2024/03/31

賛美歌カラオケ・目次

※2024年3月31日公開

讃21テーマ曲名
7賛美ほめたたえよ力強き主を
24頌栄たたえよ主の
27頌栄父・子・聖霊の
40-6応答唱アーメン
63主の祈り天にいます父よ
78聖餐わが主よ、ここに集い
87神の小羊罪なき小羊
98就任式緑の牧場に
99教会主イエスよわれらの
101結婚命と光たもう神よ
156詩篇目を上げわたしは見る
157詩篇いざ語れ主の民よ
189聖書の歌ちいさいこどもの
210朝夕の歌来る朝ごとに
227創造主のまことは
230待降起きよと呼ぶ声
231待降久しく待ちにし
241待降来りたまえわれらの主よ
247降誕今こそ声あげ
248降誕エッサイの根より
249降誕おさなご主イエスよ
252降誕羊は眠れり
258降誕牧人羊を
259降誕急ぎきたれ、主にある民
260降誕いざ歌えいざ祝え
261降誕もろびとこぞりて
262降誕聞け天使の歌
265降誕天なる神には 
267降誕ああベツレヘムよ
268降誕朝日は昇りて
276降誕あかつきの空の美しい星よ
297受難栄えの主イエスの
298受難ああ主は誰がため
300受難十字架のもとに
303受難丘の上の主の十字架
306受難あなたもそこにいたのか
311受難血しおしたたる
325復活キリスト・イエスは
328復活たたかいは終わり
342聖霊神の霊よ今くだり
343聖霊聖霊よ降りて
351三位一体聖なる聖なる
355神の名主をほめよわが心
358神の名小羊をばほめたたえよ
361神の名この世はみな
377宗教改革神はわが砦
402宣教いとも尊き
403宣教聞けよ愛と真理の
404宣教あまつ真清水
434神の招き主よみもとに
436神の招き十字架の血に
443回心冠も天の座も
449救い千歳の岩よ
451救いくすしきみ恵み
458信頼信仰こそ旅路を
459信頼飼い主わが主よ
461信頼みめぐみ豊けき
463信頼わが行くみち
465信頼神ともにいまして
466信頼山路こえて
467信頼われらを導く
474希望わが身の望みは
482わが主イエスいとうるわし
483わが主イエスよ、ひたすら
484愛の主イエスは
493祈りいつくしみ深い
495祈り静けき祈りの
504服従主よみ手もて
513献身主は命を
530慰め主よ試み
532慰め安かれわが心よ
536戦いみ恵みを受けた今は
560社会主イエスにおいては
577神の国聞けよ主の民

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

イスラエルと日本の横穴墓

吉見百穴・玄室

「ここにはおられません。前から言っておられたように、
よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を
見てごらんなさい。」(マタイ28:6)

 十字架で死なれたイエス・キリストは、アリマタヤの金持ちのヨセフによって新しい墓に葬られました(マタイ27:57)。その墓は岩に横穴を掘って作られたもの(横穴墓)であり、遺体を収めた後、大きな石で墓穴をふさぎました(マタイ27:60)。このことはアリマタヤのヨセフの厚意によることでしたが、心ならずも「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ53:9)という聖書の言葉通りとなりました。当時の一般庶民の墓は横穴墓ではなく、土を掘って遺体を埋めるだけの簡素な土葬墓でした。

 横穴墓はイスラエル王国時代(BC1000~BC586)に盛んに作られ、後の時代には王国時代の横穴墓が再利用されました。内部には遺体を安置する棺台(ベンチ)が設けられて、遺体が骨化した後、集骨して奥の穴(リポジトリ)に収めました。このようにして、一つの横穴墓は何世代にもわたる家族墓として用いられました。墓はいわば死後の家とみなされ、日用品の副葬物も発掘されています。

 捕囚後の時代、ギリシャ文化(ヘレニズム)の影響でイスラエルの横穴墓が変化し、骨を一つの場所に集めるのではなく一人ずつ、あるいは近親者の骨ごとに骨壺(オシュアリ)に収めるようになりました。一説によれば、これはイスラエル人の復活信仰(イザヤ66:14)の現われであると言われています。

 日本では古墳時代後期に横穴墓が用いられました。イスラエルと時と場所は違いますが、多くの共通点を見出すことができます。いわゆる古墳と同じく横穴墓は権力者の墓ですが、古墳の主ほどの権力はなく、横穴墓の文化と共に中央から地方に派遣された役人レベルの墓であると見られています。日本の横穴墓も何世代もの家族が引き続いて利用し、集骨がなされ、また後の時代には火葬された骨が小さな骨壺に入れられて横穴墓に収められました。志村教会の近場では、赤羽台(東京都北区)、吹上(埼玉県和光市)、吉見百穴(埼玉県吉見町)などの発掘例を知ることができます。

 人類は普遍的に死後の世界を思い見ていることを、埋葬の文化からうかがうことができます。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10-11)

参考資料:
長尾琢磨「第二神殿時代のユダヤ人埋葬に関する考古学的研究の課題」『史学第88号』三田史学会(2020年)
松崎元樹「東京の古墳を探る」吉川弘文館(2022年)

引用聖書:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳』2003年版

2024年3月31日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・328「たたかいは終わり」
聖書:マタイ28:1-7

もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。(マタイ28章6節)

 イエス・キリストは「安息日の前日」(マルコ15章42節)すなわち金曜日に十字架で死なれ、その日のうちに墓に葬られました。その墓は弟子の一人であるアリマタヤのヨセフが用意したものでした(マタイ27章57~60節)。
 イスラエル人は、神が週の「第七日」すなわち土曜日を「安息日」として天地創造のわざを休まれた(創世記2章3節)のにならい、安息日に一切の働きを休みます(出エジプト20章10節)。ところが、キリストを訴えた祭司長たちはわざわざその安息日にピラトに訴え出て、キリストの死体を持ち出されないように墓に番人を置き、墓石に封をしました(マタイ27章62~66節)。
 キリストの女性の弟子たちは、急な埋葬の後に改めて死体を丁寧に処置したくとも、おきてに従って安息日を休み、翌日すなわち日曜日の夜明け前に墓に行きました(マルコ16章1~2節)。しかし、そこで見たのはキリストの死体ではなく、抜け殻となった空の墓でした。御使いは彼女たちに「イエスが納められていた場所をごらんなさい」と告げました。
 イエス・キリストが復活されたことを証明することはできません。なぜなら、その証拠を私たちは目で見ることができないからです。しかし、復活しなかったと反証することもできません。なぜなら、その反証となるキリストの死体を見ることができないからです。それは、聖書の神が存在することを証明も反証もできないことに似ています。
 17世紀の科学者パスカルはこう言っています。「神は存在するか、しないかのいずれかだ。…きみはどちらに賭けるのか。…もし勝てば(神が存在すれば)、すべてを獲得する。」神の存在、キリストの復活は私たち人類の幸福のためです。キリストの呼びかけに聞き従いましょう。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章29節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは私たちの先駆けとして復活されました(ピリピ3章10~11節)。そのことを祝うイースターの日、私たちにも復活の恵みを豊かに注いでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

引用資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
パスカル「パンセ(中)」50-52頁、岩波文庫(2015年)

讃美歌21・328「たたかいは終わり」


ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

1)たたかいは終わり 主は死に勝たれた
主をほめたたえよ ハレルヤ

2)主は敵を破り 死はいま滅びた
高らかに歌え ハレルヤ

3)永遠のいのち われらにくださる
主を宣べ伝えよ ハレルヤ

4)すべての栄えは よみがえりの主に
よろこびたたえよ ハレルヤ

ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月31日の聖書日課

(写真:カルガモ)

マタイ28:1-7
 28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
 28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
 28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
 28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
 28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
 28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
 28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/24

2024年3月24日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・311「血しおしたたる」
聖書:ヘブル10:19-25

わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ…(ヘブル10章19節)

 ヘブル人への手紙は、聖書の民であるイスラエル人、別名ヘブル人に宛てて、聖書(旧約聖書)を用いて神の御子イエス・キリストを説明する手紙です(ヘブル1章1~2節)。
 イスラエル人は、モーセを通して神の宮である聖所を与えられ、聖所の前で神に礼拝をささげました(出エジプト15章17節)。その地上の聖所は、天にある真の聖所の模型であり、キリストは真の聖所で仕える大祭司であるとヘブル書は教えています(ヘブル9章24~25節)。大祭司であるキリストはあわれみ深く、神の民を助けてくださいます(ヘブル2章17~18節)。
 地上の聖所には最も奥にある至聖所があり、大祭司が一年に一度しか入ることができませんでした。すなわち、聖所での礼拝では、神のみまえに簡単に近づくことができません(ヘブル9章1~9節)。大祭司が聖所に入るためには犠牲の血が必要です(ヘブル9章25節)。キリストは自らの血を用いて、すなわち十字架の死によって全人類の罪の清め(あがない)を成し遂げられました(ヘブル9章12節)。そのため、今日私たちはキリストへの信仰によって、はばかることなく神のみまえに近づくことができるのです(ヘブル10章19節)。
 キリストを信じクリスチャンになるとき、教会では水を用いた洗礼式が行われます。それもモーセ時代の聖所の型と同様、罪の清めを意味する型です(ヘブル10章22節)。その意義を踏まえて、教会の諸儀式も味わっていただきたいと願います。教会の営みに加わって神のみまえに行き、ご一緒に神の祝福に与りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書が示す出来事を通して、また教会で行われる様々な行事を通して、神ご自身が私たちを招いておられることを学びました。その意義を正しく理解することができ、私たちも神が賜る至福の恵みに豊かに与ることができますよう願い求めます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・311「血しおしたたる」

1)血しおしたたる 主のみかしら
とげに刺されし 主のみかしら
悩みと恥に やつれし主の
痛ましきさま だれのためぞ

2)主の苦しみは わがためなり
われこそ罪に 死すべきなり
かかるわが身に 代わりましし
主のあわれみは いととうとし

3)慕わしき主よ わが牧者よ
はかり知られぬ 愛の泉
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかしき

4)主よ 主のもとに 帰る日まで
十字架のかげに 立たせたまえ
かくも悩める 主をはなれて
われはいずこ 去り行くべき

5)なつかしき主よ はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん

6)死すべき者を あがなう主よ
十字架の光 見させたまえ
み傷をあおぎ み手によらば
いまわのときも 安けくあらん

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月24日の聖書日課

(写真:カワセミ)

ヘブル10:19-25
 10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
 10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
 10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
 10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
 10:23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
 10:24 愛と善行とを励むように互に努め、
 10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/17

2024年3月17日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」
聖書:コロサイ2:8-15

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。(コロサイ2章9~10節)

 キリストの使徒パウロ(コロサイ1章1節)は、コロサイ人への手紙において「むなしいだましごとの哲学」(コロサイ2章8節)と言っています。この言葉は哲学一般を指しているのではなく、当時のギリシャ文化圏に存在した特定の哲学学派を指しています。パウロはアテネにおいて「エピクロス派やストア派の哲学者」と議論を戦わせたことがあります(使徒17章18節)。
 パウロが問題とした哲学の具体的な内容は記されていません。しかし、人をとりこにして、キリストの教えに反するような教えに従ってはならない、と命じているのです。キリストの教えは「神の徳」をもたらすものです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(コリント第一8章1節)と言われているように、知識を得た結果、人を見下すようになるならば、その種の知識は人の徳を高めるとは言えません。
 今の時代においても、人々は支配や権威を得るべく、知識においても相争うことがあるかもしれません。神の民であるイスラエル人であっても、イスラエル人の身のしるしである割礼を誇りとし、無割礼の者を差別しました(ガラテヤ6章13節)。それに対し、パウロは「手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼」(コロサイ2章11節)を重視しました。
 そして、キリストこそ「すべての支配と権威とのかしら」(コロサイ2章10節)だと言っています。そして、「無学な、ただの人たち」(使徒4章13節)であろうとも、「罪の中にあり、かつ肉の割礼がない」者であろうとも、「キリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして」(コロサイ2章13節)下さる神を知る知識に勝るものはない。そのことを至高の知識として守りなさい、とパウロは教えています。
 「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2章12節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ありとあらゆる情報にあふれ、さまざまな知識に翻弄されるような時代に私たちは生かされています。その中にあっても、私たちは間違いのない確かな知識により頼んで歩むことができますように。キリストの祈りを私たちもいたします。「真理によって…聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネ17章17節)
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」

1)あなたもそこにいたのか
主が十字架についたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

2)あなたもそこにいたのか
主がくぎでうたれたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

3)あなたもそこにいたのか
主が槍でさされたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

4)あなたもそこにいたのか
主を墓におさめたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる

5)あなたもそこにいたのか
主がよみがえられたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い愛に
わたしはふるえてくる

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月17日の聖書日課

(写真:アオサギ)

コロサイ2:8-15
 2:8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
 2:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
 2:11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
 2:12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
 2:13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
 2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
 2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/11

主の祈り~目次

(1)(てん)にましますわれらの(ちち)よ。

(2)ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ。

(3)御国(みくに)(きた)らせたまえ。

(4)みこころの(てん)になるごとく、()にもなさせたまえ。

(5)われらの日用(にちよう)(かて)を、今日(きょう)(あた)えたまえ。

(6)われらに(つみ)をおかす(もの)をわれらがゆるすごとく、

われらの(つみ)をもゆるしたまえ。

(7)われらをこころみにあわせず、(あく)より(すく)(いだ)したまえ。

(8)(くに)(ちから)(さか)えとは、(かぎく)りなくなんじのものなればなり。

アーメン。

2024/03/10

2024年3月10日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・300「十字架のもとに」
聖書:詩篇2:7-12

わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。(詩篇2篇7節)

 イエス・キリストは「神の御子」と呼ばれています(ローマ1章4節)。キリストが洗礼を受けた時(マタイ3章17節)、また高い山で姿が変わった時にも(マタイ17章5節)、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声が天からかかりました。この「神の御子」という言葉は、詩篇2篇で歌われているように、神によって立てられた王または君主であることを意味します(詩篇2篇6節)。
 神によって立てられた「神の御子」に支配地(嗣業)と支配力(鉄のつえ)が与えられました(詩篇2篇8~9節)。「神の御子」は他の諸国と異なり、私利私欲ではなく神の意志を実現するために権力を振るいます。「神の御子」たる王には、神からの任命を示す油そそぎが行われました(サムエル上9章16節)。キリストという言葉は「油そそがれた者」(詩篇2篇2節)を意味します。
 イエス・キリストを信じる者はクリスチャン(キリスト者)と呼ばれます(使徒11章26節)。クリスチャンという呼び名は、このような力強いキリストによる守りが約束された名前です。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(詩篇2篇12節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストに神の特別なご愛顧がかけられています。私たちにはそのキリストに従い、「これに聞け」(マタイ17章5節)と命じる御言葉がかけられました。どうぞその御言葉の通り、私たちもキリストの栄光に与ることをお許しください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・300「十字架のもとに」

1)十字架のもとに われは逃れ
重荷をおろして しばし憩う
あらし吹くときの いわおのかげ
荒れ野の中なる わが隠れが

2)十字架の上に われはあおぐ
わがため悩める 神のみ子を
たえにも尊き 神の愛よ
はかりも知られぬ 人の罪よ

3)十字架のかげに われは立ちて
み顔のひかりを たえず求めん
この世のものみな 消ゆるときも
くすしく輝く そのひかりを

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月10日の聖書日課

(写真:ハクセキレイ)

詩篇2:7-12
 2:7 わたしは主の詔をのべよう。
主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。
きょう、わたしはおまえを生んだ。
 2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え、
地のはてまでもおまえの所有として与える。
 2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、
陶工の作る器物のように彼らを
打ち砕くであろう」と。
 2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、
地のつかさらよ、戒めをうけよ。
 2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
 2:12 その足に口づけせよ。
さもないと主は怒って、
あなたがたを道で滅ぼされるであろう、
その憤りがすみやかに燃えるからである。
すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/03

2024年3月3日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
聖書:ヨハネ6:60-71

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。(ヨハネ6章63節)

 キリストは、湖のほとりに集まってきた大ぜいの群衆にパンを与える奇跡を行いました(ヨハネ6章1~14節)。その目的は、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』(マタイ4章4節)という聖書の教えを身をもって理解させるためでした。
 しかし、群衆の中のある人々は、キリストを王にかつぎあげようとしました(ヨハネ6章15節)。それはキリストが望まれたことではなく、人々はキリストの奇跡を曲解してしまったのです。キリストは「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」(ヨハネ6章26節)と指摘しました。
 キリストは「わたしは天から下ってきた生きたパンである」(ヨハネ6章51節)と言われました。しかし、人々はその意味を理解せず、キリストの弟子たちの中からも「これは、ひどい言葉だ」(ヨハネ6章60節)と言って去るものが出ました。彼らはパンの奇跡を味わいながら、キリストが約束された「永遠の命」(ヨハネ6章54節)を味わうことができませんでした。しかし、十二弟子の一人ペテロは「永遠の命の言をもっているのはあなたです」(ヨハネ6章68節)と言って理解を示しました。
 キリストは「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6章27節)と勧めています。この世の営みでは決して得られない、キリストが賜る天の恵みに与りましょう。キリストはこのように言って私たちを招いています。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。…生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7章37~38節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの内なる霊は、豪華な食事を食べても、ぜいたくな行楽に興じても、いずれは飢え、渇いてしまいます。しかし、キリストが約束された決して渇くことのない永遠の命を私たちに与えてください。日々、天からの恵みを食べて生きていくことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・297「栄えの主イエスの」

1)栄えの主イエスの 十字架をあおげば
世の富 ほまれは 塵にぞひとしき

2)十字架のほかには 誇るものあらず
この世のものみな 消えなば消え去れ

3)見よ 主のみかしら み手とみ足より
恵みと悲しみ こもごもながるる

4)恵みと悲しみ ひとつにとけあい
いばらはまばゆき 冠(かむり)とかがやく

5)ああ 主の恵みに 応うる道なし
わが身のすべてを 主の前に献ぐ

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024年3月3日の聖書日課

(写真:メジロ)

ヨハネ6:60-71
 6:60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
 6:61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
 6:62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
 6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
 6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
 6:65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
 6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
 6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
 6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
 6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
 6:70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
 6:71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/01

2024年3月31日(日) イースター礼拝

2024年3月31日(日) 10:30~11:45
イースター礼拝

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