのルールに従っているのですが、いったんルールを破ってしまうと、社会的な罰を受けたり、あるいは自らの心の良心により責められることが起ります。
 人間がこのルールから解放される方法はただ一つ、それは死んで悪事を行う力を失うことです。キリストの十字架の死は、ルールに縛られた人間を解放するためでした。
 しかし、忘れてはならないのは、このルールすなわち「律法」は消えて無くなった訳ではないことです。人間として生きていくためには律法に従わなければなりません。そのために、キリストは信じる者に「新しい霊」(ローマ7章6節)すなわち「新しいいのち」(ローマ6章4節)を与えるために復活されたのです。
 信仰は私たちを束縛するのではなく、私たちに自由を与えます(ガラテヤ5章1節)。また真の自由とは私たちの思い通りに生きることではなく、何ものにも責められることなく、私たちの自由な意思によってルールに従うことのできることを意味します(第一テサロニケ5章23節)。

 私たちも何ものによっても責められるところのない、自由な日々を送ることができますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは人間という器によって縛られている者です(ローマ7章24節)。私たちが正しい事にも従うことのできない弱さを感じています。どうぞ私たちのすべての罪をお赦しくださり、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちに自由を得させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/24

2020年8月30日の聖書日課

 (写真:ヤブラン)

ローマ7:1-6
 7:1 それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。
 7:2 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。
 7:3 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
 7:4 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
 7:5 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。
 7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/23

2020年8月23日3分メッセージ



 ヨブ28章28節をお読みします。
『見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである』

 ウヅの人、ヨブは持てるものすべてを失うという苦難に遭い、自らの人生と苦難の意味に答えうる知恵を探求しました。
 私たちが知恵を必要とする時、どうしたら良いでしょうか。学問を積むべきでしょうか。知恵ある人に助言を求めるべきでしょうか。人生の経験の中から知恵を見出だすべきでしょうか。
 ヨブは、かつて莫大な財産を持ち、家族や友人にも恵まれ、善に親しみ悪を退けるような人格者でもありました。そのヨブがすべてを失った後、彼はかつて自分のものとしていたものが彼を救うことができない現実を悟りました。知恵は「すべての生き物の目に隠され」ていて、決して金銭や努力では獲得できないものであるとヨブは語ります(ヨブ28章21節)。
 またヨブは自らの判断を放棄する、いわゆる「妄信」に陥りませんでした。ヨブは知恵を神の手の業の中に見いだしました。そして、神の業から知恵を学び取ろうとした結果、一つの結論に達しました。それは、「主を恐れることは知恵である」ということです(ヨブ28章28節)。
 ヨブが見いだした知恵は、イエス・キリストの言葉では「真理」と言い換えることができます。それは、私たち人間の力によって獲得できるものではありません。知恵を持つ者から授けられるものであり、その言葉に従うことが必要です。キリストはこのように語っています。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ヨブが知恵を求めたように、私たちも人生を歩むために知恵を必要としています。どうか、人間の知恵に勝る、天からの知恵を私たちに与えてください(ヤコブ3章17節)。私たちが天の知恵を用いて、私たちの人生を見つめ直すことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/17

2020年8月23日の聖書日課

(写真:オミナエシ)

ヨブ28:12-28
 28:12 しかし知恵はどこに見いだされるか。
悟りのある所はどこか。
 28:13 人はそこに至る道を知らない、
また生ける者の地でそれを獲ることができない。
 28:14 淵は言う、『それはわたしのうちにない』と。
また海は言う、『わたしのもとにない』と。
 28:15 精金もこれと換えることはできない。
銀も量ってその価とすることはできない。
 28:16 オフルの金をもってしても、
その価を量ることはできない。
尊い縞めのうも、サファイヤも同様である。
 28:17 こがねも、玻璃もこれに並ぶことができない。
また精金の器物もこれと換えることができない。
 28:18 さんごも水晶も言うに足りない。
知恵を得るのは真珠を得るのにまさる。
 28:19 エチオピヤのトパズもこれに並ぶことができない。
純金をもってしても、その価を量ることはできない。
 28:20 それでは知恵はどこから来るか。
悟りのある所はどこか。
 28:21 これはすべての生き物の目に隠され、
空の鳥にも隠されている。
 28:22 滅びも死も言う、
『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。
 28:23 神はこれに至る道を悟っておられる、
彼はそのある所を知っておられる。
 28:24 彼は地の果までもみそなわし、
天が下を見きわめられるからだ。
 28:25 彼が風に重さを与え、
水をますで量られたとき、
 28:26 彼が雨のために規定を設け、
雷のひらめきのために道を設けられたとき、
 28:27 彼は知恵を見て、これをあらわし、
これを確かめ、これをきわめられた。
 28:28 そして人に言われた、
『見よ、主を恐れることは知恵である、
悪を離れることは悟りである』と」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/16

2020年8月16日3分メッセージ



 詩篇146篇3節と5節をお読みします。
もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。…ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。

 神の民、イスラエル人は世代を超えて、同じ聖書の神を礼拝し、詩篇146篇のような賛美歌を歌い継いできました。
 長い歴史の中で、イスラエルの周辺には様々な国や君主が興り、また亡んでいきました。時には他国の支配に服することもありましたが、それらの支配者もまた消えていきました。
 イスラエルの国も、モーセに導かれた時代があり、王様や指導者によって導かれた時代があり、戦いに負けて国を失う時代もありました。彼らが歌う「もろもろの君」とは、諸外国のみならずイスラエルの国自体も含んでいます。
 そして、土から取られ、土に帰る人間(創世記3章19節)に信頼することは空しいことであることを告げて(詩篇146篇4節)、このように歌っています。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。」(詩篇20篇7節)
 私たち人間は周りの状況が変われば、それに合わせて変化していかなければなりません。しかし、時代が変わっても決して変わらない聖書の神に、私たちの救いの希望をおいていきたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは自分の見る所や、世の中の権力や評判に頼りがちです。しかし、次の瞬間には消えてなくなってしまうものではなく、決して消えることのないものに望みをおきます。どうぞ私たちの心をお守りください(マタイ6章19~21節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/10

2020年8月16日の聖書日課

(写真:キキョウ)

詩篇146:1-10
 146:1 主をほめたたえよ。
わが魂よ、主をほめたたえよ。
 146:2 わたしは生けるかぎりは主をほめたたえ、
ながらえる間は、わが神をほめうたおう。
 146:3 もろもろの君に信頼してはならない。
人の子に信頼してはならない。
彼らには助けがない。
 146:4 その息が出ていけば彼は土に帰る。
その日には彼のもろもろの計画は滅びる。
 146:5 ヤコブの神をおのが助けとし、
その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。
 146:6 主は天と地と、海と、
その中にあるあらゆるものを造り、
とこしえに真実を守り、
 146:7 しえたげられる者のためにさばきをおこない、
飢えた者に食物を与えられる。
主は捕われ人を解き放たれる。
 146:8 主は盲人の目を開かれる。
主はかがむ者を立たせられる。
主は正しい者を愛される。
 146:9 主は寄留の他国人を守り、
みなしごと、やもめとをささえられる。
しかし、悪しき者の道を滅びに至らせられる。
 146:10 主はとこしえに統べ治められる。
シオンよ、あなたの神はよろず代まで統べ治められる。
主をほめたたえよ。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/09

2020年8月9日3分メッセージ



 ヨハネ6章51節をお読みします。
わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

 キリストは五千人以上の人々にパンを与える奇跡を行いました。人々はそれに熱狂して、キリストを王様に担ぎ上げようとしましたが(ヨハネ6章1~15節)、キリストは先ほどお読みした言葉を語りました。
 人々はキリストが期待はずれだと思い、奇跡を体験したにもかかわらず彼の許を去りました(ヨハネ6章41節、42節、66節)。人々はパンを食べて満腹しましたが、キリストが語った「天から下ってきた生きたパン」を理解することができませんでした。
 キリストは目に見えるパンを用いて、目に見えない真理を伝えています。その真理とはこういうことです。私たち人間はパンやごはんを食べて体を養います。キリストは私たちの体や心だけではなく、永遠に続く私たちの霊魂を養う糧を与えられるのです。
 私たちの霊魂を養うために、キリストはご自分の肉を与えられます。それはキリストの十字架による犠牲を意味します。
 キリストはこのような祈りの言葉を教えられました。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」(マタイ6章11節)キリストは私たちの体や心だけではなく、私たちの霊魂を健やかにさせる糧を与えられます。私たちは今日もキリストの糧に養われて過ごしたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは毎日、身も心も養われる必要があります。どうぞ私たちの心の底からの飢え渇きを癒してください。キリストが賜る天からのパンによって、私たちを満たしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/03

2020年8月9日の聖書日課


(写真:カイコウズ)

ヨハネ6:41-51
 6:41 ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。
 6:42 そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。
 6:43 イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。
 6:44 わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。
 6:45 預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。
 6:46 神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。
 6:47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。
 6:48 わたしは命のパンである。
 6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
 6:50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
 6:51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/02

2020年8月2日3分メッセージ



 列王紀上17章13節、14節をお読みします。
エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。

 神の預言者であるエリヤは、神の言葉に従ってザレパテの町に行きました。その所で一人の女性を見かけて、食事を求めました。
 その時期、土地には雨が降らず、人々は飢きんに苦しんでいました。声をかけられた女性も、息子と二人暮らしであり、わずかな食料しか手元にないことをエリヤに正直に告げました(列王紀上17章1~12節)。その言葉に対し、エリヤは先ほどお読みした言葉を語ったのです。
 ザレパテの女性は神の預言者の言葉に従いました。彼女の思いとしては、目先の物事に生きる希望を失っていて、神の言葉にすべてを託そうとしたのかもしれません。その結果、彼女は神の言葉通り、飢きんの中で食事に不足することがありませんでした(列王紀上17章15節、16節)。
 この聖書の言葉は、私たちに信じることの大切さを教えています。またザレパテの女性の姿は、キリストが語られた「まことの礼拝」(ヨハネ4章23節)をはっきりと示しています。つまり、神の言葉はまこと(本当)であると信じ、神の救いを期待してまこと(誠実)の心で行動することが必要であるということです(ヘブル11章6節)。私たちも神に祈る時に、ザレパテの女性の誠実さにならって祈りましょう。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは「まことの礼拝」の心をもって祈る、その祈りを聞き届けてくださるお方です。私たちもまことの心をもって、素直に、誠実に祈ることができますように。私たちのまことの祈りを聞き届けてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/01

2020年8月2日の聖書日課


(写真:オトギリソウ)

列王紀上17:8-16
 17:8 その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 17:9「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。
 17:10 そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。
 17:11 彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
 17:12 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。
 17:13 エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。
 17:14 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。
 17:15 彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。
 17:16 主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/26

2020年7月26日3分メッセージ



 ヨハネ6章19節、20節をお読みします。
四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。

 ヨハネ6章は、キリストが「パン五つと、さかな二ひき」によって五千人以上の人々のお腹を満たした「奇跡」を伝えています(ヨハネ6章1~14節)。その後、キリストは人々と別れて祈りのため山にこもり(マタイ14章23節)、弟子たちは湖(ガリラヤの海)を舟で渡って家路につきました。
 ところが、湖が強い風のため急に荒れ出して、弟子たちの乗り込んだ舟が転覆しそうになりました。そのところに、キリストが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいてくる「奇跡」が起きたのです。
 このように、弟子たちはパンの「奇跡」の後に、湖の「奇跡」を見ました。そして、このことは、キリストが私たちに伝えようとされる同じ一つの「しるし」を意味しています(ヨハネ6章14節)。
 キリストが伝えようとしたのは「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章48節)ということです。先にはパンで空腹をいやし、後には水の難から救い出し、両方とも人に命を与えるお方であることをキリストは示されました。
 キリストは、「子(キリスト)を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得る」と語られました(ヨハネ6章40節)。キリストの約束される「命」が、私たちの願いが叶えられるという望ましい状況の中だけではなく、私たちの願わない災難の中にも「命」が見いだされることを、皆様も知ることができますようにと願います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。多くの人々はお腹を満たすパンだけを求め、弟子たちはキリストの奇跡を見て恐れました。しかし、キリストは「命のパン」であると語られます。私たちは良い時にも悪い時にも、キリストが私たちに永遠の命を与えるお方であることを知ることができ、どんな状況にあっても恐れず、前進することができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/20

2020年7月26日の聖書日課



(写真:ヤブカンゾウ)

ヨハネ6:16-21
 6:16 夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、
 6:17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
 6:18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
 6:19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
 6:20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
 6:21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/19

2020年7月19日3分メッセージ



 使徒24章14節、15節をお読みします。
ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。

 使徒行伝24章は、キリストの使徒パウロが、ユダヤを統治するローマ帝国の総督の裁きを受けた出来事を報告しています。パウロは被告人であり、原告はパウロと同じユダヤ人でした。
 訴えの内容は宗教上の問題でした。それは本来、総督が裁判として取り扱わない案件でした(使徒18章12~16節)。さらに原告のユダヤ人たちの訴えは根拠の弱いものであり(使徒21~23章参照)、パウロにとって不当な裁判でした。
 しかし、このパウロの仕打ちは、キリストの言葉と生涯を思い起こさせます。キリストは弟子たちに対してこのように語りました。「人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。」(ルカ21章12節)またキリストご自身が総督ピラトに引き渡され、不当な裁判により十字架にかけられたのでした(マタイ27章参照)。
 キリストが語った言葉には約束も伴っています。それは、裁判に引き出されるその時、語るべき言葉が与えられるであろう、ということです(ルカ21章13~15節)。キリストは不当な裁判の結果、人類のための救いとなりました。パウロは裁判の後も命永らえて、新しい土地に送られて人々を教え、新約聖書に多くの手紙を書き残しました。
 聖書の神は「神を愛する者たち」のため、「万事を益となるようにして下さる」お方です(ローマ8章28節)。私たちの苦難を益に変えてくださる神を仰いでまいりましょう。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの目の前に苦難と見えるものがあります。万事を益へと変えられる神様。私たちがこの所から前に進めるように、希望の御言葉をください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/13

2020年7月19日の聖書日課



(写真:ギボウシ)

使徒24:10-21
 24:10 そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。
「閣下が、多年にわたり、この国民の裁判をつかさどっておられることを、よく承知していますので、わたしは喜んで、自分のことを弁明いたします。
 24:11 お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。
 24:12 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、
 24:13 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。
 24:14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、
 24:15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。
 24:16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。
 24:17 さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。
 24:18 そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。
 24:19 ところが、アジヤからきた数人のユダヤ人が――彼らが、わたしに対して、何かとがめ立てをすることがあったなら、よろしく閣下の前にきて、訴えるべきでした。
 24:20 あるいは、何かわたしに不正なことがあったなら、わたしが議会の前に立っていた時、彼らみずから、それを指摘すべきでした。
 24:21 ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/12

2020年7月12日3分メッセージ



 ホセア14章1節をお読みします。
イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。

 聖書の神は、神の民であるイスラエルに対して、家出した子どもを呼び戻すように「帰れ」と呼びかけています。
 聖書は度々、家出のたとえを用いて私たちに語りかけます。新約聖書でも「放蕩息子」のたとえ話があります。息子は父親から財産をもらって実家を飛び出しましたが、財産をすべて放蕩して使い果たしてしまいました。それから息子は困窮の末に実家に帰るのですが、父親は大喜びでこの息子を家に迎えました(ルカ15章11~32節)。
 ホセア書の冒頭には大変印象深い出来事が語られています。預言者ホセアはゴメルという女性と結婚しました。しかし、ゴメルはホセアから離れて、不道徳な生活をして身を持ち崩し、身売りする立場となってしまいます。そのようなゴメルを、夫のホセアは金を払って身受けするのでした(ホセア1~3章)。
 この放蕩息子やゴメルのように、期待に背いて自分勝手に家を飛び出してしまうような者であっても、聖書の神は彼らが正しい立場に立ち返ることを願っています。これらのたとえ話は、私たちに向けられた神の熱い思いを語っています。
 聖書の神はゆるしの神であり、いやしの神です(ホセア14章4節)。現状は悲惨な状況であり、それは自分に落ち度があったためだと気づいている人は、悔い改めを促す神の呼び声を聞いて、神の救いを求めましょう。悔い改める人に、神は助けの御手を伸べてくださいます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは家出した子に対し「帰れ」と呼びかけておられます。私たちの心にこの神の呼び声を聞くとき、その時、私たちは素直に神のもとに立ち返ることができますように。行くべき道を見失っているすべての人が、神のもとに帰ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/06

2020年7月12日の聖書日課


(写真:ホウセンカ)

ホセア14:1-7
 14:1 イスラエルよ、
あなたの神、主に帰れ。
あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。
 14:2 あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、
「不義はことごとくゆるして、
よきものを受けいれてください。
わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。
 14:3 アッスリヤはわたしたちを助けず、
わたしたちは馬に乗りません。
わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって
『われわれの神』とは言いません。
みなしごはあなたによって、
あわれみを得るでしょう」。
 14:4 わたしは彼らのそむきをいやし、
喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。
 14:5 わたしはイスラエルに対しては露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張り、
 14:6 その枝は茂りひろがり、
その麗しさはオリブの木のように、
そのかんばしさはレバノンのようになる。
 14:7 彼らは帰って来て、わが陰に住み、
園のように栄え、
ぶどうの木のように花咲き、
そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/05

2020年7月5日3分メッセージ



 ヨハネ4章36節をお読みします。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

 聖書では、大事な真理を伝えるために、農業の例え話が多く語られています。一つ例を挙げると、大きなぶどう園の収穫のために多くの労働者を雇った、というような話もあります(マタイ20章1~16節)。
 農業の仕事は非常に多くの労力と時間が必要です。大農場の場合は、一人では仕事を賄いきれず、多くの労働者が必要になってきます。その場合、最初に作物の種をまく人と、最後に作物を刈り取る人が別であることもありえます。それぞれの仕事をしている労働者が、農場のすべての仕事、すべての労働者を把握しきれないこともあるでしょう。
 最初にお読みしたたとえ話を語ったイエス・キリストは、私たちが日々生活している人間社会について大事な真理を語っています。特に世界中と常に関わりを持たざるを得ない現代社会は、社会全体を把握することは極めて困難です。また、お互い同士がいつも変わらず信頼し合って生活しているという訳でもありません。時に人から手痛い仕打ちを受けて、社会から離れていたいと思うこともあると思います。
 キリストは、聖書の神は「収穫の主」であり、神に助けを祈り求めよ、と語っています(マタイ9章38節)。聖書の神はこの世界を導く主人であり、たとえ世界で生きる人々が異なった立場に立とうとも、「共々に喜ぶため」に世界全体を導かれるお方です。世界の混乱した部分に目を留めるのではなく、世界の主である神に目を留められますようお勧めします。

 皆様が「永遠の命」に満たされて日々を過ごすことができますよう、お祈りいたします。
 天の父なる神様。私たちは日ごとの糧を得るために、日々それぞれの働きをしています。しかし、私たちはたった一人で生きている訳ではありません。収穫の主であられる神様。様々な人間関係に悩む私たちをお助けくださり、共々に喜びながら日々を過ごすことができますよう、私たちをお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/01

2020年7月5日の聖書日課


(写真:アジサイ)

ヨハネ4:27-42
 4:27 そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
 4:28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
 4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
 4:30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。
 4:31 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。
 4:32 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。
 4:33 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。
 4:34 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。
 4:35 あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
 4:36 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
 4:37 そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
 4:38 わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。
 4:39 さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。
 4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。
 4:41 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
 4:42 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/28

2020年6月28日3分メッセージ



 ミカ4章5節をお読みします。
すべての民はおのおのその神の名によって歩む。しかしわれわれはわれわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。

 聖書の民であるイスラエル人は、人の名前を重視します。彼らは、人の名前にその人の性質が表れると考えるからです。そのために出エジプトの指導者、モーセは人々に説明するために、神の名前を尋ね求めました(出エジプト3章13節)。
 聖書には、神の性質を説明する神の名前が多く記されています。モーセに告げられた神の名前「ヤハウェ(主)」とは、「わたしは有る」という意味です(出エジプト3章14節)。また、神を賛美する目的で、神の名前を人の名前に組み込むこともよくあります。「ミカ」という名前は、「誰が主のような方であろうか」という意味です(ミカ1章1節、7章18節参照)。
 イスラエル人にとって名前をつけたり、名前を呼ぶことは、神への信仰を告白することにつながります。先ほどお読みした聖書の言葉、「われわれの神、主の名によって、とこしえに歩む」とは、日々の生活の中で信仰を実践していく決意を示しています。
 皆さんにとって「神」とはどのような存在でしょうか。聖書の神は、決まりきったご利益だけに働くお方ではありません。決して一言だけで言い表すことのできない、数多くのすばらしい性質が「神の名前」として聖書にちりばめられています。私たちが知っている以上の豊かな神の名前を、聖書を読んで発見してみてください。きっと皆さんの人生がより豊かにされるはずです。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。信仰の先人たちは、神なるあなたの御名を呼び、あなたは彼らにお答えになりました(詩篇99篇6節)。「わたしは有る」と言われる神様。あなたが確かにおられることを私たちに示してください。そして私たちの切なる祈りを聞き届けてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/22

2020年6月28日の聖書日課



(写真:トケイソウ)

ミカ4:1-7
 4:1 末の日になって、
主の家の山はもろもろの山のかしらとして
堅く立てられ、
もろもろの峰よりも高くあげられ、
もろもろの民はこれに流れくる。
 4:2 多くの国民は来て言う、
「さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家に行こう。
彼はその道をわれわれに教え、
われわれはその道に歩もう」と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
 4:3 彼は多くの民の間をさばき、
遠い所まで強い国々のために仲裁される。
そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかってつるぎをあげず、
再び戦いのことを学ばない。
 4:4 彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、
そのいちじくの木の下にいる。
彼らを恐れさせる者はない。
これは万軍の主がその口で語られたことである。
 4:5 すべての民はおのおのその神の名によって歩む。
しかしわれわれは
われわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。
 4:6 主は言われる、その日には、
わたしはかの足のなえた者を集め、
またかの追いやられた者および
わたしが苦しめた者を集め、
 4:7 その足のなえた者を残れる民とし、
遠く追いやられた者を強い国民とする。
主はシオンの山で、今よりとこしえに
彼らを治められる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/21

2020年6月21日3分メッセージ



 第一ヨハネ2章27節をお読みします。
あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。…

 新約聖書に収められている手紙のほとんどは、キリストの使徒から教会に宛てて書かれたものです。先ほどお読みした「ヨハネの第一の手紙」も同じです。この手紙の中の「あなたがた」とは、教会のクリスチャンたちのことを指しています。
 「キリストからいただいた油」とは、キリストがクリスチャンに注ぐと約束された「神の御霊」すなわち「聖霊」を意味します(ヨハネ7章37~39節)。それは「真理の御霊」(ヨハネ14章17節)とも言われていて、クリスチャンに真理を悟らせる力を持っています。
 私たちクリスチャンは、人生の真理を学ぶために聖書を読み、聖書から多くのことを教えられます。また教会の交わりの中で、多くのクリスチャンたちから教えられることもあります。しかし、聖書が教える真理とは、誰にも理解できないような高度な知識ではありません。むしろ、誰の心のうちにもある当たり前の知識でありながら、その本質を自分のものとすることが難しいようなものです。そのような真理の一つは「愛」です(第一ヨハネ2章5節)。
 そのような大切な真理を自分のものとするために、私たちはキリストが賜る油、すなわち真理の御霊が必要です。

 皆様の心のうちに真理の御霊が豊かに注がれますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書を読むことを通じて、多くの大切な真理について学ぶことができます。これらの真理がいかなるものであるかを知ることができるように、また知るだけではなく、真理に導かれて充実した日々を送ることができるように、私たちにキリストの油を、真理の御霊を注いでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/15

2020年6月21日の聖書日課


(写真:ドクダミ)

第一ヨハネ2:22-29
 2:22 偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。
 2:23 御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。
 2:24 初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。
 2:25 これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである。
 2:26 わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。
 2:27 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
 2:28 そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。
 2:29 彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/14

2020年6月14日3分メッセージ



 申命記6章20節、21節をお読みします。
後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。その時あなたはその子に言わなければならない。…

 今回お読みした申命記は、イスラエル人をエジプトから脱出させたモーセが人生の終わりに語った言葉です。モーセは十戒を始めとする数々の戒めによりイスラエル人を教育しました。
 今日も私たちクリスチャンは、何千年も昔のモーセの言葉に学んでいます。聖書の教えは、時代を超えた普遍的な真理を語っていると信じているからです。また旧約聖書も新約聖書も、後々の時代の子々孫々に至るまで聖書の真理を教えよ、と命じています(黙示録22章10節)。
 申命記においても、聖書の真理を心に留め、それを後の時代の子孫に受け継がせよ、と命じています(申命記6章6、7節)。自分だけ良ければ、あるいは今だけ良ければそれで良い、というのは聖書の精神には合いません。
 また、聖書の命令に従う信仰は、ほかの人々に説明できないような非合理的なものでは良くありません。子どもというものは、すべての物事に理由を求めます。そして、自ら納得の行く答えを得られると、それを自分のものとすることができます。それは信仰も例外ではありません。
 実は、私もクリスチャンの両親の信仰を間近に見ていました。そして、信仰の価値を見いだすことができたので、私自身の信仰を持つようになりました。皆様も、時代を超える真理を聖書に見いだし、自分のものとされますようにと願います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの手元に聖書があります。これは遥か昔の時代から、雲のように多くの人々の手を経て、私たちに届けられました(ヘブル12章1節)。多くの人々が見いだした真理を、私たちも自分のものとすることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/10

2020年6月10日(水) 志村キリスト教会の現況

都内では東京アラートが発動中ですが、
教会は元より休業要請の対象となっていません。
※参考:施設別休止要請の緩和ステップ(東京都防災ホームページ)
ですが、教会活動が「3密」とならないために、
現在は以下の感染症対策を講じて集会を行っています。

1.集会時間を1時間に短縮する
2.座席等のソーシャルディスタンスを確保する
3.礼拝堂の換気を徹底して実施する
4.食事会等の感染リスクの高い行事を中止する
5.集会出席者に手洗い、マスク等を要請する

志村キリスト教会にお越しの際には、
上記の感染症対策へのご協力をお願いいたします。

皆様のご健康の守りのため、感染症問題の一日も早い終息のためお祈りいたします。

2020/06/08

2020年6月14日の聖書日課


(写真:シロタエギク)

申命記6:17-25
 6:17 あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。
 6:18 あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。
 6:19 また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。
 6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。
 6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
 6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
 6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。
 6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。
 6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/07

2020年6月7日3分メッセージ



 第一テモテ6章12節をお読みします。
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。

 今回お読みした「テモテヘの第一の手紙」は、イエス・キリストの使徒パウロからテモテに宛てた手紙です。
 パウロが書いた手紙は新約聖書に数多く収められています。パウロの手紙を読んでわかるのは、彼はスポーツが好きで、手紙の中にスポーツの言葉が多く出てくることです。例えば、このような言葉があります。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(第二テモテ4章7節)
 最初にお読みした「信仰の戦い」とは、スポーツの試合のことを思い描いています。パウロは、試合に勝って賞を得られるよう頑張りなさい、と語っているわけです。そして、その賞品として得られるのが「永遠のいのち」です。
 現実のスポーツの世界には様々な駆け引きがあるかもしれません。しかし、公正な競技であるためには、定められたルールに従わなければなりません。また、勝ち負けを決することで人間関係が壊れてしまうべきではなく、お互いに優れている点を認め合うべきです。
 信仰の世界でも、得意不得意が表れることがあるでしょう。しかし、一人びとりが神から与えられたタレント(タラント、マタイ25章14~32節)を生かして生涯を全うするとき、人ではなく神がその人を正しく評価してくれます。聖書の神は賞品を、神を信じ従う者に「だれにでも授けてくださるのです。」(第二テモテ4章8節)
 神はすべての人にかけがえのない人生を与えられ、励ましのエールを送っておられます。私たちは、「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうでは」ありませんか(ヘブル12章1節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは人生を歩む中で、時に息切れを起こして立ち止まってしまうこともあります。その時、私たちを励ましてくださる神の御言葉を心に聞くことができますように。たどり着くべきゴールに至るまで、私たちを支えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/01

2020年6月7日の聖書日課

(写真:ユキノシタ)

第一テモテ6:11-16
 6:11 しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。
 6:12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
 6:13 わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。
 6:14 わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。
 6:15 時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。
 6:16 神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/31

2020年5月31日3分メッセージ



 エゼキエル37章3節をお読みします。
彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

 神のメッセンジャー(預言者)であるエゼキエルは、キリストの弟子ヨハネと同じように、神のメッセージを不思議な光景を見ることによって受け取りました。
 その光景は異様なものでした。エゼキエルは見渡す限りの人の骨を見たのです(エゼキエル37章1節)。その後、神はエゼキエルにこう問いかけました。「これらの骨は、生き返ることができるのか」。
 皆さんなら、この問いかけに何を思い、何と答えられるでしょうか。ある方は「人の骨が生き返るなんて起こりっこない」と答えられるかもしれません。
 エゼキエルは「はい」とも「いいえ」とも言いませんでした。恐らく、複雑な思いを抱きながら、「神のみぞ知る」というような答えをしたのだと思います。
 その後、エゼキエルはまたも不思議な光景を見ました。バラバラに散らばっていた無数の骨が組み合わさり、肉体が生じ、息を吹き返した人々が大群衆となって立ち上がったのです。神はこの光景の意味するところを教えました。無数の骨は、生きる希望を失い、心がバラバラになった人々の姿である、と言うのです(エゼキエル37章7~11節)。
 人はたとえ何不自由ない生活をすることができたとしても、心に生きる希望がなければ人として生きていくことができません。聖書の神は、人に日々の糧を与えるだけではなく、人間らしく生きていくために必要なものを与えて、心を生かしてくださいます。私たちも心に「神の国」を持つ者となりたいと思います(マタイ6章33節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。近ごろの私たちは思いがけない出来事を経験して、人として生きていくために必要なものは何であるかを考えさせられています。あなたは私たち人間が健やかに生きていくために必要なものすべてをご存じです。私たちが神の守りを得て、明日に希望を見いだして生きることができるようにしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/25

2020年5月31日の聖書日課

(写真:サツキ)

エゼキエル37:1-14
 37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
 37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
 37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
 37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
 37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
 37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
 37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
 37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
 37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
 37:11 そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
 37:12 それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
 37:13 わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
 37:14 わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/24

2020年5月24日3分メッセージ



 黙示録5章12節をお読みします。
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。

 黙示録は、イエス・キリストの弟子ヨハネがキリストから授かったメッセージを記録したものです(黙示録1章1節)。
 ヨハネは不思議な光景を目の当たりにしましたが、そのうちの幾つかの物は聖書の民であるイスラエル人のヨハネにもはっきり理解できました。そのように、黙示録は他の聖書の知識を活用することで本来の意味を知ることができます。
 ヨハネが見たのは「ほふられた小羊」でした。羊はイスラエル人の代表的な家畜であり、神への礼拝の際にほふって殺され、生贄として捧げられました。しかし、ヨハネが見た小羊はほふられたにも関わらず、生きていて目の前に立っているのでした。
 イスラエル人でありキリストの弟子であるヨハネは、「ほふられた小羊」が取りも直さずイエス・キリストを示すことがわかりました(ヨハネ1章29節)。キリストは十字架で血を流されましたが、その血は全人類を救うための生贄となりました。また、十字架の死から三日目の復活は、私たちを救って命を与えるためのものでした(黙示録5章9、10節)。
 キリストの救いの業は、小羊のように犠牲になることによって実現されたものです。キリストの救いに与るために、私たちは力や富を蓄える必要はありません。必要なのはキリストを信じることだけです。信じる者に、キリストはあらゆる力や富に勝る天からの祝福を注いでくださいます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ヨハネは迫害に苦しむ者のために黙示録を残しました。今日も私たちは、この聖書の中に救いの希望を見いだすことができます。ほふられた小羊であるイエス・キリストが、私たちの苦しみを取り除き、希望をもって日々を生きることができますようにお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)