2020/11/29

2020年11月29日3分メッセージ



 マタイ24章44節をお読みします。
だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

 2020年は本日、11月29日よりキリストの降誕を待ち望むアドベントが始まりました。毎年祝われるクリスマスですが、今年は思いがけない特別なクリスマスとなっています。
 イエス・キリストはマタイ24章において、弟子たちに世の終りについて語っています。世の終りがいつ来るのかは誰もわからないが、その前兆を見ることができる、ということを語りました。人々はキリスト(人の子)がこの世に再び現れることについていろいろと噂をするが、キリストは人々の「思いがけない時に」(マタイ24章44節)やって来る、ということです。
 約2千年前にキリストが最初に人となって来られた時、その誕生は人々に知られることもなく、人影でひっそりとお生まれになりました。しかし、神によって導かれたごくわずかな人々がキリストの誕生を知り、キリストを拝みました(ルカ2章、マタイ2章)。これがキリストの誕生を祝った最初のクリスマスでした。
 イエス・キリストはこの世界を、私たち人類を新しく作り変えるために来られます。私たちの日常も思いがけない変化にとまどうことも多くあるかもしれません。しかし、世界が変わっても、決して変わることのない真理はあります。その真理をキリストは言葉によって言い表されました(マタイ24章35節)。私たちもキリストの御言葉を耳に聞き、本当に大事な真理を守ってくださるキリストの御業を待ち望みつつ、今年のクリスマスを迎えてまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日常生活の思いがけない変化にとまどっています。しかし、イエス・キリストは私たちの本当に大事なものを守ってくださるお方です。今この時もキリストの救いの御業が行われてまいりますように。また私たちの心も良き変化に備えをすることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年11月29日(日) アドベント開始

 今年は11月29日からクリスマスの準備期間であるアドベントが始まりました。志村キリスト教会では、感染症対策を継続しつつ、毎週日曜日の礼拝の中でクリスマスをお祝いしていきます。いろいろと特別対応なクリスマスですが、決して失われてはいけない、一番大切なものを見届けるクリスマスでありたいと願っています。

2020/11/23

2020年11月29日の聖書日課

  

(写真:キミガヨラン)

マタイ24:36-44
 24:36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
 24:37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
 24:38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
 24:39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
 24:40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
 24:41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
 24:42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 24:43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
 24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/22

2020年11月22日3分メッセージ



 ミカ2章12節をお読みします。
ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、イスラエルの残れる者を集める。わたしはこれをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく。

 預言者ミカはこのように言って、神からのメッセージをヤコブ、すなわちイスラエルの人々に伝えました。その内容は、羊のように散らばった人々を狼のような危険から守るために、神は羊飼いのようにイスラエルを集めて守られる、ということです。
 しかし、イスラエルの人々は預言者の言葉に耳を貸さず、「説教するな」と言いました(ミカ2章6節)。紀元前8世紀頃のミカの時代、イスラエルの国は外敵に悩まされながらも一時の平和を味わっていました。そのため、人々は預言者の言葉をたわごとであると思ったのです。
 しかしながら、イスラエルの歴史を顧みると、ミカの時代には二つに分かれた北の王国が既に滅亡しており(紀元前721年)、南の王国も後の時代に滅亡してしまいます(紀元前586年)。そのことは、ミカの預言が知らせた「災」の通りです(ミカ2章3節)。結局、ミカの時代の人々は目先のことだけしか考えていなかったのです。
 聖書の神は、私たちが今見ていることより遥かに広く、遠い視野を持ってメッセージを語られます。私たちは聖書の言葉に謙虚になって耳を傾けましょう。そうすれば、私たちは人の知恵を超えた、神の知恵に学ぶことができます。神は良い羊飼いとして私たちを守り、養ってくださいます(詩篇23篇1節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたの思いは私たちの思いより遥かに高く、私たちのすべてを見通しておられます。私たちは聖書の言葉に目を留め、神のメッセージに耳を傾けます。どうぞ私たちに知恵を与え、迷いのない人生を歩ませてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/16

2020年11月22日の聖書日課

(写真:カキノキ)

ミカ2:12-13
 2:12 ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、
イスラエルの残れる者を集める。
わたしはこれをおりの羊のように、
牧場の中の群れのように共におく。
これは人の多きによって騒がしくなる。
 2:13 打ち破る者は彼らに先だって登りゆき、
彼らは門を打ち破り、これをとおって外に出て行く。
彼らの王はその前に進み、
主はその先頭に立たれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/15

2020年11月15日3分メッセージ



 使徒3章16節をお読みします。
イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くした…

 この言葉は、イエス・キリストの弟子ペテロが語った言葉です。
 ペテロは同じ弟子のヨハネとともにエルサレムの神殿に行きました。そこで足の不自由な男の人に出会いました。この男の人は、神殿を出入りする人々に施しを求めていました。ペテロたちにも同じように施しを求めました(使徒3章1~3節)。
 この男の人に対するペテロの返事は期待外れな内容でした。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3章6節)。しかし、その後に起きた出来事は期待以上のことでした。それは、足の不自由な男の人が立ち上がり、歩き出したのです(使徒3章7~8節)。
 周りの人々はこの出来事にひどく驚きました(使徒3章11節)。そして、このような奇跡を起こしたペテロとは、どれほどの大人物かと思ったことでしょう。しかし、ペテロは冒頭の言葉を語り、人々の期待から外れるような答えをしました。
 ペテロはこの言葉でキリスト教の本質を語っています。それは、クリスチャンや教会がキリスト教の名のもとに様々な立派な働きをしたとしても、キリスト教の本質はキリストを信じる信仰にある、ということです。そして、すべての良い出来事の源はキリストにある、ということです。それゆえにクリスチャンや教会はキリストを語るのです。
 クリスチャンは単なる人に過ぎません。しかし、クリスチャンは聖書を通してキリストの言葉を聞き、キリストの意志に従います。そして、キリストはクリスチャンを通して偉大な力を発揮されます。皆様もキリストを信じる信仰を通して、キリストの偉大な働きが現われ出るようになりますように、祝福をお祈りいたします。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ペテロは驚くべき奇跡の源としてキリストの名を語りました。私たちも良い物事の源であるキリストをよく知ることができますように。そして私たちの生涯を通してキリストの栄光が現われ出るようになりますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/09

2020年11月15日の聖書日課

  

(写真:ノコンギク)

使徒3:11-19
 3:11 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。
 3:12 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。
 3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
 3:14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、
 3:15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。
 3:16 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。
 3:17 さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。
 3:18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。
 3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/08

2020年11月8日3分メッセージ



 マタイ3章11節をお読みします。
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

 この言葉は、バプテスマのヨハネがイエス・キリストについて説明したものです。
 当時のイスラエルでは、身を清めるために水を浴びる、バプテスマという儀式が行われていました。ヨハネは多くの人々にこれを行ったので、バプテスマのヨハネと呼ばれました(マタイ3章6節)。
 しかし、ヨハネが人々に説いたのは「悔い改めよ」ということでした(マタイ3章2節)。悔改めとは、形だけ水を浴びることではなく、自分の罪を告白して、罪から決別する意志を持つことです。むしろ、ヨハネは見せかけだけのバプテスマを止めさせようとしたのです(マタイ3章7節)。
 さらにヨハネは、自分より力のあるのはキリストであると告げます。ヨハネのバプテスマは水でしかないが、キリストのバプテスマは火のように人々から罪を除き去る力がある、と告げているのです。
 キリスト教会は、クリスチャンになろうとする人に水のバプテスマ、すなわち洗礼式を授けます。それは、洗礼の水に特別な力があるというのではなく、キリストに真の罪の清めの力があることを示すものです。罪や罪責感に苦しんでいる人は、キリストによる罪からの清めを得るために、キリストのバプテスマを受けてください(使徒2章38節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち人間には罪に打ち勝つ力はありません。ただ、聖霊と火のバプテスマを授けられるイエス・キリストにこそ、罪に打ち勝つ力があります。私たちは自らの罪を告白します。どうぞ私たちを罪の力から救い出してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/07

2020年11月7日3分メッセージ



嵐から平安の人生へ  志村キリスト教会 生田ハエノ

 青春時代、元気で仕事に勉強にまっしぐらでしたから、信仰とか神に頼るとかは心も体もひ弱い人がすることで、私は違うと思い込んでいました。
 聖書を最初に手にとったのは、岡山県津山市の高等看護学院の学生時代でした。正看護師の資格を取るために、昼は看護学院で学び、夜は津山基督教図書館高校で学びました。高校の授業の一つに聖書の時間がありました。友逹に借りた聖書を机に立てて眠り、授業が終わって寮に帰ったら、国家試験に向けて一生懸命合格を目指して勉強しました。
 クリスチャンになってから思うのは、聖書を教えておられたのは校長の森本慶三先生でした。どの学科よりも大切な時間に寝ている私を憐れんで祈って下さり、また職員室の多くの先生方、皆さんで私の救いを神様に祈っていただいたのだと思っています。
 卒業して九州の大学病院に就職しました。看護師として楽しく働き、夜勤が終わった後、寝ないで遊びに行ったり、そんな無茶苦茶な生活がたたって、日本脳炎の疑いで隔離病棟に入院させられました。40度近い高熱が4日間もつづき、死ぬか脳障害になって生きるか、絶望的な中にいた時、ベットの脇に白い衣の人が立って「安かれ」と声をかけられました。私は1年前に亡くなった父だと思って「父ちゃん」とよびました。それから不思議に熱も下がり回復に向かいました。
 その後、結婚のため上京して、子育てが始まり、私の心は大風が吹き荒れていました。そんな時、トラクトを持って訪ねて来られた人(今は牧師先生になられた大越喬子先生)に誘われて教会に導かれました。祈りの時、涙はボロボロ、鼻水は滝のようにぐしゃぐしゃ、終わってから救われたと言われ、受け入れました。3ヶ月後、私は31才で洗礼を受けました。自我の壁が崩れたけれど、私という人間が作り上げられるまで年月がかかりました。今もその途上です。
 そして入院の頃、ひしがれている私の所に来てくださった「白い衣の人」はイエス・キリスト様だとわかりました。私が初めて聖書の御言葉を覚えたのは、マタイ10章26節です。「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」最初、心の隅まで見通されて私は怖いと思いましたが、本当の神様を感じました。そして、信仰は私の人生にマイナスになったことは一度もありません。今は平安の中で、魂の休息地の中で生きています。

2020/11/02

2020年11月8日の聖書日課

  

(写真:キチジョウソウ)

マタイ3:7-12
 3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
 3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
 3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
 3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
 3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
 3:12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/01

2020年11月1日3分メッセージ



 イザヤ44章6節をお読みします。
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない」。

 聖書は、信じるべき神はただひとりであると語っています。また、ただひとりの神のみを信じることを命じ、他の神々を信じることを禁じています(出エジプト20章3節)。
 イザヤ44章9節以降では、神々をかたどって作られた像を「偶像」と言って論じます。結局のところ、偶像とは神そのものではなく、人間の手によって作られたものにすぎない、と訴えています。
 この教えは、キリスト教が礼拝の対象として像や絵画等を用いないことの理由となります。キリスト教の文化でも優れた美術作品が数多く作られてきました。しかし、それは言わば視覚によって伝えられる神に関するメッセージです。
 さらに、聖書の神は偶像の神とは異なって、私たち人間に関わりを持とうとされるお方です。聖書の神はイスラエル、すなわち神を信じる神の民をあがない、救われるお方であり、人間の「初め」から「終り」に至るまで、全人類の歴史を通して関わりを持とうとされるお方です(イザヤ44章6節)。
 そして、神は私たちに御言葉をかけられ、私たちの人生の指針を示す教えを与えられるお方です(イザヤ44章7節)。神は人間にはっきりと悟らせるため、私たちの人生に奇跡を行われます。そのような体験をした者は神を証言する証人となる、と言われています(イザヤ44章8節)。ぜひ聖書のメッセージに耳を傾けてください。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるであろう。」(マタイ7章8節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち、人間の力には限界があります。私たち自身を救う力すらありません。私たちの初めと終りを知っておられる神様。私たちに寄り添ってくださり、御言葉の通り私たちをあがない、救いの御業を見させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年11月1日の聖書日課

 

(写真:ダリア)

イザヤ44:6-17

 44:6 主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、
万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終りである。
わたしのほかに神はない。
 44:7 だれかわたしに等しい者があるか。
その者はそれを示し、またそれを告げ、
わが前に言いつらねよ。
だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。
その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。
 44:8 恐れてはならない、またおののいてはならない。
わたしはこの事を昔から、
あなたがたに聞かせなかったか、
また告げなかったか。
あなたがたはわが証人である。
わたしのほかに神があるか。
わたしのほかに岩はない。
わたしはそのあることを知らない」。
 44:9 偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。
 44:10 だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
 44:11 見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。
 44:12 鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。
 44:13 木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。
 44:14 彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。
 44:15 こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。
 44:16 その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。
 44:17 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)