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2024/04/01

3分メッセージ索引(2019年~2024年)

旧約聖書 章節 新約聖書 章節
創世記 1:1-53:14-196:6-8
25:31-3237:18-20
マタイ 2:7-123:114:3-44:196:1
6:9-13(主の祈り
12345678
6:2011:3012:3924:44
27:37-3828:1-7
出エジプト 2:1015:217:3-718:19
19:2024:1133:11
ルカ 2:31-324:1-27:6-78:1-3
9:12-1311:112:35-3613:15
14:1116:19-3117:20-30
19:2619:2820:1721:2-3
申命記 6:20-218:1-68:16 ヨハネ 1:231:29-341:45-462:13-17
4:365:33-396:19-206:26-35
6:516:60-718:129:35-41
10:30-31
12:315:2616:3318:37
21:12
ヨシュア 24:19 使徒 2:1-22:423:5-63:168:30-31
10:34-3512:1113:2624:14-15
士師 7:1-8 ローマ 4:7-166:56:117:47:11
11:17-2412:9
サムエル上 3:1-10 コリント第一 1:30-318:115:51
列王紀上 17:13-1419:10-13 コリント第二 3:65:48:9
列王紀下 7:9 ガラテヤ 3:296:14
歴代志下 7:11-12 エペソ 2:103:64:15:45:9
ヨブ 22:21-2823:1028:28 ピリピ 4:6-74:17
詩篇 2:7-124:619:7-14
30:4-534:18-19
49:7-867:1-2
92:12-13103:2
104:19-24111:1125:4-5
136:1145:16146:3-5
コロサイ 2:8-15
箴言 3:3 テモテ第一 4:86:12
イザヤ 9:212:340:2644:6
48:652:759:16
62:263:9
テトス 2:11-13
エレミヤ 23:1-628:931:15 ピレモン 4-10
エゼキエル 18:3137:343:4-5 ヘブル 1:510:19-25
ホセア 14:1 ヤコブ 1:2-51:172:1
アモス 5:24 ペテロ第一 2:214:16
ミカ 2:124:55:2 ペテロ第二 1:16
ゼパニヤ 3:17 ヨハネ第一 1:1-42:27
ゼカリヤ 2:10-13 黙示録 5:1221:3-4
(救いの証し) 生田新一生田ハエノ小嶋隆日高基善日高佐和子平松公平八木原海

2024/03/31

2024年3月31日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・328「たたかいは終わり」
聖書:マタイ28:1-7

もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。(マタイ28章6節)

 イエス・キリストは「安息日の前日」(マルコ15章42節)すなわち金曜日に十字架で死なれ、その日のうちに墓に葬られました。その墓は弟子の一人であるアリマタヤのヨセフが用意したものでした(マタイ27章57~60節)。
 イスラエル人は、神が週の「第七日」すなわち土曜日を「安息日」として天地創造のわざを休まれた(創世記2章3節)のにならい、安息日に一切の働きを休みます(出エジプト20章10節)。ところが、キリストを訴えた祭司長たちはわざわざその安息日にピラトに訴え出て、キリストの死体を持ち出されないように墓に番人を置き、墓石に封をしました(マタイ27章62~66節)。
 キリストの女性の弟子たちは、急な埋葬の後に改めて死体を丁寧に処置したくとも、おきてに従って安息日を休み、翌日すなわち日曜日の夜明け前に墓に行きました(マルコ16章1~2節)。しかし、そこで見たのはキリストの死体ではなく、抜け殻となった空の墓でした。御使いは彼女たちに「イエスが納められていた場所をごらんなさい」と告げました。
 イエス・キリストが復活されたことを証明することはできません。なぜなら、その証拠を私たちは目で見ることができないからです。しかし、復活しなかったと反証することもできません。なぜなら、その反証となるキリストの死体を見ることができないからです。それは、聖書の神が存在することを証明も反証もできないことに似ています。
 17世紀の科学者パスカルはこう言っています。「神は存在するか、しないかのいずれかだ。…きみはどちらに賭けるのか。…もし勝てば(神が存在すれば)、すべてを獲得する。」神の存在、キリストの復活は私たち人類の幸福のためです。キリストの呼びかけに聞き従いましょう。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章29節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは私たちの先駆けとして復活されました(ピリピ3章10~11節)。そのことを祝うイースターの日、私たちにも復活の恵みを豊かに注いでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

引用資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
パスカル「パンセ(中)」50-52頁、岩波文庫(2015年)

2024/03/24

2024年3月24日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・311「血しおしたたる」
聖書:ヘブル10:19-25

わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ…(ヘブル10章19節)

 ヘブル人への手紙は、聖書の民であるイスラエル人、別名ヘブル人に宛てて、聖書(旧約聖書)を用いて神の御子イエス・キリストを説明する手紙です(ヘブル1章1~2節)。
 イスラエル人は、モーセを通して神の宮である聖所を与えられ、聖所の前で神に礼拝をささげました(出エジプト15章17節)。その地上の聖所は、天にある真の聖所の模型であり、キリストは真の聖所で仕える大祭司であるとヘブル書は教えています(ヘブル9章24~25節)。大祭司であるキリストはあわれみ深く、神の民を助けてくださいます(ヘブル2章17~18節)。
 地上の聖所には最も奥にある至聖所があり、大祭司が一年に一度しか入ることができませんでした。すなわち、聖所での礼拝では、神のみまえに簡単に近づくことができません(ヘブル9章1~9節)。大祭司が聖所に入るためには犠牲の血が必要です(ヘブル9章25節)。キリストは自らの血を用いて、すなわち十字架の死によって全人類の罪の清め(あがない)を成し遂げられました(ヘブル9章12節)。そのため、今日私たちはキリストへの信仰によって、はばかることなく神のみまえに近づくことができるのです(ヘブル10章19節)。
 キリストを信じクリスチャンになるとき、教会では水を用いた洗礼式が行われます。それもモーセ時代の聖所の型と同様、罪の清めを意味する型です(ヘブル10章22節)。その意義を踏まえて、教会の諸儀式も味わっていただきたいと願います。教会の営みに加わって神のみまえに行き、ご一緒に神の祝福に与りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書が示す出来事を通して、また教会で行われる様々な行事を通して、神ご自身が私たちを招いておられることを学びました。その意義を正しく理解することができ、私たちも神が賜る至福の恵みに豊かに与ることができますよう願い求めます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/17

2024年3月17日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」
聖書:コロサイ2:8-15

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。(コロサイ2章9~10節)

 キリストの使徒パウロ(コロサイ1章1節)は、コロサイ人への手紙において「むなしいだましごとの哲学」(コロサイ2章8節)と言っています。この言葉は哲学一般を指しているのではなく、当時のギリシャ文化圏に存在した特定の哲学学派を指しています。パウロはアテネにおいて「エピクロス派やストア派の哲学者」と議論を戦わせたことがあります(使徒17章18節)。
 パウロが問題とした哲学の具体的な内容は記されていません。しかし、人をとりこにして、キリストの教えに反するような教えに従ってはならない、と命じているのです。キリストの教えは「神の徳」をもたらすものです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(コリント第一8章1節)と言われているように、知識を得た結果、人を見下すようになるならば、その種の知識は人の徳を高めるとは言えません。
 今の時代においても、人々は支配や権威を得るべく、知識においても相争うことがあるかもしれません。神の民であるイスラエル人であっても、イスラエル人の身のしるしである割礼を誇りとし、無割礼の者を差別しました(ガラテヤ6章13節)。それに対し、パウロは「手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼」(コロサイ2章11節)を重視しました。
 そして、キリストこそ「すべての支配と権威とのかしら」(コロサイ2章10節)だと言っています。そして、「無学な、ただの人たち」(使徒4章13節)であろうとも、「罪の中にあり、かつ肉の割礼がない」者であろうとも、「キリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして」(コロサイ2章13節)下さる神を知る知識に勝るものはない。そのことを至高の知識として守りなさい、とパウロは教えています。
 「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2章12節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ありとあらゆる情報にあふれ、さまざまな知識に翻弄されるような時代に私たちは生かされています。その中にあっても、私たちは間違いのない確かな知識により頼んで歩むことができますように。キリストの祈りを私たちもいたします。「真理によって…聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネ17章17節)
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/10

2024年3月10日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・300「十字架のもとに」
聖書:詩篇2:7-12

わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。(詩篇2篇7節)

 イエス・キリストは「神の御子」と呼ばれています(ローマ1章4節)。キリストが洗礼を受けた時(マタイ3章17節)、また高い山で姿が変わった時にも(マタイ17章5節)、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声が天からかかりました。この「神の御子」という言葉は、詩篇2篇で歌われているように、神によって立てられた王または君主であることを意味します(詩篇2篇6節)。
 神によって立てられた「神の御子」に支配地(嗣業)と支配力(鉄のつえ)が与えられました(詩篇2篇8~9節)。「神の御子」は他の諸国と異なり、私利私欲ではなく神の意志を実現するために権力を振るいます。「神の御子」たる王には、神からの任命を示す油そそぎが行われました(サムエル上9章16節)。キリストという言葉は「油そそがれた者」(詩篇2篇2節)を意味します。
 イエス・キリストを信じる者はクリスチャン(キリスト者)と呼ばれます(使徒11章26節)。クリスチャンという呼び名は、このような力強いキリストによる守りが約束された名前です。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(詩篇2篇12節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストに神の特別なご愛顧がかけられています。私たちにはそのキリストに従い、「これに聞け」(マタイ17章5節)と命じる御言葉がかけられました。どうぞその御言葉の通り、私たちもキリストの栄光に与ることをお許しください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/03/03

2024年3月3日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
聖書:ヨハネ6:60-71

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。(ヨハネ6章63節)

 キリストは、湖のほとりに集まってきた大ぜいの群衆にパンを与える奇跡を行いました(ヨハネ6章1~14節)。その目的は、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』(マタイ4章4節)という聖書の教えを身をもって理解させるためでした。
 しかし、群衆の中のある人々は、キリストを王にかつぎあげようとしました(ヨハネ6章15節)。それはキリストが望まれたことではなく、人々はキリストの奇跡を曲解してしまったのです。キリストは「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」(ヨハネ6章26節)と指摘しました。
 キリストは「わたしは天から下ってきた生きたパンである」(ヨハネ6章51節)と言われました。しかし、人々はその意味を理解せず、キリストの弟子たちの中からも「これは、ひどい言葉だ」(ヨハネ6章60節)と言って去るものが出ました。彼らはパンの奇跡を味わいながら、キリストが約束された「永遠の命」(ヨハネ6章54節)を味わうことができませんでした。しかし、十二弟子の一人ペテロは「永遠の命の言をもっているのはあなたです」(ヨハネ6章68節)と言って理解を示しました。
 キリストは「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6章27節)と勧めています。この世の営みでは決して得られない、キリストが賜る天の恵みに与りましょう。キリストはこのように言って私たちを招いています。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。…生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7章37~38節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの内なる霊は、豪華な食事を食べても、ぜいたくな行楽に興じても、いずれは飢え、渇いてしまいます。しかし、キリストが約束された決して渇くことのない永遠の命を私たちに与えてください。日々、天からの恵みを食べて生きていくことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/25

2024年2月25日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・434「主よみもとに」
聖書:ヨハネ9:35-41

そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。(ヨハネ9章39節)

 イエス・キリストは、シロアムの池の近くに住んでいた盲人の目を開ける奇跡を行いました(ヨハネ9章7節)。それに対し、キリストが戒律により働くことが禁じられている安息日に奇跡を行ったことを問題視する人々がありました(ヨハネ9章16節)。
 キリストの奇跡を体験した人は、その体験ゆえにキリストを神からつかわされた預言者であると認めました(ヨハネ9章17節)。一方、キリストを問題視した人々は出来事を十分に確かめることなく、キリストを罪人だとしました(ヨハネ9章24節)。そして、奇跡を体験した人を追放して、出来事の検証を放棄してしまいました(ヨハネ9章34節)。キリストが「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」と言われた通りとなりました。
 キリストは、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と語りました(ヨハネ3章3節)。ある者はニコデモ(ヨハネ3章)のようにキリストに教えを求めましたが、別の者はキリストの言葉に耳を貸そうとせず、喜ばしい出来事すら目をふさぐようにして認めない者がありました。私たちはどちらの立場に立つでしょうか。
 キリストはこのようにも語っています。「わたしは父にお願いしよう。…それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14章16~17節)真理を目にし、耳にするとき、もし私たちの心がそれに従うことを好まなくても、素直に受け入れましょう。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちが真理を目にし、耳にするとき、耳が痛い思いがしても素直に受け入れることができますように。私たちを真理によって教え導いてくださいますように。真理によって私たちを聖別してくださいますように(ヨハネ17章17節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/18

2024年2月18日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・467「われらを導く」
聖書:出エジプト17:3-7

そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。(出エジプト17章7節)

 神の民イスラエルはモーセに従い、約束の地を目指して荒野を旅し続けました。荒野の厳しい旅には、特に飲み水を必要とする子供や家畜も一緒でした(出エジプト17章3節)。ですから、イスラエルの人々にとって飲み水は死活問題であり、彼らが飲み水を求めてモーセに訴え出たことも無理もないことでした(出エジプト17章2節)。
 しかし、民の訴え方は脅迫めいたものであったようです。モーセは「彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と言って神に訴えました(出エジプト17章4節)。その後に与えられたのが「マッサ(試みの意)」の水であり、「メリバ(争いの意)」の水でした。
 後にモーセはこう語りました。「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」(申命記6章16節)「主を試みる」とは、具体的には飲み水を求めて、手段を問わずに指導者モーセに食ってかかり、神への不信を口にするような揺さぶりを、神にかけようとすることです。聖書は「目的を達するために悪をもいとわず行動する」ことを戒めています。
 聖書の神は人の願いをかえりみ、私たちの切なる祈りに応えてくださる方です。キリストが悪魔に対し『主なるあなたの神を試みてはならない』(マタイ4章7節)と命じ、その後に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7章7節)と言って私たちを教えています。私たちをかえりみてくださる神に信頼し、祈りをささげましょう(ペテロ第一5章7節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたはすべてのことをご存じです。それにも関わらず、私たちはしばしば神を信じることなく、人に対するように神をも指図するような過ちを犯してしまいます。私たちにも「マッサの水の出来事を思い出せ」と聖書は語りかけます。私たちも悔い改めつつ、信仰をもって祈る者へとしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/11

2024年2月11日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・7「ほめたたえよ力強き主を」
聖書:申命記8:1-6

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。(申命記8章2節)

 出エジプトの出来事は、神の民イスラエルの試練を語っています。私たちはそこから、私たち自身の人生で経験する試練について学ぶことができます。
 四十年は、いくつか世代を重ねるほどの非常に長い期間です。その間、イスラエルの民は荒野の旅を続けていました。彼らには約束の地という目標がありましたが、そこに至るまで様々な試練を経験しなければなりませんでした。その彼らの姿に、私たちがそれぞれ歩んでいる長い人生を垣間見ることができるのではないでしょうか。
 彼らの長い旅路で経験した試練には深い意味がありました。申命記に記されたモーセの言葉は、苦しいからと言って無視したり忘れてはならず、「すべての道を覚えなければならない」と語っています。彼らが経験した苦しみとはまさに「試錬」(ヤコブ1章2節)であり、知恵をもって忍耐を働かせるべきものです。また、長い旅路の中で彼らは、神の子としてふさわしく「訓練」(申命記8章5節)されました。
 イエス・キリストは同じように荒野で試練に会われました(マタイ4章)。その際、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言って試みました。神の子とは、全知全能のスーパーマンであると誤解してはいけません。神の子は試練によって訓練された者であり、それは神の命令を守り行う(申命記8章1節)ことに徹する者です。それゆえ、キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えられました(マタイ4章4節)。
 聖書の神は今日も、神の子である私たち(ヨハネ1章12節)に天からのパンを備え、私たちの行くべき道を守り導いてくださいます。信仰をもって試練に立ち向かってまいりましょう。「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神の民であるイスラエルは約束の地を目指して荒野を旅しました。私たちも神の導きに従い、人生の歩みを完成させることができますように。荒野の旅路にあっても、私たちをいこいのみぎわに伴い、正しい道に導いてください(詩篇23篇2~3節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/02/04

2024年2月4日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・355「主をほめよわが心」
聖書:ヤコブ1:2-5

なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。(ヤコブ1章4節)

 聖書は、私たちが当たり前に思っている事柄に、新しい見方と知識を与えます。例えば、愛は「不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(コリント第一13章6~7節)と言われています。そのように、本物の愛は感情のうちに留まるものではなく、正義に立ちながらすべてを肯定するものであると教えています。
 同じく、ヤコブの手紙は「忍耐」について教えています。私たちの日常でも忍耐を強いられる場面は多くあります。キリスト教の長い歴史においても、多くの信仰者が忍耐を強いられてきました。特に日本ではキリシタン時代の信仰の弾圧が思い出されますし、ヤコブ書では旧約聖書のヨブの忍耐(ヤコブ5章11節)に触れています。
 私たちは、いろいろな試錬に会った時に忍耐を強いられます。試錬は決して喜ばしいことではありません。しかし、聖書は「むしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(ヤコブ1章2節)と言っています。それは、試錬によって「忍耐が生み出される」(ヤコブ1章3節)からだと教えます。つまり、忍耐を得られるのだから試錬を喜ばしく思え、という訳です。
 そして、忍耐は「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人」を生み出します。私たちが完成した人となるために、忍耐は十分に働かせることができるものなのだ、というのが聖書の教えです。私たちも聖書の教える広い見方を身につけることができますように。「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求め」(ヤコブ1章5節)ましょう。
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは、人生の試錬に会う時に、困り果ててしまうことがあります。しかし、聖書は「むしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と教えています。どうぞ私たちに、試錬に打ち勝つ忍耐を、また忍耐によって得られる成長を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/31

2024年1月28日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・157「いざ語れ主の民よ」
聖書:ヨブ22:21-28

あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。(ヨブ22章21節)

 ヨブ記は、信仰の先人たちによる知恵の言葉を多く含んでいます。その知恵の言葉は、時代が変わろうとも、変わることのない普遍的な真理を語っています。
 ヨブ記は「神と和らいで、平安を得よ」と語りかけています。聖書の神は「全能者」(ヨブ22章3節)であり、隠されたことを暴いて正しくさばく神であり(ヨブ22章13節)、悪を憎み正義を守る神です(ヨブ22章19節)。
 ヨブ記の中心人物であるヨブは、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ1章1節)と言われる人でした。しかし、非常な苦難がヨブを襲った時、彼は「神はわたしの潔白を知られる」(ヨブ31章6節)と言い、神よりも自分の正しいことを主張しだしました(ヨブ32章2節)。そこで、彼の友人たちは「全能者に立ち返って、おのれを低く」せよと勧めました(ヨブ22章23節)。
 聖書の神は「高ぶる者を低くされるが、へりくだる者を救われ」ます(ヨブ22章29節)。全能の神に対し、人が自らの権利を主張することは得策ではありません。人の力を超える、神の全能の御力を求めるなら、「自らのこがね(宝)をちりの中に置き、全能者を自らのこがねと」しましょう(ヨブ22章25節)。そうすれば、ヨブがちり灰の中で悔い改めた後、神によって回復されたように(ヨブ42章)、時が来れば神が私たちを高く引き上げ、救ってくださいます(ペテロ第一5章6節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは時に思い上がってしまい、周りも自らをも見えなくなってしまうことがあります。ヨブが最後に神の前にへりくだり、神の全能の御力にすがったように、私たちにもただ神の全能によりすがる謙虚さを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/21

2024年1月21日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・404「あまつ真清水」
聖書:ヨハネ第一1:1-4

わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(ヨハネ第一1章3節)

 ヨハネの第一の手紙は、その文章がヨハネによる福音書とよく似ています。両方とも文章の中で自分の名前(ヨハネ)を明らかにしていません。また簡単な言葉(いのち、言、等々)を用いて神の真理を表現しています。このことは、この手紙や福音書を書き送った相手が、手紙の書き手にとってごく親しい関係にあり、わざわざ自己紹介するまでもなかったことが考えられます。
 手紙でも、このように書いており、深い信頼関係があったことが感じさせられます。「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ第一1章4節)
 ヨハネの第二の手紙ではこのようにも語っています。「あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。」(ヨハネ第二12節)ヨハネが願うことは直接会って、親しく交わることでした。しかしそのことが叶わないと、ヨハネは親しみを込めて手紙をしたためたのでした。
 このことは、神の言葉といわれる聖書の性格とも共通することです。聖書の神は、聖書を通して読者との深い交わりを求めています。そして、深い交わりを通して「永遠のいのち」(ヨハネ第一1章2節)を与えたいと願われているのです。
 聖書は取っつきにくい書物かもしれません。しかし、聖書に親しむにつれ、そこから単なる知識以上の喜びがあふれてきます。「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」を通して、皆様に豊かな祝福が満ちあふれるようになりますように。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは私たちとの交わりを求めて、私たちの手に聖書を与えてくださいました。どうぞ、私たちは聖書を読むことを通して、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりに与ることができますように。私たちの心の目を、耳を開いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/14

2024年1月14日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・189「ちいさいこどもの」
聖書:サムエル上3:1-10

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。(サムエル上3章10節)

 イスラエル人を指導する偉大な預言者であったサムエルは、祭司エリのもとで神殿奉仕を行うわらべでした(サムエル上3章1節)。サムエルは最初から預言者であった訳ではありませんでした。
 神はサムエルに呼びかけられました。しかし、サムエルは神の声であることに気づかず、祭司エリの声と勘違いしました。同じことが三度繰り返されて、ようやくエリが神の声であることに気づき、サムエルにこう言って諭しました。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」(サムエル上3章2~9節)
 この出来事は、預言者サムエルがいかにして神の御言葉を正しく聞き受け、預言者の務めを果たすようになったかを示しています。それと同時に、私たちにも神がそれぞれの方法で語りかけておられ、それに私たちが気づくべきであることをも教えています。
 私たちの手元にある聖書も「神の御言葉」として受け止めることが大切です。サムエルも最初は、神の声を聞きながら、それを神の御言葉であると知ることができませんでした。私たちも「しもべは聞きます」という素直な心持ちで聖書に向き合うならば、聖書は神からの御言葉として私たちに響いてきます。
 「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(ペテロ第二1章19節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節)御言葉を目にし、耳にしていながら悟ることのできない私たちの心を開いてください。この暗闇の時代に進むべき私たちの道を、御言葉によって示してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/07

2024年1月7日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・87「罪なき小羊」
聖書:ヨハネ1:29-34

ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1章29節)

 イエス・キリストが宣教活動を始める前、バプテスマのヨハネが先駆者として宣教活動を行っていました。ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3章2節)と言って教え、罪を悔い改めた人々にバプテスマ(洗礼)を授けていました(マタイ3章6節)。
 ヨハネは「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである」(ヨハネ1章15節)と言って、自らは後に来るべきキリストの前備えに過ぎないと証言していました。ヨハネは人々に水によるバプテスマを授けていましたが、キリストは神の霊たる御霊によってバプテスマを授けると説明しました(ヨハネ1章33節)。水は罪を清めることの象徴でしかありませんが、御霊は罪の清めそのものを行います(コリント第一6章11節)。  そして、キリストご自身を指して「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この言葉は、御霊による罪の清めが「神の小羊」たるキリストを通して行われることを意味します。すなわち、キリストご自身が犠牲の小羊となり、十字架にかかって死なれることを示しています(ペテロ第一1章19節)。
 ヨハネはキリストを指して「このかたこそ神の子である」とも言いました(ヨハネ1章34節)。キリストは神の子の権能を用いて、信じ従う者に命を与え(ヨハネ20章31節)、神の子となる力をも与えてくださいます(ヨハネ1章12節)。新年も神の子キリストの御力を受けて、私たちも神の子としてきよく力強い歩みをさせていただきましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。新しい年の始まりにあたり、神の子キリストの導きの力を改めて味わい、その罪の清めと新しい命の恵みに与りたいと願います。どうぞ神の子としてしっかりと歩めるよう、私たちに新しい導きを下さい。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/12/31

2023年12月31日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・260「いざ歌えいざ祝え」
聖書:マタイ2:7-12

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。(マタイ2章10節)

 イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの出来事は、聖書にその前後について多くの記述があります。マタイ2章の「東からきた博士たち」はキリストの誕生を星の出現で知り、日数をかけてはるばる遠国より旅をしてエルサレムにやって来ました。
 キリストの誕生からはだいぶ日数が過ぎていました(マタイ2章16節)。博士たちの知らせに対するエルサレムの人々の反応は、喜びではなく恐れでした(マタイ2章3節)。
 博士たちはキリストの所在地については見当がつきませんでした。当時の王であったヘロデは、博士たちの異国に不慣れなことにつけこんで利用しようとしました。ヘロデは博士たちにキリストがベツレヘムいることを教えて、彼らからキリストの情報を得ようとしたのです(マタイ2章8節)。ヘロデはキリストを抹殺しようとしたのでした(マタイ2章13節)。
 ヘロデは博士たちに対して情報量の点で勝っていました。しかし、博士たちには神が味方に立っていました。彼らをキリストがいる家まで導いたのは、彼らを東方からエルサレムまで上らせた星でした(マタイ2章9節)。そして、彼らはキリストを拝むことができ、キリストに敵対するヘロデの手からも逃れることができました(マタイ2章12節)。
 聖書の神は、信じて従う者に味方してくださる方です。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ローマ8章31節)新しい年も神の導きを信じて従ってまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今年も守りと導きの中、終わりの日まで歩むことができましたことを感謝いたします。新しい一年がどのような年となるか、私たちにはわかりませんが神様はご存じです。新しい年にも新しい恵みを賜り、新しく導いてくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/12/24

2023年12月24日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・249「おさなご主イエスよ」
聖書:ゼカリヤ2:10-13

その日には、多くの国民が主に連なって、わたしの民となる。わたしはあなたの中に住む。(ゼカリヤ2章11節)

 クリスマスおめでとうございます。本日はクリスマス直前の日曜日、志村キリスト教会では一足早くクリスマス礼拝を行っています。多くの方々が礼拝に出席されることを期待しています。
 キリスト教にとっては毎週日曜日がお祭りです。その中でも、春のイースター、冬のクリスマスは大きなお祭りです。この日は特に多くの方々が集まって、様々な形で盛大な祝いをします。それはイエス・キリストのご降誕を祝う祭りです。
 聖書の民イスラエルにとっては、神の宮のあるエルサレムに世界中から集まってお祭りをすることが、一生の目的ともいえることでした。それは、イスラエル人は度重なる離散の歴史を経験しているからです。約束の地を目指したアブラハム、モーセの時代があり(ゼカリヤ10章10~11節)、他国より攻められて離散してしまう危険を経ながらダビデのもとに統一王国となった時代があり(ゼカリヤ12章7~9節)、そしてゼカリヤ書の時代、王国が分裂、滅亡を経験したのち、捕囚地バビロンから祖国へ帰還した民が再結集できたことを喜んだ時代がありました(ゼカリヤ2章6~7節)。
 同じように、今日のキリスト教会も様々な経験を経て集まった人々が再会を喜び合います。そして神の民として一つとされ、声と心を一つにして神に礼拝をささげます。そのような神の民のただ中に住む、と聖書の神は約束しておられるのです。
 ぜひクリスマスの機会に教会に集まって、共に喜び合い、心を合わせて礼拝をささげましょう。世界中の人々が和合して暮らせるための平和が与えられますように、心を合わせて祈りましょう。「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇133篇1節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。クリスマスは人々が召し集められ、平和を分かち合うお祭りです。どうぞ今年のクリスマスの機会に、私たちの世界から争いを取り除き、平和を与えてください。平和の神よ。どうぞ私たちの家に住んでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/12/17

2023年12月17日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・247「今こそ声あげ」
聖書:詩篇19:7-14

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように。(詩篇19篇14節)

 イエス・キリストはこのように言われました。「善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。」(ルカ6章45節)まさに「言葉は立居を表す」ことを教えられました。
 聖書は言葉の大切さを教えています。そして神は言葉によって自らを表されました。神は天地を言葉によって創造し(創世記1章3節)、天地は神の栄光を世界のはてまで伝えています(詩篇19篇4節)。
 また神は御言葉をもって人に命を与え、知恵を与えて正しく導かれます(詩篇19篇7節)。詩篇19篇は神の御言葉のすばらしさをほめたたえる賛美歌です。
 最後に、詩篇19篇は人の愚かさを指摘します。神の御言葉で教えられていながら、罪を犯してしまう、あるいは罪に気づかない愚かさからの救いを祈り求めています(詩篇19篇12節)。
 私たちは言葉を用いて日々を生活しています。私たちの口が語る言葉、また心に秘めた思いの言葉がきよく喜ばしいものでありますように。ご一緒に神の御言葉に学んでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは御言葉に学び、きよく正しい歩みをしたいと願っています。御言葉に「舌を制しうる人は、ひとりもいない」(ヤコブ3章8節)とも教えられています。どうぞ私たちの口の言葉、心の思いをきよめてくださり、舌を制する力を私たちに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/12/10

2023年12月10日3分メッセージ

2023年12月10日3分メッセージ 賛美歌:讃美歌21・241「きたりたまえわれらの主よ」
聖書:ヨハネ5:33-39

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(ヨハネ5章39節)

 クリスマスは、イエス・キリストがこの世の救い主として来られたことを祝うお祭りです(ヨハネ1章29節)。キリストが公に姿を現す前に、バプテスマのヨハネがキリストの先駆者として現れました(ヨハネ1章15節)。そして、ヨハネはキリストについて「このかたこそ神の子である」と証言しました(ヨハネ1章34節)。
 キリストはヨハネについて「彼は真理についてあかしをした」と言い、自らに対するヨハネの証言を受け入れました(ヨハネ5章33節)。それに続いて「あなたがたが救われるためである」とも言われました(ヨハネ5章34節)。つまり、キリストが来られた目的は私たち、世界の人々を救うためであるということです。
 キリスト教は聖書を神の御言葉として受け止め、礼拝の中で説教が行われ、すなわち聖書の言葉が語られます。それらの言葉が、神の救いを明らかにしているのです。ヨハネの語った証言も同じく、神の救いについて証言した言葉でした。
 それだけでなく、キリストは様々な救いについての証言が人類に与えられていることを示しています。それは、キリストを通してなされた救いのわざです(ヨハネ5章36節)。また、神ご自身が証言をされるとも語られました(ヨハネ5章37節)。そして、これらの言葉や出来事は共通してキリストについて証言しているとも語られました(ヨハネ5章39節)。
 クリスマスの出来事についても、このキリストの教えによって味わってください。つまり、クリスマスの飾りや音楽、様々な形で表されているのは、キリストという救い主がお生まれになったということを伝えるためにあります。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2章11節)今年も幸いなクリスマスが訪れますように。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。暗闇の最も深い季節に、喜びのおとずれが近づいてきました。今年もクリスマスを楽しみつつ、その伝えるメッセージを確かに受け止めることができますように。どうぞ私たちの世界にキリストの平和が訪れますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/12/03

2023年12月3日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・230「起きよと呼ぶ声」
聖書:ローマ11:17-24

しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。(ローマ11章23節)

 ローマ書11章では、つぎ木のたとえ話が語られています。
 つぎ木は、古代から現代に至るまで用いられ続けている園芸技術です。その目的は、優秀な花や実を増やすため、あるいは病気に強い性質を持たせるため、それぞれの目的に合った台木と穂木を接ぎ合わせることです。
 聖書の神は、腕の良い園芸家にたとえられています。つぎ木そのものは、教会とそれにつながるクリスチャンを示しています。さらに注意すべきことは、つぎ木の台木は何のたとえかということです。
 台木は教会の全体ではありません。また古くから教会を支えているクリスチャン、あるいは先代の教会の伝統を形作ってきた人々も台木ではありません。彼らは私たちと同じく、つぎ木された枝に当たります。もし私たちも不信仰な歩みをするなら、「不信仰のゆえに切り去られ」ると聖書は警告しています(ローマ11章20節)。
 台木はイエス・キリストご自身を意味します。「あなた(穂木)が根(台木)をささえているのではなく、根があなたをささえているのである」(ローマ11章18節)と教えられています。キリストご自身はぶどうの木にたとえてこう言っています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15章5節)
 クリスマスの良い機会に、キリスト教の教える救いの恵みを改めて味わってまいりましょう。教会が伝えるクリスマスのメッセージは、天地万物を養う神の恵みを伝えています。神の豊かな慈愛は私たちに向けられています(ローマ11章22節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今年もクリスマスのメッセージは世界中で語り告げられています。その神の慈愛のメッセージを、私たちも真摯に、また素直に受け取ることができますように。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2章14節)
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/11/26

2023年11月26日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・98「緑の牧場に」
聖書:エレミヤ23:1-6

主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。(エレミヤ23章5節)

 今年も年の瀬が近づき、クリスマスや新年も目の前まで迫ってきました。教会ではクリスマス、すなわち聖書の民イスラエルの王であるダビデの子孫(エレミヤ33章17節)として生まれたイエス・キリストを祝うための準備が始まっています。
 ダビデは羊飼い(牧者)からイスラエルの王となりました(サムエル上16章)。そのため、ダビデの子孫であるイスラエルの歴代の王は羊飼い、民は羊の群れにたとえられています。
 しかし、羊の群れであるイスラエルの民は羊飼いであるイスラエルの王が所有している訳ではありません。真の所有者である主人は、主と呼ばれる神ご自身です(エレミヤ23章1節)。雇い人であるイスラエルの王たちが、主である神の命令に従わず、私腹を肥やすのみでイスラエルの民を養わなかったと、聖書の神はイスラエルの王たちをとがめているのです。
 預言者エレミヤの時代は、イスラエルの王国の滅亡の時代でした。エレミヤは神からの警告の言葉をイスラエルの王や民に語り告げましたが、彼らは耳を傾けませんでした。その結果、神からの預言の通り、王国は滅亡し(エレミヤ52章)、イスラエルの人々はバビロンに捕囚となり、他の者は世界中に散らされてしまいました(エレミヤ23章2節)。ただそれだけでは終わらず、同じ神の預言の通りにイスラエルは復興します。それは、イスラエル人の手にはよらず、不思議な神の計らいにより、七十年の後イスラエルの民は祖国に帰ることができました(エレミヤ29章10節)。
 イエス・キリストは、このような苦難の歴史をたどったイスラエルの民として生まれました。それは、まさに神の摂理によって立てられた牧者として(エレミヤ23章4節)、神の預言の通りに神の民を正しく導く救い主となるためでした(エレミヤ23章6節)。
 私たちも今年のクリスマスにおいて、人の手によるものではなく、神の手による究極で完璧な救いを得るため、ともにイエス・キリストを喜んで迎えましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストは正義を行う牧者としてこの世に生まれました。困難な世の中にあっても、私たちは平和な世界を求めています。どうぞ私たちの生きるこの時代にも、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」としてキリストをお遣わしください(イザヤ9章6節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)