2021/01/31

2021年1月31日3分メッセージ



 テモテ第一4章8節をお読みします。
からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。

 聖書はここで、「信心のための訓練」をすることを勧めています。
 信心とは「信じる心」と書きますが、この言葉で聖書が意味しているのは、人が何ものかを堅く信じる「信念」とは違います。この信心は「信仰」や「敬虔」という言葉に置き換えることができます。信心は聖書の神から与えられるものであり(ペテロ第二1章3節)、さらに深い信心を得るために追い求めるべきものです(テモテ第一6章11節)。
 信心は人間に生まれつき備わっているものではなく、からだの訓練のように努力して獲得していくものです。そして、信心の獲得のために役立つのが「信仰の言葉」(テモテ第一4章6節)である聖書です。からだを作り上げるために必要な栄養素があるように、心を作り上げ、心を養うために、私たちは聖書を読むことが必要です(ペテロ第一2章2節)。
 そのようにして私たちが信心を獲得することができたなら、私たちは信心深い生活に伴う神のいのちに満たされることができます。神は私たちに来世のいのちだけでなく、今を生きるいのちを豊かに祝福してくださいます。
 この聖句の著者であるパウロは、信心の訓練についてしばしばスポーツの例えを用いています(テモテ第一6章12節)。具体的に私たちがすべきことは、聖書のことばを「そのまま受けいれる」ことです(テモテ第一4章9節)。私たちは神の子どもとして、父なる神の御言葉を素直に受け入れて、御言葉に学んでまいりましょう(エペソ5章1節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今日、私たちは神様を信じる信心も、神様からの贈り物であることを知りました。時々、私たちも信じて生きることの難しさを覚えることがあります。どうぞ私たちの信心を強めるため、私たちに御言葉を与えてください。御言葉とともに、困難な今の時代を生きる命も豊かに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/01/25

2021年1月31日の聖書日課

(写真:ジャノメエリカ)

第一テモテ4:7-16
 4:7 しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。
 4:8 からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。
 4:9 これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。
 4:10 わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。
 4:11 これらの事を命じ、また教えなさい。
 4:12 あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。
 4:13 わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。
 4:14 長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。
 4:15 すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。
 4:16 自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/01/24

2021年1月24日3分メッセージ



 イザヤ9章2節をお読みします。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

 聖書は読む人の心を映す鏡です。聖書は、聖なる神の言葉を伝えるだけでなく、この世の人間の言葉や生き様を生々しく記しています。聖書を読む時、私たちは神や人々の言葉を耳にして、自らの心が探られる体験をします。
 イザヤ書の8章と9章は、預言者イザヤが生きた時代のイスラエルの社会のやみを暴き出しています。そこには、しえたげがあり、飢えの苦しみ、怒りがあり、そのことのためにイスラエルの人々は王と神とを呪いました(イザヤ8章21節)。
 このイスラエルのやみに対して、私たちは何を見出すでしょうか。これらの出来事は現代に生きる私たちの社会と全く関係のないことでしょうか。
 この暗やみの世界に生きる預言者は、やみの中から大いなる光を見出しました。光はまだ遠くにありましたが、暗やみの中に生きる人々は光に希望を見出しました。
 この光が、聖書の神が約束する救いを意味します。未だ世界がやみに覆われていても、夜明けとともに光はやみを追い払います。その事を思って、人々は光を見て大喜びしたのでした(イザヤ9章3節)。
 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1章5節)未だ問題解決が見出だせない現代の世界にあって、私たちも神の大いなる光を求めて祈りましょう。聖書の神様は、熱い心で私たちのために救いを成し遂げてくださいます(イザヤ9章7節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。確実な解決の見出だせない今の時代にあって、私たちは神の救いの光を求めています。どうか私たちの世界に、私たちの心に光を与えてください。私たちの世界に希望の光を投じてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/01/18

2021年1月24日の聖書日課

(写真:ゲンペイクサギ)

イザヤ9:1-4
 9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
 9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
 9:3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、
彼らは刈入れ時に喜ぶように、
獲物を分かつ時に楽しむように、
あなたの前に喜んだ。
 9:4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、
その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、
ミデアンの日になされたように折られたからだ。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/01/17

2021年1月17日3分メッセージ



 マタイ4章19節をお読みします。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

 イエス・キリストは、後に十二弟子や使徒と呼ばれるようになるペテロとアンデレに声をかけました。彼らはガリラヤの湖で魚をとる漁師でした(マタイ4章18節)。
 キリストは漁師たちに、「人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけたのでした。現実的には、魚をとる漁師の仕事と、キリストの弟子となって人間をとるということとは、物のたとえとしても意味が大きく異なります。しかしペテロたちは、漁師の仕事道具を捨てて、キリストの弟子となることを選び取ったのでした(マタイ4章20節)。
 キリストの弟子たちは、最初からすべてのことを理解してキリストに従った訳ではありませんでした。実際、彼らは弟子としての振る舞い方を知らず、この後何度も失敗を繰り返しました。しかし、ペテロたちは最後までキリストに従い続け、時間をかけてキリストから多くのことを学び、後になってキリストの伝道者として立派に務めを果たしていきました。
 私たちがクリスチャンとなることは、ペテロたちのようなキリストの弟子の生き様と共通するところがあります。私たちも彼らと同じように、キリストの言葉にかけがえのない価値を見出し、最初は満足できるような者ではなくても、先生であるキリストが私たちを導いてくださることを信じ、クリスチャンとなる決断をします。キリストは私たちクリスチャンも責任をもって生涯を全うさせてくださいます。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ペテロたちもただキリストの言葉に信頼し、主の導きに従うことを決意してついていきました。私たちも同じ信頼をもって主イエス・キリストに従ってまいります。どうぞ弱い私たちを助けてくださり、クリスチャンとしてその道を全うさせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/01/11

2021年1月17日の聖書日課

(写真:デンドロビウム)

マタイ4:18-25
 4:18 さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
 4:19 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
 4:20 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
 4:21 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、
 4:22 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
 4:23 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
 4:24 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
 4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/01/10

2021年1月10日3分メッセージ



 ローマ6章11節をお読みします。
あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 この聖句はクリスチャンに対して、死と命について教えています。その後に、死をもたらすものは罪であり、命をもたらすものはキリストであると告げています(ローマ6章23節)。
 死と命は、クリスチャンだけではなく、すべての人に関係があるものです。私たちは毎日、命を保って生きていますが、いずれ私たちのすべてが死に至ります。そのような意味で、すべての人間は死の力から逃れることができません。
 同じように、死をもたらす罪も、すべての人間を支配しています。罪の力は私たちを命から引き離し、死の中へ引きずり込もうとします。そのように、私たちが他人だけでなく、自分であっても命から遠ざけようとするとき、私たちの心も行動も罪に支配されていて、そのようなことを行う者は罪人とみなされます。
 しかし、人間を支配する罪も死も、その本人が死んでしまえば、最早その力を失ってしまいます。そこで、イエス・キリストは私たち全人類を罪と死の力から解放するため、ご自身の十字架の死によって罪と死を無力化されました。そのことが、クリスチャンの罪が赦されることの原理です(ローマ6章6節)。
 ですから、クリスチャンはキリストの十字架によって既に罪に対して死んでいて、罪の力は私たちに何の影響も及ぼしません。それだけではなく、私たちは新しい命が与えられています。それはキリストによって与えられた神の命です。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの身近なところに様々な恐怖があります。それは病や死であり、そして死をもたらす罪の恐怖があります。しかし、聖書が教えているとおり、キリストの十字架がすべての罪と死を取り除き、私たちには神の命が与えられています。キリストによる命に満たされて、日々を平安に過ごさせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/01/04

2021年1月10日の聖書日課

(写真:ダイダイ)

ローマ6:12-23
 6:12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
 6:13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
 6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
 6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
 6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
 6:18 罪から解放され、義の僕となった。
 6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
 6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
 6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
 6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
 6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/01/03

2021年1月3日3分メッセージ



 エレミヤ31章15節をお読みします。
主はこう仰せられる、「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」。

 預言者エレミヤが、イスラエル人のバビロン捕囚に関連して、この言葉を語りました。
 イスラエル王国はバビロン王国に戦いで負け、多くの人々が殺され、またイスラエルのラマの町から、はるか東のバビロンへと連れ去られました(エレミヤ40章1節)。その状況を、イスラエル人の先祖であるラケル(創世記46章19節)が見るならば、彼女の嘆きはどれほどの深さであるでしょうか。
 このエレミヤの言葉は、最初のクリスマスの後に起きた出来事を説明するため、マタイの福音書でも引用されています。その時、イスラエルの王ヘロデはキリストを殺そうとして、多くの男の子を虐殺しました(マタイ2章16~18節)。
 このような災いに遭った人々の嘆きは、どれほどのものであったでしょうか。エレミヤの言葉は、災いに遭った人々が「慰められるのを願わない」と言っています。私たちが経験する嘆きは、何一つとして他人と比べられるものはありません。しかし、聖書の神は「慰められるのを願わない」人々に、「あなたは泣く声をとどめ」よと語りかけています(エレミヤ31章16節)。
 私たちは今日も、様々な痛みや嘆きを心に抱えて生きています。しかし、私たちは一人ぼっちではありません。私たちの心の嘆きを聞き、私たちに将来と希望を与えてくださる神様がおられます(エレミヤ29章11節)。新しい年に新しい天からの恵みを頂いて歩みだしてまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。新しい一年が始まりましたが、私たちの世界は深い悩みや悲しみを抱えたままで今日という日を過ごしています。私たちは明確な将来を見いだせていませんが、私たちの思いにまさる、天からの知恵をもって私たちを導いてください。私たちに災いではなく平安を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/01/01

2021年1月3日の聖書日課

(写真:ツバキ)

エレミヤ31:15-17
 31:15 主はこう仰せられる、
「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。
ラケルがその子らのために嘆くのである。
子らがもはやいないので、
彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」。
 31:16 主はこう仰せられる、
「あなたは泣く声をとどめ、
目から涙をながすことをやめよ。
あなたのわざに報いがある。
彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。
 31:17 あなたの将来には希望があり、
あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると
主は言われる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)