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2025/06/22

2025年6月22日「御霊の一致」

詩篇133篇
 ダビデがよんだ都もうでの歌
 133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは
 いかに麗しく楽しいことであろう。
 133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
 アロンのひげに流れ、
 その衣のえりにまで流れくだるようだ。
 133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
 これは主がかしこに祝福を命じ、
 とこしえに命を与えられたからである。

 詩篇133篇は「都もうでの歌」、すなわちエルサレムの神殿に向けての巡礼の歌です。

 一見すると喜びに満ちているこの詩篇は、実は深い悲しみも入っています。特に、バビロン捕囚という苦難を経験したイスラエルの人々は、七十年間の苦難を過ごして国に帰り、神殿を再建して、礼拝を再開させることができました。捕囚で十二部族がバラバラになった後、主は再び神殿礼拝を回復させ、散らされた民が再び一つになって礼拝できた、そのような深い喜びがあります。一つになって礼拝できることは当然ではなく、特別なこと、神の奇跡である、という思いが込められています。

 一つになって礼拝するところに、豊かな神様からの恵みが流れてくる、とも歌われています。大祭司アロンが任職の際に油を注がれ、そのひげに油が流れくだるように、大祭司を経て神の民全体に神の恵み、聖霊の油注ぎが下ることを教えています。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」(ヘブル4:14)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/15

2025年6月15日「大能の王である神」

詩篇99篇
 99:1 主は王となられた。
 もろもろの民はおののけ。
 主はケルビムの上に座せられる。
 地は震えよ。
 99:2 主はシオンにおられて大いなる神、
 主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
 99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を
 ほめたたえるであろう。
 主は聖でいらせられる。
 99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは
 堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 99:5 われらの神、主をあがめ、
 その足台のもとで拝みまつれ。
 主は聖でいらせられる。
 99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。
 そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。
 彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。
 彼らはそのあかしと、
 彼らに賜わった定めとを守った。
 99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。
 あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、
 悪を行う者には報復された。
 99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。
 われらの神、主は聖でいらせられるからである。

 詩篇99篇は、神の民イスラエルの長い礼拝の歴史を歌っています。「主は王となられた」(:1)との歌い出しは、「大能の王」(:4)である聖書の神を「もろもろの民」(:1)に告知する宣言です。
 イスラエルにとって神は、モーセら神の代理人たちの仕えた神であり(:6)、神の民の信仰と不信仰の歩みの中にあって「公義を愛する」(:4)神であり続けました。「あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。」(:8)
 神は「聖でいらせられる」と三度(:3,5,9)も繰り返し歌われています。その神の荘厳な御姿を目の当たりにし、預言者イザヤは「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。」(イザヤ6:5)と言いました。しかし、神はおののきつつ礼拝を捧げる者を受け入れてくださいます。
 「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/08

2025年6月8日「主は正義に勝ちを得させる」

マタイ12:14-21
 12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
 12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、
 12:16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。
 12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
 12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、
わたしの心にかなう、愛する者。
わたしは彼にわたしの霊を授け、
そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
 12:19 彼は争わず、叫ばず、
またその声を大路で聞く者はない。
 12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、
いためられた葦を折ることがなく、
煙っている燈心を消すこともない。
 12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

 イエス・キリストの宣教活動は、信じない者にとっては不可解なものでした。信仰を持たなかったキリストの兄弟たちは、「自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言いました(ヨハネ7:3-5)。キリストは信じることなく敵対する人々からは身を隠す一方、信仰をもって求める人々には身を現し、教えと奇跡をもってその望みに応えました(:14-15)。

 キリストは、「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイ13:12)と言われました。それが神に選ばれた僕の使命であり、「正義を…宣べ伝える」(:18)と言われていても、「その声を大路で聞く者はない」(:19)と言われるキリストの宣教のあり方でした。

 キリストは「狭い門からはいれ」(マタイ7:13)と言われます。「それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)といっても、キリストの道に望みを置く者はそれを見出すのです。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。」(マタイ7:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/01

2025年6月1日「光・知恵・さんび」

エペソ5:14-21
 5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
「眠っている者よ、起きなさい。
死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
 5:15 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
 5:16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
 5:17 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
 5:18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
 5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
 5:20 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
 5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

  聖書は「神は光」(ヨハネ第一1:5)であると言い、光のたとえによって神を説明しています。「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」(エペソ5:9)

 一方、私たち人間は光でなくやみ、すなわち神と異なる存在であると聖書は語ります。しかし、「以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5:8)と言われます。光なる神を信じ、従うことで「光の子」(エペソ5:8)として歩むことができると聖書は教えます。「立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」(:14)

 光は知恵をも意味します。やみ路を照らす光のように、神は暗い人生に光を照らし、正しい人生を歩ませます(:15)。「時を生かして用いなさい」(:16)とは、悪に頼らず正義によって生きることを勧める言葉です。聖書は乱行を戒めます(:18)。

 神の光に照らされた心は神の知恵に満たされ、罵りではなくさんび(:19)、感謝(:20)の言葉があふれるようになります。「互に仕え合う」(:21)ことこそキリスト教の最高の美徳です。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/25

2025年5月25日「主の祭壇を修繕する」

列王紀上18:30-39
 18:30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
 18:31 そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、
 18:32 その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。
 18:33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
 18:34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
 18:35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。
 18:36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
 18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
 18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
 18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。

 預言者エリヤは、イスラエルの王家に従う異教の預言者らと対決しました(列王紀上18:24)。イスラエルの民は、父祖の神に従うとともに異教の神々にも従う、どっちつかずの信仰でした(列王紀上18:21)。エリヤはイスラエルの民の信仰にも対決したのでした。

 定例の礼拝の時に至り、異教の預言者の祈りに未だ答えはありませんでした(列王紀上18:29)。エリヤは民を聖書の神、主の祭壇に招き、民は招きに応じました(:30)。ここから、エリヤは民の手を用いて、崩れた主の祭壇を修繕しました(:31-35)。エリヤは、民の間に失われていた真の礼拝の心を取り戻させました。

 繕われた祭壇はイスラエルの民の手による、イスラエルの名と心が込められたものでした。そこに人手によらず、天から神の火が下り、燔祭(全焼のいけにえ)が完成しました(:38)。イスラエルの礼拝は回復せられ(:39)、彼らの礼拝は神に受け入れられました。

 「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/18

2025年5月18日「道・真理・命」

ヨハネ14:6-12
 14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
 14:7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
 14:8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
 14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
 14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
 14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
 14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。

 イエス・キリストは十字架の死による別離に先立ち、弟子たちに愛をもって真理を教え諭しました(ヨハネ13:1)。その教えの要点は「道・真理・命」でした(:6)。

 「道」とは、父なる神のみもとに行く道です。キリストは弟子たち、すなわち私たちクリスチャンたちのため、神の国にすまいを用意すると約束されました(ヨハネ14:2)。私たちの最大の懸案は人生の行く末であり、キリストは私たちを天に迎え、永遠にともにおらせてくださいます(ヨハネ14:3)。

 「真理」とは、私たちの無理解を解消するものです。私たちの心に真理がなければ、心が騒ぎ、信仰に立てません(ヨハネ14:1)。心に真理があれば、私たちは自由を得(ヨハネ8:32)、聖別された者となれます(ヨハネ17:17)。

 「命」こそ、私たちの人生の行く末です。私たちはキリストに従って道を歩むことで、真理を得、命に至ることができます。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネ3:36)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/11

2025年5月11日「皆が一つの御霊を飲む」

コリント第一12:4-13
 12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
 12:5 務は種々あるが、主は同じである。
 12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
 12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
 12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
 12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
 12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
 12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
 12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
 12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

 「霊の賜物」(:4)とは、「神の霊」すなわち「聖霊」からクリスチャンが受け取る特別な恵みです。すべてのクリスチャンは「イエスは主である」ということのできる信仰を御霊から賜物として受け取っています(コリント第一12:3)。

 全員共通の賜物だけでなく、「御霊は思いのままに」(:11)めいめいのクリスチャンに別個の、特別な賜物を与えています(:8-10)。重要なのは、めいめいの特別なタラント(マタイ25:14-30)の違いではなく、多様な賜物を与える一つの御霊であり、御霊に賜物を与える権限があるということです。

 ですから、現実の教会には多様な人々が集まっていますが、同じ一つの御霊によって一つの教会とせられ、かしらなるキリスト(コロサイ2:19)に従う一つのからだとして一致することができます(:12)。クリスチャンはバプテスマ(洗礼)によって神に飲まれると同時に、聖餐に示されているように、神を飲む恵みに与っています(:13)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/04

2025年5月4日「主のしもべたちは食べる」

イザヤ65:13-18
 65:13 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わがしもべたちは食べる、しかし、あなたがたは飢える。見よ、わがしもべたちは飲む、しかし、あなたがたはかわく。見よ、わがしもべたちは喜ぶ、しかし、あなたがたは恥じる。
 65:14 見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。
 65:15 あなたがたの残す名はわが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
 65:16 それゆえ、地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。
 65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
 65:18 しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。

 主なる神が「わがしもべは食べ、あなたがたは飢える」と言われます(:13)。神の祝福に与る神のしもべと対比されている「あなたがた」とは誰でしょうか。それは聖書の神である「主を捨て」(イザヤ65:11)て、他の神々に仕える者です。事もあろうに、それは神によって選ばれたイスラエルの民そのものです。「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。…ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。」(イザヤ59:1)

 神の選民が当然神の祝福に与るのではありません。しかし、神の祝福は神の選民のために用意されています。祝福は神の招きに応じ、神に従う者に与えられます。「自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。」(イザヤ65:2)

 神の御旨に従う新しい民に、神は「新しい天と、新しい地」(:17)を用意してくださいます。「すべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」(伝道3:13)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/27

2025年4月27日「初めで終りで生きている」

黙示録1:12-18
 1:12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
 1:13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
 1:14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
 1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
 1:16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
 1:17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
 1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(ヨハネ第一1:1)と言うほど、キリストの弟子であるヨハネは師をよく知っているという自負がありました。しかし、流刑地パトモス(黙示録1:9)でヨハネが見たキリストの黙示(黙示録1:1)は様子が違っていました。

 黙示録の内容は、キリストから示された未来の出来事をヨハネが記録したものです。そのすべての意味が明らかであるわけではありませんが、一部について理解の鍵となる解説が与えられています。七つの燭台は七つの教会を示しています(黙示録1:20)。その教会の間にいる者とは、教会のかしらたるキリストを意味します(エペソ5:23)。

 キリストご自身が自らを証言します。「わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。」(:17-18)十字架の死による贖罪を成し遂げたキリストはよみがえり、今も生きて教会とともにあるだけでなく、これからも私たちを導いてくださいます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/20

2025年4月20日「わたしにはわからない」

ヨハネ20:11-18
 20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
 20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
 20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
 20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
 20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
 20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
 20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
 20:18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

 ヨハネ伝のイースターは、マグダラのマリヤの出来事から始まります。彼女は他の者とともに連れ立ち、葬られたキリストの弔いのため墓に来ました。それは週の初めの日、すなわち日曜日の早朝のことでした(マルコ16:1-2)。そこで彼女は空の墓を発見し、他の弟子たちに報告しました(ヨハネ20:1-2)。

 その後もマリヤは墓から離れることができませんでした。そこで天の御使いを見たりしますが(:12)、彼女の心はキリストの死体の在りかだけに向かっていました(:13)。そこにキリストご自身が立っておられたのにも関わらず気がつかなかったのです(:14)。

 弟子たちはその目で見、ごく身近に触れていた(ヨハネ第一1:1)にも関わらず、復活の主がわからなかったのです。しかし、主の声を聞くなり、マリヤも復活の主がわかるようになりました(:16)。キリストが言われた通り、「羊は彼(羊飼)の声を聞く」(ヨハネ10:3)のです。

 「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)とキリストは言われました。主は捜し求める者に現れて、御声をかけてくださいます。その時、私たちも「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23:1)と言うことができます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/13

2025年4月13日「主のみもとに帰る」

哀歌5:15-22
 5:15 われわれの心の喜びはやみ、
踊りは悲しみに変り、
 5:16 われわれの冠はこうべから落ちた。
わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。
 5:17 このために、われわれの心は衰え、
これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
 5:18 シオンの山は荒れはて、
山犬がその上を歩いているからである。
 5:19 しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。
あなたの、み位は世々絶えることがない。
 5:20 なぜ、あなたはわれわれをながく忘れ、
われわれを久しく捨ておかれるのですか。
 5:21 主よ、あなたに帰らせてください、
われわれは帰ります。
われわれの日を新たにして、
いにしえの日のようにしてください。
 5:22 あなたは全くわれわれを捨てられたのですか、
はなはだしく怒っていられるのですか。

 「哀歌」は聖書の民イスラエルの「悲しみの歌」です。イスラエル人にとって最悪の経験の一つが、預言者エレミヤの時代の「バビロン捕囚」でした。イスラエル人は数々の苦難を経験して、神への賛美である詩篇とともに哀歌も今日まで歌い継いできました。

 苦役の叫び(出エジプト2:23)から始まったイスラエルの祈りは、心からの訴えを含む歌にまで昇華しました(哀歌5章)。家も(:2)、家族も(:3)、資源も(:4)、自由も(:5)、ことごとく敵国に奪われてしまいました。日常生活だけでなく、祭りの踊りも絶えて、喪の儀式に変わり(:15)、民の心も衰え(:17)、最も尊い聖所が山犬の住みかに変わってしまいました(:18)。

 しかし、イスラエルの民は消え失せませんでした。国を失えど、聖書の神への信仰を失わず(:19)、変わらない神にすがって自らを保ちました。「主よ、あなたに帰らせてください」(:21)との祈りに主は応え、イスラエルを回復されました。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/06

2025年4月6日「主の杯を飲む」

マタイ20:20-28
 20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
 20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
 20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
 20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
 20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
 20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
 20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 キリストは弟子たちに繰り返し神の国の奥義を教え(マタイ6:33)、エルサレムでの受難について予告しました(マタイ20:18-19)。ある者たちはその意を誤解したまま主にお願いしました(:20)。主は彼らの誤解に対して適切にたしなめました。

 「御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように」(:21)との願いはかなえられませんでした。そのことは、「ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた」(マタイ27:38)と言われる形で実現しました。

 「わたしの飲もうとしている杯を飲むこと」(:22)はかなえられました。しかし、それは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と主が祈られた、十字架の苦難を示すものでした。

 弟子たちが願ったことは、彼らの理解とは異なるものでした。しかし、主は願う者たちに「神の国」を賜ります。「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/30

2025年3月30日「キリストに現れた神の威光」

ペテロ第二1:16-19
 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
 1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
 1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
 1:19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

 キリストと言われるイエスは、ベツレヘムに母マリヤから生まれ(ルカ2:6-7)、父ヨセフの子としてナザレで育ちました(マタイ2:21-23)。「神の子キリスト」(マタイ16:16)という呼び名は弟子たちによるものです。

 弟子のペテロは「主イエス・キリスト」(:16)を私たちに知らせています。「主」という言葉は、聖書の民イスラエル人にとっては聖書の神のみを意味し(マタイ4:10)、支配者であるローマ帝国では君主たる皇帝カイザルを意味します(ヨハネ19:15)。つまり当時の人々にとって到底受け入れられない呼び名を、ペテロたちは伝えているのです。

 ペテロたちはイエスがキリストであることを、イエスとともに様々な体験をしたことによって認めました(マタイ17:1-8)。その体験は人間の力によるものではなく、まさに神の力の現われでした(コリント第一1:22-25)。私たちもイエス・キリストを通して神の力を体験し、心に神の光を受けることができます(:19)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/23

2025年3月23日「天から示されるさいわい」

マタイ16:13-18
 16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
 16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
 16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
 16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
 16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
 16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 イエス・キリストは自らを「人の子」と言いました。その言葉は本来、人間そのものであることを意味します(民数記23:19)。

 キリストは「ダビデの子」、すなわちイスラエルの王族として生まれました(マタイ1:1)が、自らを「キリスト」であるとは言いませんでした。しかし、他者から「キリスト」(:16)、「ダビデの子」(マタイ9:27)、「神の子」(マタイ27:54)と呼ばれ、他の人々は疑いをもってキリストを見ていました(マタイ12:23)。

 ペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という言葉は、それこそ画期的でした。他の人々はせいぜい「預言者」(:14)と言うに留まりました。キリストはペテロの言葉を「さいわいである」(:17)といって受け入れました。

 聖書の神は、人知によらない天の知恵によって私たちに名前を授けられます(イザヤ45:4)。神の御言葉の上に私たちの人生を築き上げましょう。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/03/16

2025年3月16日「聖なる道が開かれる」

 イザヤ35:1-10 
 35:1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
 35:2 さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
 35:3 あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
 35:4 心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。
 35:5 その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
 35:6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
 35:7 焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。
 35:8 そこに大路があり、
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 35:9 そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。

 聖書の国イスラエルは、雨の降る季節(冬)と雨の降らない季節(夏)で、一年が二つの季節に分かれます。その二つの季節の合間のごく短い期間に、花は一斉に開き、大地は一面の花畑に変わります。「さばくは喜びて花咲き…かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」(:1-2)

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道3:1)このことを神の民は生活の中で体験し、人間の歴史にも時が定められていることを悟ります。花が開く一瞬の出来事の前に、長い忍従の時があること、そして忍従の後に喜びの季節が必ずやって来ることを、私たちも信仰によって期待し、待ち望むことができます。

 聖書は神の民に語りかけます。「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」(:3)「ぶどうの木から葉の落ちる」(イザヤ34:4)季節の後には、必ず新しい芽吹きの季節がやって来ます。「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。」(:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/09

2025年3月9日「あなたは命を選べ」

申命記30:15-20
 30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
 30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、
 30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。
 30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。
 30:20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。

 申命記はイスラエル人に対するモーセの最後の説教です。イスラエルの長い荒野の旅路を振り返りつつ、その道中の苦難と神の導き、教えの数々を覚えるべきことを命じています(申命記8:2)。

 聖書の神はモーセを通して、命とさいわいをもたらす善の道と、死と災いをもたらす悪の道を、多くの教えの言葉によって示されました。申命記において、モーセは再度神の教えを語り告げ、民の目の前にはっきりと二つの道を置きました(:15)。命も死も、決して一瞬の出来事でなく、長い旅路の末に至るものです。

 「命を選ぶ」(:19)ということは、神から示された正しい人生を選択するということであり、その結果は自分一人だけでなく子孫に、他の人々にも残すことのできる遺産となります。命に至る道をしっかりと見極め、神の祝福を受け継ぐものとなりましょう。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/02

2025年3月2日「主のいつくしみはとこしえに」

詩篇107:10-16
 107:10 暗黒と深いやみの中にいる者、
苦しみと、くろがねに縛られた者、
 107:11 彼らは神の言葉にそむき、
いと高き者の勧めを軽んじたので、
 107:12 主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。
彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。
 107:13 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、
主は彼らをその悩みから救い、
 107:14 暗黒と深いやみから彼らを導き出して、
そのかせをこわされた。
 107:15 どうか、彼らが主のいつくしみと、
人の子らになされたくすしきみわざとのために、
主に感謝するように。
 107:16 主は青銅のとびらをこわし、
鉄の貫の木を断ち切られたからである。

 詩篇107篇は「主のいつくしみ」(詩篇107:1,43)に囲まれた賛美歌です。主のいつくしみは、救いを求めて主に呼ばわる者に注がれます(:13)。主は「もろもろの国」の「東、西、北、南」に住む人々にいつくしみを注がれます(詩篇107:3)。

 ここで歌われている人々の救いは、主なる神の救いを示す少数の例に過ぎません。迷う者には導きを(:4-9)、縛られた者には解放を(:10-16)、病む者にはいやしを(:17-22)、悩む者には平安を(:23-30)、「主のいつくしみ」は求める者に適切な救いをもたらします。

 キリストは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」(マタイ7:7)と語られます。私たちがなすべきことは主に救いを求めることであり、「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝する」(詩篇107:31)ことです。「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」(詩篇106:48)と叫んで主の救いを賛美しましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/23

2025年2月23日「小さな者の大きな信仰」

マタイ15:21-28
 15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
 15:23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
 15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
 15:25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
 15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
 15:27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
 15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

 キリストの地上での宣教の主な対象は、異邦人ではなくユダヤ人でした(マタイ10:5-6)。しかし、ユダヤ人の一部の人々がキリストに反発し(マタイ15:1-2)、そのために宣教の旅路が変えられることも度々ありました。「ツロとシドンとの地方」(:21)は宣教の目的地ではありませんでした(:24)。

 しかし、カナン人の女性がキリストに向かって「ダビデの子よ」と叫びました(:22)。異邦人である彼女はユダヤ人の信仰に学んで、娘の回復のためワラをもつかむ思いでキリストの奇跡を求めたのです。キリストは彼女の高度な信仰的理解に応じて、「小犬とパン」のような高度なたとえで諭されました(:26)。

 「小犬」のたとえは侮辱とも捉えられる言葉でしたが、彼女はキリストの言葉を活用し、「小犬もパンくずはいただきます」と応答しました(:27)。キリストは「あなたの信仰は見あげたものである」(:28)と言って癒やしの奇跡を行われました。信仰が山を動かす力を持つ一例をここに見ます(マタイ17:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/16

2025年2月16日「道を教える師」

イザヤ30:18-21
 30:18 それゆえ、主は待っていて、
あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、
あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。
 30:19 シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。
 30:20 たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。
 30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。

 預言者イザヤの時代、イスラエル王国の身の周りも戦争が多くあり、諸国は戦いのために馬を多く集めていました(イザヤ30:16)。しかし、聖書は「馬を多く獲ようとしてはならない」(申命記17:16)と忠告しています。

 私たち人間は、いつ来るかわからない災難を恐れて不安に陥りがちです。必要な備えを整えつつも、災難に遭うことを思い描くばかりではいけません。なぜなら、「あなたの神、主が共におられるから」(申命記20:1)です。

 聖書の神は災いの神ではなく、恵を施される神です。神は人に幸いをもたらすために待っておられます。それゆえ、「すべて主を待ち望む者はさいわいである」(:18)と言われています。

 人は何の指針もないと不安になります。しかし、聖書の神は教師であり、私たちに行くべき道を教えられます(:21)。私たちに必要なのは、当てもなく何もしないことでなく、神の幸いを信じて行動することです。「これは道だ、これに歩め」という声は信仰をもって前進する者に与えられます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/09

2025年2月9日「見ているから、さいわい」

マタイ13:10-17
 13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
 13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
 13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
 13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
 13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
   『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
   見るには見るが、決して認めない。
 13:15 この民の心は鈍くなり、
   その耳は聞えにくく、
   その目は閉じている。
   それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
   悔い改めていやされることがないためである』。
 13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
 13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

 キリストの譬(たとえ)話は、簡単に心に思い描けるような、明快な情景を題材としています。しかし、日常生活を思い描くことだけで終わってしまうなら、そこから何の知恵も得ることができません。

 キリストに一時的に従っていた群衆は、多くの者はキリストの話に満足しながら、何も得るところなく帰っていきました。しかし、弟子たちはキリストの元に留まり、そのたとえ話の説明を求めました(マタイ13:36)。

 同じ話を聞きながら、一方は得るところなく、他方は天国の奥義を知る(:11)という結果の違いは、真意を聞き取る耳を持つか否かによります(マタイ13:9)。キリストは拒むことなくすべての人に天国の奥義を語られています。「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(:16)といわれるキリストの御言葉を聞いて悟るものとなりましょう。「そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイ13:23)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)