2020/04/26

2020年4月26日3分メッセージ



 ヨハネ21章12節をお読みします。
イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。

 ヨハネ21章では、イエス・キリストと彼の弟子たちとの暖かい交流の情景が描かれています。一見したところ、何気ない日常の風景と見えなくもありません。ですが、弟子たちにとっては、言葉に表し切れないような深い意味をもった出来事でした。
 その日の前夜の事、弟子たちの多くは魚をとる漁師だったので、彼らは生活のために漁に出ました。しかし、夜通し漁をしても、魚は一匹もとれませんでした(3節)。
 夜が明けたころ、彼らの先生であるキリストが岸辺に立っていました。しかし、不思議なことに弟子たちはその人が先生であることに気がつきませんでした(4節)。それには訳があります。この時、キリストは十字架の死、および三日目の復活の後であったからです。
 キリストの復活を意味するイースターの後、キリストは以前と同じように弟子たちと生活を共にすることはなくなりました。しかし、弟子たちが助けを必要とする時に、キリストは彼らの前に姿を現しました。
 その後、弟子たちは多くの魚がとれる奇跡を見て、その人がキリストであることに気がつきました(6、7節)。ですが、それよりも、懐かしい先生との一緒の食事に、彼らは大変力づけられたはずです(9~13節)。
 今日の私たちクリスチャンにとっても、キリストはそれと同じような関係にあるのだと思います。イエス・キリストは私たちが一番必要とする時に、一緒にいて力づけてくださるお方です。キリストはこう言って約束しておられます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは一人であっても、多くの人々と一緒であっても、支えられることを求めて心細くなる時があります。そのような時、「いつも共にいる」と言われるキリストの約束の通り、私たちを支え、励ましてくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年4月26日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)「さあ()て、食事(しょくじ)をしなさい」
ヨハネ21:3-13(お()ちの聖書(せいしょ)をお()みください)

 2020(ねん)のイースターから2週間(しゅうかん)()ちました。(わたし)たちの毎日(まいにち)生活(せいかつ)には()くなる(きざ)しが()えません。それはまるで、イエス(さま)復活(ふっかつ)されたという事実(じじつ)()りながらも、この(さき)どうなっていくかがわからず、(おそ)(まど)っている(しゅ)弟子(でし)たちの気持(きも)ちと(おな)じです。
 そのような時期(じき)に、弟子(でし)たちはガリラヤ()(さかな)をとっていました。この弟子(でし)たちの姿(すがた)(みな)さんもいろいろと(かん)じるところがあると(おも)います。ですが、(しゅ)弟子(でし)たちをどのように(おも)われたでしょうか?今日(きょう)はヨハネ21(しょう)御言葉(みことば)()んで、(しゅ)弟子(でし)たちにどのようになさったのかを()りましょう。そして、(しゅ)今日(こんにち)(わたし)たちにも(おな)じようになされることを(おも)って、御言葉(みことば)(みみ)(かたむ)けてまいりましょう。
 弟子(でし)たちが(りょう)をしていた理由(りゆう)は、(なに)よりも生活(せいかつ)のためでした。(かれ)らのうちの(おお)くはガリラヤの漁師(りょうし)でしたので、(かれ)らにとって(りょう)とは特別(とくべつ)なことではなく、()たり(まえ)のことでした。しかし、(りょう)をしたにも(かか)わらず(さかな)がとれなかったのは当前(とうぜん)なことではありませんでした。夜通(よどお)(はたら)いた(かれ)らは、心身(しんしん)ともに(こた)えたことでしょう(3(せつ))。
 そこに、(しゅ)がやさしく(こえ)をかけられ、大漁(たいりょう)奇跡(きせき)(あら)わされたのです(4~6(せつ))。弟子(でし)たちの(おどろ)きは、どれほど(おお)きかったことでしょう。また、(しゅ)弟子(でし)たちに()けられた(あわれ)みと(めぐ)みの(おお)きさはどれほどであったか、(わたし)たちもじっくりと(あじ)わってみるべきです。
 さらに、(しゅ)がなされた「大漁(たいりょう)(きせき)」は、弟子(でし)たちにとっても、今日(こんにち)(わたし)たちクリスチャンにとっても、特別(とくべつ)意味(いみ)があります。それは、ペテロたち、(しゅ)最初(さいしょ)弟子(でし)たちは「人間(にんげん)をとる漁師(りょうし)」として(しゅ)()()された(もの)であるからです(ルカ5:1-11)。(かれ)らは大漁(たいりょう)奇跡(きせき)()て、(しゅ)だとわかったと同時(どうじ)に、(しゅ)最初(さいしょ)出会(であ)った(とき)のことも(なつ)かしく(おも)()したに(ちが)いありません。
 また、弟子(でし)たちにとって、(なつ)かしい(しゅ)一緒(いっしょ)食事(しょくじ)ができたことは、よりいっそう(おお)きな(はげ)ましとなったことでしょう。(かれ)らは言葉(ことば)(すく)なく、(しゅ)がいつものように()けてくださったパンと(さかな)()べ(13(せつ))、(からだ)(こころ)()たされ、(いや)されたのです。
 (しゅ)復活(ふっかつ)見届(みとど)けた弟子(でし)たちに必要(ひつよう)なのは、休息(きゅうそく)食事(しょくじ)(はげ)ましでした。(しゅ)弟子(でし)たちの必要(ひつよう)をよく()られて、(かれ)らに(ちか)づかれ、(かれ)らの必要(ひつよう)十分(じゅうぶん)()たされました。今日(こんにち)(わたし)たちクリスチャンにも(しゅ)(おな)じようにしてくださいます。
 (しゅ)はこのように()って約束(やくそく)してくださいました。「()よ。わたしは、()()わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)今日(きょう)(わたし)たちは(しゅ)御約束(みやくそく)感謝(かんしゃ)して(いの)りましょう。そして、(しゅ)約束(やくそく)してくださった聖霊(せいれい)(もと)めて(いの)(つづ)けましょう(ヨハネ20:22)。

(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2020/04/20

2020年4月26日の聖書日課

(写真:ネモフィラ)

ヨハネ21:1-14
 21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
 21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
 21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
 21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
 21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
 21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
 21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
 21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
 21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
 21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
 21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
 21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
 21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
 21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/04/19

2020年4月19日3分メッセージ



 出エジプト15章2節をお読みします。
主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。

 旧約聖書の出エジプト記は、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトの国を脱出する出来事を語っています。イスラエル人はエジプトでは奴隷として苦しみ、エジプトを脱出した後は生き延びるために様々な苦しみを味わいました。
 エジプトを脱出した直ぐ後に、イスラエル人はかつての支配者であったエジプト人から追いかけられましたが、海を割って渡る奇跡によって救われました。彼らは多くの救いの体験を振り返り、神に感謝してこの出エジプト15章の言葉を賛美歌として歌いました。
 イスラエル人はエジプトで苦しむことによって、神に救いを求めて祈り始めました(出エジプト2章23節)。そして、大きな奇跡を体験することによって、神に感謝して賛美することを始めました(出エジプト15章1節)。イスラエル人は神に祈り、神に賛美することで、神の民として整えられていきました。
 彼らと同じ聖書の神を信じるクリスチャンも同じです。クリスチャンは必ずしも清くて強く、助けを必要としない者ではありません。悩み、苦しむ時、神に助けを求めて祈るのがクリスチャンであり、助けを得て神に賛美するのがクリスチャンの本来の姿です。

 神の救いを必要としておられる方は、今日もご一緒にお祈りしたいと思います。
 天の父なる神様。私たちは神による大きな奇跡を必要しています。イスラエル人が救いを求めて祈り、救いを得て賛美したように、私たちも大いなる神の力を賛美しつつ、救いを祈り求めます。病に苦しむ全世界の人々を救ってください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年4月19日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)「いと(たか)(かた)(たた)える」
(しゅつ)エジプト15:1-6(お()ちの聖書(せいしょ)をお()みください)

 今日(きょう)はモーセと(かみ)(たみ)イスラエル(じん)の歌った賛美歌(さんびか)()きましょう。イスラエル(じん)奴隷(どれい)として(くる)しんだエジプトを脱出(だっしゅつ)しました。その()(あと)に、エジプト(じん)がイスラエル(じん)()いかけて()ましたが、神様(かみさま)(うみ)()けて、イスラエル(じん)(うみ)(わた)って(すく)われました。(しゅつ)エジプト15(しょう)言葉(ことば)は、このような神様(かみさま)(おお)きな奇跡(きせき)感謝(かんしゃ)して(うた)った賛美歌(さんびか)歌詞(かし)です。
 (いま)(みな)さんは賛美歌(さんびか)()いたり、(うた)ったりすることのできる(こころ)状態(じょうたい)でしょうか。ある(ひと)は、(こころ)(いし)のように(おも)く、とても賛美歌(さんびか)()いたり、(うた)ったりできないような気持(きも)ちであるかもしれません。
 そうであったとしても、この賛美歌(さんびか)(うた)っているイスラエル(じん)のことを(かんが)えてみてください。(かれ)らは(けっ)して(なや)みや(くる)しみを()らない人々(ひとびと)ではありません。(わたし)たちと(おな)じように様々(さまざま)問題(もんだい)(なや)み、(くる)しみ、神様(かみさま)(すく)いを(せつ)(いの)(もと)めている人々(ひとびと)です((しゅつ)エジプト2:23)。(かれ)らが(いの)った結果(けっか)神様(かみさま)(おお)きな(すく)いの御業(みわざ)体験(たいけん)することができて、そのことに感謝(かんしゃ)して賛美歌(さんびか)(うた)っているのです。
 イスラエル(じん)神様(かみさま)賛美(さんび)できるのは、(なや)(くる)しんで(しず)んだ(こころ)神様(かみさま)()()げてくださり、神様(かみさま)(かれ)らの(くち)賛美歌(さんびか)(あた)えられたからです。「(しゅ)は、(わたし)(ちから)であり、ほめ(うた)である。」(2(せつ)
 (みな)さんの気持(きも)ちが(しず)んでしまった(とき)にも、ぜひ賛美歌(さんびか)のメロディーとその歌詞(かし)(みみ)(かたむ)けてみてください。賛美歌(さんびか)はなんの理由(りゆう)もなく神様(かみさま)をほめ(うた)ってはいません。神様(かみさま)(たし)かに賛美(さんび)されるにふさわしいお(かた)です。だからこそ、世界中(せかいじゅう)のクリスチャンが数多(かずおお)くの賛美歌(さんびか)(つく)って、(うた)っているのです。
 そのような賛美歌(さんびか)(つく)られ、(うた)われる(まえ)に、神様(かみさま)(わたし)たちクリスチャンのために(おお)きな奇跡(きせき)(おこな)って、(わたし)たちを(すく)ってくださいました。(わたし)たちは、「(しゅ)(かがや)かしくも勝利(しょうり)(おさ)められ」(1(せつ))たことを実際(じっさい)体験(たいけん)して()ることができます。神様(かみさま)(すく)いを体験(たいけん)すると、(わたし)たちの(こころ)(たか)()()げられ、自然(しぜん)(わたし)たちの(くち)神様(かみさま)への「ほめ(うた)」がわき()がってきます。
 (わたし)たちが(こころ)から感謝(かんしゃ)して賛美歌(さんびか)(うた)(とき)神様(かみさま)(わたし)たちの賛美歌(さんびか)()いてくださいます。また、(わたし)たちの(まわ)りの人々(ひとびと)賛美歌(さんびか)()いて、(わたし)たちの神様(かみさま)賛美(さんび)にふさわしいお(かた)であることを()ることができます。(たし)かに聖書(せいしょ)(しる)されている(とお)り、(わたし)たちの神様(かみさま)は「イスラエルの賛美(さんび)()まいとしておられます。」(詩篇(しへん)22:3)
 最後(さいご)にもう一度(いちど)(わたし)たちはイスラエル(じん)賛美歌(さんびか)(みみ)(かたむ)けましょう。「(しゅ)よ。あなたの(みぎ)()(ちから)(かがや)く。」(6(せつ)(わたし)たちも神様(かみさま)力強(ちからづよ)御手(みて)(たよ)り、神様(かみさま)(すく)いの御業(みわざ)体験(たいけん)してまいりましょう。そして、神様(かみさま)(こころ)からの感謝(かんしゃ)()めて賛美歌(さんびか)(うた)っていきたいと(おも)います。
(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)