(1)天にましますわれらの父よ。
(2)ねがわくは、御名をあがめさせたまえ。
(3)御国を来らせたまえ。
(4)みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
(5)われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。
(6)われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
(7)われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
(8)国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
「国と力と栄え」は、古今問わず多くの人々が手に入れようと追い求めているものです。しかし「主の祈り」は、それらのものを「天にいます私たちの父」(マタイ6章9節)である神のものである、という信仰を告白して、祈りを閉じています。
聖書の神はこのように宣言しています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22章13節)あらゆる人が追い求めているもの、また必要としているもののすべては、天地創造の神によって備えられ、完成されます。この神が私たちの祈りを聞き届けてくださる、という確信して祈ることができます。
「絶えず祈りなさい」(テサロニケ第一5章17節)と勧められています。それは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1章6節)からです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ」(詩篇37篇5節、口語訳)てくださるとも言われています。
ですから、「主の祈り」を絶えず祈りましょう。今まで祈ったすべての言葉を、私たちの父なる神様は聞き届けてくださいます。「それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。」(コリント第二1章20節)
(日本聖書刊行会『新約聖書 新改訳』1965年版)
※詩篇37篇5節のみ、日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
ルカによる福音書の主の祈りでは、「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」(ルカ11章4節)と言われています。聖書の教える「罪」は、負債や負い目とも言われる、幅広い意味を持つ言葉です。
罪をゆるすことは、負債を免除してもらうことにたとえられます(マタイ18章23~35節)。しかし、負債免除の恩義を忘れて、そのゆるしの心を否定するような事、すなわち他人の罪をゆるさない者は、ゆるさないという罪を問われることになります。ですから、聖書は「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう」(ルカ6章37節)と教えています。
罪をゆるすことは自らの罪がゆるされるための条件ではありません。なぜなら、最初に神のゆるしがあるからです。イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架につけられました(ペテロ第一2章22~24節)。私たちの罪がゆるされたからこそ、私たちも他人の罪をゆるすことができます。
「主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3章13節)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。(マタイ6章11節)
主の祈りで天からの祝福を求めた後、地上に住む私たちの願いとして「日用の糧」を求めるように教えられています。私たちは毎日働き、生活の糧を得て、それを食べて生きています。「日用の糧」のためには当然、そのための働きも必要となります。神は人に対して、人として生きていくために必要なすべてを備えられ、日々の働きの場と、働く力、助けをも与えてくださいます(創世記2章)。
また「日ごとの食物」のための祈りを、「きょうも」毎日祈るべきことを教えています。私たちは不足することが無いためだけでなく、持て余してしまうことの無いようにも祈るべきです(箴言30章8~9節)。約束の地を目指したイスラエルの民は、毎日天のパンを与えられ、毎日働いてパンを集めるように教えられ、訓練されました(出エジプト16章18節)。
私たちは日用の糧を求めつつ、日用の糧のために煩わされないように生きるよう導かれています。聖書の神は私たちのすべての必要をご存じであり、私たちに日ごとの糧と働きを十分に備えてくださいます。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章34節)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(マタイ6章10節)
聖書の神の「御名」、「御国」、「みこころ」を求める祈りを続けてきました。「天にまします」神が、地に住む私たちに近づいて来るようです。まさにそのことを求めて、「天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
主の祈りが教えているのは、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6章33節)ということです。それは、地に属する様々な物事は、天国の後に「すべて添えて与えられる」と約束されているからです。
このように、「まだ見ていない事実を確認すること」が信仰です(ヘブル11章1節)。聖書は、目で見てわかること、自然の成り行きについては、目には見えない「神の国」の後に来るものだと教えています。
「目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」(ローマ8章24節)私たちが現に見て、心に思い描く世界は、人の限界を超えることはできません。しかし、神の「みこころ」を求めるなら、私たちの思いを超えた世界が現れてきます。私たちの日常にも神のみこころを求めてまいりましょう。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
御国が来ますように。(マタイ6章10節)
イエス・キリストはしばしば「神の国(天国)」について教えられました(マタイ13章31節)。宣教開始の第一声も「悔い改めよ、天国は近づいた」でした(マタイ4章17節)。いわば神の国はキリストのメインテーマでした。
主の祈りの願い事は、「御名をあがめさせたまえ」から始まっている通り、神についての願い事が前半部分に置かれています。このことは、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6章33節)と言われたキリストの教えにも共通することです。他の願いは神の国に加えて与えられると約束されています。
神の国はこの世の国とは異なります(ヨハネ18章36節)。またこの世の国々の栄華と比較できるものではありません(マタイ4章8節)。いやむしろ、この世の富と比較にならないほど高価なものです(マタイ16章26節)。キリストは、この神の国を求めるように教えているのです。
神の国を支配する者は神ご自身です。神の国を求める者は、神の支配に服することになり、神の大いなる力に従うことで人生の守りと導きを得ることができます。キリストはこのように約束しています。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ5章3節)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
御名があがめられますように。(マタイ6章9節)
主の祈りは、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけた後、「ねがわくは」と言って祈りの本題に入ります。
様々な祈りと願いに先立って、神の御名があがめられ、賛美されるように祈れと、キリストは教えられました。このことは、教会の礼拝が賛美に始まり、賛美に終わることにも相通ずることです。礼拝に集う人々の思惑はそれぞれ違っていたとしても、礼拝では言葉と心を一つにして神を賛美することを必須なものとしています。
教会で歌われる賛美歌は、神を賛美し、ほめたたえるための歌です。その賛美によって、礼拝されるべき神が天地を創造された、偉大な父なる神であることを告白します。祈りはその偉大な神に向かってささげられるものです(ローマ1章25節)。
しかし、神によって創造された被造物である私たちは、どんなに立派に賛美歌を歌ったとしても、天地創造の神に相応しい賛美を捧げる資格や能力があるということにはなりません(ネヘミヤ9章5節)。しかし、キリストは神を賛美しなさい、と私たちに励ましています。なぜなら、神は拙い私たちの口に、神を賛美するにふさわしい賛美をも与えてくださるからです(マタイ21章16節)。
「御名があがめられますように」という祈りの言葉は、神の御名を賛美できるのは私たち人間の能力によらないことを教えています。神の御名は、神ご自身だけがふさわしく高めることができることなのです。しかし、その神だけができることを、私たちは祈り求めることが許されています。まして、その後に続く私たちの願い事は、全能の神にとって不可能なことは何一つありません(マルコ11章22~24節)。感謝して祈り続けましょう。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
天にいますわれらの父よ、(マタイ6章9節)
イエス・キリストは弟子たちに対し、度々「主の祈り」を教えられました(マタイ6章9~13節、ルカ11章1~4節)。この祈りの言葉は、今日に至るまで世界中のクリスチャンが祈り続け、また教会でも祈り継がれてきたものです。主の祈りは、それぞれの時代の言葉に翻訳されて祈られてきました。日本語でもいくつかの翻訳の形がありますが、私たちはそれらの様々な祈りの形に共通している、主の祈りの心を学びたいと思います。
キリスト教は、中東の聖書の民であるイスラエル人から生まれました。イスラエル人は聖書の言葉を通して彼らの信仰の営みについて、祈りについて学び、実践していました。キリストが教えられた祈りは、イスラエル人にとっても驚くべき新しいものでした。しかし、実はキリストは彼らの知っていたはずの古い聖書の教えを、新しく教えられたのでした。
祈りを捧げる相手である聖書の神は、古くから教えられている通り「天と地とを創造された」(創世記1章1節)神です。祈り手である私たち人間は地に住むものであり、神は人の及びもつかない天に住まわれます。天は、私たちが宇宙に飛び出しても、どんなに遠くを観測しようとしても、決して探り出すことのできない世界です。しかし、天地の創造者である神は、天だけではなく私たちの世界である地にも及ぶことのできる方です(申命記30章12節)。
しかし、キリストは私たちに「天にいます」方に向けて祈れと教えられました。しかも、「父よ」と呼びかけよ、とも教えられました。聖書の民であるイスラエル人にとって、天にいます神を「父」と呼ぶ祈りは考えられないことでした。そのことを、キリストははっきりと言葉で教えられただけでなく、自らの祈りの姿で弟子たちに示されました(マルコ14章36節)。
キリストは祈りの言葉を授けるだけではなく、天地創造の偉大な神を父と呼んで、親しく祈りを捧げることのできる関係に招いてくださいました。私たちはキリストに御名により、「神の子」として祈ることが許されています(ヨハネ1章12節)。父なる神に感謝しつつ、気兼ねなく私たちの言葉で祈りを捧げましょう。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)