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2025/11/16

2025年11月16日「約束のものを取り戻す」

ヘブル11:13-19
 11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
 11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
 11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
 11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
 11:18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。
 11:19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

 「これらの人」、すなわちアブラハムらは「信仰をいだいて」(:13)、神の「召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行」(ヘブル11:8)きました。彼らは「約束のものは受けていなかった」(:13)のですが、神から幻を与えられ(創世記15:1)、それを頼りに旅を続けました。

 アブラハムは信仰のゆえに神に求めることができました(:14-16、創世記15:2)。信仰の子孫であるクリスチャンも同じように神に祈り求め、神はその祈りを聞き届けてくださいます(創世記15:6)。

 信仰によって、アブラハムはわが子イサクを神にささげました(:17)。神はイサクを犠牲にすることを求めました(創世記22:2)。アブラハムの苦悩は想像を絶しますが、彼は神に従うことによって約束の成就を求めました。その結果、「彼は、いわば、イサクを生きかえして渡され」(:19)ました。

 これはまさにキリストの十字架と復活を示す型です。「あなたがたは…彼(キリスト)を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/09

2025年11月9日「主は信仰を認められた」

創世記15:1-6
 15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、
「アブラムよ恐れてはならない、
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは、
はなはだ大きいであろう」。
 15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
 15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
 15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
 15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
 15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 アブラムは、後に「多くの国民の父」を意味する名の「アブラハム」に変えられました(創世記17:5)。彼は神の約束を信じて神の召しに従い(ヘブル11:8)、地上の利権に目を留めず神の約束のみを追求しました(創世記14:23)。そのため、新約聖書でも彼は「信仰の父」とみなされています(ガラテヤ3:6-9)。

 しかし、アブラムへの約束はなかなか実現しませんでした。彼の思いを見通すように、神は「恐れてはならない」(:1)と語りかけました。その言葉に応じ、アブラムは心の思いを言い表しました(:2-3)。彼の信仰は盲従とは違っていたことがわかります。

 その応答に対し、神は言葉とともに幻(映像)を示しました(:5)。言葉では十分に表現できないもの、特に将来について、神は幻やたとえ話のようなイメージを用いて伝えています。

 神の約束は言葉で表現しても、その中身は言葉では伝えられません。しかし、アブラムは神の示しをそのまま「信じた」のです。神はそれをよし、「義」と認められました(:6)。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/02

2025年11月2日「神の御前での食事」

出エジプト24:5-11
 24:5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。
 24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。
 24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。
 24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
 24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。
 24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。
 24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 出エジプト記は、神の民イスラエルの誕生を物語ります。彼らには先祖伝来の信仰がありましたが、信仰をどのように守るべきかを教える「宗教」はありませんでした。その宗教を教えるのが「律法」であり、「契約の書」(:7)です。

 祭司が定められる前、モーセは若者たちに燔祭等の務めを任せました(:5)。モーセは民に律法順守を誓わせ(:7)、契約の血を注ぎかけました(:8)。その後、七十人の長老たち(:9)とともに神を仰ぎ見(:10)、神の御前で食事をしました(:11)。こうしてイスラエルの民は、律法を授かるにあたり、礼拝方法を実体験によって学びました。

 この出来事は、キリストの聖餐式(ルカ22:19-20)のひな形の一つとなりました。律法が神の民に礼拝方法を教えたように、聖餐式はキリストの十字架による贖いのわざを、パンを食べ、ぶどうを飲むことによって体験させます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント第一11:26)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/26

2025年10月26日「天は神の栄光を語る」

詩篇19:1-6
 19:1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
 19:2 この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
 19:3 話すことなく、語ることなく、
その声も聞えないのに、
 19:4 その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。
 19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、
また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
 19:6 それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。

 「詩篇」はイスラエル人によって歌い継がれてきた賛美歌です。一つの詩篇の中に複数の主題が含まれていますが、全体として共通の主題を歌い上げています。詩篇19篇の主題は啓示(神の示し)です。

 神は天により(:1-6)、御言葉により(:7-11)、良心により(:12-14)、人に語りかけています。その中でも、天のもろもろの現象は神の栄光をあらわしています(:1)。その規模は人間の作品に比べたら計り知れず大きく、全世界に及ぶものですが(:4)、そのメッセージは人の言葉によるものではありません(:3)。

 人間は注意深く自然界を観察して、それらの現象の意義を理解しつつあります。その多くは、人間の無思慮なふるまいが自然を破壊しつつあることですが、果たしてそれだけでしょうか。

 私たちは神の御言葉に、また私たちの良心のつぶやきに耳を傾ける必要があります。その上で、私たちは天の大きなメッセージを聞くことができるようになります。天の大きな賛美に合わせて、「わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」(:14)と謙虚な告白をしましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/19

2025年10月19日「さあ、迎えに出なさい」

マタイ25:1-13
 25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
 25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
 25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
 25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 25:5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
 25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
 25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
 25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
 25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
 25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
 25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
 25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
 25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

 キリストは「世の終り」(マタイ24:3)に関連したたとえ話を語りました。それは当時の結婚式の風習に関する話です。

 当時の結婚式では、花婿がその男友達に伴われ、女友達(おとめ)に伴われた花嫁を迎えに行き、盛大な披露宴が開かれます。花婿たちは各所にあいさつ回りをしながらゆっくりと迎えに行くため、披露宴は大変遅くに始まることが見込まれました。花嫁の友達は日中であろうと夜中であろうと、披露宴に花とあかりをもたらす役目があります。そのため彼女たちにはあかりを絶やさないための油の用意が必須だったのです。思慮深さは、必須の油を用意しているか、いないかにかかっていました(:3)。

 この天国のたとえ話は、「人の子」であるキリストが世の終りに再び来られることを示しています(マタイ24:33)。私たちにはキリストを出迎える用意が求められています。花婿であるキリストも言われます。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/12

2025年10月12日「神に愛されている者」

エペソ5:1-5
 5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
 5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
 5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
 5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
 5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

 私たちの世界の親子関係は千差万別で、非常に親しい親子も、そうでない場合もあります。親から虐待を受け続けた結果、自らも子を虐待するような負の連鎖もあります。しかし、「愛」というものは、本当の意味で親しい人間関係がなければ伝わりません。

 自らが人を愛する「愛の人」となるためには、自ら愛を十分に受け入れなければなりません。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:19)

 神の愛を受け入れ、神にならう者になってこそ、初めて愛の人と言えます(:1)。愛の人は「愛のうちを歩く」、すなわち愛することを実行する人です(:2)。「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第一3:18)

 愛の人であるなら、愛にふさわしくないことを避けなければなりません。それは、汚れた行いと言葉です(:3)。これらの事柄と正反対なのが「感謝」です。感謝は汚れた心を清めます。「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:18)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/05

2025年10月5日「神の国の食事」

ルカ14:15-24
 14:15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
 14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
 14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
 14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
 14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
 14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
 14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
 14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
 14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
 14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

 イエス・キリストは宣教活動の最中に、食事に招かれることが多くありました(ルカ14:1)。そこでもキリストは神の国について多くの教えを語られました。その中でも、食事を例にしたたとえ話が多く記録されています(ルカ12:35-40等)。

 ここでは「盛大な晩餐会」(:16)のたとえを語られました。晩餐会に予め招いた人々がいましたが、出席を断ってしまいました(:18)。それに対しておこった晩餐会の主人は、無理やりにでも席をいっぱいにするために、通りがかりの空腹な人々を連れて来させました(:23)。

 神の国の晩餐会の主人である神は、御国のさいわいを味わうことのできる約束をもって私たちを招いています。しかし、神の約束を信ぜず御国のさいわいを味わうことのできない人が多くいることを、キリストのたとえは示しています。私たちはどちらの立場にいるでしょうか。「すべて求める者は得…るからである」(ルカ11:10)とキリストは今も私たちを招いています。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/28

2025年9月28日「自由をもたらす律法」

ヤコブ2:8-13
 2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
 2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。
 2:10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
 2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
 2:12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。
 2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(:8)とは、キリスト教の最も有名な教えです。キリストも「これより大事ないましめは、ほかにない」と言われ(マルコ12:31)、旧約聖書(レビ19:18)にもあり、聖書全巻で一貫している教えです。

 「愛する」とは、人によって意味する内容が異なっていて、具体的な言葉でないかもしれません。ヤコブ書では、愛することは「分け隔て(えこひいき)」をすることではない(:9)、と教えています。人によって違う好みを持つ、ということは聖書の教える愛ではありません。

 「神は愛である」(ヨハネ第一4:8)とあります。神は分け隔てせず愛する方であり、先に「まずわたしたちを愛して下さった」(ヨハネ第一4:19)お方です。神はキリストによって愛を示されました。「ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)

 神の命令である「律法」は教えでもあります。私たちは神から愛を学び、愛することを実践できます。神から賜った律法は束縛ではなく自由をもたらします。「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は…実際に行う人である。」(ヤコブ1:25)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/21

2025年9月21日「神の手で一つになる」

エゼキエル37:15-22
 37:15 主の言葉がわたしに臨んだ、
 37:16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。
 37:17 あなたはこれらを合わせて、一つの木となせ。これらはあなたの手で一つになる。
 37:18 あなたの民の人々があなたに向かって、『これはなんのことであるか、われわれに示してくれないか』と言う時は、
 37:19 これに言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる。
 37:20 あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にあるとき、
 37:21 あなたは彼らに言え。主なる神は、こう言われる、見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
 37:22 その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。

 エゼキエルは、バビロン(カルデヤ)捕囚期の預言者です(エゼキエル1:1-2)。「彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である」(エゼキエル12:2)と評されたイスラエル人に対し、エゼキエルは驚くべき幻、不可解な行為によって、なお神の使信を語り続けました。

 二本の木(:16)はイスラエルの反逆の歴史と現状を示します。イスラエル(ヤコブ)の十二人の息子のうち、ヨセフがエジプトに売られましたが(創世記37章)、神は一家をエジプトへ送って飢饉から救われました(創世記46章)。出エジプトが国家の原点となりました(エゼキエル20:5-6)。国家はダビデ王が統一しましたが(エゼキエル34:23)、ユダ族の国とエフライム族の国に分裂し(:16)、滅亡、捕囚の憂き目にあいました。

 神は彼らのなし得なかったことを、神の手でなすと約束されました。神が人々を「取り出し」、「集めて」、「みちびき」、「一つの民」とします(:21-22)。神は愛のわざにより私たちの心を一つにしてくださいます。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3:14)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/14

2025年9月14日「天の宝を見つける」

マタイ13:44-52
 13:44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
 13:45 また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
 13:46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
 13:47 また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
 13:48 それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
 13:49 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
 13:50 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
 13:51 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
 13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

 キリストは多くのたとえ話を語りました。マタイ13章にはその多くがまとめられています。その共通する主題は「天国」です。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)

 元より「天国の奥義」(マタイ13:11)は言葉で伝えられるものではありません。しかし、キリストは天国の奥義をたとえにより、イメージを通して伝えました。私たちはそのイメージを開封するように、中身の宝である奥義を見つけなければなりません。

 天国の特徴について、多くのたとえ話を通していくつかの点にまとめることができます。1)天国は計り知れない価値のあるものである。2)天国は捜し求められた末に発見されるものである。3)天国は選び抜かれた最良のものである。キリストが「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)と言われたのは、まさにこの天国を見いだすことの約束です。

 私たちは「御国の言を聞いて悟らない」(マタイ13:19)者ではなく、「御言を聞いて悟る人…そういう人が実を結び」(マタイ13:23)と言われる者でありたいと思います。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/07

2025年9月7日「わが救の神によって喜ぶ」

ハバクク3:16-19
 3:16 わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に悩みの日の臨むのを静かに待とう。
 3:17 いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。
 3:18 しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。
 3:19 主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる。

 ハバククはイスラエルの王国時代の預言者です。エルサレムの神殿で聖歌隊の奉仕に携わっていました(:19)。その預言の言葉は断片的によく知られています(1:5、2:4等)。

 当時、イスラエルは異国カルデヤ(バビロニア)の侵略の脅威にさらされていました(1:6)。そこにハバククが預言者として立てられ、当時のイスラエル(ユダ王国)に神からの幻を示しました(2:2)。それは、神が暴虐を行う者をさばかれるということでした(2:8)。

 しかし、イスラエルは神の救いを待たなければなりませんでした(:16)。それは慣れ親しんだ祖国が荒らされるのを見て忍ぶことでした(:17)。「もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。…義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)信仰は隠された神の力を見させ(3:4)、沈んだ心を高く引き上げるものです(:19)。そこにこそ、神による喜びがあります(:18)。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/31

2025年8月31日「神のあわれみの器」

ローマ9:18-24
 9:18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
 9:19 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
 9:20 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
 9:21 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
 9:22 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
 9:23 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
 9:24 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

 私たち人間が生活する世界は、今も昔も変わらず明らかな格差があります。ある者はイスラエルの奴隷の家に生まれ、ある者はエジプトの王(パロ)の家に生まれ、それぞれ全く違った環境で育ち、将来の身分は自ずから決まっています。それにも関わらず、「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさる」(:18)結果、神の御心次第で奴隷が救われ、王が滅ぶことが起ります。人がどんなに言い争っても、大いなる力には抗えないことを歴史は証明しています。

 人は陶器、神は陶器師にたとえられます(:21)。「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。」(創世記3:19)陶器は材料が同じでも、陶器師の手のわざにより価値が何倍にも変わります。神は、私たち土けらに過ぎない人間を、尊いものにしようと握っておられるのです。「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」(コリント第二4:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/24

2025年8月24日「へびのように賢く」

マタイ10:16-20
 10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
 10:17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。
 10:18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。
 10:19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
 10:20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。

 キリストは十二人の使徒をつかわすに当り訓示しました(マタイ10:5)。キリストの教えは知恵の言葉をふんだんに取り入れたものでした。天国の奥義を多くの譬(たとえ)を用いて教えたのと同じです(マタイ13:34)。

 キリストは使徒たちを「イスラエルの家の失われた羊のところ」(マタイ10:6)につかわしました。しかし、つかわした先では「おおかみ」のような凶暴な迫害が起こりうることを警戒したのでした(:16)。キリストの福音を伝える使命を果たすためには、その前途の危険を察知しつつ前進して行かなければなりません。

 聖書の「へび」は動物の方よりも、創世記にある悪魔の誘惑(創世記3:1)の方を多く意味します。悪魔は「羊」を亡き者としようと今の世でも狡猾に働きます。私たちは悪の策略を察知し、悪ではなく善のために知恵を駆使しなければなりません。

 聖書の神が私たちに賜う知恵は清く、平和をもたらすものです(ヤコブ3:17)。悪の知恵に勝る神の知恵に頼り、キリストの御言葉に学び続けましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/17

2025年8月17日「預言者ヨナのしるし」

ヨナ3:1-5
 3:1 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
 3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
 3:3 そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
 3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
 3:5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。

 ヨナは、イスラエル王国の北方で活動した預言者です(列王紀下14:25)。ヨナ書は、神からの預言の言葉よりも、預言者ヨナの活動内容を中心に記しています。当初、ヨナは神の命令に従いませんでした(ヨナ1章)。その結果、ヨナは船上で暴風にあい海に投げ入れられて、三日三夜大魚の腹の中で不従順を悔い改めます(ヨナ2章)。

 ヨナ3章の「主の言葉」(:1)は悔い改めたヨナに対する再度の神の命令です。この度はヨナは主の言葉に従い、ニネベの町に行き神の言葉を伝えました。「ニネベは滅びる」(:4)という神からの預言に対し、ニネベの人々は神を信じ、悔い改め始めました(:5)。ヨナは大魚の腹の中に閉じ込められ、ニネベの人々は神の言葉を聞いて悔い改めたのでした。

 これがキリストにより「預言者ヨナのしるし」(マタイ12:39)と言われた出来事です。聖書の神は今も変わらず私たちに語りかけています。小さな出来事を見逃さず、また聖書によりはっきりと示されている神の言葉を心に留める者でありましょう。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/10

2025年8月10日「招くのではなく、招かれる」

マタイ9:9-13
 9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
 9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
 9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
 9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
 9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 マタイはキリストの十二使徒の一人で、元はローマ帝国の税金を徴収する取税人でした(マタイ10:2)。取税人はユダヤ人からは嫌われていて、罪人と同じように思われていました(:11)。

 マタイはキリストから弟子となる招きに応じた後(:9)、彼を食事に招きました(:10)。食事の席にはマタイに親しい人々も集まって来て、キリストは「多くの取税人や罪人たち」と共に食事することになりました。それをパリサイ人たちが非難したのです(:11)。

 キリストはこう反論しました。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(:13)。こう言って、多くの取税人や罪人たちと共に食事をすることを肯定したのでした。キリストはマタイと共に、多くの罪に苦しむ人々を招いて解放するために、マタイの食事の招きに応じたのです。キリストを信じ受け入れる者は、実はキリストから罪の赦しに招かれているのです。

 「熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。」(黙示録3:19-20)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/03

2025年8月3日「永久の約束と定め」

出エジプト12:20-27
 12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
 12:21 そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。
 12:22 また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。
 12:23 主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。
 12:24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
 12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
 12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
 12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。

 現代の教会で行われている聖餐式は、キリストによる最後の晩餐が起源です。最後の晩餐はイスラエルの過越の祭りの食事での出来事でした。聖餐式の起源は過越祭まで遡ることができます。

 聖餐式のパンは過越祭の「種入れぬパン」まで遡ります。古代のパンは膨らませるために古いパンを「パン種」として用いました。悪いパン種は食中毒の原因となります。過越祭では素早く、パン種を用いずにパンを焼きます(:20)。

 聖餐式のぶどう酒はキリストの血を意味します。過越祭では小羊をほふり、その血を家の入口につけました(:21)。血のつけられた家は、滅ぼす者が過ぎ越して守られました(:23)。

 聖餐式のパンもぶどう酒も、キリストの命を示しています。時代が変わっても、変わらない神の守りを過越祭、聖餐式は教えています。キリストは今日も教会に集う者たちに語りかけています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ6:54)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/27

2025年7月27日「主イエス・キリストの名」

使徒19:11-20
 19:11 神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。
 19:12 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。
 19:13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。
 19:14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。
 19:15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。
 19:16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
 19:17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。
 19:18 また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。
 19:19 それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。
 19:20 このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。

 キリストの使徒パウロは二年間にわたりエペソで主イエス・キリストの福音を語り続けました(使徒19:1-10)。またパウロはキリストの福音に伴う「力あるわざ」として病のいやしの奇跡も行いました(:11-12)。その「力あるわざ」は、イエスがキリストであることを証明するために行われました(使徒2:22)。

 しかし、ある者は「力あるわざ」だけに注目しました。とあるまじない師は呪文のごとく「イエスの名」を唱えましたが、失敗しました(:13-16)。他の魔術師は「力あるわざ」を行う力を金で買おうとして戒められました(使徒8:18-24)。

 主イエス・キリストの名は呪文でも道具でもありません。「主イエスの名があがめられ」(:17)るべきであり、決して金銀に換算される資産ではありません(:19)。主イエスの名はすがる人を救う尊い神の力です。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使徒4:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/07/20

2025年7月20日「自分の目にある梁」

マタイ7:1-8
 7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
 7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
 7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
 7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

 マタイ5~7章の「山上の説教」は、折に触れて語られたキリストの多くの説教をまとめたものです。それぞれの話に厳密な文脈があるわけではありませんが、キリストの一貫した教えとしてそれぞれの話を比較することで新しい学びを得ることができます。

 人をさばくことの問題点が二つ挙げられています。他人の欠点をさばくなら、そのさばきが自らの欠点をさばくことになるのが一つです(:2)。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)もう一つは、「自分の目にある梁」(:3)です。建物の梁をかんなで仕上げると木の「ちり」が出ます。目を傷つけるちり以上の、梁のような大きな障害が自分にあることを、さばく人はしばしば認めないものです。

 人をさばくには善悪を見分ける確かな目が必要です。真珠を見分けられない豚(:6)のような目では、正しいさばきなど望むことはできません。それこそ私たちが真に求めるべきものです(:7)。「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきを…神はすみやかにさばいてくださるであろう。」(ルカ18:7-8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/13

2025年7月13日「神の手の内にある者」

イザヤ49:14-19
 49:14 しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
 49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
 49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
 49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。
 49:18 あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
 49:19 あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

 イザヤ書は、神の都エルサレム、またの名をシオンに「よきおとずれ」(福音、イザヤ40:9)を語りかけます。しかし、神の民イスラエルは「主はわたしを忘れられた」(:14)と言い、苦難を忘れられず、失意に沈んでいます。

 福音を語りかける神は、父母の愛(:15)のように変わらぬ思いを神の民に抱き続けていると言います。神の目には、神の民は手の外側でなく内側(たなごころ)に刻まれており(:16)、他人に見せる飾りではなく、神ご自身がずっと見続けて忘れないことを告げています。

 神の民の目には現実の苦難しか見えていません。しかし、神の目には民を守る石がきが、荒廃ではなく発展が(:17)、多くの集められた人々が(:18)見えています。福音が告げる「神の救」(イザヤ49:8)は、人が想像することを超えています。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/06

2025年7月6日「キリストにつけられた者」

ローマ6:4-11
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 教会では様々な活動が行われており、礼拝の方法も教会により様々な形がありますが、その本質は一つです。

 その中でも、教会ではキリスト教式の葬儀が行われます。そして、キリスト教の葬儀は他の宗教とは決定的に異なる点があります。それは、葬儀を含むキリスト教の諸活動は、すべて神への礼拝として行われるということです。葬儀の中でも神への賛美が歌われ、祈りがささげられます。クリスチャンとなる第一歩である洗礼式(バプテスマ)も神への礼拝であり、キリストに自らの身をゆだねる儀式です。また洗礼式はキリストと共に葬られる(:4)、葬儀でもあります。

 キリストと共に葬られた者は、キリストと共に死人の中からよみがえります。クリスチャンは心に、キリストの死と復活が、分かれることなく一つとなって刻まれています。「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる」(:5)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)