2020/07/26

2020年7月26日3分メッセージ



 ヨハネ6章19節、20節をお読みします。
四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。

 ヨハネ6章は、キリストが「パン五つと、さかな二ひき」によって五千人以上の人々のお腹を満たした「奇跡」を伝えています(ヨハネ6章1~14節)。その後、キリストは人々と別れて祈りのため山にこもり(マタイ14章23節)、弟子たちは湖(ガリラヤの海)を舟で渡って家路につきました。
 ところが、湖が強い風のため急に荒れ出して、弟子たちの乗り込んだ舟が転覆しそうになりました。そのところに、キリストが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいてくる「奇跡」が起きたのです。
 このように、弟子たちはパンの「奇跡」の後に、湖の「奇跡」を見ました。そして、このことは、キリストが私たちに伝えようとされる同じ一つの「しるし」を意味しています(ヨハネ6章14節)。
 キリストが伝えようとしたのは「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章48節)ということです。先にはパンで空腹をいやし、後には水の難から救い出し、両方とも人に命を与えるお方であることをキリストは示されました。
 キリストは、「子(キリスト)を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得る」と語られました(ヨハネ6章40節)。キリストの約束される「命」が、私たちの願いが叶えられるという望ましい状況の中だけではなく、私たちの願わない災難の中にも「命」が見いだされることを、皆様も知ることができますようにと願います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。多くの人々はお腹を満たすパンだけを求め、弟子たちはキリストの奇跡を見て恐れました。しかし、キリストは「命のパン」であると語られます。私たちは良い時にも悪い時にも、キリストが私たちに永遠の命を与えるお方であることを知ることができ、どんな状況にあっても恐れず、前進することができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/20

2020年7月26日の聖書日課



(写真:ヤブカンゾウ)

ヨハネ6:16-21
 6:16 夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、
 6:17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
 6:18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
 6:19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
 6:20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
 6:21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/19

2020年7月19日3分メッセージ



 使徒24章14節、15節をお読みします。
ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。

 使徒行伝24章は、キリストの使徒パウロが、ユダヤを統治するローマ帝国の総督の裁きを受けた出来事を報告しています。パウロは被告人であり、原告はパウロと同じユダヤ人でした。
 訴えの内容は宗教上の問題でした。それは本来、総督が裁判として取り扱わない案件でした(使徒18章12~16節)。さらに原告のユダヤ人たちの訴えは根拠の弱いものであり(使徒21~23章参照)、パウロにとって不当な裁判でした。
 しかし、このパウロの仕打ちは、キリストの言葉と生涯を思い起こさせます。キリストは弟子たちに対してこのように語りました。「人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。」(ルカ21章12節)またキリストご自身が総督ピラトに引き渡され、不当な裁判により十字架にかけられたのでした(マタイ27章参照)。
 キリストが語った言葉には約束も伴っています。それは、裁判に引き出されるその時、語るべき言葉が与えられるであろう、ということです(ルカ21章13~15節)。キリストは不当な裁判の結果、人類のための救いとなりました。パウロは裁判の後も命永らえて、新しい土地に送られて人々を教え、新約聖書に多くの手紙を書き残しました。
 聖書の神は「神を愛する者たち」のため、「万事を益となるようにして下さる」お方です(ローマ8章28節)。私たちの苦難を益に変えてくださる神を仰いでまいりましょう。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの目の前に苦難と見えるものがあります。万事を益へと変えられる神様。私たちがこの所から前に進めるように、希望の御言葉をください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/13

2020年7月19日の聖書日課



(写真:ギボウシ)

使徒24:10-21
 24:10 そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。
「閣下が、多年にわたり、この国民の裁判をつかさどっておられることを、よく承知していますので、わたしは喜んで、自分のことを弁明いたします。
 24:11 お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。
 24:12 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、
 24:13 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。
 24:14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、
 24:15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。
 24:16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。
 24:17 さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。
 24:18 そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。
 24:19 ところが、アジヤからきた数人のユダヤ人が――彼らが、わたしに対して、何かとがめ立てをすることがあったなら、よろしく閣下の前にきて、訴えるべきでした。
 24:20 あるいは、何かわたしに不正なことがあったなら、わたしが議会の前に立っていた時、彼らみずから、それを指摘すべきでした。
 24:21 ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/12

2020年7月12日3分メッセージ



 ホセア14章1節をお読みします。
イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。

 聖書の神は、神の民であるイスラエルに対して、家出した子どもを呼び戻すように「帰れ」と呼びかけています。
 聖書は度々、家出のたとえを用いて私たちに語りかけます。新約聖書でも「放蕩息子」のたとえ話があります。息子は父親から財産をもらって実家を飛び出しましたが、財産をすべて放蕩して使い果たしてしまいました。それから息子は困窮の末に実家に帰るのですが、父親は大喜びでこの息子を家に迎えました(ルカ15章11~32節)。
 ホセア書の冒頭には大変印象深い出来事が語られています。預言者ホセアはゴメルという女性と結婚しました。しかし、ゴメルはホセアから離れて、不道徳な生活をして身を持ち崩し、身売りする立場となってしまいます。そのようなゴメルを、夫のホセアは金を払って身受けするのでした(ホセア1~3章)。
 この放蕩息子やゴメルのように、期待に背いて自分勝手に家を飛び出してしまうような者であっても、聖書の神は彼らが正しい立場に立ち返ることを願っています。これらのたとえ話は、私たちに向けられた神の熱い思いを語っています。
 聖書の神はゆるしの神であり、いやしの神です(ホセア14章4節)。現状は悲惨な状況であり、それは自分に落ち度があったためだと気づいている人は、悔い改めを促す神の呼び声を聞いて、神の救いを求めましょう。悔い改める人に、神は助けの御手を伸べてくださいます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは家出した子に対し「帰れ」と呼びかけておられます。私たちの心にこの神の呼び声を聞くとき、その時、私たちは素直に神のもとに立ち返ることができますように。行くべき道を見失っているすべての人が、神のもとに帰ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/06

2020年7月12日の聖書日課


(写真:ホウセンカ)

ホセア14:1-7
 14:1 イスラエルよ、
あなたの神、主に帰れ。
あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。
 14:2 あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、
「不義はことごとくゆるして、
よきものを受けいれてください。
わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。
 14:3 アッスリヤはわたしたちを助けず、
わたしたちは馬に乗りません。
わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって
『われわれの神』とは言いません。
みなしごはあなたによって、
あわれみを得るでしょう」。
 14:4 わたしは彼らのそむきをいやし、
喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。
 14:5 わたしはイスラエルに対しては露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張り、
 14:6 その枝は茂りひろがり、
その麗しさはオリブの木のように、
そのかんばしさはレバノンのようになる。
 14:7 彼らは帰って来て、わが陰に住み、
園のように栄え、
ぶどうの木のように花咲き、
そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/05

2020年7月5日3分メッセージ



 ヨハネ4章36節をお読みします。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

 聖書では、大事な真理を伝えるために、農業の例え話が多く語られています。一つ例を挙げると、大きなぶどう園の収穫のために多くの労働者を雇った、というような話もあります(マタイ20章1~16節)。
 農業の仕事は非常に多くの労力と時間が必要です。大農場の場合は、一人では仕事を賄いきれず、多くの労働者が必要になってきます。その場合、最初に作物の種をまく人と、最後に作物を刈り取る人が別であることもありえます。それぞれの仕事をしている労働者が、農場のすべての仕事、すべての労働者を把握しきれないこともあるでしょう。
 最初にお読みしたたとえ話を語ったイエス・キリストは、私たちが日々生活している人間社会について大事な真理を語っています。特に世界中と常に関わりを持たざるを得ない現代社会は、社会全体を把握することは極めて困難です。また、お互い同士がいつも変わらず信頼し合って生活しているという訳でもありません。時に人から手痛い仕打ちを受けて、社会から離れていたいと思うこともあると思います。
 キリストは、聖書の神は「収穫の主」であり、神に助けを祈り求めよ、と語っています(マタイ9章38節)。聖書の神はこの世界を導く主人であり、たとえ世界で生きる人々が異なった立場に立とうとも、「共々に喜ぶため」に世界全体を導かれるお方です。世界の混乱した部分に目を留めるのではなく、世界の主である神に目を留められますようお勧めします。

 皆様が「永遠の命」に満たされて日々を過ごすことができますよう、お祈りいたします。
 天の父なる神様。私たちは日ごとの糧を得るために、日々それぞれの働きをしています。しかし、私たちはたった一人で生きている訳ではありません。収穫の主であられる神様。様々な人間関係に悩む私たちをお助けくださり、共々に喜びながら日々を過ごすことができますよう、私たちをお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/01

2020年7月5日の聖書日課


(写真:アジサイ)

ヨハネ4:27-42
 4:27 そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
 4:28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
 4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
 4:30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。
 4:31 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。
 4:32 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。
 4:33 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。
 4:34 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。
 4:35 あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
 4:36 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
 4:37 そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
 4:38 わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。
 4:39 さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。
 4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。
 4:41 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
 4:42 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)