2020/03/29

2020年3月29日3分メッセージ



 第一コリント15章51節をお読みします。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

 私たちは時に「眠り」をたとえ言葉として用います。すなわち、「死」を意味する言葉として用いて、たとえば「永遠の眠りにつく」と言ったりします。聖書でもしばしば同じ意味で「眠り」について語られています。
 しかし、聖書において特に注目すべきなのは、眠りはやがて目覚める時が来るように、死についても目覚めの時が来ることを語っていることです。ですから、先ほどの聖書箇所でも、「わたしたちすべては、眠り続けるのではない」と語っているのです。
 すべての人間は必ず死ぬことが定められています(ヘブル9章27節)。しかし、死んでしまえばすべて終わりで、消えて無くなってしまうものではありません。人がそのひと本人であることを示す霊魂は決して消滅することはない、と聖書は教えています(ルカ23章46節)。人が死んで、その体が失われることがあっても、眠った人がやがて目覚めるように、死んだ人も神によって定められた時が来ると、新しい体を与えられて復活すると聖書は語り、約束しているのです(第一コリント15章44節)。
 この聖書の約束の根拠であるのが、イエス・キリストの十字架の死とイースターにおける復活です。今年も迎えるイースターにあたり、聖書が約束している言葉のその通りの意味を深く味わってまいりましょう。私たちはキリストを信じる信仰により、「朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられる」のです(第一コリント15章52節)。
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今日も私たちは世界のあらゆるところで、死について考えさせられ、時に恐怖におびえることがあります。私たちは聖書に勧められる通り、時が良くても悪くても「絶えず祈る」者でありたいと思います。眠っている者を目覚めさせると言われる、神の約束の言葉に生ける希望を見いださせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/03/24

2020年3月24日(火) 新河岸川の桜

教会近くの新河岸川の桜並木が見ごろを迎えています。教会では定例集会を休まずに行っています。今年のイースター(4月12日)も定例の主日礼拝の中で行います。世界中の人々の生活が守られますようにお祈りいたします。

2020/03/23

2020年3月29日の聖書日課

(写真:ギョリュウバイ)

第一コリント15:51-58
 15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
 15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
 15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
 15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
 15:55 「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
 15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
 15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
 15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年3月22日3分メッセージ



 ヨハネ12章3節をお読みします。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。

 イエス・キリストはマルタの家で夕食の接待を受けていました。マルタには妹のマリヤと弟のラザロがいました。ラザロは死んだ後、キリストによってよみがえらされた奇跡を体験した人でした(ヨハネ11章)。彼らはキリストと親しく交流する間柄でした。
 その日、マリヤは高価な香油を持ってきて、キリストの足に注ぎかけました。彼らのいた家には香油のかぐわしいかおりとともに、非常な驚きも広がりました。マリヤが注ぎだした香油は、彼女の全財産に匹敵する価値があるものでしたが、それを彼女は惜しげもなく注ぎだしたからです。
 しかし、マリヤにとっては高価な香油を使い果たしたこと以上の深い意味がありました。それは、キリストとの家族ぐるみの深い関係から理解すべきことであり、マリヤの感謝の気持ちはお金では決して表すことのできないものだからです。その感謝の思いを、マリヤはあえてキリストの足に注ぎだしました。この足が、キリストの良き言葉と良き業をマリヤの一家にもたらしたものであったからです(ローマ10章15節)。
 それから六日後、キリストはマリヤの香油のかおりを携えて十字架につきました。マリヤが感謝したキリストの足取りは彼らの元に留まることなく、全人類のために歩き出したのでした。マリヤの香油はキリストの救いの業のはなむけとして確かに用いられたのでした。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストの十字架の苦しみを覚えるこの受難の時期、私たちは世界中の人々とともに苦しみを覚えています。今この時、私たちはマリヤが見出だしたように、キリストのうちに幸いを見出だすことができますように。キリストの十字架のうちに、私たちの安らぎを見出だすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/03/15

2020年3月22日の聖書日課

(写真:カタクリ)

ヨハネ12:1-8
 12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
 12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
 12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
 12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
 12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
 12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
 12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年3月15日3分メッセージ



 ヨシュア24章19節をお読みします。
主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。

 聖書の民、イスラエルはモーセに導かれてエジプトを脱出しました。そのモーセの後継者となり、イスラエルの指導者となったのがヨシュアでした。
 ヨシュアはイスラエルに対し、「聖書の神は、ねたむ神である」と言いました。聖なる神がねたむ神である、というのは意外に思われるかもしれせん。
 聖書において、「ねたみ」とは愛に基づくものであり、その愛は他のものを燃やし尽くしてしまうようなはげしさを伴うものとして表現されています(雅歌8章6節)。神のねたみは、神の愛の具体的な表れであり、そのためにキリスト教は他宗教との掛け持ちを許さない厳格さを持っています(出エジプト20章3節)。
 聖書が教える愛は、清く、聖なる性質を伴うものです(第一ペテロ1章22節)。ですから、結婚についても「一人の男と一人の女が結ばれるもの」と定めており(創世記2章24節)、いわゆる不倫や不貞という行為を戒めています(ヘブル13章4節)。
 神は聖書を通して愛の尊さを教えています。私たちも神の愛に謙虚に学んでいきたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは神の民をねたむほどに愛しておられます。私たちは神の愛を素直に受け入れます。神の尊い愛により、私たちも清い心で互いに愛し合うことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/03/08

2020年3月15日の聖書日課

(写真:ジンチョウゲ)

ヨシュア24:14-22
 24:14 それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。
 24:15 もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。
 24:16 その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。
 24:17 われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。
 24:18 主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです」。
 24:19 しかし、ヨシュアは民に言った、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。
 24:20 もしあなたがたが主を捨てて、異なる神々に仕えるならば、あなたがたにさいわいを下されたのちにも、ひるがえってあなたがたに災をくだし、あなたがたを滅ぼしつくされるであろう」。
 24:21 民はヨシュアに言った、「いいえ、われわれは主に仕えます」。
 24:22 そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年3月8日3分メッセージ



 エペソ5章9節をお読みします。
光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――

 聖書は「光」と「やみ」のたとえを用いてこのように語っています。「神は光であって、神には少しの暗いところもない。」(第一ヨハネ1章5節)そして、神を信じる者を「光の子」であると言っています(エペソ5章8節)。
 太陽の光は植物を生長させ、実を結ばせます。同じように、神は光の子たちに天から恵みを注ぎ、「善意と正義と真実との実を結ばせる」のです。
 一方、光とは違って、やみは「実を結ばない」と言います(エペソ5章11節)。たとえ実を結んでいるように見えても、それは本物の実ではありません。光がやみを打ち消すように、隠されていた正体が表に出されるなら、偽物の実は消え失せてしまいます。
 私たちは今、何を見て、何を追い求め、また何を手にしているでしょうか。たとえ手にしているものが大変高価に見えるようなものでも、偽物であることが判明したら一瞬で価値を失ってしまいます。
 私たちは真実の光によって本物を見分け、本物を得る者でありたいと思います。また天からの恵みをいっぱい受けて、決して消えていくことの無い実を結ぶ者でありたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの世界には、本物に見せかけた偽物が満ち満ちています。私たちに真実の光を照らしてください。また、私たち自身が善意と正義と真実との実を結ぶことができるように、私たちの人生の道を光によって導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/03/01

2020年3月8日の聖書日課

(写真:フクジュソウ)

エペソ5:6-14
 5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
 5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
 5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
 5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――
 5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
 5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
 5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
 5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
 5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
「眠っている者よ、起きなさい。
死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年3月1日3分メッセージ



 マタイ4章3節、4節をお読みします。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

 イエス・キリストは四十日の間、食事を断って祈りに専念しました。その後、空腹を覚えたキリストの所に悪魔がやって来て、こう言って試みました。「あなたの神の子の力で、石をパンに変えてみなさい。」
 この言葉は空腹の体には強い誘惑となったことでしょう。私たちクリスチャンは、キリストが神の子であるという信仰を持っています。またキリストが教えられた「主の祈り」にも、「日ごとの食物を与えてください」という言葉があります(マタイ6章11節)。クリスチャンは、毎日の生活の必要を神が与えてくださることを信じて祈っています。
 ですから、食物を求めて神に祈ることは悪い事ではありません。しかし、キリストは「石をパンに変える」ために神の力を用いることを拒否しました。その事は、神の前に謙遜になって求めるという、祈りの本質にそぐわないことであるからです。
 キリストは悪魔の神に対する不遜な言葉を退けました。人は食物があれば十分ではなく、神の言葉を食べなければなりません。すなわち、神から折にかなった助けを得ることのできる、正しい祈りの姿勢を身につけなければならないということです。
 聖書には、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とあります(ヤコブ4章6節)。キリストの言葉と生き様から、私たちは神に受け入れられる正しい祈りの心を学びたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち人間は弱さを覚える時、不思議と神に祈りをささげる者です。その時、私たちが正しく神の前にへりくだり、神に従う心をもって祈りをささげることができますように。御言葉の約束通り、天からの恵みをお与えください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年3月1日の聖書日課

(写真:カワヅザクラ)

マタイ4:1-11
 4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
 4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
 4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
 4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
 4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
 4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
 4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
 4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
 4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
 4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)