2021/08/29

2021年8月29日3分メッセージ



 イザヤ48章6節をお読みします。
あなたはすでに聞いた、すべてこれが成ったことを見よ。あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。わたしは今から新しい事、あなたがまだ知らない隠れた事をあなたに聞かせよう。


 イザヤ書は、神の民イスラエル人に告げた預言者イザヤの言葉をまとめた書です。時に預言者は神から預かった言葉をそのまま語り、時に神の言葉の主旨を預言者自身の言葉によって語り、神の民を言葉によって教え導きました。
 イスラエル人の民族名は先祖の一人であるヤコブに由来します。ヤコブは神の使いから「イスラエル」という新しい名前をもらいました(創世記32章28節)。そのほか、イスラエル人は民族の長い歴史の中で神の様々な奇跡を体験し、その都度神のメッセンジャーである預言者たちから言葉によって教育されました。そのようにしてイスラエル人は神の民と呼ばれ、その名にふさわしい宗教文化を培い、子々孫々に継承していきました(イザヤ48章1、2節)。
 しかし、イスラエル人の宗教性は表面的な、名ばかりのものでした。そのため、彼らは出エジプト(イザヤ11章16節)やバビロン捕囚(イザヤ39章6節)など、長い歴史の中で多くの挫折とそこからの再起を経験しました。それらの経験は決して自然な人間の営みによるものではなく、神の歴史への介入の結果でした。それらの経験をイスラエル人自らが反省し、そこから神の新しい、創造的な救いの業を待ち望むよう預言者は語りました(イザヤ48章7節)。
 今日の私たちも同じように聖書から学ぶことができます。私たちの人生を省みつつ、新しいことをなさる神に期待して今日も歩き出しましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書は私たちの思いをはるかに超えて大きく、また遠くの出来事を見せて、考えさせてくれます。いにしえの人々の人生に私たちは学ぶことができますように。そして神が新しく切り開かれる将来を信じて、日々前進し続けることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/08/23

2021年8月29日の聖書日課

(写真:サルスベリ)

イザヤ48:1-7
 48:1 ヤコブの家よ、これを聞け。
あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、
ユダの腰から出、
主の名によって誓い、
イスラエルの神をとなえるけれども、
真実をもってせず、正義をもってしない。
 48:2 彼らはみずから聖なる都のものととなえ、
イスラエルの神に寄り頼む。
その名は万軍の主という。
 48:3 「わたしはさきに成った事を、いにしえから告げた。
わたしは口から出して彼らに知らせた。
わたしは、にわかにこの事を行い、そして成った。
 48:4 わたしはあなたが、かたくなで、その首は鉄の筋、
その額は青銅であることを知るゆえに、
 48:5 いにしえから、かの事をあなたに告げ、
その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。
そうでなければ、あなたは言うだろう、
『わが偶像がこれをしたのだ、
わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだ』と。
 48:6 あなたはすでに聞いた、
すべてこれが成ったことを見よ。
あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。
わたしは今から新しい事、
あなたがまだ知らない隠れた事を
あなたに聞かせよう。
 48:7 これらの事はいま創造されたので、
いにしえからあったのではない。
この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。
そうでなければ、あなたは言うだろう、
『見よ、わたしはこれを知っていた』と。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/08/22

2021年8月22日3分メッセージ



 マタイ6章13節をお読みします。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。


 天の父なる神に呼びかけ、天の祈り、地の祈りをささげた後、「主の祈り」は再び天を見上げて、神を賛美して祈りを閉じます。
 神の国、神の力、神の栄えこそ、あらゆる祝福の源であり、私たちの願いがかなえられる根拠です。そのことを思う時、私たちの心は表現しがたいほどの満足感にあふれます。その心を表現するのにふさわしいのが、神への賛美の言葉であり、賛美の歌です。
 聖書はこのように私たちに勧めています。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」(ヤコブ5章13節)私たちの心にあふれる喜びも、苦しみも、「主の祈り」は適切に私たちの心を表現することができ、心の重荷は消え去り、私たちの心に喜びがあふれてきます。
 主の祈りは私一人だけの祈りではなく、「私たち」皆の祈りです。私たちは祈りを通して、互いに喜びも苦しみも分かち合うことができます。そして、祈りの最後に「アーメン」と唱えます。アーメンとは「しかり」とか、「はい」を意味する言葉です(第二コリント1章20節)。私たちの心からの祈りを天の父なる神が聞き届けてくださったことを信じ、ご一緒に「アーメン」と唱えましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心のうちにある喜びも苦しみも、正しく言い表すことのできる祈りの言葉を教えてくださったことを感謝します。私たちの祈りは聞かれています。私たちも確信をもって日々祈り続けることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2021/08/16

2021年8月22日の聖書日課

(写真:ヒマワリ)

コリント第二1:17-22
 1:17 この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。
 1:18 神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではない。
 1:19 なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。
 1:20 なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。
 1:21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
 1:22 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/08/15

2021年8月15日3分メッセージ



 マタイ6章13節をお読みします。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。


 この言葉を文語体の「主の祈り」ではこう祈ります。「試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ。」
 「試み」と言われるものには、正しい目的によって行われて実力を見定めるものがあります。一方で、悪い目的を持った悪しき者によって試みられることがあります。その試みの目的は、悪い結果に引きずり込もうとして誘惑するものです。そのような試みは、人としての成長などの良い結果を望むことができません。
 イエス・キリストは悪魔から試みられたことがあります(マタイ4章1~11節)。その試みは貪欲、名誉、富によるものでしたが、キリストはこれらの誘惑に関わることを一切拒まれました。
 私たち人間は、様々な悪事や誘惑に手を染めている最中で、それらを克服するような力はありません。「剣ををとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と言われているように、私たちは悪を克服するために悪に一切手をつけてはなりません(テサロニケ第一5章22節)。悪と関わりを持つことがないように、私たちも日々こう祈りましょう。「試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ。」

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちを日々、様々な危険から守ってくださることを感謝いたします(詩篇91篇)。とりわけ私たちが悪の世界に入り込むことがないように、悪の試みから遠ざけて私たちをお救いください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/08/09

2021年8月15日の聖書日課

(写真:ミソハギ)

詩篇61:1-4
 61:1 神よ、わたしの叫びを聞いてください。
わたしの祈に耳を傾けてください。
 61:2 わが心のくずおれるとき、
わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。
わたしを導いて
わたしの及びがたいほどの高い岩に
のぼらせてください。
 61:3 あなたはわたしの避け所、
敵に対する堅固なやぐらです。
 61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、
あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/08/08

2021年8月8日3分メッセージ



 マタイ6章12節をお読みします。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。


 主の祈りは、日ごとの食物(マタイ6章11節)のために祈った次に、負債のゆるしを求めて祈ります。
 文語体の主の祈りでは、「われらの罪をゆるしたまえ」と祈ります。私たちは人に対して負い目や罪を負うことがありますが、神に対しても負い目や罪を負うことがあることを聖書は教えています。
 負債を負うならば、償って清算しなければなりません。しかし、何らかの方法で償ったとしても、それで人間関係が完全に修復されるとは限りません。また例えば人の命のように、本質的には何物によっても償えないようなものもあります。罪というものは、大きなものでも小さなものでも、最終的に「ゆるし」がなければ解決できるものではありません。
 私たち人間は、人生を長く歩み続けるうちに数多くの罪を負ってしまいます。ですから、主の祈りは日ごとの食物と同様に、日ごとの罪のゆるしが私たちに必要であることを教えています。イエス・キリストはこの私たちの罪のゆるしのために十字架にかかられたのです(ペテロ第一2章24節)。
 キリストは私たちに語りかけます。「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」(ルカ6章37節)主の教えに従って、すべての罪をゆるされた人生を歩んでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの人生には日ごとに罪のゆるしが必要です。どうぞ私たちの罪をおゆるしください。そして、私たちが罪から離れた生活を歩むことができますように、私たちを導いてください(ヨハネ8章11節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/08/02

2021年8月8日の聖書日課

(写真:ヤマユリ)

マタイ18:21-22
 18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
 18:22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/08/01

2021年8月1日3分メッセージ



 マタイ6章11節をお読みします。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。


 昔から祈り継がれている文語体の「主の祈り」では、このように祈ります。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」この「日用」という言葉は、「日用品」の日用です。
 主の祈りは「(神の)御名をあがめさせたまえ」と祈ることで、聖書の神が当然あがめられるべきであることを教えています。同じように、私たち人間は日ごとの食物がなければ生きていけないのは当然のことです。主の祈りは、身に余る贅沢ではなく、「なくてならぬ食物」(箴言30章8節)を祈り求めることが当然のことであり、そのように祈るように命じています。
 また、この祈りは「きょう」一日だけに限定した祈りではありません。私たちは今日一日の糧を食べて、明日まで生きていきます。また明日も生きるために、今日一日を懸命に働きます。主の祈りは、明日に向かって生きていくための祈りです。
 それで、イエス・キリストはこのように教えられました。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章34節)私たちは日ごとに主の祈りをささげつつ、明日を思い煩うことなく、今日を一生懸命に生きていきたいと思います。聖書の神は確かに私たちを養ってくださいます。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは主の祈りをささげることを通して、神が私たちを顧みておられることを知ることができました。ですから、私たちは勇気をもって今日一日の生活の祝福を祈り求めます。明日へとつながる私たちの歩みを支えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021年8月1日の聖書日課

(写真:ハス)

マタイ6:25-31
 6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
 6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
 6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
 6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
 6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)