マタイ6章1節をお読みします。
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
「義」とは、正しい行い、または良い行いのことです。別の聖書の翻訳では、「善行」と言われています。
ある人は、ほかの人からほめられることを目的として、良い行いを人に見せつけたり、自慢話をしたりします。しかし、不純な動機による良い行いであったとしても、良い行いそのものが無効となる訳ではありません。むしろ聖書は、良い行いは当然に行われるべきものであると教えて、こう語っています。「強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 」(ローマ15章1節)
キリストは良い行いについて、人々からほめられること以外の報いがあることを教えています。それは天の父なる神からの報いです。神は人々の目の届かない、隠れたところで悩み苦しむ者を見ておられます。そして、人々の目から隠れた良い行いをする者をも見ておられます(マタイ6章4節)。
私たちが他人のために良い行いをする時、その人から感謝されなかったり、何か特別な報いを得られない場合があります。しかし、聖書の神はそのことを決して見過ごしにされることはありません。隠れたところで助けてくださる神にならって、私たちも隠れたところで良い行いをする「神の子ども」となりましょう(マタイ5章9節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。神の目には、良いことも悪いこともすべてがお見通しです。しかし私たちは、救いを必要とする者の隠れた祈りに応えられる神を信じます。どうぞ私たちも神の子どもとして、正しい、良い事そのものを実行する者とならせてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)