2023/04/30

2023年4月30日3分メッセージ



 コリント第一8章1節をお読みします。
知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

 コリント人への第一の手紙の著者パウロは、同じ手紙の中で愛について語っています。「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。」(コリント第一13章2節)この言葉の通り、預言や知識や信仰というものはキリスト教でも大事なものですが、ただ一点の「愛」に欠けることがあれば、預言や知識や信仰を持っていても意味がない、と私たちに語っています。
 人として、クリスチャンとして、正しい知識を得て、正しい判断をもって行動することは大事なことです。しかし、「最も大いなるもの」(コリント第一13章13節)と言われている愛を得ていなければ、正しい知識が人を傷つけることが起りえます。コリントの教会の人々も、互いに知識を振りかざして他人を見下し、高慢な態度で他人を排除するようなことがあったようです。そのように人々の交わりに不和をもたらしていた状況に対し、パウロは愛を知るべきことを訴えかけます(コリント第一8章2節)。
 聖書の教える愛は神によって備えられたものです(コリント第一2章9節)。神の愛は、神を愛する者に与えられます。そして、愛のある所に本当の知識がもたらされます(コリント第一8章3節)。愛とは他人を貶めることではなく、逆に高めることです。コリント第一13章には、愛の多彩な特徴について記されています。その教えの最後に、パウロはこの愛を追い求めるように勧めています(コリント第一14章1節)。それは、愛を知った後に、その愛から豊かな性質を受け継ぐことができるようになるからです。
 愛の知識は、イエス・キリストの十字架によって示されました(ヨハネ第一3章16節)。「いっさいのことを、 愛をもって行いなさい。」(コリント第一16章14節)と勧められています。私たちも聖書を学ぶことを通して、神の愛をしっかり受け継いでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書を通して様々な知識を得ることができます。しかし、学んでいながら、愛を見失うことが無いように、私たちの学びをも導いてください。私たちも神に愛されている者として日々を過ごすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月30日の聖書日課

(写真:ハナズオウ)

第一コリント8:1-9
 8:1 偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
 8:2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
 8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
 8:4 さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
 8:5 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、
 8:6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。
 8:7 しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。
 8:8 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。
 8:9 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/23

2023年4月23日3分メッセージ



 詩篇4篇6節をお読みします。
多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」と。

 「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。」この言葉は、すべての人の心にある祈りの言葉ではないでしょうか。しかし、「良い事」の中身は、人それぞれであるでしょう。
 私たち、人間が悩む時に神頼みすることは自然なことだと思います。日ごとの糧にありつき、安らかに眠りにつくことは(詩篇4篇7~8節)、いざ食物や安眠にありつけなくなる時に、そのありがたみに改めて気づかされるものです。それらの物事を決して当たり前と思ってはなりません。生活の必要のために祈ることは、とても大事なことです。
 聖書が教える「良い事」とは、状況や立場によって中身の変わるものではありません。それは、私たちめいめいが勝手に思い描く「正義」ではなく、「わたしたち」、人類全体にとって益となるような「正義」であり、「わたしたち、みんなの正義」です。その「義を助け守られる神」(詩篇4篇1節)に寄り頼んで祈るように、聖書は私たちに勧めています。「主はわたしが呼ばわる時におききくださる。」(詩篇4篇3節)と。
 ですから、正義の神に寄り頼む者としてふさわしいかどうか自らを省みて(詩篇4篇4~5節)、そして感謝をもって祈り求めましょう。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」(マタイ6章11節)と。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心の内にある祈りを、「主はおききくださる」と私たちは教えられました。私たちの正義を守られる神様に「良い事」を祈り求めます。どうか私たちに正義の光を照らし、私たちの人生の歩みを導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月23日の聖書日課

(写真:リキュウバイ)

詩篇4篇
聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌
 4:1 わたしの義を助け守られる神よ、
わたしが呼ばわる時、お答えください。
あなたはわたしが悩んでいた時、
わたしをくつろがせてくださいました。
わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
 4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。
いつまでむなしい言葉を愛し、
偽りを慕い求めるのか。〔セラ
 4:3 しかしあなたがたは知るがよい、
主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。
主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
 4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。
床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ
 4:5 義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。
 4:6 多くの人は言う、
「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。
主よ、どうか、み顔の光を
わたしたちの上に照されるように」と。
 4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、
穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに
まさるものでした。
 4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。
主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、
ただあなただけです。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/16

2023年4月16日3分メッセージ



 列王紀下7章9節をお読みします。
われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。

 列王紀下7章の前後(6章24節~7章20節)では、イスラエルの国が敵国スリヤに攻められ、その後解放されたことを記しています。イスラエルの都サマリヤは兵糧攻めされて食糧不足に陥りましたが(列王紀下6章24~31節)、預言者エリシャが語った神の言葉の通り、敵が戦場から逃げ去って食糧不足が解消しました(列王紀下7章14~16節)。
 エリシャが伝えた神の言葉に対し、イスラエルの王は疑ってかかり(列王紀下7章12節)、王の副官は「そんな事がありえようか」と言って、神の救いの約束を受け入れませんでした。後に、この副官は神の救いに与ることができませんでした(列王紀下7章17~20節)。
 他方、神の言葉はつゆ知らず、飢えて捨て鉢になった4人の病人たちが敵陣に乗り込みました。すると、敵陣はもぬけの殻であり、病人たちはそこで食糧や金銀を見つけて有頂天になりました(列王紀下7章3~8節)。しかし、彼らは我に返り、このように語り合います。「きょうは良いおとずれのある日」だと。そしてその言葉の通り、彼らはイスラエルの国に良いおとずれ、敵からの救いを伝えました。
 このことは、聖書が繰り返し語っている「福音」の内容を端的に示しています。今日も聖書の語る「良いおとずれ」、福音に耳を傾けてください。「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」(コリント第一15章2節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書は私たちに良いおとずれを、神の救いを告げる「福音」を伝えています。私たちが聖書を開く時、いつも福音の言葉を見出すことができ、その言葉に従うことができますように。私たちに、善に従う素直な心を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月16日の聖書日課

(写真:アケビ)

列王紀下7:8-16
 7:8 そこでらい病人たちは陣営のほとりに行き、一つの天幕にはいって食い飲みし、そこから金銀、衣服を持ち出してそれを隠し、また来て、他の天幕に入り、そこからも持ち出してそれを隠した。
 7:9 そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。
 7:10 そこで彼らは来て、町の門を守る者を呼んで言った、「わたしたちがスリヤびとの陣営に行って見ると、そこにはだれの姿も見えず、また人声もなく、ただ、馬とろばがつないであり、天幕はそのままでした」。
 7:11 そこで門を守る者は呼ばわって、それを王の家族のうちに知らせた。
 7:12 王は夜のうちに起きて、家来たちに言った、「スリヤびとがわれわれに対して図っている事をあなたがたに告げよう。彼らは、われわれの飢えているのを知って、陣営を出て野に隠れ、『イスラエルびとが町を出たら、いけどりにして、町に押し入ろう』と考えているのだ」。
 7:13 家来のひとりが答えて言った、「人々に、ここに残っている馬のうち五頭を連れてこさせてください。ここに残っているこれらの人々は、すでに滅びうせたイスラエルの全群衆と同じ運命にあうのですから。わたしたちは人をやってうかがわせましょう」。
 7:14 そこで彼らはふたりの騎兵を選んだ。王はそれをつかわし、「行って見よ」と言って、スリヤびとの軍勢のあとをつけさせたので、
 7:15 彼らはそのあとを追ってヨルダンまで行ったが、道にはすべて、スリヤびとがあわてて逃げる時に捨てていった衣服と武器が散らばっていた。その使者は帰ってきて、これを王に告げた。
 7:16 そこで民が出ていって、スリヤびとの陣営をかすめたので、麦粉一セアは一シケルで売られ、大麦二セアは一シケルで売られ、主の言葉のとおりになった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/09

2023年4月9日3分メッセージ



 ローマ6章5節をお読みします。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

 イースターは「彼の復活」、すなわちイエス・キリストの復活を祝うキリスト教の祭りです。このイースターの本来の意義を表現するために、いのちの象徴である卵やウサギがイースター飾りとして用いられています。
 ローマ6章では、イースターの意義を伝えるために別のたとえが用いられています。それは「バプテスマ」(ローマ6章3節)であり、別名を洗礼と言います。教会では、信仰を得て教会員になること、すなわちクリスチャンとなるために洗礼という儀式を行います。洗礼はキリストご自身も受けられて、後に続くクリスチャンの模範を示しています(マタイ3章13~17節)。
 このように、洗礼はキリストの生き様にならって、キリストに従う弟子となることを意味します。それと同時に、洗礼はキリストの「死の様」、すなわち十字架の死にも従うことを意味します。クリスチャンは洗礼を受けることによって、罪人である自分に死ぬ決意を示すことになります(ローマ6章11節)。
 キリストは弟子たちにこう言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16章24節)このキリストの言葉に従うクリスチャンには、キリストと同じいのちに与ることが約束されています。それこそがキリストの復活のいのちです。洗礼を受けた者は必ず水の中から引き上げられます。その後は、キリストから与えられた「新しいいのち」(ローマ6章4節)によって新しい生涯を歩み始めます。
 今年のイースターの機会に、私たちはいのちの源であるキリストに結びつけられて、実りある生涯を歩み出してまいりましょう(ローマ11章17~18節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは今日、新しいいのちに満ち満ちたイエス・キリストの復活を祝うことができました。過去の暗い、罪深い生活から離れて、キリストの新しいいのちの源である十字架を見上げて歩み出します。尽きることのない天からの恵みを豊かに注いでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月9日の聖書日課

(写真:ハナモモ)

ローマ6:3-11
 6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/02

2023年4月2日3分メッセージ



 ルカ19章28節をお読みします。
イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。

 ルカによる福音書において、イエス・キリストがエルサレムに向かったのは、並々ならぬ決意をもっての事であったことがわかります(ルカ9章51節)。エルサレムは神の民イスラエル人の都であり、キリストが神の言葉を取り次ぐ預言者として向かわなければならない場所でした(ルカ13章33節)。
 旅を続けるキリストの周りにいたのは、キリストに従って行く弟子たちだけではありませんでした。ある時にはキリストを中傷する目的で、わざわざエルサレムからやって来た敵対者もありました(ルカ5章17節)。しかし、エルサレムに向かうキリストの旅路を妨害できる者は、誰一人いませんでした。
 そして、ついにキリスト一行はエルサレムに到着しました。それに先立って、キリストは二人の弟子をつかわし、途中にある村からロバの子を引いて来るように命じました。このことは、ロバの持ち主と予め約束していたことかどうかは、わかりません。しかし、「主がお入り用なのです」との言葉を受けて、持ち主はロハを渡してくれました(ルカ19章29~34節)。
 キリストはこのようにして神の預言者の務めを果たし終え、預言者としてエルサレムの地で十字架にかけられ、死なれました。十字架に至るすべての出来事は、このエルサレムから始まった罪のゆるしの福音の始まりでした(ルカ24章47節)。イエス・キリストはこのように言って私たちを招いています。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章32節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはイエス・キリストの復活のイースターを来週に控え、キリストの十字架の道を思い見ます。キリストがエルサレムで死なれた理由は、私たちに罪のゆるしを得させるためでした。キリストは今日、私たちに向かって招いておられます。どうぞ私たちの罪をゆるし、新しい人間へと造り変えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月2日の聖書日課

(写真:チューリップ)

ルカ19:28-35
 19:28 イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。
 19:29 そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、
 19:30 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。
 19:31 もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。
 19:32 そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。
 19:33 彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、
 19:34 「主がお入り用なのです」と答えた。
 19:35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)