2019/06/10

基本的真理に関する宣言

 聖書はわたしたちの信仰と実践の十全な規範である。この基本的真理に関する宣言は、わたしたちの交わりの基盤として定められたものである。(すなわち、みなが一致するためである。Iコリント1:10、使徒2:42)この宣言に用いられている表現は霊感されたものではなく、またそれを主張するものでもないが、ここに掲げられている真理は、全福音の奉仕の務めにとって必須なものと考えられる。これは聖書の真理の全てを包含しているとは言えない。しかし、これらの基本的教理に関するわたしたちの必要を包含するものである。

1.霊感された聖書
 旧約、新約からなる聖書は、逐語的に神に霊感されているもので、人間に対する神の啓示であり、信仰と行為の誤りのない権威ある規範である(IIテモテ3:15-17、Iテサロニケ2:13、IIペテロ1:21)。

2.唯一のまことの神
 唯一、まことの神は、永遠に自存の「わたしはある」者、天地の創造者、そして人類のあがない主としてご自身を啓示しておられる。神はさらにご自身を父、子、聖霊として関係と結合の原理を現わすかたとして啓示しておられる(申命記6:4、イザヤ43:10,11、マタイ28:19、ルカ3:22)。

 「崇むべき神」

 (1)用語の定義
 神に関する「三位一体」と「位格」という用語は聖書の中にはないが、聖書と調和する言葉である。それによって神についてのキリスト論に関する、わたしたちの直接的理解を「多くの神、多くの主」と区別して他の者たちに伝えることができる。それゆえわたしたちは、唯一の主は、わたしたちの神なる主、すなわち三位一体、あるいは三位格を持つ一存在であり、これは適切で、しかも完全に聖書的である、ということができる(例マタイ28:19、IIコリント 13:13、ヨハネ14:16,17)。

 (2)神格の区別と関係
 キリストは神性における位格の区別を教えられ、父、子、聖霊という関係を示す特別な用語をもって表現された。しかしこの関係と区別の様式については、説明されていないので、不可思議であり、理解することができない(ルカ1:35、Iコリント1:24、マタイ11:25-27、28:19、IIコリント 13:13、Iヨハネ1:3,4)。

 (3)父、子、聖霊なる一存在の一体性
 したがって、そのゆえに、子のうちには彼をして父ではなく子とするものが存在し、聖霊のうちには父でもなく、子でもなく、聖霊とするものが存在している。それゆえに父は生み給う方、子は生まれた方であり、聖霊は父と子から生じる方である。それゆえ神性におけるこれら三位格は統一された状態にあるゆえに、一人の全能の主なる神のみがおられ、その名は一つなのである(ヨハネ1:18、15:26、17:11,21、ゼカリヤ14:9)。

 (4)神格における同一性と協力関係
 父と子と聖霊は決して同一ではない。またその関係は混同されてはならない。また神性において分離されてはならない。また協力では対立するものではない。その関係において子は父におり、父は子におられる。交わりにおいては子は父と共におり、父は子と共におられる。権威については父は子から出たものではなく、子が父から出たものである。聖霊はその性質、関係、協力、権威について父と子から生じている。それゆえ神格におけるどの位格も他の位格から分離、独立して存在し、働くことはない(ヨハネ5:17-30,32,37、ヨハネ8:17,18)。

 (5)主イエス・キリストという称号
 「主イエス・キリスト」という名称は固有の名称である。その名称は新約聖書中では父にも聖霊にも決して用いられていない。したがって、神の子にのみ限定して用いられるものである(ローマ1:1-3,7、IIヨハネ3)。

 (6)神われらと共にいます、主イエス・キリスト
 主イエス・キリストは、その神性と永遠性においては、まさしく父なる神のひとり子である。しかし、人性においては、まさしく人の子である。したがって、彼は神であり、人であると認められる。彼は神であり人であるゆえに、神われらと共にいます、「インマヌエル」なのである(マタイ1:23、Iヨハネ 4:2,10,14、黙示録1:13,17)。

 (7)「神の御子」という称号
 「インマヌエル」という名称は、わたしたちの主イエス・キリストなる一つの人格の中に、神と人を包含するものであるから「神の御子」という称号は、彼固有の神性を示すものであり、「人の子」という称号は、彼固有の人性を示すものであるといえる。それゆえに神の御子という称号は、永遠の秩序に属し、人の子という称号は、時間の秩序に属するのである(マタイ1:21-23、IIヨハネ3、Iヨハネ3:8、ヘブル1:1-13、7:3)。

 (8)キリスト論への背反
 それゆえ、イエス・キリストが「神の御子」という称号を得られたのは、単に受肉の事実によるとか、あるいは贖いの計画にかかわったからであるとするのは、キリスト論への背反である。したがって、父がまことの永遠の父であること、子がまことの永遠の子であることを否定することは、神格における区別と関係の否定である。すなわち、それは父と子を否定するものであり、イエス・キリストが肉をもって来られたという真理の否定なのである(IIヨハネ9、ヨハネ 1:1,2,14,18,29,49、Iヨハネ2:22,23、4:1-5、ヘブル12:2)。

 (9)イエス・キリストの主としての高挙
 神の御子、わたしたちの主イエス・キリストは、罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた。天使たちともろもろの支配と権威は彼に従っている。そして主またキリストとして立てられた彼は聖霊を送られた。それはわたしたちが終末の日まで、イエスの名によって、ひざをかがめて、イエス・キリストは主であると告白して、栄光を父なる神に帰するためである。その終末の日には子が父に従い、神がすべてにおいてすべてとなられるのである(ヘブル1:3、Iペテロ3:22、使徒2:32-36、ローマ14:11、Iコリント15:24-28)。

 (10)父と子への同等の栄誉
 それゆえ、父は子にすべてのさばきをゆだねられておられるので、天上のもの、地上のものすべてにとって、ひざをかがめることは明白な務めであるばかりでなく、神につくすべての属性を御子に帰し、神のすべての名前と称号《関係を示すものを除く。(2)(3)(4)参照》に含まれるすべてのほまれと栄光をささげることは、御霊による、言葉につくせない喜びである。かくしてわたしたちは父を尊ぶのと全く等しく御子を尊ぶのである(ヨハネ5:22,23、Iペテロ1:8、黙示録5:6-14、ピリピ2:8,9、黙示録7:9,10、4:8-11)。

3.主イエス・キリストの神性

 主イエス・キリストは永遠の神の御子である。聖書は次のことを宣言している。

 (1)イエスの処女降誕(マタイ1:23、ルカ1:31,35)。

 (2)イエスの罪なき生涯(へブル7:26、Iペテロ2:22)。

 (3)イエスの奇跡(使徒2:22、10:38)。

 (4)イエスの十字架における身代わりの働き(Iコリント15:3、IIコリント5:21)。

 (5)イエスの肉体をもっての死者からの復活(マタイ28:6、ルカ24:39、Iコリント15:4)。

 (6)イエスの神の右の座への高挙(使徒1:9,11、2:33、ピリピ2:9-11、ヘブル1:3)。

4.人間の堕落

 人間は善にして、正しく創造された。神は、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」と言われた。しかし、人間は自ら罪を犯し、堕落した。それによって肉体の死ばかりか、霊的な死をも招いた。これは神からの分離である(創世記1:26,27、2:17、3:6、ローマ5:12-19)。

5.人間の救い

 人間のあがないの唯一の希望は、神の御子、イエス・キリストの流された血によるものである。

 (1)救いの条件  救いは神に対する悔い改めと、主イエス・キリストに対する信仰によって受けられる。人は恵みにより信仰によって義とされ、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となる(ルカ24:47、ヨハネ3:3、ローマ10:13-15、エペソ2:8、テトス 2:11、3:5-7)。

 (2)救いの証明  救いの内的証明は、御霊の直接的あかしである(ローマ8:16)。すべての人に対する外的証明は、義とまことの聖をそなえた生活である(エペソ4:24、テトス2:12)。

6.教会の礼典

 (1)水のバプテスマ  浸礼によるバプテスマは、聖書において命じられている。悔い改めて、キリストを救い主また主と信ずる者はみな、バプテスマを受けるべきである。こうして、バプテスマを受けた者は、キリストと共に死に、またキリストと共によみがえらされて、新しいいのちに生きることを世に向かって宣言するのである(マタイ28:19、マルコ16:16、使徒10:47,48、ローマ6:4)。

 (2)聖餐  パンとぶどうの実を要素とする主の聖餐は、わたしたちが主イエス・キリストにある神の性質にあずかることを示す象徴であり(IIペテロ1:4)、彼の苦難と死の記念、再臨の預言(Iコリント11:26)であり、すべての信者に「主がこられる時に至るまで」行なうように命じられているものである。

7.聖霊のバプテスマ

 信者はみな、主イエス・キリストの命令にもとづいて父の約束である聖霊と火のバプテスマを受ける資格があり、熱心に期待し、真剣に求めるべきである。これは初代キリスト教会においては全員の通常的経験であった。それに伴って生活と奉仕に対する力と、賜物及び伝道奉仕の働きにおける賜物の活用が与えられる(ルカ24:49、使徒1:4,8、Iコリント12:1-31)。この経験は、新生経験とは別個のものであり、その後に来るものである(使徒 8:12-17、10:44-46、11:14-16、15:7-9)。聖霊のバプテスマと共に、御霊のあふれ出るような充満(ヨハネ7:37-39、使徒4:8)、神に対する敬虔の深まり(使徒2:43、ヘブル12:28)、神への献身とその働きに対する献身の強化(使徒2:42)、キリストとそのみことば、及び失われた者に対するより実際的な愛(マルコ16:20)、などを経験することができる。

8.聖霊のバプテスマの証拠

 信者が受ける聖霊のバプテスマは、神の御霊が語らせるままに異言を語るという、肉体的な最初のしるしによって証明される(使徒2:4)。この場合において異言を語ることは、異言の賜物(Iコリント12:4-10,28)と本質的に同じであるが、その目的と用法において異なっている。

9.聖化

 聖化とは邪悪なものから離れ、神に献身する行為である(ローマ12:1,2、Iテサロニケ5:23、へブル13:12)。聖書は「きよくならなければだれも主を見ることはできない」(ヘブル12:14)といってきよい生活を教えている。わたしたちは聖霊の力によって「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(Iペテロ1:15,16)というご命令に従うことができる。
 聖化はキリストの死と復活において彼と一つであることを認めることにより、その一体性の事実を日々信仰によって確認することにより、また全機能をたえず聖霊の支配にゆだねることによって、信者の中に実現する(ローマ6:1-11,13、8:1,2,13、ガラテヤ2:20、ピリピ2:12,13、Iペテロ1:5)。

10.教会とその使命

 教会はキリストのからだであって、霊なる神のすまいであり、その大使命を果たすように神の任命を受けているものである。御霊によって生まれた個々の信者は、天に登録されている長子たちの教会の欠くことのできない部分である(エペソ1:22,23、2:22、ヘブル12:23)。
 人間に関わる神の目的は、失われた者を尋ね出して救うこと、人間によって礼拝されること、御子のかたちにかたどって信者のからだを建てあげることにあるので、教会の一部としての、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の主たる存在理由は、次のことにある。

 (1)世界宣教のための神の実行機関となること(使徒1:8、マタイ28:19,20、マルコ16:15,16)

 (2)人間が神を礼拝することのできる共同体となること(Iコリント12:13)。

 (3)御子のかたちに全うされた聖徒たちのからだを建てあげるという神の目的を達成する管となること(エペソ4:11-16、Iコリント12:28、14:12)

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、信者たちに聖霊のバプテスマを受けるように教え励ますことにより、新約聖書の使徒的原型の中にあるこの存在理由を絶えず強調するために、特に存在する。この経験は、

 (1)超自然的なしるしを伴う御霊の力によって伝道することを可能にする(マルコ16:15-20、使徒4:29-31、ヘブル2:3,4)。

 (2)神との礼拝における関係に必要な局面を加える(Iコリント2:10-16、12章、13章、14章)。

 (3)キリストのからだを建てあげるために、新約時代のように、御霊の実と賜物と働きに現わされる、聖霊の充全な働きかけに応答することを可能にする(ガラテヤ5:22-26、Iコリント14:12、エペソ4:11,12、Iコリント12:28、コロサイ1:29)。

11.奉仕の務め

 神によって召され、聖書に基づいて任命された奉仕の務めが、教会を指導する次の三つの目的のために主によって備えられている。

 (1)世界宣教(マルコ16:15-20、マタイ28:19,20)。

 (2)神への礼拝(ヨハネ4:23,24)。

 (3)御子のかたちに全うされた聖徒たちのからだを建てあげること(エペソ4:11-16)。

12.神癒

 神癒は福音の欠くことのできない部分である。病いからの解放は、あがないの中に備えられているものであり、すべての信者のもつ特権である(イザヤ53:4,5、マタイ8:16,17、ヤコブ5:14-16)。

13.祝福に満ちた望み

 キリストにあって眠った者たちの復活と、彼らが主の来臨まで生き残っている者たちとともに天に移されることは、教会の、さし迫った、そして祝福に満ちた望みである(Iテサロニケ4:16,17、ローマ8:23、テトス2:13、Iコリント15:51,52)。

14.キリストの千年期統治

 キリストの再臨には、わたしたちの祝福に満ちた望みである聖徒たちの携挙が含まれており、その後キリストは、千年の間地上で治めるために、聖徒たちと共に目に見えるかたちで帰ってこられる(ゼカリヤ14:5、マタイ24:27,30、黙示録1:7、19:11-14、20:1-6)。この千年統治は民族としてのイスラエルの救いと(エゼキエル37:21,22、ゼパニヤ3:19,20、ローマ11:26,27)、世界平和の確立(イザヤ11:6-9、詩篇72:3-8、ミカ4:3,4)をもたらす。

15.最後の審判

 死んだ悪人がよみがえらされ、そのしわざに応じてさばかれるところの最後のさばきがある。いのちの書に名がしるされていない者はみな、悪魔とその使いたち、獣とにせ預言者と共に、火と硫黄の燃える池の永遠の刑罰に入れられる。これが第二の死である(マタイ25:46、マルコ9:43-48、黙示録 19:20、20:11-15、21:8)。

16.新天新地

 「わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」(IIペテロ3:13、黙示録21章、22章)。