2021/02/28

2021年2月28日3分メッセージ



 ルカ13章15節をお読みします。
あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。

 聖書の時代は、電気も自動車もまだ走っていない時代です。イスラエルの人々の多くは畑仕事をして生活していました。その際に、人間よりも力があって畑仕事に重宝したのが牛やろばでした。イスラエルの人々は聖書の戒めにより、一週間に一日を安息日として一切の労働を休みました(出エジフト20章10節)。しかし、安息日でも人間は食事をしなければ生きていけないのと同じように、家畜の牛やろばに水を飲ませるような労働を休むことはできませんでした。
 ルカ13章では、キリストが安息日に、18年間も病気で苦しんだ女性をいやされたところ、人々は「病気のいやしは労働である」と言って咎めました(ルカ13章10~15節)。それに対し、キリストは冒頭の言葉の通り語りました。人々が家畜を生かすために労働するなら、人間を生かし、健康にする労働は許される、ということです。
 また、キリストの労働は、聖書の神の労働として行われたものでした。キリストは様々な奇跡を「神の霊」によって行いました(マタイ12章28節)。そのことによって、神は私たち、か弱き人間の近くに来られ、人間にはなしえない大きな力をもって私たちを救うために働いてくださるのです。キリストのいやしの働きは、この女性にとって18年もの間、ほかの人々がなしえなかった大きな働きでした。
 神の救いの働きは、人間の働きをはるかに上回る大きな働きです。私たちは神の働きに身を任せ、神のすばらしいみわざを見て喜びたいと思います(ルカ13章17節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは毎日、自分の力だけで生きているのではなく、多くの人やものの力に助けられて生きています。聖書の神の力は、人間の力をはるかに上回る大きな力です。その神が私たちの救いのために大きな力を働かせてくださることを感謝いたします。神の偉大な御力をほめたたえます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/02/22

2021年2月28日の聖書日課

(写真:ノースポール)

マタイ12:22-32
 12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。
 12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
 12:24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。
 12:25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
 12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。
 12:27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
 12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
 12:29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。
 12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
 12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
 12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/02/21

2021年2月21日3分メッセージ



 ヤコブ1章17節をお読みします。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

 ヤコブの手紙1章は、試錬と誘惑について語っています。これら二つのものは私たちを苦しめるものですが、その結果は全く違うものです。私たちは試錬と誘惑を、はっきり見分けなければなりません。
 試錬は人の忍耐を試すものであり、試錬を耐え忍ぶことができれば人として成長することができます(ヤコブ1章12節)。聖書は、試錬に耐えた者には神がいのちの冠を与えられるのだから、試錬を喜びなさいと励ましています(ヤコブ1章2節)。
 それとは違い、誘惑は耐え忍ぶものではなく、避けるべきものです(第一テサロニケ5章22節)。誘惑とは私たちを悪に引きずり込もうとするものであり、私たちの欲望を焚きつけるものです(ヤコブ1章14節)。私たちが誘惑に陥ってしまえば、その結果としての罪と罰を受けるのは私たち自身です(ヤコブ1章15節)。
 聖書の神は、成長するきっかけとして私たちが試錬に会うことを許されます(ヘブル12章7節)。しかし、私たちを悩ますために誘惑をされるお方ではありません(ヤコブ1章13節)。試錬も誘惑も、私たちの人生において全く出会わないことはありえません。しかし、神はどのような時にも、私たちが物事を正しく判断し、正しい対処をする知恵をお与えになります(第一コリント10章13節)。ですから、私たちはこのように祈りましょう。「試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ。」(主の祈り、マタイ6章13節)
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの人生には様々な悩みごとがあります。それらの物事を正しく見分ける知恵を与えてください。試錬に耐え、誘惑を避ける力を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/02/15

2021年2月21日の聖書日課

(写真:カンアオイ)

ヤコブ1:12-18
 1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
 1:13 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
 1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
 1:15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
 1:16 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 1:17 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
 1:18 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/02/14

2021年2月14日3分メッセージ



 使徒12章11節をお読みします。
その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。

 キリスト教の歴史は、宣教と迫害の歴史です。その歴史はイエス・キリストによる福音宣教に始まり、迫害の末、十字架の死によって終わったかのように見えました。しかし、キリストの教会による宣教活動は今日まで絶えることなく続いています。またキリスト教に対する迫害も今日、世界中で絶えず続いています。
 キリストの直弟子であるペテロたちが生きる時代、彼らは至る所で巻き起こる迫害にひるむことなく、キリストの福音を宣べ伝えていました。すると、イスラエルの王ヘロデは十二弟子の一人であるヤコブを殺し(使徒12章2節)、続いてペテロを捕らえました。
 その時、教会の人々はともに集まって祈り始めました(使徒12章5節)。彼らがなしうることは、ただ祈りだけだったのです。彼ら自身も迫害の中にあって、抵抗するすべは一切持っていませんでした。
 しかし、聖書の神はクリスチャンの祈りに応えられました。人手によらず、ペテロは神の手によって牢獄から救い出されました。ペテロ自身も初めその出来事を夢か幻かのように思い(使徒12章9節)、祈りの中にいた教会の人々もペテロの救出をすぐに信じることができませんでした(使徒12章15節)。
 聖書の神の救いは、私たち人間の想像を遥かに超えることをなしうる、力強いものです。「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18章27節)この信仰を私たちも持ちたいと思います。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは自分の手に余るような困難な出来事に対して、祈ることしかできない者であることを認めます。どうぞ私たちの祈りを聞き届けてくださり、神にしかなしえぬ大いなる救いを成し遂げてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/02/08

2021年2月14日の聖書日課

(写真:ヒマラヤユキノシタ)

使徒12:11-17
 12:11 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。
 12:12 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。
 12:13 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、
 12:14 ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。
 12:15 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。
 12:16 しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。
 12:17 ペテロは手を振って彼らを静め、主が獄から彼を連れ出して下さった次第を説明し、「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えて下さい」と言い残して、どこかほかの所へ出て行った。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/02/07

2021年2月7日3分メッセージ



 詩篇103篇2節をお読みします。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

 詩篇103篇は、神をほめたたえる賛美歌です。歌い手は「わがうちなるすべてのもの」(詩篇103篇1節)に向けて、神がなされたすべての恵みのみわざを覚えて、神をほめたたえるようにと何度も呼びかけています。
 この神の「すべてのめぐみ」について、多くの出来事を挙げています。それらの中には、生きるかぎり良き物が与えられる(詩篇103篇5節)というようなことだけではありません。神の恵みの中には、ゆるしや病のいやし(詩篇103篇3節)も含まれています。
 聖書の言葉に、「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5章18節)というものがあります。この言葉は、感謝できる状況ではうなずけるでしょうし、感謝できない状況では素直に聞き従えるものではないと思います。しかし、聖書の神は「すべての事について感謝してほしい」と私たちに願われます。それは、すべての状況において神は私たちのために救いのわざをなすことを願われているからです。
 同じような意味で、詩篇103篇は私たちに神をほめたたえることを呼びかけています。「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」(伝道7章14節)と聖書は私たちに教えています。逆境の日にこそ、私たちは神の「いつくしみとあわれみ」(詩篇103篇4節)が必要です。恵み深い神をほめたたえましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。しえたげられている者に恵みを注がれることのために、御名をほめたたえます。私たちは毎日の生活の中で与えられる良き物のために、御名をほめたたえます。また毎日の苦しい状況の中に救いの御手を伸べてくださることを信じて祈り求めます。救いを成し遂げてくださることのために、御名をほめたたえます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/02/01

2021年2月7日の聖書日課

(写真:セツブンソウ)

詩篇103:1-13
 103:1 わがたましいよ、主をほめよ。
わがうちなるすべてのものよ、
その聖なるみ名をほめよ。
 103:2 わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべてのめぐみを心にとめよ。
 103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、
あなたのすべての病をいやし、
 103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
 103:5 あなたの生きながらえるかぎり、
良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
 103:6 主はすべてしえたげられる者のために
正義と公正とを行われる。
 103:7 主はおのれの道をモーセに知らせ、
おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。
 103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、
怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
 103:9 主は常に責めることをせず、
また、とこしえに怒りをいだかれない。
 103:10 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、
われらの不義にしたがって報いられない。
 103:11 天が地よりも高いように、
主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、
 103:12 東が西から遠いように、
主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
 103:13 父がその子供をあわれむように、
主はおのれを恐れる者をあわれまれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)