2019/08/25

2019年8月25日3分メッセージ



 ルカ12章35節、36節をお読みします。
腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

 イエス・キリストは、結婚式に招かれた主人と留守中の家を守るしもべのたとえ話をしました。
 古代イスラエルの結婚式は数日にもわたって続き、いつ終わるかは予めわかりませんでした。そのため、家を守るしもべたちは主人の帰宅を何日間も待たなければなりません。しかし、主人がいつ帰って来ようとも、それが真夜中であったとしても、しもべたちは変わらぬ忠実な態度で主人を迎えるのが務めです。
 イエス・キリストは、このたとえ話の主人は自分のことであると言いました。イエス・キリストを救い主と信じ、約束されている救いを待ち望む者は、逆に主人がしもべに仕えるように、キリストから豊かな恵みを受け取ることができます。聖書の神は、心を尽くして求める者に、心を尽くして報いて下さるお方です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちが神の救いを求める時、その求めに応える時を定めておられるのは主であられるあなたです。応えを得るまで忠実に、忍耐強く待ち続ける者であらせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/08/18

2019年8月18日3分メッセージ


 ローマ12章9節をお読みします。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 「神は愛です。」聖書はこのように語っています。
 聖書が語る愛は、聖書や神の内側に留まっているものではありません。愛は神から出て人に伝わり、神から愛を受け取った人がほかの人に愛を伝えます。そのようにして、「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令が、世界中のクリスチャンによって実践されているのです。
 教会では男女が愛を誓う結婚式が行われますが、それだけではなく、聖書の愛の精神に基づく様々な活動が多くの人々に向けて実践されています。
 もし、愛とは名ばかりで偽りの愛に心傷ついた経験があるならば、神から出た本物の愛を知る必要があります。神はひとり子イエス・キリストを身代わりにして人に命を与えられました。このイエス・キリストの十字架に神の、本物の愛がはっきりと示されています。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは愛を必要としています。愛とは名ばかりの偽りの愛ではなく、イエス・キリストの十字架によって示された本物の愛を、私たちの心に注ぎ入れてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/08/13

2019年8月11日3分メッセージ


 第一列王記19章11節から13節をお読みします。
主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

 預言者エリヤは、イスラエルの人々の前で大きな奇跡を行い、神からのメッセージを伝えました。しかし、イスラエルの人々は聞き従わず、エリヤは王から命を狙われる身となってしまいました。
 「こんなに熱心にやってきたのに、なぜ人々は従わないのだ。もう十分だ!」そのように思って、エリヤは同じく偉大な預言者であったモーセゆかりの聖地、ホレブの山に向かいました。そこで驚くような光景を目にしますが、エリヤが悟ったのは、大きな奇跡の中に神はおられなかったということです。その後にエリヤが聞き取った、かすかな細い声が、エリヤが求めていた神の声でした。
 聖書の神は、探し求める者には見つけることができるお方、心からの切なる祈りに応えてくださるお方です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちの気持ちを引きつけるような目覚ましい出来事そのものではなく、物事すべての鍵を握っておられる神の御声を聞き、確かな応えを神から得ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

神と親しく交わる神学 第七回 聖餐を受ける恵み


 聖餐、すなわち聖餐式において用いられる「パンと杯」(第一コリント11:26)は、それぞれ次の意味があります。
 パンはキリストのからだを意味します(マタイ26:26)。当時、パンは一つの大きな塊として焼かれ、食事の際に手で引き裂いて人々に分けられました。このことは、キリストが十字架にかけられて、そのからだが引き裂かれたことを示します。
 杯、すなわち「ぶどうの実で造った物」(マタイ26:29)は、キリストが十字架で流された「契約の血」を示します(マタイ26:28)。当時、杯といえばアルコール度の低いワインのことを意味します。教会での聖餐式は礼拝で行われることを考慮し、ワインの代わりにぶどうジュースを用いています。
 これら聖餐の食物は、あくまで過去に一回だけ行われたキリストの贖罪の十字架を示すものであり(ヘブル10:14)、キリストのからだと同等の物ではありません。しかし、キリストが私たちのために命を捧げられた尊さを鑑み、既に洗礼を受けたクリスチャンに限定して聖餐を受けることができます。まだ洗礼を受けられていない方は、聖餐を受けられませんが、聖餐式に同席して見学することができます。
 聖餐式に与る者は、聖餐式の意義を正しく理解し、聖餐を受けるのに「ふさわしく」(第一コリント11:27)あることが求められます。正しい態度で聖餐を受ける時、「主がともにいてくださる」ということを味わうことができます(マタイ28:20)。

参考図書:スプロール「聖餐とは何か」いのちのことば社、2017年

2019/08/04

2019年8月4日3分メッセージ



 ルカ8章1節から3節をお読みします。
その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。

 聖書は、キリスト教精神の一つである奉仕、すなわち仕える精神を語っています。キリスト教のあらゆる営みは、イエス・キリストが主体的に行い、また語っていることに根差しています。キリストの弟子であるクリスチャンが行うべきことは、キリストが行かれる所につき従い、キリストが行われる事のお手伝いをすることです。これが、奉仕の精神の意味するところで、クリスチャンはキリストに仕える者であるのです。
 キリストの弟子には男性も女性もいました。彼らは自ら持てるものを用いて、自発的にキリストに仕えました。彼ら自身がキリストによる救いを体験していて、その救いがより多くの人々に行われるために、キリストにつき従って、奉仕していたのです。私たちもキリストに従い、他の人々のために奉仕することで、キリストの救いに多く与りたいものです。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。キリストの弟子たちは仕えることで、キリストの救いを多く目の当たりにすることができました。私たちも救いを期待しつつ、奉仕の精神をもって日々を歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)