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2025/04/06

2025年4月6日「主の杯を飲む」

マタイ20:20-28
 20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
 20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
 20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
 20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
 20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
 20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
 20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 キリストは弟子たちに繰り返し神の国の奥義を教え(マタイ6:33)、エルサレムでの受難について予告しました(マタイ20:18-19)。ある者たちはその意を誤解したまま主にお願いしました(:20)。主は彼らの誤解に対して適切にたしなめました。

 「御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように」(:21)との願いはかなえられませんでした。そのことは、「ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた」(マタイ27:38)と言われる形で実現しました。

 「わたしの飲もうとしている杯を飲むこと」(:22)はかなえられました。しかし、それは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と主が祈られた、十字架の苦難を示すものでした。

 弟子たちが願ったことは、彼らの理解とは異なるものでした。しかし、主は願う者たちに「神の国」を賜ります。「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/30

2025年3月30日「キリストに現れた神の威光」

ペテロ第二1:16-19
 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
 1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
 1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
 1:19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

 キリストと言われるイエスは、ベツレヘムに母マリヤから生まれ(ルカ2:6-7)、父ヨセフの子としてナザレで育ちました(マタイ2:21-23)。「神の子キリスト」(マタイ16:16)という呼び名は弟子たちによるものです。

 弟子のペテロは「主イエス・キリスト」(:16)を私たちに知らせています。「主」という言葉は、聖書の民イスラエル人にとっては聖書の神のみを意味し(マタイ4:10)、支配者であるローマ帝国では君主たる皇帝カイザルを意味します(ヨハネ19:15)。つまり当時の人々にとって到底受け入れられない呼び名を、ペテロたちは伝えているのです。

 ペテロたちはイエスがキリストであることを、イエスとともに様々な体験をしたことによって認めました(マタイ17:1-8)。その体験は人間の力によるものではなく、まさに神の力の現われでした(コリント第一1:22-25)。私たちもイエス・キリストを通して神の力を体験し、心に神の光を受けることができます(:19)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/23

2025年3月23日「天から示されるさいわい」

マタイ16:13-18
 16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
 16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
 16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
 16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
 16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
 16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 イエス・キリストは自らを「人の子」と言いました。その言葉は本来、人間そのものであることを意味します(民数記23:19)。

 キリストは「ダビデの子」、すなわちイスラエルの王族として生まれました(マタイ1:1)が、自らを「キリスト」であるとは言いませんでした。しかし、他者から「キリスト」(:16)、「ダビデの子」(マタイ9:27)、「神の子」(マタイ27:54)と呼ばれ、他の人々は疑いをもってキリストを見ていました(マタイ12:23)。

 ペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という言葉は、それこそ画期的でした。他の人々はせいぜい「預言者」(:14)と言うに留まりました。キリストはペテロの言葉を「さいわいである」(:17)といって受け入れました。

 聖書の神は、人知によらない天の知恵によって私たちに名前を授けられます(イザヤ45:4)。神の御言葉の上に私たちの人生を築き上げましょう。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/03/16

2025年3月16日「聖なる道が開かれる」

 イザヤ35:1-10 
 35:1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
 35:2 さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
 35:3 あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
 35:4 心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。
 35:5 その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
 35:6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
 35:7 焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。
 35:8 そこに大路があり、
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 35:9 そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。

 聖書の国イスラエルは、雨の降る季節(冬)と雨の降らない季節(夏)で、一年が二つの季節に分かれます。その二つの季節の合間のごく短い期間に、花は一斉に開き、大地は一面の花畑に変わります。「さばくは喜びて花咲き…かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」(:1-2)

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道3:1)このことを神の民は生活の中で体験し、人間の歴史にも時が定められていることを悟ります。花が開く一瞬の出来事の前に、長い忍従の時があること、そして忍従の後に喜びの季節が必ずやって来ることを、私たちも信仰によって期待し、待ち望むことができます。

 聖書は神の民に語りかけます。「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」(:3)「ぶどうの木から葉の落ちる」(イザヤ34:4)季節の後には、必ず新しい芽吹きの季節がやって来ます。「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。」(:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/09

2025年3月9日「あなたは命を選べ」

申命記30:15-20
 30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
 30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、
 30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。
 30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。
 30:20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。

 申命記はイスラエル人に対するモーセの最後の説教です。イスラエルの長い荒野の旅路を振り返りつつ、その道中の苦難と神の導き、教えの数々を覚えるべきことを命じています(申命記8:2)。

 聖書の神はモーセを通して、命とさいわいをもたらす善の道と、死と災いをもたらす悪の道を、多くの教えの言葉によって示されました。申命記において、モーセは再度神の教えを語り告げ、民の目の前にはっきりと二つの道を置きました(:15)。命も死も、決して一瞬の出来事でなく、長い旅路の末に至るものです。

 「命を選ぶ」(:19)ということは、神から示された正しい人生を選択するということであり、その結果は自分一人だけでなく子孫に、他の人々にも残すことのできる遺産となります。命に至る道をしっかりと見極め、神の祝福を受け継ぐものとなりましょう。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/02

2025年3月2日「主のいつくしみはとこしえに」

詩篇107:10-16
 107:10 暗黒と深いやみの中にいる者、
苦しみと、くろがねに縛られた者、
 107:11 彼らは神の言葉にそむき、
いと高き者の勧めを軽んじたので、
 107:12 主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。
彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。
 107:13 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、
主は彼らをその悩みから救い、
 107:14 暗黒と深いやみから彼らを導き出して、
そのかせをこわされた。
 107:15 どうか、彼らが主のいつくしみと、
人の子らになされたくすしきみわざとのために、
主に感謝するように。
 107:16 主は青銅のとびらをこわし、
鉄の貫の木を断ち切られたからである。

 詩篇107篇は「主のいつくしみ」(詩篇107:1,43)に囲まれた賛美歌です。主のいつくしみは、救いを求めて主に呼ばわる者に注がれます(:13)。主は「もろもろの国」の「東、西、北、南」に住む人々にいつくしみを注がれます(詩篇107:3)。

 ここで歌われている人々の救いは、主なる神の救いを示す少数の例に過ぎません。迷う者には導きを(:4-9)、縛られた者には解放を(:10-16)、病む者にはいやしを(:17-22)、悩む者には平安を(:23-30)、「主のいつくしみ」は求める者に適切な救いをもたらします。

 キリストは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」(マタイ7:7)と語られます。私たちがなすべきことは主に救いを求めることであり、「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝する」(詩篇107:31)ことです。「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」(詩篇106:48)と叫んで主の救いを賛美しましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/23

2025年2月23日「小さな者の大きな信仰」

マタイ15:21-28
 15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
 15:23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
 15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
 15:25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
 15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
 15:27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
 15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

 キリストの地上での宣教の主な対象は、異邦人ではなくユダヤ人でした(マタイ10:5-6)。しかし、ユダヤ人の一部の人々がキリストに反発し(マタイ15:1-2)、そのために宣教の旅路が変えられることも度々ありました。「ツロとシドンとの地方」(:21)は宣教の目的地ではありませんでした(:24)。

 しかし、カナン人の女性がキリストに向かって「ダビデの子よ」と叫びました(:22)。異邦人である彼女はユダヤ人の信仰に学んで、娘の回復のためワラをもつかむ思いでキリストの奇跡を求めたのです。キリストは彼女の高度な信仰的理解に応じて、「小犬とパン」のような高度なたとえで諭されました(:26)。

 「小犬」のたとえは侮辱とも捉えられる言葉でしたが、彼女はキリストの言葉を活用し、「小犬もパンくずはいただきます」と応答しました(:27)。キリストは「あなたの信仰は見あげたものである」(:28)と言って癒やしの奇跡を行われました。信仰が山を動かす力を持つ一例をここに見ます(マタイ17:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/16

2025年2月16日「道を教える師」

イザヤ30:18-21
 30:18 それゆえ、主は待っていて、
あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、
あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。
 30:19 シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。
 30:20 たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。
 30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。

 預言者イザヤの時代、イスラエル王国の身の周りも戦争が多くあり、諸国は戦いのために馬を多く集めていました(イザヤ30:16)。しかし、聖書は「馬を多く獲ようとしてはならない」(申命記17:16)と忠告しています。

 私たち人間は、いつ来るかわからない災難を恐れて不安に陥りがちです。必要な備えを整えつつも、災難に遭うことを思い描くばかりではいけません。なぜなら、「あなたの神、主が共におられるから」(申命記20:1)です。

 聖書の神は災いの神ではなく、恵を施される神です。神は人に幸いをもたらすために待っておられます。それゆえ、「すべて主を待ち望む者はさいわいである」(:18)と言われています。

 人は何の指針もないと不安になります。しかし、聖書の神は教師であり、私たちに行くべき道を教えられます(:21)。私たちに必要なのは、当てもなく何もしないことでなく、神の幸いを信じて行動することです。「これは道だ、これに歩め」という声は信仰をもって前進する者に与えられます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/09

2025年2月9日「見ているから、さいわい」

マタイ13:10-17
 13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
 13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
 13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
 13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
 13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
   『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
   見るには見るが、決して認めない。
 13:15 この民の心は鈍くなり、
   その耳は聞えにくく、
   その目は閉じている。
   それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
   悔い改めていやされることがないためである』。
 13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
 13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

 キリストの譬(たとえ)話は、簡単に心に思い描けるような、明快な情景を題材としています。しかし、日常生活を思い描くことだけで終わってしまうなら、そこから何の知恵も得ることができません。

 キリストに一時的に従っていた群衆は、多くの者はキリストの話に満足しながら、何も得るところなく帰っていきました。しかし、弟子たちはキリストの元に留まり、そのたとえ話の説明を求めました(マタイ13:36)。

 同じ話を聞きながら、一方は得るところなく、他方は天国の奥義を知る(:11)という結果の違いは、真意を聞き取る耳を持つか否かによります(マタイ13:9)。キリストは拒むことなくすべての人に天国の奥義を語られています。「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(:16)といわれるキリストの御言葉を聞いて悟るものとなりましょう。「そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイ13:23)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/02

2025年2月2日「主のあかしを受け継ぐ」

使徒7:44-50
 7:44 わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。
 7:45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
 7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
 7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
 7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
 7:49 『主が仰せられる、
   どんな家をわたしのために建てるのか。
   わたしのいこいの場所は、どれか。
   天はわたしの王座、
   地はわたしの足台である。
 7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

 「幕屋」とは、出エジプト時代の聖所、すなわちイスラエル人の礼拝場所でした(出エジプト25:8-9)。民が神の約束の地に向かって旅する間、神が民と一緒に旅をし、共に住まわれることを示すものでした。幕屋の最奥には十戒、すなわち神の戒めをあかしする板を納めた「あかしの箱」(出エジプト25:21-22)が納められました。

 その後のイスラエル王国時代に、確立した王権のもとに堅固な宮(神殿)が建てられ、もはやモーセの時代のように移動する必要がなくなりました。しかし、堅固な宮は神の永遠の住まいではありませんでした。「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。…ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。」(列王紀上8:27)

 聖書の神は場所や物によって、まして人間の願いで固定できるものではありません。天地の造り主であられる神に祈りをささげられることを感謝しましょう。「われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。」(詩篇124:8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/01/26

2025年1月26日「暗黒に光がのぼった」

 マタイ4:12-17
 4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
 4:13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
 4:14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
 4:15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、
   海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
   異邦人のガリラヤ、
 4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
   死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
 4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」

 キリストは、荒野で悪魔に試みられた後(マタイ4:1-11)、バプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤへ退き(:12)、カペナウムの町で宣教をはじめました(:13,17)。これらの出来事は思いがけない災難だったと見えるかもしれません。しかし、キリストは「御霊に導かれ」(マタイ4:1)た結果これらの出来事を経験したのであり、神からの預言の言(ことば)が成就するためであった(:14)と聖書は語っています。

 私たちも見えることだけに捕われていると、目に見えない真実を見逃してしまいます。不当な逮捕の結果、ヨハネの宣教は中断させられました(マタイ14章)。しかし、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)との宣教の言は、キリストによって継承されました(:17)。人の悪事は神の言を縛ることができません(ルカ3:20)。キリストの宣教の言は「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見」(:16)させました。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/01/19

2025年1月19日「人の子よ、立ちあがれ」

エゼキエル2:1-7
 2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
 2:2 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
 2:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
 2:4 彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。
 2:5 彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
 2:6 人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
 2:7 彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。

 エゼキエルは神殿に仕える祭司でしたが、多くの民とともにバビロンへ捕囚となりました。そこで彼は神から新しい使命を与えられ、預言者となりました(エゼキエル1:1-3)。

 彼は恐ろしい幻を見て顔をふせました(エゼキエル1:28)。しかし「人の子よ、立ちあがれ」(:1)という声がかかりました。そして恐れるエゼキエルを立ちあがらせたのは神から送られた「霊」(:2)の力でした。

 エゼキエルの使命は大変困難なものでした。神の言葉を伝えるべき相手であるイスラエル人は「反逆の民」(:3)であり、「厚顔で強情な者たち」(:4)であると予告されました。しかし、エゼキエルのうちに宿った「御霊」が彼を奮い立たせ、神の言葉を告げさせました。

 今日の私たちもエゼキエルの姿から学べることがあります。私たちが「あざみといばら」(:6)の道を行くことがあっても恐れてはなりません。「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」(テモテ第二1:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/01/12

2025年1月12日「主に寄り頼む者はさいわい」

詩篇2:7-12
 
  2:7 わたしは主の詔をのべよう。 
主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。
きょう、わたしはおまえを生んだ。
 2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え、
地のはてまでもおまえの所有として与える。
 2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、
陶工の作る器物のように彼らを
打ち砕くであろう」と。
 2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、
地のつかさらよ、戒めをうけよ。
 2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
 2:12 その足に口づけせよ。
さもないと主は怒って、
あなたがたを道で滅ぼされるであろう、
その憤りがすみやかに燃えるからである。
すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

 詩篇2篇はイスラエルの王が即位したことを祝う歌です(詩篇2:6)。ここではイスラエルの王を「神の子」と呼んでいます(:7)。「神の子」は生まれながらの血統を意味するのではなく、神によって任命され、神から王としての権限と権力を授けられた者(:8,9)を示します。

 イスラエルの歴史において、ダビデ王はつえをもって牧する羊飼いから選ばれ(サムエル上16章)、ソロモン王は民をさばく賢さを神に求めました(列王紀上3章)。詩篇2篇にはイスラエルの歴代の偉大な王の記憶がうたわれています。

 イエス・キリストの「神の子」(マルコ1:1)という呼び名(称号)も同じ意味あいが込められています。また、キリストは私たちに「神の子となる力を与えた」(ヨハネ1:12)と言われています。おそれ多くも尊い「神の子」への呼びかけに応じて、私たちも主キリストに仕え、日々を生きるための賢さを頂きましょう。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/01/05

2025年1月5日「慰めに満ちたる神」

コリント第二1:3-7 
 1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
 1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
 1:5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
 1:6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。
 1:7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。

 コリントの町の教会の人々は、使徒パウロが自ら伝道した人々です(使徒18章)。パウロは遠隔地から多くの手紙を送る等をして多大な労力をかけました。この手紙の言葉にはパウロの多くの思いが込められています。

 彼らとパウロは多くの患難(:4)を共に味わいました。パウロは直接顔を合わせて(コリント第二10:14)、また手紙を通して(コリント第二7:8)、彼らを熱心に教育しました。再び彼らに向けて筆を取ったとき、パウロの心からあふれ出たのはキリストの父なる神の「あわれみ」と「慰め」(:3)でした。

 パウロの確信は、神が「あらゆる患難の中にある人々を慰める」(:4)ことができるということでした。それはパウロ自身が受けた慰めであり、パウロがよく知るコリント人たちも得ることのできる慰めです。

 クリスチャンであるゆえに受ける「キリストの苦難」(:5)があります。しかし、同時にクリスチャンであるゆえに得られる「慰め」もあるのです。聖書の御言葉に耳を向けましょう。「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」(イザヤ40:1) 

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/12/29

2024年12月29日「やみの中で光を放て」

イザヤ60:1-5

 60:1 起きよ、光を放て。

あなたの光が臨み、

主の栄光があなたの上にのぼったから。

 60:2 見よ、暗きは地をおおい、

やみはもろもろの民をおおう。

しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、

主の栄光があなたの上にあらわれる。

 60:3 もろもろの国は、あなたの光に来、

もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。

 60:4 あなたの目をあげて見まわせ、

彼らはみな集まってあなたに来る。

あなたの子らは遠くから来、

あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。

 60:5 その時あなたは見て、喜びに輝き、

あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。

海の富が移ってあなたに来、

もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。


 毎年冬至の後に迎えるクリスマスを経て、昼の時間が長くなり始めましたが、冬の寒さはいよいよ厳しくなっていきます。「義の太陽」(マラキ4:2)なるキリストが現れても、暗きは地をおおっています(:2)。しかし、季節が進むにつれて昼の光は夜のやみを追い払っていきます。

 主の栄光を受けると(:2)、私たちは主の栄光を反映するようになります(:3)。そのためには「世の光」(ヨハネ8:12)たるキリストに従って、光のもとに身を出す必要があります。

 キリストが私たちに言われています。「あなたがたは、世の光である。」(マタイ5:14)その光は弱々しいものではなく、やみの中に沈む人々を照らす強い光です。多くの人々も光を求めて集まって来ます(:3-4)。「起きよ、光を放て。」(:1)きたる年、私たちも「喜びに輝き」(:5)ましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/12/22

2024年12月22日「やみの中に輝く光」

ヨハネ1:1-5

 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 1:2 この言は初めに神と共にあった。

 1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

 1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 クリスマスは毎年冬至の時期に祝われるキリスト教の祭りです。寒く日の短い季節にイエス・キリストの誕生を祝い、キリストのうちに光を見出して(ヨハネ1:14-17)新しい年を迎えます。

 ヨハネ伝1章冒頭の言葉は、ギリシャ文化の中で生活する神の民イスラエル人に馴染みのある言葉によって、著者のヨハネが特別なメッセージを伝えています。「言(ことば)」(:1)はギリジャ語では「ロゴス」と言い、物事の道理を意味します。また「初めに」(:1)という言葉は、イスラエル人には聖書の最初の言葉、「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1:1)を思い出させます。

 当時のローマ帝国という多国籍社会で生活しながらも、イスラエル人たちは父祖から受け継いだ聖書の神への信仰を失うことがありませんでした。それだけに留まらず、ヨハネたち、キリストの弟子であるクリスチャンたちは、聖書の言葉を用いて異文化に息づく信仰を言い表わしました。「一寸先はやみ」のような世界にあって、彼らはキリストの光を頼りとし、キリストの言に命を見出して(:4)力強く生き、今日の私たちに光と命を伝えてくれています。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2024/12/15

2024年12月15日「広く開かれた心」

ピリピ4:4-7

 4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

 4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。

 4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

 4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 著者パウロは手紙の結びに「喜びなさい」(:4)と記しました。この言葉はギリシャ語の日常的なあいさつ(カイレテ)ですが、本来の意味である「喜び」を繰り返して強調しています。またその喜びの根拠は「主にあって」ということです。

 パウロは他の手紙でも「心を開いてほしい」(コリント第二7:2)と書いていますが、その理由は「主は近い」(:5)からです。誰でも信頼をおけない人に対して心を開くことはできません。しかし、「心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」(:7)お方が私たちの近くにおられるのです。

 この世は思い煩いに満ちています。そのため私たちの心も固く閉じてしまうのです。しかし聖書は語ります。「思い煩わず、感謝をもって祈りをささげなさい」(:6)と。祈るとき、私たちの心に神の平安(:7)が訪れ、寛容な心(:5)へと造り変えられます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:16-18)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/12/08

2024年12月8日「クリスマスの奇蹟」

マタイ13:54-58

 13:54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。 

 13:55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。

 13:56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。

 13:57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。

 13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。

 イエス・キリストは郷里のナザレ(マタイ2:23)に行き、会堂で礼拝する人々に向かって説教をしました。ナザレの人々は、山上の説教を聞いた人々と同じように驚きました(マタイ7:28)。彼らはキリストの教えの深さを頭では理解し、キリストが行った奇蹟をも見聞きしていました。しかし、ナザレの人々はキリストを信じませんでした(:57-58)。彼らは今日の私たち以上にキリストの身近にいて、キリストの家族関係まで詳細に知っていたにも関わらず…(:55-56)。

 キリストの誕生を祝うクリスマスは、日本でも身近な年中行事の一つです。しかし、クリスマスの中心的な意義について、どれほど理解されているでしょうか。クリスマスに秘められた大切な教え、その奇蹟について、はたから眺めているのではなく、自ら飛び込んでその醍醐味を味わってみませんか。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。」(ルカ2:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/12/01

2024年12月1日「さあ主の山に上ろう」

イザヤ2:2-5
 2:2 終りの日に次のことが起る。
主の家の山は、
もろもろの山のかしらとして堅く立ち、
もろもろの峰よりも高くそびえ、
すべて国はこれに流れてき、
 2:3 多くの民は来て言う、
「さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家へ行こう。
彼はその道をわれわれに教えられる、
われわれはその道に歩もう」と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
 2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。
 2:5 ヤコブの家よ、
さあ、われわれは主の光に歩もう。

 預言者イザヤが「終りの日」、つまり終末の時代の預言を語りました(イザヤ2:1)。終りの日とは、すべてが終り、無くなってしまう日ではありません。終りの日に新しい事が起き、新しい神の業が行われると預言で語られています(:2)。

 クリスマスは一年の「終りの日」であり、「始まりの日」でもあります。最も暗やみに包まれる季節(冬至)に、キリストがいのちの源として、「主の光」(:5)として私たちに与えられました。

 川は、高い山の頂から低い海の底に向けて流れて行きます。終りの日に起きる奇跡、それは主の山に向けて川が遡るように、もろもろの国の民が主の山、エルサレムに流れてくることです。それは、人々が神のみことばに自ら行くべき道を(:3)、光を(:5)見出したからです。神が教える道は平和の道です(:4)。「さあ、われわれは主の光に歩もう。」(:5)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/04/01

3分メッセージ索引(2019年~2024年)

旧約聖書 章節 新約聖書 章節
創世記 1:1-53:14-196:6-8
25:31-3237:18-20
マタイ 2:7-123:114:3-44:196:1
6:9-13(主の祈り
12345678
6:2011:3012:3924:44
27:37-3828:1-7
出エジプト 2:1015:217:3-718:19
19:2024:1133:11
ルカ 2:31-324:1-27:6-78:1-3
9:12-1311:112:35-3613:15
14:1116:19-3117:20-30
19:2619:2820:1721:2-3
申命記 6:20-218:1-68:16 ヨハネ 1:231:29-341:45-462:13-17
4:365:33-396:19-206:26-35
6:516:60-718:129:35-41
10:30-31
12:315:2616:3318:37
21:12
ヨシュア 24:19 使徒 2:1-22:423:5-63:168:30-31
10:34-3512:1113:2624:14-15
士師 7:1-8 ローマ 4:7-166:56:117:47:11
11:17-2412:9
サムエル上 3:1-10 コリント第一 1:30-318:115:51
列王紀上 17:13-1419:10-13 コリント第二 3:65:48:9
列王紀下 7:9 ガラテヤ 3:296:14
歴代志下 7:11-12 エペソ 2:103:64:15:45:9
ヨブ 22:21-2823:1028:28 ピリピ 4:6-74:17
詩篇 2:7-124:619:7-14
30:4-534:18-19
49:7-867:1-2
92:12-13103:2
104:19-24111:1125:4-5
136:1145:16146:3-5
コロサイ 2:8-15
箴言 3:3 テモテ第一 4:86:12
イザヤ 9:212:340:2644:6
48:652:759:16
62:263:9
テトス 2:11-13
エレミヤ 23:1-628:931:15 ピレモン 4-10
エゼキエル 18:3137:343:4-5 ヘブル 1:510:19-25
ホセア 14:1 ヤコブ 1:2-51:172:1
アモス 5:24 ペテロ第一 2:214:16
ミカ 2:124:55:2 ペテロ第二 1:16
ゼパニヤ 3:17 ヨハネ第一 1:1-42:27
ゼカリヤ 2:10-13 黙示録 5:1221:3-4
(救いの証し) 生田新一生田ハエノ小嶋隆日高基善日高佐和子平松公平八木原海