2021/05/03
2021年5月3日3分メッセージ
十字架で新しく 中央聖書神学校2年生 八木原海
私の高校時代は、体は丈夫なほうでしたが、心があまり健全ではありませんでした。インターネット上で悪口を書くのにはまっていたのです。学校と部活から家に帰るなり、親を軽蔑し、学校の同級生や気に入らないテレビタレントを思い出し、一言言ってやりたいと思い投稿しました。「彼らが悪い。私は普通だ」と言い聞かせていましたが、悪いのは私です。そう思いつつもやめられませんでした。そんな自分が恥ずかしかったし、人と会うのも苦痛でした。両親がクリスチャンだったので、子どもの頃から教会は引き続き通っていましたが、「私はこの場所にふさわしくない」と思っていました。実際礼拝堂の端の席に座っていました。しかし、ある時の牧師先生のお話は私に驚きを与えました。
悲惨なイエスキリストの話です。潔白のはずのイエスに罵声が浴びせられ、十字架刑に処せられるのです。「この罵声を浴びせる人たちはなんとひどいことをするのだ」と思いましたが、瞬間的に、いつも周囲を非難する自分に重なりました。イエスはさらに、耐えるどころか、「父よ彼らをお赦しください」と言いました。人の持つ罪を、十字架で背負って死ぬことで赦すという意味だそうです。私の中に拭われない「罪」の気持ちがあることが見透かされているようでした。説教の後の祈りの時間、私は神という存在に祈りました。「神様、私はコソコソ悪口をしています。すっきりすることはなく、ただ苦しいだけのこの生活、あなたに頼るしかありません、救ってください。」
祈り終わったあと、驚きました。自分の肩の荷がふっと下りたようでした。それだけではありません。翌日の朝ご飯で、レタスをシャキシャキっとかじるのが、おいしいのです。自転車で一歩一歩ペダルを踏んで、風を感じるのが心地良いのです。ささいなことでしょうか、しかし「今生きている」と心から思えたのは18年間生きてきて初めてでした。「罪が十字架につけられ、新しくイエスキリストの復活した命で生きられるのだ。」聖書に書いてある通りと思いました。当時の私を知る友人も私の変化に気づいたと言います。現に書き込む悪口は少しずつ減っていきました。そしてニュースでそのような被害を見聞きするたび、申し訳ない気持ちになり、助けを祈るようになっていきました。十字架にかかったイエスキリストは私の罪を除き、全く新しくしました。感謝します。