2020/05/31

2020年5月31日3分メッセージ



 エゼキエル37章3節をお読みします。
彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

 神のメッセンジャー(預言者)であるエゼキエルは、キリストの弟子ヨハネと同じように、神のメッセージを不思議な光景を見ることによって受け取りました。
 その光景は異様なものでした。エゼキエルは見渡す限りの人の骨を見たのです(エゼキエル37章1節)。その後、神はエゼキエルにこう問いかけました。「これらの骨は、生き返ることができるのか」。
 皆さんなら、この問いかけに何を思い、何と答えられるでしょうか。ある方は「人の骨が生き返るなんて起こりっこない」と答えられるかもしれません。
 エゼキエルは「はい」とも「いいえ」とも言いませんでした。恐らく、複雑な思いを抱きながら、「神のみぞ知る」というような答えをしたのだと思います。
 その後、エゼキエルはまたも不思議な光景を見ました。バラバラに散らばっていた無数の骨が組み合わさり、肉体が生じ、息を吹き返した人々が大群衆となって立ち上がったのです。神はこの光景の意味するところを教えました。無数の骨は、生きる希望を失い、心がバラバラになった人々の姿である、と言うのです(エゼキエル37章7~11節)。
 人はたとえ何不自由ない生活をすることができたとしても、心に生きる希望がなければ人として生きていくことができません。聖書の神は、人に日々の糧を与えるだけではなく、人間らしく生きていくために必要なものを与えて、心を生かしてくださいます。私たちも心に「神の国」を持つ者となりたいと思います(マタイ6章33節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。近ごろの私たちは思いがけない出来事を経験して、人として生きていくために必要なものは何であるかを考えさせられています。あなたは私たち人間が健やかに生きていくために必要なものすべてをご存じです。私たちが神の守りを得て、明日に希望を見いだして生きることができるようにしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/25

2020年5月31日の聖書日課

(写真:サツキ)

エゼキエル37:1-14
 37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
 37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
 37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
 37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
 37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
 37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
 37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
 37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
 37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
 37:11 そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
 37:12 それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
 37:13 わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
 37:14 わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/24

2020年5月24日3分メッセージ



 黙示録5章12節をお読みします。
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。

 黙示録は、イエス・キリストの弟子ヨハネがキリストから授かったメッセージを記録したものです(黙示録1章1節)。
 ヨハネは不思議な光景を目の当たりにしましたが、そのうちの幾つかの物は聖書の民であるイスラエル人のヨハネにもはっきり理解できました。そのように、黙示録は他の聖書の知識を活用することで本来の意味を知ることができます。
 ヨハネが見たのは「ほふられた小羊」でした。羊はイスラエル人の代表的な家畜であり、神への礼拝の際にほふって殺され、生贄として捧げられました。しかし、ヨハネが見た小羊はほふられたにも関わらず、生きていて目の前に立っているのでした。
 イスラエル人でありキリストの弟子であるヨハネは、「ほふられた小羊」が取りも直さずイエス・キリストを示すことがわかりました(ヨハネ1章29節)。キリストは十字架で血を流されましたが、その血は全人類を救うための生贄となりました。また、十字架の死から三日目の復活は、私たちを救って命を与えるためのものでした(黙示録5章9、10節)。
 キリストの救いの業は、小羊のように犠牲になることによって実現されたものです。キリストの救いに与るために、私たちは力や富を蓄える必要はありません。必要なのはキリストを信じることだけです。信じる者に、キリストはあらゆる力や富に勝る天からの祝福を注いでくださいます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ヨハネは迫害に苦しむ者のために黙示録を残しました。今日も私たちは、この聖書の中に救いの希望を見いだすことができます。ほふられた小羊であるイエス・キリストが、私たちの苦しみを取り除き、希望をもって日々を生きることができますようにお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/18

2020年5月24日の聖書日課

(写真:ボタン)

黙示録5:6-14
 5:6 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
 5:7 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
 5:8 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
 5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
 5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
 5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
 5:12 大声で叫んでいた、
「ほふられた小羊こそは、
力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、
さんびとを受けるにふさわしい」。
 5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、
「御座にいますかたと小羊とに、
さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、
世々限りなくあるように」。
 5:14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/17

2020年5月17日3分メッセージ



 ヨハネ16章33節をお読みします。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 イエス・キリストは最後の晩餐において、弟子たちに多くのことを教えました。弟子たちはキリストの言葉をすべて理解できた訳ではないでしょう。それでも、愛情に満ちた言葉を聞いて、弟子たちは一時の安心を持つことができました(30節)。
 キリストが最後の晩餐で教えた目的の一つは、弟子たちが平安な心を持つことでした。しかし、キリストは励ましの言葉を語っただけではなく、十字架の後の悩ましく困難な状況について、弟子たちにあからさまに予告しました。キリストがこの世に来られた主な目的は、真理を語ることだったからです(ヨハネ18章37節)。
 キリストは、重荷を負って悩み苦しむ者に休みを与えると語られました(マタイ11章28~30節)。その休みは一時の、気休め程度のものではありません。重荷となる現実の様々な苦しみに対し、目をそらすのではなく、キリストご自身が一緒に重荷を負ってくださり、私たちが負う重荷を軽くしてくださるのです。
 キリストはこの世に悩み、苦しみがあることを知っておられます。それらの重荷に対し、私たちが勇気を出して立ち向かい、平安な心で日々を歩めるように、私たちを助けてくださいます。それが、キリストが私たちに約束された「勝利の力」です(第一ヨハネ5章4節)。

 困難な時代に生きる皆様お一人ひとりにキリストの勝利の力が与えられますよう、お祈りをいたします。
 天の父なる神様。私たちは今日もキリストの御言葉を耳にしました。その御約束の通りに、悩ましい困難な時代に生きる私たちの心に平安を、私たちの日々の歩みに勝利をお与えください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/11

2020年5月17日の聖書日課

(写真:オダマキ)

ヨハネ16:25-33
 16:25 わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
 16:26 その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
 16:27 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。
 16:28 わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。
 16:29 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。
 16:30 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。
 16:31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
 16:32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
 16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/10

2020年5月10日3分メッセージ



 ヨハネ15章26節をお読みします。
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

 イエス・キリストが十字架にかけられた前の日の夜、最後の晩餐でキリストは弟子たちにこう語りました。
 この時の弟子たちは、次の日には先生であるキリストと離れ離れになってしまうことを知りません。しかし、キリストは弟子たちのために、人々から憎まれたり迫害されたりすることが起きることを前もって教えました(ヨハネ15章18~25節)。
 キリストが語った「助け主」とは、具体的には人々から憎まれたり苦しめられたりする中で、助けてくれるお方です。しかも、そのような人々はクリスチャンだから苦しめるという、正当な理由もなく苦しめる人々です(25節)。
 世の中には正しい事を憎み、反抗する人々がいます。反抗された人々は、仕返しに反抗するのが世の常でしょう。しかし、それでは憎しみの炎に油を注ぐ結果となってしまいます。憎いからといって罪を犯してしまうのは正しいことではありません。
 聖書の神は、憎しみに囚われてしまう私たち人類を助けてくださるお方です。神は助け主として「真理の御霊」を私たちのためにつかわされます。真理の御霊は私たちに正しい道を教え、私たちが進むべき方向へ導いてくださいます。
 様々な争いに囚われてしまう時、私たちは神から送られる助けを求め、神がなされる仲裁に従いましょう。私たちの方から憎しみを捨てること、それが神が示される正しい道です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは私たちに「互に愛し合いなさい」と命じられました(12節)。しかし、私たちはその意に反して、互いに憎み合うことの多い者です。どうぞ、そのような弱い私たちを助けてください。私たちに真理の御霊をつかわしてくださり、示された真理に従って歩めるよう、私たちをお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年5月10日の聖書日課

(写真:コデマリ)

ヨハネ15:18-27
 15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
 15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
 15:20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
 15:21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
 15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
 15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
 15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
 15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
 15:26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
 15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/05

2020年5月5日(火) 集会一部再開のお知らせ


 この度、政府発令の緊急事態宣言の期限が延長されることになりました。今後、長期間にわたる感染症予防のための「新しい生活様式」が求められていることに鑑み、志村キリスト教会ではより一層の感染症対策を実施しつつ、集会プログラムの省略・時間短縮の上で、定例集会を再開することにいたしました。再開する集会は以下の通りです。

◆主日礼拝:毎週日曜日 午前10:30~11:30
◆祈祷会:毎週木曜日 午後2:00~3:00

 なお、志村教会の各集会にご出席の際は、換気・マスク・手洗い等の基本的な感染症対策にご協力ください。また、教会ホームページでは「3分メッセージ」等を配信しています。
 世界中の感染症問題の一日も早い終息のためお祈りいたします。

2020/05/03

2020年5月3日3分メッセージ



 イザヤ62章2節をお読みします。
もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。

 生まれてきた子どもに名前をつけること。その名前には、その子により良く成長してほしいという親の願いが込められています。
 一方で私たちは、あまりよく知らない人に対してでも、見た目などわずかに知っているところでその人を勝手に判断して、あだ名をつけてしまうことがあります。
 イザヤ62章では、神の民の都であるエルサレムに対し、神が新しい名前をつけることが語られています。そこには神が神の民を愛していること、子どもに良いものを与えたいという神の熱い思いが込められています。
 それと同時に、その名前は神の民の性質をも表すものです。つまり、神の民はほかの国の人々から見て義であること、すなわち正しい民であり、栄えている民であるということです。
 人からつけられるあだ名の場合は、偏見である場合も、事実である場合もあることでしょう。しかし、聖書の神がつける新しい名前は、名づけ親である神が責任をもってその通りにされます。神は神の民を正しく、栄えるように、休まず働きかけられるのです(イザヤ62章1節)。
 神は新しい名前をつけた民を、自分の子どもとして喜ばれます(イザヤ62章5節)。そして、神自らの誇りとして神の民を王冠のように高く上げられます(イザヤ62章3節)。私たちも、「神に愛されている子供として、神にならう者になり」たいと思います(エペソ5章1節)。
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは私たちを喜ばれ、私たちを高く引き上げてくださいます。この聖書の約束をしっかり握って、神にならう者になりたいと思います。どうぞお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年5月3日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)「こはベウラの()なれば」
イザヤ62:1-5(お()ちの聖書(せいしょ)をお()みください)

 新聖歌(しんせいか)347(ばん)(けが)れしこの()の」の歌詞(かし)に、「こはベウラの()なれば」との一節(いっせつ)があります。「ベウラ」とは、イザヤ62:4の「(おっと)のある((めと)られた)」を意味(いみ)するヘブル()です。
 今日(きょう)聖書(せいしょ)箇所(かしょ)は、(かみ)(たみ)が「ベウラ」と()ばれるようになると(かた)っています。「ベウラ」が意味(いみ)するところを(ただ)しく()るためには、古代(こだい)イスラエルの人々(ひとびと)生活(せいかつ)から(かんが)えなければなりません。ですが、今回(こんかい)(はなし)(みじか)くしましょう。
 「ベウラ」とは、「見捨(みす)てられている」ことや「()()てている」ことの反対(はんたい)です(4(せつ))。つまり、(かみ)(たみ)である(わたし)たちクリスチャンは、「(かみ)()つけ()された(もの)」であり、「(かみ)祝福(しゅくふく)されて(ゆた)かである(もの)」と()ばれるのだ、ということです。
 (じつ)は、「ベウラ」と()ばれる(まえ)のイスラエルは、「見捨(みす)てられ、()()てた」と()ばれるような不幸(ふこう)(もの)であったのです。(みな)さんは、「()()てている」と()われるのと、「(ゆた)かである」と()われるのでは、(いま)自分(じぶん)のこととしてどちらがしっくり()るでしょうか。
 いずれにしても、今日(きょう)御言葉(みことば)は「あなたは、(しゅ)(くち)()づける(あたら)しい()()ばれよう」(2(せつ))と(かた)りかけています。神様(かみさま)(わたし)たちに(たい)し、(わたし)たちが(おも)いもよらなかったような「(あたら)しい()」で、つまり神様(かみさま)祝福(しゅくふく)()ちた名前(なまえ)()ばれるのです。
 また、その(あたら)しい名前(なまえ)は「()ばかり」ではありません。神様(かみさま)(わたし)たちを(あたら)しい名前(なまえ)()ばれるとき、(わたし)たちは(まわ)りの人々(ひとびと)からもはっきりとわかるように、(あたら)しく()えられます。人々(ひとびと)(わたし)たちを()て、「()(ただ)しさ)」と「栄光(えいこう)(さかえ)」を(みと)めるようになるのです。
 そのような()栄光(えいこう)(わたし)のうちにはない、と(おも)われるかもしれません。(たし)かにそれは(わたし)たちが元々(もともと)()っていたものではありません。それは神様(かみさま)が、イエス・キリストを(しん)じる(わたし)たちに(あたら)しく(あた)えてくださったものです。(わたし)たちが「世界(せかい)(ひかり)」(マタイ5:14)として(かがや)くために、神様(かみさま)(やす)むことなく、(だま)ることもなく、(わたし)たちを御言葉(みことば)によって(おし)え、(つく)()えてくださるのです(1(せつ))。
 神様(かみさま)(わたし)たちを「花嫁(はなよめ)」として()ておられ、(わたし)たちのことを(よろこ)ばれます(5(せつ))。そして、(わたし)たちを()栄光(えいこう)によって(かざ)り、(かんむり)のように(たか)()()げられます(3(せつ))。(わたし)たちは神様(かみさま)(あた)えてくださるものを素直(すなお)()()りましょう。
また、(わたし)たちは神様(かみさま)から(いただ)いた祝福(しゅくふく)言葉(ことば)によって、お(たが)いに祝福(しゅくふく)()いましょう。「あなたがたの兄弟(きょうだい)には、『わたしの(たみ)』と()い、あなたがたの姉妹(しまい)には、『(あい)される(もの)』と()え。」(ホセア2:1)

(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)