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2023/11/19

2023年11月19日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・276「あかつきの空の美しい星よ」
聖書:ヨハネ6:26-35

「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。』」(ヨハネ6章35節)

 イエス・キリストは、ガリラヤ湖のほとりで子供から提供された五つのパンと二匹のさかなで五千人ほどの人々を養う奇跡を起こされました(ヨハネ6章1~13節)。それを見た人々は、キリストを王様として担ぎ上げようとしました(ヨハネ6章14~15節)。しかし、そのことはキリストご自身が願ったこととは違った方向のものでした。
 キリストは人々にこう言われました。「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。」(ヨハネ6章26節)まさにキリストが言い当てられたように、人々はキリストをガリラヤに現われた新しい指導者とみなしたのでした。そして、彼らの生きる世界に新しい国家を打ち立てようと思ったのでした。キリストは後にこのように言われました。「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18章36節)。
 キリストはパンの奇跡によって、人々に「永遠の命」を与えようとしたのでした(ヨハネ6章27節)。人々はキリストの教えを悟ることをせず、ただパンで腹を満たすことを要求し続けました(ヨハネ6章31節)。その結果、多くの者が期待外れと言わんばかりに、キリストのもとを去りました(ヨハネ6章66節)。
 キリストは「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と語られます(ヨハネ6章27節)。それは食べてしまうと終わるようなものではありません。キリストは語られます。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4章14節)。キリストが与えようとされるものを受け損ねることがありませように。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは「わたしが命のパンである」と言われました。私たちもキリストが与えようとされるものを確かに受けることができますように。一時で終わるものではなく、永遠に続くもののために日々働くことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/11/12

2023年11月12日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・227「主のまことは」
聖書:ローマ4:7-16

「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、
さいわいである。
罪を主に認められない人は、さいわいである」。
(ローマ4章7~8節)

 聖書は神の約束の書です。神が私たち人類に賜った約束を信じることが信仰です。その信仰が、国も時代も違う人々を一つにします。それゆえに、旧約聖書のアブラハム(創世記12章のアブラム)は「信仰の父」と呼ばれています(ローマ4章12節)。
 聖書は「罪を主に認められない人は、さいわいである」と述べています。しかし、信仰の父アブラハムは必ずしも罪を犯さない人ではありませんでした。しかし、アブラハムの生涯から学ぶことができることがあります。それは、無罪であると認められるには、罪を一切犯さないことではなく、神から罪のゆるしを賜る以外にないことです。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」と聖書は証しています(ローマ4章3節)。
 アブラハムの全生涯は神の約束に導かれていました。神の約束を受けて、故郷を出発し(創世記12章1節)、約束の地に至って留まり(創世記12章7節)、子孫の繁栄を信じ(創世記13章16節)、人ではなく神からの財産を求め(創世記14章23節)、周りの人々とは信仰によって一線を画しました。
 アブラハムは神より「あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」との約束を受けました(創世記15章1節)。そのような神の約束による導きに従い、アブラハムは神への信仰を貫き通しました。その結果、アブラハムは約束の子孫を得ることができ(創世記21章)、割礼を特徴とするイスラエル民族が誕生しましたが、それだけでなく彼の信仰にならう信仰の子孫をも数多く得ることになりました。
 「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによる」と聖書は証しています(ローマ4章16節)。神の約束に満ちた聖書の言葉を受け、信じて神の約束に与る生涯をともに歩みましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書の神は私たちに数々の約束をお与えくださり、御言葉によって導いてくださいます。私たちはアブラハムのように御言葉を信じ、御言葉に従う生涯を歩みたいと思います。どうぞ御言葉の約束の通り、私たちを神の子と認めてくださり、天の祝福に与らせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/11/05

2023年11月5日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・530「主よ試み」
聖書:創世記3:14-19

わたしは恨みをおく、
おまえと女とのあいだに、
おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
(創世記3章15節)

 創世記の最初の部分は、神が天地を創造されたこと(創世記1章)、神が人を創造されたこと(創世記2章)、人が罪を犯して楽園から追い出されたこと(創世記3章)を語っています。
 神は、人の罪、具体的には食べるなと命じた禁令を破った罪をさばかれました(創世記3章11節)。しかし、神のさばきの内容を見ると、厳しさとともに憐れみをも感じることができます。
 神は、罪を犯した者たちを厳格にさばきました。それは、人に罪を二度と犯させないため(出エジプト20章20節)、また罪を犯すことは死に至る悪であることを教えるためでした(ローマ6章23節)。
 さらに神は「恨み」をおかれました。それは、人が罪を犯すことに対して無感覚であるべきでなく、あるいは他人を憎んで責任転嫁するのでもなく(創世記3章11~13節)、何よりも罪を憎んで離れるべきことを教えるためです(ヨブ42章6節)。
 最後に、神は人生の苦しみを増し加えられました(創世記3章16節)。人のすべての営みには喜びと苦しみがあります。それとともに、人の営みには始まりがあり終わりがあるものなので、最後に人はちりに帰ることになります(創世記3章19節)。
 私たちは人として生まれ、人として死ぬことに一喜一憂する存在です。しかし、神は私たち人間がか弱き存在であることをご存じです。神の憐れみに身を任せましょう。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々の人生の歩みの中で、悪だと知っていながらも様々な罪を犯してしまう存在です。そのような私たちの弱さを知っておられる神に身を任せます。正しい人生を歩めるように、私たちと共に働いてくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/10/29

2023年10月29日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・361「この世はみな」
聖書:詩篇104:19-24

主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。
あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。
(詩篇104篇24節)

 日常生活の忙しさの中から、ふと自然に目を移すと、何が見えてくるでしょうか。そこには人間が手を加える以上に整った自然の美しさが見えてくるのではないでしょうか。
 現代日本の日常生活では、なかなか人間の手が加えられていない、ありのままの自然の姿を見ることは難しいかもしれません。しかし、道端の雑草の群れの中にも、人間が意図していなかったような小さな、かつ複雑な自然の調和を見出すこともできます。人間の手によってかき乱されたとしても、そこにもかけがえのない命の営みが息づいています(詩篇104篇14節)。
 目を高く、遠くに移してみると、人間が行きつこうと願ってもなかなか実現できない、天体の輝きが広がっています(詩篇104篇19節)。しかも、それらの星々の輝きが、私たちの住むこの地上の生活にも大きく影響を及ぼしています。このような自然の営みを見上げる時、私たちは多くのことを悟らされるのではないでしょうか。
 それは、この世界は人間によって支配されているのではないこと。人間が支配しようとしても、人間の支配に関わらず営まれる命の世界があること。そして私たち人類の命は、大きな世界の中で支配されており、また育まれていること。この世界は無秩序ではなく、大きな力によって支える秩序が存在すること、などです。
 聖書は、私たちが生きる世界を広く見渡し、そこに神の存在と神の知恵による営みのわざを見出しています。それが私たちにとって、ごく自然な物の見方ではないでしょうか。そのような神の大きな力に支えられて私たちの命が育まれています。聖書の神が計られることは悪ではなく、善です。神が私たちを正しく導いておられることを喜びとし、ともに神をほめたたえましょう(詩篇104篇33~35節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちが住む人間の社会は混乱に満ちています。しかし、私たちの世界は無秩序ではなく、秩序によって支配され、その中で私たちの命が存在しています。どうぞ秩序を乱そうとする私たちの罪をお赦しくださり、神が定めた秩序の中で憩うことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/10/22

2023年10月22日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・463「わが行くみち」
聖書:士師記7:1-8

主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。(士師記7章7節)

 時はイスラエル王国成立前の時代、イスラエル民族をさばきづかさ(士師)と呼ばれる指導者がまとめていた時代です(士師記2章16節)。さばきづかさのギデオンが、東方の異民族であるミデヤン人のイスラエル侵入(士師記6章33節)に対抗して、イスラエル人を戦いのため招集しました。
 ギデオンは、聖書の神から救いの証拠を求めましたが(士師記6章36~40節)、それよりも三万人を超えるイスラエル人の群れを見て安心したかもしれません。しかし、神はギデオンの心とイスラエルの人々をふるいにかけました。イスラエル人は戦いを恐れたために、また戦いの心備えがないために家に帰され、残ったのはたったの三百人でした(士師記7章2~6節)。
 ギデオンは三万人を超える戦士を自分の目で見て安心しましたが(士師記21章25節)、そのほとんどは戦いにふさわしくない者であり、実に頼りないものを見て安心していたことになります。しかし、神は「三百人をもって救う」と約束されました。これが神の方法であり、神が手渡そうとされる救いなのでした。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19章21節)
 この出来事の後、ギデオンは数多くの戦いに勝利しました。ギデオンは元々小心な者でしたが、神はこのギデオンを召し出して、人手によらない神の御手による救いをイスラエル人に与えられたのでした。聖書は私たちにも語りかけます。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6章12節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々、様々な意味での戦いに臨まなければなりません。不安にかられることも多くあります。しかし、恐れるべきでないものを見て恐れず、真に恐れるべきものを見て恐れる、確かな目を持たせてください。「救いは神を恐れる者に近い」という御言葉の通りになりますように(詩篇86篇9節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/10/15

2023年10月15日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・577「聞けよ主の民」
聖書:ルカ17:20-30

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17章20-21節)

 イエス・キリストは「神の国」について繰り返し教えています。神の国は、悪を追い出す神の力を伴うものだ、とも教えられました(ルカ11章19節)。
 そのキリストの教えに対して挑むように、パリサイ人が「神の国はいつ来るのか」と尋ねました(ルカ17章20節)。この質問は何もおかしくはないように思えるかもしれません。しかし、キリストはその質問の根本が間違っていることを指摘します。すなわち、神の国とはこの地上の国とは異なっており(ヨハネ18章36節)、人間ではなく神が支配する国であり、人間が旅をして訪れたり、軍隊を派遣して支配できるようなものではない、と教えられました。
 しかし、キリストは「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました。この言葉は、神の国が人の心の中だけに存在するということではなく、人々の間に、人間生活の身近なところに神の国が来ている、ということを意味します。それゆえ、キリストは度々「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ10章9節)と語られました。
 キリストは、とある律法学者が適切な答をしたのに驚き、「あなたは神の国から遠くない」と語られました(マルコ12章28~34節)。その言葉を聞いて満足するべきではありません。キリストは、神の国の近くにではなく、神の国の内に入るように私たちを招いているからです。「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」とキリストは語られました(ルカ6章20節)。
 キリストは神の国の祝福に与らせたいと、私たちを招いてこのように語られています。「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示録3章20節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはキリストの多くの御言葉から、神の国に入ることの幸いを教えられています。私たちも神の国の祝福に与ることができますように。神の国の近くではなく、神の国の内におらせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/10/08

2023年10月8日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・560「主イエスにおいては」
聖書:ピレモン4-10節

むしろ、愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、(ピレモン9節)

 「ピレモンへの手紙」は、聖書の中でも特に短い書物であり、わずか一章しかありません。しかし、短い文章の中に多くの内容が含まれています。
 この手紙は、使徒パウロからピレモンに宛てたものです(1節)。ピレモンは、パウロのような世界を旅する宣教師ではありませんでしたが、自らの家を教会として開放し(2節)、様々な形でパウロたちの福音宣教に協力する「同労者」でした。
 この手紙が書かれた目的は「オネシモ」(10節)に関わることでした。オネシモという名前は「有益な者」という意味があります(11節)。まるで物を扱うような言い方ですが、実際のところオネシモは主人ピレモンの家から逃げ出した奴隷でした(15~19節)。
 聖書は、戦争や奴隷制などの社会の矛盾についても言及しています。しかし、それらを無条件に肯定も否定もしていません。むしろその当時の現実の社会に生きる人々に向かい、理想の社会を実現するための指針を示しています。実際、パウロたちの時代に多くの奴隷たちがクリスチャンとなっていました(コリント第一12章13節)。
 パウロは、奴隷は主人に従うべきであると教えています(テモテ第一6章1節)。一方でピレモンへの手紙では、オネシモを奴隷の身分から解放することをお願いしています。しかし、ピレモンの主人としての権利を無視することをせず、その主人の権利によって奴隷解放することを勧めるのがこの手紙の目的です(ピレモン14節)。その結末がどうなったかはわかりませんが、私たちの手元にこの手紙が残されていることが結末を語っているかもしれません。
 「愛は多くの罪をおおう」と教えられています(ペテロ第一4章8節)。人間の世界から罪を取り除き、本当の人間関係を結ぶことのできる神の愛に学んでまいりましょう(コロサイ3章14節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは、様々な矛盾に満ちたこの世界に生きています。この世界に生きる私たちの切なる祈りを聞き届けてください。私たちに天からの愛と知恵を注いで、私たちが希望をもってこの世界で生きることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/10/01

2023年10月1日3分メッセージ

賛美:讃美歌21・63「天にいます父よ」
聖書:ルカ16:19-31

もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう(ルカ16章31節)

 イエス・キリストは金銭と結婚の問題(ルカ16章13~18節)について、一つのたとえ話をしました。この二つの問題は、昔も今も変わらず私たち人類に悩みをもたらすものです。
 この二つの問題の要点は同じであり、それは契約を正しく守るということです。契約が守られているならば、金銭も結婚も問題になることはありません。しかし、私たちはしばしば自らの「欲」(ルカ16章14節)に打ち負かされてしまい、欲に引きずられて契約を破ってしまいます。多くの問題はこの契約を破るということから生じます。
 キリストは「金持と貧乏人ラザロのたとえ話」をされました。二人は生前、全く関わりなくそれぞれ生きてきたように思えます。しかし、実際にはラザロは金持の玄関にすわっており(ルカ16章20節)、死後の苦しみの中で金持はラザロを遣わしてくれと願っています(ルカ16章24節)。つまり、金持はラザロのことを知っていながら、彼に何も恵んでやることはなかったのです。
 人の欲望というものは、その人を活性化させるのではなく、むしろ心を無感覚にさせるものです。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1章15節)と言われています。しかし、神は私たちを「罪のもたらす死」から救い出すため、御言葉を与えてくださいました。真の命に至るため、聞く耳をもって御言葉を聞きましょう(ルカ14章35節)。
 キリストの御言葉に聞き従いましょう。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」(ルカ21章33節)
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々、自分の望むままに行動し、自らの欲望を制することを忘れてしまいがちです。しかし、欲に惑わされて真実から目を背けることになりませんように。あなたの御言葉は真理であります(ヨハネ17章17節)。どうぞ御言葉をもって私たちを教え、正しい道へと導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/07/28

3分メッセージ索引(2019年~2023年)

旧約聖書 章節 新約聖書 章節
創世記 1:1-56:6-825:31-32
37:18-20
マタイ 3:114:3-44:196:1、6:9-13、
(主の祈り12345678
6:2011:3012:3924:4427:37-38
出エジプト 2:1015:218:1919:2024:1133:11 ルカ 2:31-324:1-27:6-78:1-39:12-13
11:112:35-3613:1514:1119:26
19:2820:1721:2-3
申命記 6:20-218:16 ヨハネ 1:231:45-462:13-174:36
6:19-206:518:1210:30-31
12:315:2616:3318:3721:12
ヨシュア 24:19 使徒 2:1-22:423:5-63:168:30-31
10:34-3512:1113:2624:14-15
列王紀上 17:13-1419:10-13 ローマ 6:56:117:47:1112:9
列王紀下 7:9 コリント第一 1:30-318:115:51
歴代志下 7:11-12 コリント第二 3:65:48:9
ヨブ 23:1028:28 ガラテヤ 3:296:14
詩篇 4:630:4-534:18-1949:7-8
67:1-292:12-13103:2
111:1125:4-5136:1145:16146:3-5
エペソ 2:103:64:15:45:9
箴言 3:3 ピリピ 4:6-74:17
イザヤ 9:212:340:2644:6
48:652:759:1662:263:9
テモテ第一 4:86:12
エレミヤ 28:931:15 テトス 2:11-13
エゼキエル 18:3137:343:4-5 ヘブル 1:5
ホセア 14:1 ヤコブ 1:172:1
アモス 5:24 ペテロ第一 2:214:16
ミカ 2:124:55:2 ペテロ第二 1:16
ゼパニヤ 3:17 ヨハネ第一 2:27
黙示録 5:1221:3-4
(救いの証し) 生田新一生田ハエノ小嶋隆日高基善日高佐和子平松公平八木原海

2023/06/25

2023年6月25日3分メッセージ



 使徒8章30節、31節をお読みします。
そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。

 私たちは必ずしもすべての事を自分で決めて毎日生活しているわけではありません。他人が決めたことを行い、他人からの依頼に従って行動することも多くあります。それだけでなく、私たちは人知を超えた神の計らいによって日々の行動が導かれていることがあります。私たちには偶然と思われることも、神の目には必然であり、この世の出来事は無意味なことは一つもありません(テモテ第一4章4節)。
 しかし、私たち人間には神のように全知全能ではありません。キリストの弟子であるピリポも、荒れはてた道を行けと主の使に命じられ、不思議に思いながらも従いました。その道でピリポにとっては偶然、エチオピヤ人の高官に出会ったのでした(使徒8章26~28節)。
 このエチオピヤ人の高官はエルサレムの神殿で礼拝を捧げて本国に帰る途中でした。信仰をもって聖書のイザヤ書(53章7~8節)を読んでいたのでしたが、その書の意味するところがわからなかったのでした。そこにピリポと出会い、聖書の教えを請うたのでした。ピリポにとってはこの聖書が示しているイエス・キリストを伝える良い機会となりました(使徒8章32~35節)。
 当時のイスラエル人は入信の儀式としてバプテスマ、別名で洗礼式を行っていました。ピリポの教えを理解し、受け入れたエチオピア人の高官は、自らピリポにバプテスマを授けてもらえるようお願いしました。彼らにとっては偶然の出会いから始まった出来事でしたが、この出会いをさいわいとして、キリストへの信仰を確立することができたのでした(使徒8章36~39節)。
 神にとって偶然はありません。私たちも神の導きを信じ、万事を益としてくださる神に信頼して日々を歩むなら(ローマ8章28節)、未知の出来事であったとしても確信をもって前進することができます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ」(詩篇37篇5節)てくださいます。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの日々の歩みは、時として思いがけない出来事に恐れ惑うことがあります。しかし、神には偶然はありません。すべてを導き、万事を益とされる神に従ってまいります。どうぞ導きに従う私たちの歩みを確かなものとしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/06/18

2023年6月18日3分メッセージ



 申命記8章16節をお読みします。
先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。

 申命記は、神がイスラエル人に与えると約束された地を目前としながら、モーセがイスラエル人たちに告げた言葉です(申命記1章1節)。モーセがイスラエル人を率いてエジプトから出発して、四十年が過ぎました(申命記8章2節)。その間にイスラエル人の世代は新しくなり、エジプトを出発した当初の出来事を知らない人々がほとんどとなりました。そこで、約束の地に入る人々のため、モーセはこれまでの神の教えを再び告げ知らせのでした(申命記31章13節)。
 今まで受けた神の教えを伝えるとともに、モーセは約束の地に入った後の将来の出来事についても教えました。それは、今まで荒野で苦しい旅を続けてきたが、約束の地に住み着いた後に、今まで経験したこともないような安定した生活を味わい、そして過去の苦しみと共に神の教えをも忘れてしまう危険があることです(申命記8章11~14節)。
 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のが人間の性です。しかし、苦しかった記憶と共に大事な教えを忘れるなと、モーセは私たちにも語り掛けています。そして、苦難の出来事を忘れるな、それは私たちがさいわいに至るための試練であった、と言っているのです。聖書の神は、私たちを神の子として訓練するために、人生の試練に会うことを良しとされます(申命記8章5節)。
 聖書は私たちにこのように教え諭しています。「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」(テモテ第一4章4節)私たちの人生の旅路を支え、導いて下さる神に従ってまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは、過去の嫌な出来事を忘れ、将来の不安から目を背ける癖があります。しかし、過去の出来事を思い出しつつ、将来に向かって注意深く前進せよと、聖書は私たちに教えています。その教えに励まされ、私たちは前進したいと思います。どうぞ私たちの人生の旅路を導き、天からの祝福に与らせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/06/11

2023年6月11日3分メッセージ



 使徒2章42節をお読みします。
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

 キリスト教会は、ペンテコステ(五旬節)の日にキリストの弟子たちに聖霊が注がれたことで誕生しました(使徒2章1~4節)。彼らは礼拝のために集まる教会堂を持っていませんでした。キリスト教会が誕生した後も、彼らはユダヤ人として生活し、エルサレムの神殿に詣でて礼拝し、各地のユダヤ人の会堂に集まり、あるいは自宅を開放してクリスチャンの交わりを保ちました(使徒2章46~47節)。
 後に迫害を受けて多くの者がエルサレムから追放されても、彼らは行く先々で集まって礼拝を捧げ続けました(使徒8章1~4節)。これが今日のキリスト教会の生い立ちとなった出来事です。ヨーロッパにある大聖堂も、日本のような非キリスト教国の小さな家の教会も、教会としての本質は変わることがありません。同じクリスチャンが集まる教会です。
 時代や国が変わっても、変わらない教会の本質があります。それが、「使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈を」することです。それはつまり、「聖書に学び、教会の交わりを保ち、聖餐式等の礼典を守り、祈りを捧げる」ことであり、そのことが守られているのが使徒たちの時代から変わることなく存在し続けている本当の教会です。
 皆様もぜひ、このキリスト教会の本質、教会の命に触れていただきたいと願います。キリスト教の教会堂、聖画や彫刻、賛美歌などの芸術を味わいつつ、それらが意味しているキリスト教の交わりに触れてください。それが教会におけるクリスチャンたちの交わりであり、毎週の礼拝で行われていることです。イエス・キリストはこのように言われています。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17章21節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリスト教会は時代を超えて、クリスチャンたちが集まり、交わりを保ち続けています。この教会の交わりの中に神の国がある、とキリストは言われました。神の国、神の恵みに私たちも与りたいと願います。どうぞ教会の交わりを祝福してください。自らを省みつつ、神ご自身との交わりをも保たせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/06/04

2023年6月4日3分メッセージ



 出エジプト19章20節をお読みします。
主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。

 モーセに導かれてエジプトを出たイスラエルの民は、シナイ山のふもとで神から十戒を始めとする律法を受け取りました(出エジプト20章)。この律法によってイスラエルは民族集団から法治国家へと変貌しました。
 このイスラエルにとって重要な節目の時に、人々は律法に従うという誓いを立て(出エジプト19章8節)、神との対面に備えて身を清めました(出エジプト19章10~15節)。山のふもとに立った人々は、山の頂の恐るべき光景、地震と大音響に震え上がり、直接会うことのできない神の尊厳に触れました(出エジプト19章10~18節)。
 その中でただ一人、モーセが民の前に立って神と語り合い、神に呼び出されてモーセは山に登っていきました(出エジプト19章19~25節)。この出来事の後、イスラエルの民はモーセを神の代言者、神と人々の間を取り持つ仲介者として、モーセを尊敬するようになりました(出エジプト34章29~35節)。
 神の民が律法を受け取る出来事は、時代を超えて人が神とどのように関わりを持つべきかを教えています(ガラテヤ3章19~20節)。今の時代、神と人との間に立つ仲介者(仲保者)はイエス・キリストです(テモテ第一2章5節)。全能の神に向けて祈りをささげることは、本質的には恐れ多いことで、何の準備も持たずにできることではありません。私たちは「イエス・キリストの御名によって」始めて祈りをささげることができるのです。
 ですから、今私たちは聖書の言葉に励まされて気兼ねなく祈りたいと思います。「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル4章16節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはキリストの御名によって祈ることができることを感謝します。全能の神の御前に恐れつつ、しかし私たちの切なる祈りを親しく聞き届けて下さる恵みが与えられています。益々勇気をもって祈り続けることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/28

2023年5月28日3分メッセージ



 ルカ11章1節をお読みします。
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。

 神の御子イエス・キリストは弟子たちに「主の祈り」(ルカ11章2~4節、マタイ6章9~13節)という祈りの言葉を教えられました。また度々自ら祈られた方であり、弟子たちはキリストの祈りの姿から祈ることについて学びました。
 祈りは必ずしも決められた祈りの言葉、祈りの方法で祈らなければならないものではありません。聖書の神は私たちの切なる祈りを聞き届けられ、言葉に表せないような心の底からの願いを知ってくださる方です。ローマ書にも、私たちの祈りを助ける神の御霊について次のように書かれています。
 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8章26節)
 また私たちの側も、神が祈りを聞き届けられるという信仰をもって祈り続けることが大切です(ルカ11章5~8節)。うまく言葉に表せなくても、神に祈りの心をまっすぐに向け、自らの願いを自分自身の言葉で表すことも大切なことです(ルカ18章41節)。
 祈るときには、迷わず神に自らの思いを打ち明けることです。その時、神は私たちの祈りに対し親しく耳を傾けてくださいます。キリストはこう言って励ましています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(ルカ11章9節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは神の御子イエス・キリストご自身が祈りをささげられたことに励まされます。私たちは神様の特別なご愛顧を必要としています。キリストが教えられたとおり、信仰をもって祈り続けることができますように。どうぞ私たちの切なる祈りを聞き届けてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/21

2023年5月21日3分メッセージ



 エゼキエル43章4節、5節をお読みします。
主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。

 預言者エゼキエルの時代、イスラエルの国はバビロンの国に滅ぼされ、イスラエル人たちはバビロンに捕囚として強制的に移住させられました(エゼキエル1章1節)。祖国や家族を奪われて絶望のどん底にあったイスラエル人に向けて、聖書の神は預言者たちを通してなおも救いのメッセージを届けられました。
 祖国から遠く離れた異国の地で、イスラエル人たちは慣れない生活を強いられました。それだけではなく、彼らが「主の神殿」(エレミヤ7章4節)と言って心の拠り所としていたエルサレムの神殿も破壊されてしまい、彼らの見るところ希望は何一つ残されていないように思われました(エゼキエル9章)。
 しかし、神は預言者エゼキエルに、失われたはずの神殿の幻を見させました(エゼキエル40~48章)。それだけではなく、立派な神殿、すなわち神がその御名を置くために選ばれた神の宮に、神の栄光が戻って来て、神殿が神の栄光に輝いている幻を見させました。
 実は、ありし日の神の宮は、立派な姿を見せていても、その中で不正が行われ(エゼキエル8章)、神の栄光が宮から去ってしまった時点で、神の宮の本来の使命は失われてしまったのでした(エゼキエル10章18~19節)。
 新約聖書のコリント第一書では、このような言葉があります。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」(コリント第一3章16節)今日のクリスチャンは教会に集まって神に礼拝を捧げます。たとえどんなに立派な教会堂であっても、その中で本来あるべき神への礼拝が行われないなら、その教会は死んだも同然です。
 同じ意味で、教会の本質は建物ではなく、その中に集まるクリスチャンの集まりにあります。キリストはこのように言っています。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)。信仰の集まるところに神もともにいてくださいます。ぜひ神の宮であるキリスト教会に神の祝福を求めて集まってください。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神への信仰の集まるところに、神様ご自身が来てくださるという約束の言葉を感謝いたします。この数年間の間、私たちは一つ所に集まる機会を持つことができませんでした。どうぞ私たちの集まりを妨げるすべての障害を取り除いてください。そして共に集まり、神の栄光を仰ぎ見て、共に喜び合うことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/14

2023年5月14日3分メッセージ



 ルカ7章6節、7節をお読みします。
百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。…ただ、お言葉を下さい。…

 イエス・キリストが活動した時代は、紀元1世紀の初期ローマ帝国の時代でした。当時のローマ帝国にとって辺境の地であったイスラエルは、ローマ帝国に服属するヘロデ大王の子孫によって支配されていました。そのため、イスラエルの国中にローマの軍隊が駐屯しており、イスラエル人はローマ帝国の支配に服していました。
 イスラエルの地において、庶民に最も身近なところでローマ帝国の権威を司っていたのが「百卒長」という人々でした。百卒長が率いるローマの軍隊は、治安維持の活動だけでなく、今日でいう行政の多くの働きを司っていました。ローマ帝国の権威を司る百卒長は人々から恐れられていましたが、中には住民のため協力を惜しまず、非常な尊敬を受けていた百卒長もありました(ルカ7章5節)。
 そのような尊敬されていた百卒長の一人が、キリストに助けを求めました。この百卒長の頼みにしていた部下が病気で死にかかっており、病気のいやしの奇跡を期待したためでした(ルカ7章2~3節)。百卒長は日ごろ権威に服する者であり、イスラエル人に協力しながらもローマ帝国と立場が違うことを弁えて、ユダヤ人、すなわちイスラエル人の長老を交渉役として間に立てる配慮も持った人物でした。
 この百卒長は、キリストに病気をいやす神の力と権威があることを認めたのでした(ルカ9章1節)。キリストはこの百卒長の態度と言葉とを見てとって非常に感心され、「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と言われました。その後、百卒長の部下は信じたとおりにいやされました(ルカ7章9~10節)。
 この百卒長は自分の持つ権威に頼らず、代わりにキリストの権威を認めてそれに頼りました。聖書の神の前に、すべての人間は天からの祝福を受ける資格がある訳ではありません(ルカ15章21節)。しかし、どんなに立場が遠くとも神の権威を認めてより頼む者に、神は祝福をもって報いてくださいます。神は私たちの祈りに応え、私たちを顧みてくださる方です(ルカ7章16節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは本物の権威を認めた百卒長の信仰に応え、百卒長の願いは叶えられました。私たちもこの信仰の模範に励まされ、信仰を持って本物の権威を持たれる神様により頼みます。どうぞ私たちの祈りに応え、私たちを顧みてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/07

2023年5月7日3分メッセージ



 ガラテヤ3章29節をお読みします。
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 約二千年前にキリスト教会が誕生した時代、キリストを信じる人々は教会外部の人々から「クリスチャン」、別の言葉で「キリスト者」と呼ばれるようになりました(使徒11章26節)。一方、クリスチャン自身も自らはキリストに属するものであり、「キリストのもの」であるという自覚がありました(コリント第一3章23節)。
 さらに、クリスチャンは神の選びの民である「アブラハムの子孫」であるという自覚もありました。アブラハムは神から約束を賜り(創世記22章15~18節)、子孫に神の祝福を受け継がせた信仰者です(ガラテヤ3章18節)。アブラハムが受けた祝福は、同じ聖書の神を信じるクリスチャンにも約束として与えられています(ガラテヤ3章9節)。
 そして、この神の祝福を受け継ぐ、または相続することの条件が、「もしキリストのものであるなら」ということに係っています。アブラハムの子孫とはイスラエル人の血筋であることを意味します。しかし、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、キリストの名前のゆえに神の子とされる能力が与えています(ヨハネ1章12節)。キリストがクリスチャンに神の子としての身分を授けました(ガラテヤ4章5節)。それゆえ、クリスチャンは神の祝福を受け継ぐ相続人である、と聖書は語りかけています(ガラテヤ4章7節)。
 キリストの名前で呼ばれている「クリスチャン」ということは、このように祝福に満ちた存在です。神の祝福を求めてクリスチャンとなることは素晴らしいことです。またクリスチャンである方は、自らにつけられたキリストの御名を誇りとしましょう。「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」(ガラテヤ3章8節)という約束を固く握りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今日も御言葉によって、与えられている神の約束の素晴らしさを知ることができました。自らの存在、自らにつけられたキリストの御名が祝福の基であることを固く握り、勇気と感謝をもって今日一日を力強く歩ませてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/30

2023年4月30日3分メッセージ



 コリント第一8章1節をお読みします。
知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

 コリント人への第一の手紙の著者パウロは、同じ手紙の中で愛について語っています。「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。」(コリント第一13章2節)この言葉の通り、預言や知識や信仰というものはキリスト教でも大事なものですが、ただ一点の「愛」に欠けることがあれば、預言や知識や信仰を持っていても意味がない、と私たちに語っています。
 人として、クリスチャンとして、正しい知識を得て、正しい判断をもって行動することは大事なことです。しかし、「最も大いなるもの」(コリント第一13章13節)と言われている愛を得ていなければ、正しい知識が人を傷つけることが起りえます。コリントの教会の人々も、互いに知識を振りかざして他人を見下し、高慢な態度で他人を排除するようなことがあったようです。そのように人々の交わりに不和をもたらしていた状況に対し、パウロは愛を知るべきことを訴えかけます(コリント第一8章2節)。
 聖書の教える愛は神によって備えられたものです(コリント第一2章9節)。神の愛は、神を愛する者に与えられます。そして、愛のある所に本当の知識がもたらされます(コリント第一8章3節)。愛とは他人を貶めることではなく、逆に高めることです。コリント第一13章には、愛の多彩な特徴について記されています。その教えの最後に、パウロはこの愛を追い求めるように勧めています(コリント第一14章1節)。それは、愛を知った後に、その愛から豊かな性質を受け継ぐことができるようになるからです。
 愛の知識は、イエス・キリストの十字架によって示されました(ヨハネ第一3章16節)。「いっさいのことを、 愛をもって行いなさい。」(コリント第一16章14節)と勧められています。私たちも聖書を学ぶことを通して、神の愛をしっかり受け継いでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書を通して様々な知識を得ることができます。しかし、学んでいながら、愛を見失うことが無いように、私たちの学びをも導いてください。私たちも神に愛されている者として日々を過ごすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/23

2023年4月23日3分メッセージ



 詩篇4篇6節をお読みします。
多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」と。

 「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。」この言葉は、すべての人の心にある祈りの言葉ではないでしょうか。しかし、「良い事」の中身は、人それぞれであるでしょう。
 私たち、人間が悩む時に神頼みすることは自然なことだと思います。日ごとの糧にありつき、安らかに眠りにつくことは(詩篇4篇7~8節)、いざ食物や安眠にありつけなくなる時に、そのありがたみに改めて気づかされるものです。それらの物事を決して当たり前と思ってはなりません。生活の必要のために祈ることは、とても大事なことです。
 聖書が教える「良い事」とは、状況や立場によって中身の変わるものではありません。それは、私たちめいめいが勝手に思い描く「正義」ではなく、「わたしたち」、人類全体にとって益となるような「正義」であり、「わたしたち、みんなの正義」です。その「義を助け守られる神」(詩篇4篇1節)に寄り頼んで祈るように、聖書は私たちに勧めています。「主はわたしが呼ばわる時におききくださる。」(詩篇4篇3節)と。
 ですから、正義の神に寄り頼む者としてふさわしいかどうか自らを省みて(詩篇4篇4~5節)、そして感謝をもって祈り求めましょう。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」(マタイ6章11節)と。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心の内にある祈りを、「主はおききくださる」と私たちは教えられました。私たちの正義を守られる神様に「良い事」を祈り求めます。どうか私たちに正義の光を照らし、私たちの人生の歩みを導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/16

2023年4月16日3分メッセージ



 列王紀下7章9節をお読みします。
われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。

 列王紀下7章の前後(6章24節~7章20節)では、イスラエルの国が敵国スリヤに攻められ、その後解放されたことを記しています。イスラエルの都サマリヤは兵糧攻めされて食糧不足に陥りましたが(列王紀下6章24~31節)、預言者エリシャが語った神の言葉の通り、敵が戦場から逃げ去って食糧不足が解消しました(列王紀下7章14~16節)。
 エリシャが伝えた神の言葉に対し、イスラエルの王は疑ってかかり(列王紀下7章12節)、王の副官は「そんな事がありえようか」と言って、神の救いの約束を受け入れませんでした。後に、この副官は神の救いに与ることができませんでした(列王紀下7章17~20節)。
 他方、神の言葉はつゆ知らず、飢えて捨て鉢になった4人の病人たちが敵陣に乗り込みました。すると、敵陣はもぬけの殻であり、病人たちはそこで食糧や金銀を見つけて有頂天になりました(列王紀下7章3~8節)。しかし、彼らは我に返り、このように語り合います。「きょうは良いおとずれのある日」だと。そしてその言葉の通り、彼らはイスラエルの国に良いおとずれ、敵からの救いを伝えました。
 このことは、聖書が繰り返し語っている「福音」の内容を端的に示しています。今日も聖書の語る「良いおとずれ」、福音に耳を傾けてください。「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」(コリント第一15章2節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書は私たちに良いおとずれを、神の救いを告げる「福音」を伝えています。私たちが聖書を開く時、いつも福音の言葉を見出すことができ、その言葉に従うことができますように。私たちに、善に従う素直な心を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)