2021/09/05

2021年9月5日(日) 「聖書の植物」連載開始


  今月より毎週日曜日に「聖書の植物」を投稿します。私たちの日々の生活に身近な植物や、聖書に登場する珍しい植物にまつわる聖書のメッセージをお届けします。先月まで毎週投稿した「3分メッセージ」は、今後は不定期に更新します。合わせて日々の家庭礼拝等でご利用いただけましたら幸いです。

聖書の植物~パピルス

「しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、
それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、
これをナイル川の岸の葦の中においた。」(出エジプト2章3節)

 パピルスは古代エジプトのナイル川のほとりに自然に生えていた植物です。後の時代には様々な用途のために栽培されるようになりました。古代の世界では紙の原料となったほか、靴や舟の材料としても用いられました。パピルスは人間の生活を支える大切な植物でした。
 エジプトに寄留していたイスラエル人は弾圧を受けて苦しんでいました(出エジプト1章)。とある夫婦はわが子をパピルス製のかごに入れて、ナイル川の葦の茂みの中に隠しました。この子は弾圧のために殺さなければなりませんでしたが、両親はこの子が生きのびることができる望みを託して、パピルスのかごに隠したのです。
 彼らの願いはかなえられました。この子はエジプトの王様の娘に拾われて、モーセ(引き出す)という名前をつけられて成長することができました(出エジプト2章1~10節)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/09/04

3分メッセージ索引(2019年~2021年)

旧約聖書 章節 新約聖書 章節
創世記 1:1-525:31-3237:18-20 マタイ 3:114:3-44:196:1
6:9-13(主の祈り12345678)、
6:2011:3012:3924:4427:37-38
出エジプト 2:1015:224:1133:11 ルカ 8:1-312:35-3613:1514:1119:26
申命記 6:20-21 ヨハネ 1:231:45-462:13-174:36
6:19-206:518:1210:30-31
12:315:2616:3318:3721:12
ヨシュア 24:19 使徒 2:1-23:1612:1113:2624:14-15
列王紀上 17:13-1419:10-13 ローマ 6:117:47:1112:9
歴代志下 7:11-12 コリント第一 15:51
ヨブ 23:1028:28 コリント第二 5:48:9
詩篇 30:4-534:18-1949:7-8
67:1-292:12-13103:2
125:4-5136:1145:16146:3-5
ガラテヤ 6:14
イザヤ 9:212:340:2644:6
48:652:759:1662:2
エペソ 2:103:64:15:45:9
エレミヤ 28:931:15 ピリピ 4:6-74:17
エゼキエル 18:3137:3 テモテ第一 4:86:12
ホセア 14:1 ヘブル 1:5
アモス 5:24 ヤコブ 1:172:1
ミカ 2:124:55:2 ペテロ第一 2:214:16


ペテロ第二 1:16


ヨハネ第一 2:27


黙示録 5:1221:3-4
(救いの証し) 生田新一生田ハエノ小嶋隆日高基善日高佐和子平松公平八木原海

2021/09/01

2021年9月5日の聖書日課

 

(写真:ナデシコ)

コリント第一1:10-17
 1:10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
 1:11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。
 1:12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。
 1:13 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。
 1:14 わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。
 1:15 それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。
 1:16 もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。
 1:17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/08/29

2021年8月29日3分メッセージ



 イザヤ48章6節をお読みします。
あなたはすでに聞いた、すべてこれが成ったことを見よ。あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。わたしは今から新しい事、あなたがまだ知らない隠れた事をあなたに聞かせよう。


 イザヤ書は、神の民イスラエル人に告げた預言者イザヤの言葉をまとめた書です。時に預言者は神から預かった言葉をそのまま語り、時に神の言葉の主旨を預言者自身の言葉によって語り、神の民を言葉によって教え導きました。
 イスラエル人の民族名は先祖の一人であるヤコブに由来します。ヤコブは神の使いから「イスラエル」という新しい名前をもらいました(創世記32章28節)。そのほか、イスラエル人は民族の長い歴史の中で神の様々な奇跡を体験し、その都度神のメッセンジャーである預言者たちから言葉によって教育されました。そのようにしてイスラエル人は神の民と呼ばれ、その名にふさわしい宗教文化を培い、子々孫々に継承していきました(イザヤ48章1、2節)。
 しかし、イスラエル人の宗教性は表面的な、名ばかりのものでした。そのため、彼らは出エジプト(イザヤ11章16節)やバビロン捕囚(イザヤ39章6節)など、長い歴史の中で多くの挫折とそこからの再起を経験しました。それらの経験は決して自然な人間の営みによるものではなく、神の歴史への介入の結果でした。それらの経験をイスラエル人自らが反省し、そこから神の新しい、創造的な救いの業を待ち望むよう預言者は語りました(イザヤ48章7節)。
 今日の私たちも同じように聖書から学ぶことができます。私たちの人生を省みつつ、新しいことをなさる神に期待して今日も歩き出しましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書は私たちの思いをはるかに超えて大きく、また遠くの出来事を見せて、考えさせてくれます。いにしえの人々の人生に私たちは学ぶことができますように。そして神が新しく切り開かれる将来を信じて、日々前進し続けることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/08/23

2021年8月29日の聖書日課

(写真:サルスベリ)

イザヤ48:1-7
 48:1 ヤコブの家よ、これを聞け。
あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、
ユダの腰から出、
主の名によって誓い、
イスラエルの神をとなえるけれども、
真実をもってせず、正義をもってしない。
 48:2 彼らはみずから聖なる都のものととなえ、
イスラエルの神に寄り頼む。
その名は万軍の主という。
 48:3 「わたしはさきに成った事を、いにしえから告げた。
わたしは口から出して彼らに知らせた。
わたしは、にわかにこの事を行い、そして成った。
 48:4 わたしはあなたが、かたくなで、その首は鉄の筋、
その額は青銅であることを知るゆえに、
 48:5 いにしえから、かの事をあなたに告げ、
その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。
そうでなければ、あなたは言うだろう、
『わが偶像がこれをしたのだ、
わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだ』と。
 48:6 あなたはすでに聞いた、
すべてこれが成ったことを見よ。
あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。
わたしは今から新しい事、
あなたがまだ知らない隠れた事を
あなたに聞かせよう。
 48:7 これらの事はいま創造されたので、
いにしえからあったのではない。
この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。
そうでなければ、あなたは言うだろう、
『見よ、わたしはこれを知っていた』と。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/08/22

2021年8月22日3分メッセージ



 マタイ6章13節をお読みします。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。


 天の父なる神に呼びかけ、天の祈り、地の祈りをささげた後、「主の祈り」は再び天を見上げて、神を賛美して祈りを閉じます。
 神の国、神の力、神の栄えこそ、あらゆる祝福の源であり、私たちの願いがかなえられる根拠です。そのことを思う時、私たちの心は表現しがたいほどの満足感にあふれます。その心を表現するのにふさわしいのが、神への賛美の言葉であり、賛美の歌です。
 聖書はこのように私たちに勧めています。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」(ヤコブ5章13節)私たちの心にあふれる喜びも、苦しみも、「主の祈り」は適切に私たちの心を表現することができ、心の重荷は消え去り、私たちの心に喜びがあふれてきます。
 主の祈りは私一人だけの祈りではなく、「私たち」皆の祈りです。私たちは祈りを通して、互いに喜びも苦しみも分かち合うことができます。そして、祈りの最後に「アーメン」と唱えます。アーメンとは「しかり」とか、「はい」を意味する言葉です(第二コリント1章20節)。私たちの心からの祈りを天の父なる神が聞き届けてくださったことを信じ、ご一緒に「アーメン」と唱えましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心のうちにある喜びも苦しみも、正しく言い表すことのできる祈りの言葉を教えてくださったことを感謝します。私たちの祈りは聞かれています。私たちも確信をもって日々祈り続けることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)