2025/11/16

2025年11月16日「約束のものを取り戻す」

ヘブル11:13-19
 11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
 11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
 11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
 11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
 11:18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。
 11:19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

 「これらの人」、すなわちアブラハムらは「信仰をいだいて」(:13)、神の「召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行」(ヘブル11:8)きました。彼らは「約束のものは受けていなかった」(:13)のですが、神から幻を与えられ(創世記15:1)、それを頼りに旅を続けました。

 アブラハムは信仰のゆえに神に求めることができました(:14-16、創世記15:2)。信仰の子孫であるクリスチャンも同じように神に祈り求め、神はその祈りを聞き届けてくださいます(創世記15:6)。

 信仰によって、アブラハムはわが子イサクを神にささげました(:17)。神はイサクを犠牲にすることを求めました(創世記22:2)。アブラハムの苦悩は想像を絶しますが、彼は神に従うことによって約束の成就を求めました。その結果、「彼は、いわば、イサクを生きかえして渡され」(:19)ました。

 これはまさにキリストの十字架と復活を示す型です。「あなたがたは…彼(キリスト)を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/15

2025年12月21日(日) クリスマス礼拝

志村キリスト教会のクリスマス

2025年
12月21日(日)10:30~11:45 クリスマス礼拝

2026年
1月1日(水)10:30~11:45 元旦礼拝

※どなたでもご出席いただけます。ぜひお越しください。

2025/11/09

2025年11月9日「主は信仰を認められた」

創世記15:1-6
 15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、
「アブラムよ恐れてはならない、
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは、
はなはだ大きいであろう」。
 15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
 15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
 15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
 15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
 15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 アブラムは、後に「多くの国民の父」を意味する名の「アブラハム」に変えられました(創世記17:5)。彼は神の約束を信じて神の召しに従い(ヘブル11:8)、地上の利権に目を留めず神の約束のみを追求しました(創世記14:23)。そのため、新約聖書でも彼は「信仰の父」とみなされています(ガラテヤ3:6-9)。

 しかし、アブラムへの約束はなかなか実現しませんでした。彼の思いを見通すように、神は「恐れてはならない」(:1)と語りかけました。その言葉に応じ、アブラムは心の思いを言い表しました(:2-3)。彼の信仰は盲従とは違っていたことがわかります。

 その応答に対し、神は言葉とともに幻(映像)を示しました(:5)。言葉では十分に表現できないもの、特に将来について、神は幻やたとえ話のようなイメージを用いて伝えています。

 神の約束は言葉で表現しても、その中身は言葉では伝えられません。しかし、アブラムは神の示しをそのまま「信じた」のです。神はそれをよし、「義」と認められました(:6)。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/02

「教会十年の歩み」(1965年)より

祈り伝道する教会 牧師 松崎実也

『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい』。

 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。  使徒行伝四章二九~三一節

 私どものおかれている時代は、二十世紀の後半、宇宙ロケットのとびかう時代、月旅行も夢ではなくなった時代である。果してこういう時代に、見えざる神を信ずることに意義があるのだろうか。しかり、如何に科学が進歩し、文化生活を営むようになったとはいえ、人の心は昔も今も変らない。罪と不安と絶望の中にある、ただそれを目先の快楽でまぎらわせているにすぎない。

 私ども、この時代に生きる教会、キリスト者のなすべきことは何か。それは永遠に変ることのない神の言に信仰をおいて、祈り伝道することである。もし新しいことが起るとすれば、それは、神の言と祈りと信仰とによって、上より、聖霊のみわざとして起るであろう。決して人間の考え出したテクニックや対策からではない。我らは時代にさからって祈り伝道する教会を目ざして進もう。

※教会十年の歩み(1965年6月25日発行)

2025年11月2日「神の御前での食事」

出エジプト24:5-11
 24:5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。
 24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。
 24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。
 24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
 24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。
 24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。
 24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 出エジプト記は、神の民イスラエルの誕生を物語ります。彼らには先祖伝来の信仰がありましたが、信仰をどのように守るべきかを教える「宗教」はありませんでした。その宗教を教えるのが「律法」であり、「契約の書」(:7)です。

 祭司が定められる前、モーセは若者たちに燔祭等の務めを任せました(:5)。モーセは民に律法順守を誓わせ(:7)、契約の血を注ぎかけました(:8)。その後、七十人の長老たち(:9)とともに神を仰ぎ見(:10)、神の御前で食事をしました(:11)。こうしてイスラエルの民は、律法を授かるにあたり、礼拝方法を実体験によって学びました。

 この出来事は、キリストの聖餐式(ルカ22:19-20)のひな形の一つとなりました。律法が神の民に礼拝方法を教えたように、聖餐式はキリストの十字架による贖いのわざを、パンを食べ、ぶどうを飲むことによって体験させます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント第一11:26)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/26

2025年10月26日「天は神の栄光を語る」

詩篇19:1-6
 19:1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
 19:2 この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
 19:3 話すことなく、語ることなく、
その声も聞えないのに、
 19:4 その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。
 19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、
また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
 19:6 それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。

 「詩篇」はイスラエル人によって歌い継がれてきた賛美歌です。一つの詩篇の中に複数の主題が含まれていますが、全体として共通の主題を歌い上げています。詩篇19篇の主題は啓示(神の示し)です。

 神は天により(:1-6)、御言葉により(:7-11)、良心により(:12-14)、人に語りかけています。その中でも、天のもろもろの現象は神の栄光をあらわしています(:1)。その規模は人間の作品に比べたら計り知れず大きく、全世界に及ぶものですが(:4)、そのメッセージは人の言葉によるものではありません(:3)。

 人間は注意深く自然界を観察して、それらの現象の意義を理解しつつあります。その多くは、人間の無思慮なふるまいが自然を破壊しつつあることですが、果たしてそれだけでしょうか。

 私たちは神の御言葉に、また私たちの良心のつぶやきに耳を傾ける必要があります。その上で、私たちは天の大きなメッセージを聞くことができるようになります。天の大きな賛美に合わせて、「わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」(:14)と謙虚な告白をしましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/19

2025年10月19日「さあ、迎えに出なさい」

マタイ25:1-13
 25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
 25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
 25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
 25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 25:5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
 25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
 25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
 25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
 25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
 25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
 25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
 25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
 25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

 キリストは「世の終り」(マタイ24:3)に関連したたとえ話を語りました。それは当時の結婚式の風習に関する話です。

 当時の結婚式では、花婿がその男友達に伴われ、女友達(おとめ)に伴われた花嫁を迎えに行き、盛大な披露宴が開かれます。花婿たちは各所にあいさつ回りをしながらゆっくりと迎えに行くため、披露宴は大変遅くに始まることが見込まれました。花嫁の友達は日中であろうと夜中であろうと、披露宴に花とあかりをもたらす役目があります。そのため彼女たちにはあかりを絶やさないための油の用意が必須だったのです。思慮深さは、必須の油を用意しているか、いないかにかかっていました(:3)。

 この天国のたとえ話は、「人の子」であるキリストが世の終りに再び来られることを示しています(マタイ24:33)。私たちにはキリストを出迎える用意が求められています。花婿であるキリストも言われます。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/12

2025年10月12日「神に愛されている者」

エペソ5:1-5
 5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
 5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
 5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
 5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
 5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

 私たちの世界の親子関係は千差万別で、非常に親しい親子も、そうでない場合もあります。親から虐待を受け続けた結果、自らも子を虐待するような負の連鎖もあります。しかし、「愛」というものは、本当の意味で親しい人間関係がなければ伝わりません。

 自らが人を愛する「愛の人」となるためには、自ら愛を十分に受け入れなければなりません。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:19)

 神の愛を受け入れ、神にならう者になってこそ、初めて愛の人と言えます(:1)。愛の人は「愛のうちを歩く」、すなわち愛することを実行する人です(:2)。「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第一3:18)

 愛の人であるなら、愛にふさわしくないことを避けなければなりません。それは、汚れた行いと言葉です(:3)。これらの事柄と正反対なのが「感謝」です。感謝は汚れた心を清めます。「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:18)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/10/05

「鷲志 第五号」(1962年)より

本年度受洗者の証し・深められて行く信仰 長谷川隆一

 信仰とは何か、三ヶ月前の私は全くこの言葉に無頓着でした。それがどんな働きをするのか、又あえて知る気にもなりませんでした。それまでの私の生活は本当に惨めで絶えず不安、恐怖、羞恥などに心は動揺せられ、それらのわざわいがいつまでもからみ、だんだんと成長し、それが大きな悩みとなるのです。その様な状態が過去何んども繰り返されるので、気の弱い私はしばしばそのわざわいに負けて全く無気力感を感じ、厭世的になっていた時が常でした。

 ある時、私は大きな悩みのうちに沈んでいた時に、信仰、特にキリスト教の信仰という台詞が突然ぱっと明りがともったようにうかび上り、私のねむっていた魂をゆりおこしたのです。それ以来、信仰という念が心に執着し始め、今までの心の空白状態がそれにより充されました。

 それからの私の心はそれに導かれるように教会に出かけました。そして何回か教会に導かれているうちに、少しずつ牧師さんの教えがわかりかけて来ました。そして神様を知る事により今までの自分の気付かなかった多くの罪悪を自覚出来るようになり、そうして初めに憶えた『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』という聖言が痛切に私の心をつきさしました。そして反射的に思いうかんだ心の悩み、少しも平安が与えられず苦しんでいた原因がわかりました。

 心に平安と喜びを与えてくれる人は、キリスト・イエス様だと言う事が、はっきりと確信出来、その時は全く喜びに充され感謝しつつ御前にひれ伏して、へりくだって罪のざんげを乞いました。すると不思議な事に私の内心は、かつて経験した事の無い潤いと喜びに充され、今まで暗い人生の歩みを続けて来た私の前途は急にそれらの尊い神様のめぐみにより明るくされ、大いなる心の支えとなってくれ、思わず私は何んとも言えない喜びを感じ、感謝の気持でいっぱいでした。

 それからという私の生活は本当に神様に救われた喜びに充されてうきうきしていました。ある時あまり喜びすぎて愚かな私は高慢な振舞いをしてしまったのです。これが罪だということがわかり、私の良心は非常にとがめられ、又悩みました。又神様が私から離れて行く様な気もしました。それからというものは、私は神様を本当に恐れる様になり、信仰はきびしく真剣なものであるということに気付きました。

 関東大聖会の最後の日、帰宅中に牧師さんに、キリスト・イエス様の救いを信じたなら洗礼を受けないかとすすめられ、そして洗礼の意義を説明してもらった時、私の信仰は深められて真剣なものにならしめて下さいました。

 そして、私は生涯通してキリスト・イエス様に殉教者として捧げようと決心するまでに導かれ、一九六二年十月二十一日が私にとって生涯忘れることの出来ない感謝感激の日となりました。洗礼のバプテスマを受け、今までの罪で汚れていた自分はそこで死に、新しい聖なる復活の命に与り、聖なる天国に自分の名前がしるされたのです、と教えを聞き、私はそれを確信しました。

 その時の感想は言葉で言い表せない喜びとある一種の優越感を感じました。

 それから後、幾度か試練に会い、悩みましたけれど、イエスの御霊の導きにより正しい道を踏みはずさないで現在に至り、イエス様の御手の内にあって本当にめぐまれた日々の生活を送っております。

 これからも聖書を通し、なお深く信仰が深められ、私の魂を慈しみ育てられます様に、御前に賛美と感謝をもって御祈りして御証しの言葉とさせていただきます。アーメン。

※鷲志(しゅうし)第五号(1962年12月25日発行)

2025年10月5日「神の国の食事」

ルカ14:15-24
 14:15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
 14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
 14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
 14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
 14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
 14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
 14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
 14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
 14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
 14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

 イエス・キリストは宣教活動の最中に、食事に招かれることが多くありました(ルカ14:1)。そこでもキリストは神の国について多くの教えを語られました。その中でも、食事を例にしたたとえ話が多く記録されています(ルカ12:35-40等)。

 ここでは「盛大な晩餐会」(:16)のたとえを語られました。晩餐会に予め招いた人々がいましたが、出席を断ってしまいました(:18)。それに対しておこった晩餐会の主人は、無理やりにでも席をいっぱいにするために、通りがかりの空腹な人々を連れて来させました(:23)。

 神の国の晩餐会の主人である神は、御国のさいわいを味わうことのできる約束をもって私たちを招いています。しかし、神の約束を信ぜず御国のさいわいを味わうことのできない人が多くいることを、キリストのたとえは示しています。私たちはどちらの立場にいるでしょうか。「すべて求める者は得…るからである」(ルカ11:10)とキリストは今も私たちを招いています。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/28

2025年9月28日「自由をもたらす律法」

ヤコブ2:8-13
 2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
 2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。
 2:10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
 2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
 2:12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。
 2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(:8)とは、キリスト教の最も有名な教えです。キリストも「これより大事ないましめは、ほかにない」と言われ(マルコ12:31)、旧約聖書(レビ19:18)にもあり、聖書全巻で一貫している教えです。

 「愛する」とは、人によって意味する内容が異なっていて、具体的な言葉でないかもしれません。ヤコブ書では、愛することは「分け隔て(えこひいき)」をすることではない(:9)、と教えています。人によって違う好みを持つ、ということは聖書の教える愛ではありません。

 「神は愛である」(ヨハネ第一4:8)とあります。神は分け隔てせず愛する方であり、先に「まずわたしたちを愛して下さった」(ヨハネ第一4:19)お方です。神はキリストによって愛を示されました。「ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)

 神の命令である「律法」は教えでもあります。私たちは神から愛を学び、愛することを実践できます。神から賜った律法は束縛ではなく自由をもたらします。「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は…実際に行う人である。」(ヤコブ1:25)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/21

2025年9月21日「神の手で一つになる」

エゼキエル37:15-22
 37:15 主の言葉がわたしに臨んだ、
 37:16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。
 37:17 あなたはこれらを合わせて、一つの木となせ。これらはあなたの手で一つになる。
 37:18 あなたの民の人々があなたに向かって、『これはなんのことであるか、われわれに示してくれないか』と言う時は、
 37:19 これに言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる。
 37:20 あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にあるとき、
 37:21 あなたは彼らに言え。主なる神は、こう言われる、見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
 37:22 その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。

 エゼキエルは、バビロン(カルデヤ)捕囚期の預言者です(エゼキエル1:1-2)。「彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である」(エゼキエル12:2)と評されたイスラエル人に対し、エゼキエルは驚くべき幻、不可解な行為によって、なお神の使信を語り続けました。

 二本の木(:16)はイスラエルの反逆の歴史と現状を示します。イスラエル(ヤコブ)の十二人の息子のうち、ヨセフがエジプトに売られましたが(創世記37章)、神は一家をエジプトへ送って飢饉から救われました(創世記46章)。出エジプトが国家の原点となりました(エゼキエル20:5-6)。国家はダビデ王が統一しましたが(エゼキエル34:23)、ユダ族の国とエフライム族の国に分裂し(:16)、滅亡、捕囚の憂き目にあいました。

 神は彼らのなし得なかったことを、神の手でなすと約束されました。神が人々を「取り出し」、「集めて」、「みちびき」、「一つの民」とします(:21-22)。神は愛のわざにより私たちの心を一つにしてくださいます。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3:14)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/14

2025年9月14日「天の宝を見つける」

マタイ13:44-52
 13:44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
 13:45 また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
 13:46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
 13:47 また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
 13:48 それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
 13:49 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
 13:50 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
 13:51 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
 13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

 キリストは多くのたとえ話を語りました。マタイ13章にはその多くがまとめられています。その共通する主題は「天国」です。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)

 元より「天国の奥義」(マタイ13:11)は言葉で伝えられるものではありません。しかし、キリストは天国の奥義をたとえにより、イメージを通して伝えました。私たちはそのイメージを開封するように、中身の宝である奥義を見つけなければなりません。

 天国の特徴について、多くのたとえ話を通していくつかの点にまとめることができます。1)天国は計り知れない価値のあるものである。2)天国は捜し求められた末に発見されるものである。3)天国は選び抜かれた最良のものである。キリストが「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)と言われたのは、まさにこの天国を見いだすことの約束です。

 私たちは「御国の言を聞いて悟らない」(マタイ13:19)者ではなく、「御言を聞いて悟る人…そういう人が実を結び」(マタイ13:23)と言われる者でありたいと思います。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/07

「教会日誌」(1955年)より


昭和二十九年二月
 日曜日、礼拝は中蓮根協同組合もしくは佐々木兄宅において継続。日曜学校は藤化成倶楽部において。伝道会は舟渡町佐々木氏宅で続けられてきたが、この月より神の約束にたち、兄弟姉妹は聖なる主の御名により信仰にいり、その選民として、証人として立つべきときに至り、聖霊の働きは益々つよめられ、初めの確信を終わりまで堅く保たばキリストにあずかる者となる決意をなし祈る体験をあたえられた。そこで、木曜日に祈祷会を大塚姉宅で行うことになる。これよりのち、一同舟渡の町にキリストの体たる教会があたえられるように、真剣に祈祷が続けられた。
 山脇(久治)神学生は卒業と同時に志村地区牧師として赴任に決定。

(昭和二十九年)三月
 一同の祈りに応えられて教会があたえられることが決定。土地の交渉に山脇師、献身活動された結果、初めに浮間町に空地をあたえられたが、地理的条件に難があって見合せておったところ、岡田医院(現在地)が新築移転に伴って売却の話があって交渉の結果、成立し現在地に教会が建設されることになる。肉体をいやす元医院が、霊肉共にいやす教会としてあたえられたことは、まさしくくしき御業と言うほかない。
 この教会建設のために、マリヤ(ジュルゲンセン)先生、弓山(喜代馬)先生、全国の信徒の方々の熱心なお祈りの結果が神様の御手を動かすことになり、舟渡町に十字架の旗じるしが高くたてられたのである。

2025年9月7日「わが救の神によって喜ぶ」

ハバクク3:16-19
 3:16 わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に悩みの日の臨むのを静かに待とう。
 3:17 いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。
 3:18 しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。
 3:19 主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる。

 ハバククはイスラエルの王国時代の預言者です。エルサレムの神殿で聖歌隊の奉仕に携わっていました(:19)。その預言の言葉は断片的によく知られています(1:5、2:4等)。

 当時、イスラエルは異国カルデヤ(バビロニア)の侵略の脅威にさらされていました(1:6)。そこにハバククが預言者として立てられ、当時のイスラエル(ユダ王国)に神からの幻を示しました(2:2)。それは、神が暴虐を行う者をさばかれるということでした(2:8)。

 しかし、イスラエルは神の救いを待たなければなりませんでした(:16)。それは慣れ親しんだ祖国が荒らされるのを見て忍ぶことでした(:17)。「もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。…義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)信仰は隠された神の力を見させ(3:4)、沈んだ心を高く引き上げるものです(:19)。そこにこそ、神による喜びがあります(:18)。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/31

2025年8月31日「神のあわれみの器」

ローマ9:18-24
 9:18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
 9:19 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
 9:20 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
 9:21 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
 9:22 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
 9:23 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
 9:24 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

 私たち人間が生活する世界は、今も昔も変わらず明らかな格差があります。ある者はイスラエルの奴隷の家に生まれ、ある者はエジプトの王(パロ)の家に生まれ、それぞれ全く違った環境で育ち、将来の身分は自ずから決まっています。それにも関わらず、「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさる」(:18)結果、神の御心次第で奴隷が救われ、王が滅ぶことが起ります。人がどんなに言い争っても、大いなる力には抗えないことを歴史は証明しています。

 人は陶器、神は陶器師にたとえられます(:21)。「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。」(創世記3:19)陶器は材料が同じでも、陶器師の手のわざにより価値が何倍にも変わります。神は、私たち土けらに過ぎない人間を、尊いものにしようと握っておられるのです。「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」(コリント第二4:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/24

2025年8月24日「へびのように賢く」

マタイ10:16-20
 10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
 10:17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。
 10:18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。
 10:19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
 10:20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。

 キリストは十二人の使徒をつかわすに当り訓示しました(マタイ10:5)。キリストの教えは知恵の言葉をふんだんに取り入れたものでした。天国の奥義を多くの譬(たとえ)を用いて教えたのと同じです(マタイ13:34)。

 キリストは使徒たちを「イスラエルの家の失われた羊のところ」(マタイ10:6)につかわしました。しかし、つかわした先では「おおかみ」のような凶暴な迫害が起こりうることを警戒したのでした(:16)。キリストの福音を伝える使命を果たすためには、その前途の危険を察知しつつ前進して行かなければなりません。

 聖書の「へび」は動物の方よりも、創世記にある悪魔の誘惑(創世記3:1)の方を多く意味します。悪魔は「羊」を亡き者としようと今の世でも狡猾に働きます。私たちは悪の策略を察知し、悪ではなく善のために知恵を駆使しなければなりません。

 聖書の神が私たちに賜う知恵は清く、平和をもたらすものです(ヤコブ3:17)。悪の知恵に勝る神の知恵に頼り、キリストの御言葉に学び続けましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/17

2025年8月17日「預言者ヨナのしるし」

ヨナ3:1-5
 3:1 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
 3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
 3:3 そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
 3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
 3:5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。

 ヨナは、イスラエル王国の北方で活動した預言者です(列王紀下14:25)。ヨナ書は、神からの預言の言葉よりも、預言者ヨナの活動内容を中心に記しています。当初、ヨナは神の命令に従いませんでした(ヨナ1章)。その結果、ヨナは船上で暴風にあい海に投げ入れられて、三日三夜大魚の腹の中で不従順を悔い改めます(ヨナ2章)。

 ヨナ3章の「主の言葉」(:1)は悔い改めたヨナに対する再度の神の命令です。この度はヨナは主の言葉に従い、ニネベの町に行き神の言葉を伝えました。「ニネベは滅びる」(:4)という神からの預言に対し、ニネベの人々は神を信じ、悔い改め始めました(:5)。ヨナは大魚の腹の中に閉じ込められ、ニネベの人々は神の言葉を聞いて悔い改めたのでした。

 これがキリストにより「預言者ヨナのしるし」(マタイ12:39)と言われた出来事です。聖書の神は今も変わらず私たちに語りかけています。小さな出来事を見逃さず、また聖書によりはっきりと示されている神の言葉を心に留める者でありましょう。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/10

2025年8月10日「招くのではなく、招かれる」

マタイ9:9-13
 9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
 9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
 9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
 9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
 9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 マタイはキリストの十二使徒の一人で、元はローマ帝国の税金を徴収する取税人でした(マタイ10:2)。取税人はユダヤ人からは嫌われていて、罪人と同じように思われていました(:11)。

 マタイはキリストから弟子となる招きに応じた後(:9)、彼を食事に招きました(:10)。食事の席にはマタイに親しい人々も集まって来て、キリストは「多くの取税人や罪人たち」と共に食事することになりました。それをパリサイ人たちが非難したのです(:11)。

 キリストはこう反論しました。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(:13)。こう言って、多くの取税人や罪人たちと共に食事をすることを肯定したのでした。キリストはマタイと共に、多くの罪に苦しむ人々を招いて解放するために、マタイの食事の招きに応じたのです。キリストを信じ受け入れる者は、実はキリストから罪の赦しに招かれているのです。

 「熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。」(黙示録3:19-20)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/03

2025年8月3日「永久の約束と定め」

出エジプト12:20-27
 12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
 12:21 そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。
 12:22 また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。
 12:23 主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。
 12:24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
 12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
 12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
 12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。

 現代の教会で行われている聖餐式は、キリストによる最後の晩餐が起源です。最後の晩餐はイスラエルの過越の祭りの食事での出来事でした。聖餐式の起源は過越祭まで遡ることができます。

 聖餐式のパンは過越祭の「種入れぬパン」まで遡ります。古代のパンは膨らませるために古いパンを「パン種」として用いました。悪いパン種は食中毒の原因となります。過越祭では素早く、パン種を用いずにパンを焼きます(:20)。

 聖餐式のぶどう酒はキリストの血を意味します。過越祭では小羊をほふり、その血を家の入口につけました(:21)。血のつけられた家は、滅ぼす者が過ぎ越して守られました(:23)。

 聖餐式のパンもぶどう酒も、キリストの命を示しています。時代が変わっても、変わらない神の守りを過越祭、聖餐式は教えています。キリストは今日も教会に集う者たちに語りかけています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ6:54)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/27

2025年7月27日「主イエス・キリストの名」

使徒19:11-20
 19:11 神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。
 19:12 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。
 19:13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。
 19:14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。
 19:15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。
 19:16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
 19:17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。
 19:18 また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。
 19:19 それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。
 19:20 このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。

 キリストの使徒パウロは二年間にわたりエペソで主イエス・キリストの福音を語り続けました(使徒19:1-10)。またパウロはキリストの福音に伴う「力あるわざ」として病のいやしの奇跡も行いました(:11-12)。その「力あるわざ」は、イエスがキリストであることを証明するために行われました(使徒2:22)。

 しかし、ある者は「力あるわざ」だけに注目しました。とあるまじない師は呪文のごとく「イエスの名」を唱えましたが、失敗しました(:13-16)。他の魔術師は「力あるわざ」を行う力を金で買おうとして戒められました(使徒8:18-24)。

 主イエス・キリストの名は呪文でも道具でもありません。「主イエスの名があがめられ」(:17)るべきであり、決して金銀に換算される資産ではありません(:19)。主イエスの名はすがる人を救う尊い神の力です。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使徒4:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/07/20

2025年7月20日「自分の目にある梁」

マタイ7:1-8
 7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
 7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
 7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
 7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

 マタイ5~7章の「山上の説教」は、折に触れて語られたキリストの多くの説教をまとめたものです。それぞれの話に厳密な文脈があるわけではありませんが、キリストの一貫した教えとしてそれぞれの話を比較することで新しい学びを得ることができます。

 人をさばくことの問題点が二つ挙げられています。他人の欠点をさばくなら、そのさばきが自らの欠点をさばくことになるのが一つです(:2)。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)もう一つは、「自分の目にある梁」(:3)です。建物の梁をかんなで仕上げると木の「ちり」が出ます。目を傷つけるちり以上の、梁のような大きな障害が自分にあることを、さばく人はしばしば認めないものです。

 人をさばくには善悪を見分ける確かな目が必要です。真珠を見分けられない豚(:6)のような目では、正しいさばきなど望むことはできません。それこそ私たちが真に求めるべきものです(:7)。「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきを…神はすみやかにさばいてくださるであろう。」(ルカ18:7-8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/13

2025年7月13日「神の手の内にある者」

イザヤ49:14-19
 49:14 しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
 49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
 49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
 49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。
 49:18 あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
 49:19 あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

 イザヤ書は、神の都エルサレム、またの名をシオンに「よきおとずれ」(福音、イザヤ40:9)を語りかけます。しかし、神の民イスラエルは「主はわたしを忘れられた」(:14)と言い、苦難を忘れられず、失意に沈んでいます。

 福音を語りかける神は、父母の愛(:15)のように変わらぬ思いを神の民に抱き続けていると言います。神の目には、神の民は手の外側でなく内側(たなごころ)に刻まれており(:16)、他人に見せる飾りではなく、神ご自身がずっと見続けて忘れないことを告げています。

 神の民の目には現実の苦難しか見えていません。しかし、神の目には民を守る石がきが、荒廃ではなく発展が(:17)、多くの集められた人々が(:18)見えています。福音が告げる「神の救」(イザヤ49:8)は、人が想像することを超えています。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/06

2025年7月6日「キリストにつけられた者」

ローマ6:4-11
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 教会では様々な活動が行われており、礼拝の方法も教会により様々な形がありますが、その本質は一つです。

 その中でも、教会ではキリスト教式の葬儀が行われます。そして、キリスト教の葬儀は他の宗教とは決定的に異なる点があります。それは、葬儀を含むキリスト教の諸活動は、すべて神への礼拝として行われるということです。葬儀の中でも神への賛美が歌われ、祈りがささげられます。クリスチャンとなる第一歩である洗礼式(バプテスマ)も神への礼拝であり、キリストに自らの身をゆだねる儀式です。また洗礼式はキリストと共に葬られる(:4)、葬儀でもあります。

 キリストと共に葬られた者は、キリストと共に死人の中からよみがえります。クリスチャンは心に、キリストの死と復活が、分かれることなく一つとなって刻まれています。「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる」(:5)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/29

2025年6月22日(日) 献堂71周年記念礼拝

 今年(2025年)は志村キリスト教会の献堂71周年、また大宮キリスト教会にとっては伝道開始70周年の年です。双方の記念の年を祝い、6月22日(日)は大宮教会の小田島幹彦師のビデオ説教を伺い、6月29日(日)はインターネットを用いてオンライン合同礼拝を行いました。志村教会にとってはあまり馴染みのない方法での礼拝でしたが、多くの方にとって新鮮な体験であったようです。午後にはオンラインの証し会を行いました。

2025年6月29日「神からの願い」

ピリピ2:12-16
 2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
 2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
 2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
 2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。

 クリスチャンは、天の父なる神から投じられた火(ルカ12:49)のように燃える、神からの願い(:13)を心に抱くことがあります。それは、燃え盛る欲望とは異なる、神のよしとされる聖なる願いです。その願いを「つぶやかず疑わないで」(:14)実行することで、天の神のわざが地上に実現することになります。そのように歴代のクリスチャンたちが良いわざを実行して、「星のようにこの世に輝いて」(:15)います。

 教会も神の作品の一種です。この世のあらゆる事業は「一つ思い」(:2)で取り組むことが不可欠なように、教会も一致することが必要です。一致するためには「へりくだった心」(:3)が必要です。それは「御霊の交わり」(:1)の中で与えられます。

 教会は神と人とが「一つ思い」になることで生まれ、成長し、維持されます。教会が一致する時、クリスチャンは「神の子」(:15)と認められるのです。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/22

2025年6月22日「御霊の一致」

詩篇133篇
 ダビデがよんだ都もうでの歌
 133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは
 いかに麗しく楽しいことであろう。
 133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
 アロンのひげに流れ、
 その衣のえりにまで流れくだるようだ。
 133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
 これは主がかしこに祝福を命じ、
 とこしえに命を与えられたからである。

 詩篇133篇は「都もうでの歌」、すなわちエルサレムの神殿に向けての巡礼の歌です。

 一見すると喜びに満ちているこの詩篇は、実は深い悲しみも入っています。特に、バビロン捕囚という苦難を経験したイスラエルの人々は、七十年間の苦難を過ごして国に帰り、神殿を再建して、礼拝を再開させることができました。捕囚で十二部族がバラバラになった後、主は再び神殿礼拝を回復させ、散らされた民が再び一つになって礼拝できた、そのような深い喜びがあります。一つになって礼拝できることは当然ではなく、特別なこと、神の奇跡である、という思いが込められています。

 一つになって礼拝するところに、豊かな神様からの恵みが流れてくる、とも歌われています。大祭司アロンが任職の際に油を注がれ、そのひげに油が流れくだるように、大祭司を経て神の民全体に神の恵み、聖霊の油注ぎが下ることを教えています。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」(ヘブル4:14)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/15

2025年6月15日「大能の王である神」

詩篇99篇
 99:1 主は王となられた。
 もろもろの民はおののけ。
 主はケルビムの上に座せられる。
 地は震えよ。
 99:2 主はシオンにおられて大いなる神、
 主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
 99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を
 ほめたたえるであろう。
 主は聖でいらせられる。
 99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは
 堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 99:5 われらの神、主をあがめ、
 その足台のもとで拝みまつれ。
 主は聖でいらせられる。
 99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。
 そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。
 彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。
 彼らはそのあかしと、
 彼らに賜わった定めとを守った。
 99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。
 あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、
 悪を行う者には報復された。
 99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。
 われらの神、主は聖でいらせられるからである。

 詩篇99篇は、神の民イスラエルの長い礼拝の歴史を歌っています。「主は王となられた」(:1)との歌い出しは、「大能の王」(:4)である聖書の神を「もろもろの民」(:1)に告知する宣言です。
 イスラエルにとって神は、モーセら神の代理人たちの仕えた神であり(:6)、神の民の信仰と不信仰の歩みの中にあって「公義を愛する」(:4)神であり続けました。「あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。」(:8)
 神は「聖でいらせられる」と三度(:3,5,9)も繰り返し歌われています。その神の荘厳な御姿を目の当たりにし、預言者イザヤは「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。」(イザヤ6:5)と言いました。しかし、神はおののきつつ礼拝を捧げる者を受け入れてくださいます。
 「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/08

2025年6月8日「主は正義に勝ちを得させる」

マタイ12:14-21
 12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
 12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、
 12:16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。
 12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
 12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、
わたしの心にかなう、愛する者。
わたしは彼にわたしの霊を授け、
そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
 12:19 彼は争わず、叫ばず、
またその声を大路で聞く者はない。
 12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、
いためられた葦を折ることがなく、
煙っている燈心を消すこともない。
 12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

 イエス・キリストの宣教活動は、信じない者にとっては不可解なものでした。信仰を持たなかったキリストの兄弟たちは、「自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言いました(ヨハネ7:3-5)。キリストは信じることなく敵対する人々からは身を隠す一方、信仰をもって求める人々には身を現し、教えと奇跡をもってその望みに応えました(:14-15)。

 キリストは、「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイ13:12)と言われました。それが神に選ばれた僕の使命であり、「正義を…宣べ伝える」(:18)と言われていても、「その声を大路で聞く者はない」(:19)と言われるキリストの宣教のあり方でした。

 キリストは「狭い門からはいれ」(マタイ7:13)と言われます。「それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)といっても、キリストの道に望みを置く者はそれを見出すのです。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。」(マタイ7:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/06

2025年6月22日(日) 献堂71周年記念礼拝

 志村キリスト教会の献堂71周年、大宮キリスト教会の伝道開始70周年を記念して、二週にわたって特別集会を行います。ぜひお越しください。※6月29日のみ、定例集会の時間と異なります(11:00~12:15)。

2025/06/01

2025年6月1日「光・知恵・さんび」

エペソ5:14-21
 5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
「眠っている者よ、起きなさい。
死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
 5:15 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
 5:16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
 5:17 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
 5:18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
 5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
 5:20 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
 5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

  聖書は「神は光」(ヨハネ第一1:5)であると言い、光のたとえによって神を説明しています。「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」(エペソ5:9)

 一方、私たち人間は光でなくやみ、すなわち神と異なる存在であると聖書は語ります。しかし、「以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5:8)と言われます。光なる神を信じ、従うことで「光の子」(エペソ5:8)として歩むことができると聖書は教えます。「立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」(:14)

 光は知恵をも意味します。やみ路を照らす光のように、神は暗い人生に光を照らし、正しい人生を歩ませます(:15)。「時を生かして用いなさい」(:16)とは、悪に頼らず正義によって生きることを勧める言葉です。聖書は乱行を戒めます(:18)。

 神の光に照らされた心は神の知恵に満たされ、罵りではなくさんび(:19)、感謝(:20)の言葉があふれるようになります。「互に仕え合う」(:21)ことこそキリスト教の最高の美徳です。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/25

2025年5月25日「主の祭壇を修繕する」

列王紀上18:30-39
 18:30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
 18:31 そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、
 18:32 その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。
 18:33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
 18:34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
 18:35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。
 18:36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
 18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
 18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
 18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。

 預言者エリヤは、イスラエルの王家に従う異教の預言者らと対決しました(列王紀上18:24)。イスラエルの民は、父祖の神に従うとともに異教の神々にも従う、どっちつかずの信仰でした(列王紀上18:21)。エリヤはイスラエルの民の信仰にも対決したのでした。

 定例の礼拝の時に至り、異教の預言者の祈りに未だ答えはありませんでした(列王紀上18:29)。エリヤは民を聖書の神、主の祭壇に招き、民は招きに応じました(:30)。ここから、エリヤは民の手を用いて、崩れた主の祭壇を修繕しました(:31-35)。エリヤは、民の間に失われていた真の礼拝の心を取り戻させました。

 繕われた祭壇はイスラエルの民の手による、イスラエルの名と心が込められたものでした。そこに人手によらず、天から神の火が下り、燔祭(全焼のいけにえ)が完成しました(:38)。イスラエルの礼拝は回復せられ(:39)、彼らの礼拝は神に受け入れられました。

 「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/18

2025年5月18日「道・真理・命」

ヨハネ14:6-12
 14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
 14:7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
 14:8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
 14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
 14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
 14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
 14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。

 イエス・キリストは十字架の死による別離に先立ち、弟子たちに愛をもって真理を教え諭しました(ヨハネ13:1)。その教えの要点は「道・真理・命」でした(:6)。

 「道」とは、父なる神のみもとに行く道です。キリストは弟子たち、すなわち私たちクリスチャンたちのため、神の国にすまいを用意すると約束されました(ヨハネ14:2)。私たちの最大の懸案は人生の行く末であり、キリストは私たちを天に迎え、永遠にともにおらせてくださいます(ヨハネ14:3)。

 「真理」とは、私たちの無理解を解消するものです。私たちの心に真理がなければ、心が騒ぎ、信仰に立てません(ヨハネ14:1)。心に真理があれば、私たちは自由を得(ヨハネ8:32)、聖別された者となれます(ヨハネ17:17)。

 「命」こそ、私たちの人生の行く末です。私たちはキリストに従って道を歩むことで、真理を得、命に至ることができます。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネ3:36)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/11

2025年5月11日「皆が一つの御霊を飲む」

コリント第一12:4-13
 12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
 12:5 務は種々あるが、主は同じである。
 12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
 12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
 12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
 12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
 12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
 12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
 12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
 12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

 「霊の賜物」(:4)とは、「神の霊」すなわち「聖霊」からクリスチャンが受け取る特別な恵みです。すべてのクリスチャンは「イエスは主である」ということのできる信仰を御霊から賜物として受け取っています(コリント第一12:3)。

 全員共通の賜物だけでなく、「御霊は思いのままに」(:11)めいめいのクリスチャンに別個の、特別な賜物を与えています(:8-10)。重要なのは、めいめいの特別なタラント(マタイ25:14-30)の違いではなく、多様な賜物を与える一つの御霊であり、御霊に賜物を与える権限があるということです。

 ですから、現実の教会には多様な人々が集まっていますが、同じ一つの御霊によって一つの教会とせられ、かしらなるキリスト(コロサイ2:19)に従う一つのからだとして一致することができます(:12)。クリスチャンはバプテスマ(洗礼)によって神に飲まれると同時に、聖餐に示されているように、神を飲む恵みに与っています(:13)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/04

2025年5月4日「主のしもべたちは食べる」

イザヤ65:13-18
 65:13 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わがしもべたちは食べる、しかし、あなたがたは飢える。見よ、わがしもべたちは飲む、しかし、あなたがたはかわく。見よ、わがしもべたちは喜ぶ、しかし、あなたがたは恥じる。
 65:14 見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。
 65:15 あなたがたの残す名はわが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
 65:16 それゆえ、地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。
 65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
 65:18 しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。

 主なる神が「わがしもべは食べ、あなたがたは飢える」と言われます(:13)。神の祝福に与る神のしもべと対比されている「あなたがた」とは誰でしょうか。それは聖書の神である「主を捨て」(イザヤ65:11)て、他の神々に仕える者です。事もあろうに、それは神によって選ばれたイスラエルの民そのものです。「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。…ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。」(イザヤ59:1)

 神の選民が当然神の祝福に与るのではありません。しかし、神の祝福は神の選民のために用意されています。祝福は神の招きに応じ、神に従う者に与えられます。「自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。」(イザヤ65:2)

 神の御旨に従う新しい民に、神は「新しい天と、新しい地」(:17)を用意してくださいます。「すべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」(伝道3:13)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/27

2025年4月27日「初めで終りで生きている」

黙示録1:12-18
 1:12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
 1:13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
 1:14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
 1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
 1:16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
 1:17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
 1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(ヨハネ第一1:1)と言うほど、キリストの弟子であるヨハネは師をよく知っているという自負がありました。しかし、流刑地パトモス(黙示録1:9)でヨハネが見たキリストの黙示(黙示録1:1)は様子が違っていました。

 黙示録の内容は、キリストから示された未来の出来事をヨハネが記録したものです。そのすべての意味が明らかであるわけではありませんが、一部について理解の鍵となる解説が与えられています。七つの燭台は七つの教会を示しています(黙示録1:20)。その教会の間にいる者とは、教会のかしらたるキリストを意味します(エペソ5:23)。

 キリストご自身が自らを証言します。「わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。」(:17-18)十字架の死による贖罪を成し遂げたキリストはよみがえり、今も生きて教会とともにあるだけでなく、これからも私たちを導いてくださいます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/24

聖書の教理~(32)新しい命

 死からのよみがえり、新しい命について、旧約聖書も新約聖書も多く証言しています。

 「神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府(死)の力からあがなわれる。」(詩篇49:15)

 「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24)

 「両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。」(マルコ9:47)

 「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」(黙示録2:7)。

 昇天される前、キリストは私たちに約束を残しました。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)

 聖書の神が約束される永遠の命があなたのものとなりますように祈ります。「神はそのひとり子(キリスト)を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/04/20

2025年4月20日「わたしにはわからない」

ヨハネ20:11-18
 20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
 20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
 20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
 20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
 20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
 20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
 20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
 20:18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

 ヨハネ伝のイースターは、マグダラのマリヤの出来事から始まります。彼女は他の者とともに連れ立ち、葬られたキリストの弔いのため墓に来ました。それは週の初めの日、すなわち日曜日の早朝のことでした(マルコ16:1-2)。そこで彼女は空の墓を発見し、他の弟子たちに報告しました(ヨハネ20:1-2)。

 その後もマリヤは墓から離れることができませんでした。そこで天の御使いを見たりしますが(:12)、彼女の心はキリストの死体の在りかだけに向かっていました(:13)。そこにキリストご自身が立っておられたのにも関わらず気がつかなかったのです(:14)。

 弟子たちはその目で見、ごく身近に触れていた(ヨハネ第一1:1)にも関わらず、復活の主がわからなかったのです。しかし、主の声を聞くなり、マリヤも復活の主がわかるようになりました(:16)。キリストが言われた通り、「羊は彼(羊飼)の声を聞く」(ヨハネ10:3)のです。

 「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)とキリストは言われました。主は捜し求める者に現れて、御声をかけてくださいます。その時、私たちも「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23:1)と言うことができます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/17

聖書の教理~(31)死の問題

 聖書は、死は人間の罪の結果であると言っています(ローマ5:12)。そして、「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示された」(テモテ第二1:10)と宣言しています。

 人間は、必ず死ぬ定めにあるだけでなく、「死んだ後さばきを受ける」、すなわち死後の存在があることも聖書は教えています(ヘブル9:27)。善人も悪人も、さばきを受けるために死からよみがえると、キリストは教えています(ヨハネ5:29)。

  キリストの救いに与ったクリスチャンにとって、死は休みであり(黙示録14:13)、眠りである(テサロニケ第一4:13-14)と言われています。「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」(エペソ5:14)。

 聖書には死からの救いの約束が多く記されています(ダニエル12:1-3等)。

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(テサロニケ第一4:13)

「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(テサロニケ第一4:18)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/04/13

2025年4月13日「主のみもとに帰る」

哀歌5:15-22
 5:15 われわれの心の喜びはやみ、
踊りは悲しみに変り、
 5:16 われわれの冠はこうべから落ちた。
わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。
 5:17 このために、われわれの心は衰え、
これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
 5:18 シオンの山は荒れはて、
山犬がその上を歩いているからである。
 5:19 しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。
あなたの、み位は世々絶えることがない。
 5:20 なぜ、あなたはわれわれをながく忘れ、
われわれを久しく捨ておかれるのですか。
 5:21 主よ、あなたに帰らせてください、
われわれは帰ります。
われわれの日を新たにして、
いにしえの日のようにしてください。
 5:22 あなたは全くわれわれを捨てられたのですか、
はなはだしく怒っていられるのですか。

 「哀歌」は聖書の民イスラエルの「悲しみの歌」です。イスラエル人にとって最悪の経験の一つが、預言者エレミヤの時代の「バビロン捕囚」でした。イスラエル人は数々の苦難を経験して、神への賛美である詩篇とともに哀歌も今日まで歌い継いできました。

 苦役の叫び(出エジプト2:23)から始まったイスラエルの祈りは、心からの訴えを含む歌にまで昇華しました(哀歌5章)。家も(:2)、家族も(:3)、資源も(:4)、自由も(:5)、ことごとく敵国に奪われてしまいました。日常生活だけでなく、祭りの踊りも絶えて、喪の儀式に変わり(:15)、民の心も衰え(:17)、最も尊い聖所が山犬の住みかに変わってしまいました(:18)。

 しかし、イスラエルの民は消え失せませんでした。国を失えど、聖書の神への信仰を失わず(:19)、変わらない神にすがって自らを保ちました。「主よ、あなたに帰らせてください」(:21)との祈りに主は応え、イスラエルを回復されました。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/10

聖書の教理~(30)教会の働き

 キリストは昇天する前、地上に残る弟子たちに数々の使命を授けました(マタイ28:19-20、マルコ16:15、ルカ24:46-49)。弟子たちはキリストの使命と約束を胸に抱きつつ、祈り続けました(使徒1:15)。ペンテコステ(五旬節)の日になり、その約束の通りに聖霊に満たされ(使徒2:1-4)、弟子たちは「キリストの証人」(使徒1:8)として活動し始めました。

 彼らの活動内容は、今日まで引き継がれている教会の使命と同じです。すなわち、a)伝道(使徒2:40)、b)礼拝(使徒2:46)c)交わり(使徒2:42)、d)きよい生活(使徒2:42)などです。

 教会では特に二つの儀式を「礼典」として守り行っています。ともにキリストご自身によって制定されたもので、キリストの与える「永遠のいのち」にあずかることを意味しています(ヨハネ6:51)。

 a)洗礼(バプテスマ、マタイ28:19)。洗礼を受けることは、「キリストを着た」(ガラテヤ3:27)ことであると言われています。

 b)聖餐(ルカ22:19)。聖餐のパンは「キリストのからだ」、聖餐の杯(ぶどう酒、またはぶどうジュース)は「キリストの血」を示すものです(ルカ22:19-20)。

 礼拝を中心とする教会の活動は、信者だけではなくすべての人に開かれていて、参加することができます(使徒2:42)。それぞれの活動の意義を理解した上で参加し、「キリストのいのち」を体験してください。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/04/06

2025年4月6日「主の杯を飲む」

マタイ20:20-28
 20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
 20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
 20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
 20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
 20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
 20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
 20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 キリストは弟子たちに繰り返し神の国の奥義を教え(マタイ6:33)、エルサレムでの受難について予告しました(マタイ20:18-19)。ある者たちはその意を誤解したまま主にお願いしました(:20)。主は彼らの誤解に対して適切にたしなめました。

 「御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように」(:21)との願いはかなえられませんでした。そのことは、「ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた」(マタイ27:38)と言われる形で実現しました。

 「わたしの飲もうとしている杯を飲むこと」(:22)はかなえられました。しかし、それは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と主が祈られた、十字架の苦難を示すものでした。

 弟子たちが願ったことは、彼らの理解とは異なるものでした。しかし、主は願う者たちに「神の国」を賜ります。「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/03

聖書の教理~(29)教会の性質

 教会は、a)キリストのからだ(コロサイ2:19)、b)神の宮(ペテロ第一2:4-6)、c)キリストの花嫁(コリント第二11:2)にたとえられています。それぞれ、キリストはかしら、礎石、花婿(夫)として教会に属しています。

 新約の「教会」(マタイ16:18)は、旧約の「会衆」(出エジプト12:3)がひな型となっています。荒野に「幕屋」が神の宮として建てられた(出エジプト40章)のに対し、ペンテコステの日に教会に聖霊が注がれ(使徒2:4)、「聖霊の宮」(コリント第一6:19)が誕生しました。ダビデが神のすまいを建てたいと願った(サムエル下7章)のを受けてソロモンが「神殿」を建てましたが(列王紀上5~8章)、新約は教会こそ「神のすまい」であると言います(エペソ2:20-22)。

 キリストは昇天する前に弟子たちにこう命じました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマ(洗礼)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイ28:19-20)私たち教会は今日も主の命に従い、キリストを信ずべきことを教え、洗礼を授け、教会の交わりを保っています(使徒2:38-47)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/30

2025年3月30日「キリストに現れた神の威光」

ペテロ第二1:16-19
 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
 1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
 1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
 1:19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

 キリストと言われるイエスは、ベツレヘムに母マリヤから生まれ(ルカ2:6-7)、父ヨセフの子としてナザレで育ちました(マタイ2:21-23)。「神の子キリスト」(マタイ16:16)という呼び名は弟子たちによるものです。

 弟子のペテロは「主イエス・キリスト」(:16)を私たちに知らせています。「主」という言葉は、聖書の民イスラエル人にとっては聖書の神のみを意味し(マタイ4:10)、支配者であるローマ帝国では君主たる皇帝カイザルを意味します(ヨハネ19:15)。つまり当時の人々にとって到底受け入れられない呼び名を、ペテロたちは伝えているのです。

 ペテロたちはイエスがキリストであることを、イエスとともに様々な体験をしたことによって認めました(マタイ17:1-8)。その体験は人間の力によるものではなく、まさに神の力の現われでした(コリント第一1:22-25)。私たちもイエス・キリストを通して神の力を体験し、心に神の光を受けることができます(:19)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/29

2025年4月20日(日) イースター礼拝

作者:太田玲子(鶴見福音教会


 イースター礼拝
2025年4月20日(日)10:30~11:45
※礼拝後、希望者による昼食会を予定

志村キリスト教会 牧師:横山唯一
〒174-0041 東京都板橋区舟渡2-7-10
TEL&FAX 03-3969-7040
E-mail: jag4mura_kyokai@yahoo.co.jp

2025/03/27

聖書の教理~(28)聖霊の賜物

 聖霊の賜物とは、教会の益となる働きをするため聖霊によって与えられる力です(コリント第一12:4-7)。コリント第一12:8-10には以下の具体例が挙げられています。一緒に参考聖句も示します。

 a)知恵の言葉(ローマ11:33)、b)知識の言(ペテロ第一3:19)、c)信仰(マタイ17:20)、d)いやしの賜物(ヤコブ5:15)、e)力あるわざ(奇蹟を行う力、ヨハネ14:12)、f)預言(コリント第一14:3)、g)霊を見分ける力(使徒5:3)、h)種々の異言(コリント第一14:5)、i)異言を解く力(コリント第一14:5)。

 聖霊の賜物の取り扱いについて、コリント第一14章で三つのことが教えられています。a)吟味されるべきである(コリント第一14:29)。b)制御されるべきである(コリント第一14:32)。c)熱心に求めるべきである(コリント第一14:39)。

 「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」(ペテロ第一4:10)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/23

2025年3月23日「天から示されるさいわい」

マタイ16:13-18
 16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
 16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
 16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
 16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
 16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
 16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 イエス・キリストは自らを「人の子」と言いました。その言葉は本来、人間そのものであることを意味します(民数記23:19)。

 キリストは「ダビデの子」、すなわちイスラエルの王族として生まれました(マタイ1:1)が、自らを「キリスト」であるとは言いませんでした。しかし、他者から「キリスト」(:16)、「ダビデの子」(マタイ9:27)、「神の子」(マタイ27:54)と呼ばれ、他の人々は疑いをもってキリストを見ていました(マタイ12:23)。

 ペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という言葉は、それこそ画期的でした。他の人々はせいぜい「預言者」(:14)と言うに留まりました。キリストはペテロの言葉を「さいわいである」(:17)といって受け入れました。

 聖書の神は、人知によらない天の知恵によって私たちに名前を授けられます(イザヤ45:4)。神の御言葉の上に私たちの人生を築き上げましょう。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/03/20

聖書の教理~(27)聖霊の体験

 聖霊(神の御霊)は、キリストが約束された通りクリスチャンにくだり、様々な体験を与えます(使徒1:4-8)。

 a)罪を認めさせる。「(聖霊は)罪と義とさばきについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネ16:8)

 b)新しく生まれる。「霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならない…」(ヨハネ3:6-7)

 c)内に住まわれる。「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮」(第一コリント6:19)

 d)聖なる者とされる。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)

 e)力を受ける。「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。」(使徒4:31)

 f)永遠に体験し続ける。「わたし(キリスト)が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)

 御言葉に証しされている聖霊の体験を日々、豊かに受けましょう。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」(ガラテヤ5:25)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/03/16

2025年3月16日「聖なる道が開かれる」

 イザヤ35:1-10 
 35:1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
 35:2 さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
 35:3 あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
 35:4 心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。
 35:5 その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
 35:6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
 35:7 焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。
 35:8 そこに大路があり、
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 35:9 そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。

 聖書の国イスラエルは、雨の降る季節(冬)と雨の降らない季節(夏)で、一年が二つの季節に分かれます。その二つの季節の合間のごく短い期間に、花は一斉に開き、大地は一面の花畑に変わります。「さばくは喜びて花咲き…かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」(:1-2)

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道3:1)このことを神の民は生活の中で体験し、人間の歴史にも時が定められていることを悟ります。花が開く一瞬の出来事の前に、長い忍従の時があること、そして忍従の後に喜びの季節が必ずやって来ることを、私たちも信仰によって期待し、待ち望むことができます。

 聖書は神の民に語りかけます。「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」(:3)「ぶどうの木から葉の落ちる」(イザヤ34:4)季節の後には、必ず新しい芽吹きの季節がやって来ます。「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。」(:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/13

聖書の教理~(26)新約の聖霊

 新約聖書において聖霊の現われは、イエス・キリストの全生涯を通して示されています。

 a)聖霊による誕生。「その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。…その名をイエスと名づけなさい。」(マタイ1:20-21)

 b)聖霊によるバプテスマ。「イエスはバプテスマを受けると…神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。」(マタイ3:16)

 c)聖霊による奉仕。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために…」(ルカ4:18)

 d)聖霊による受難。「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」(マタイ4:1)

 e)聖霊による復活。「イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊」(ローマ8:11)

 f)聖霊による昇天。「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」(使徒2:33)

 今日、キリストを信じる者に、キリストによって聖霊が授けられることが約束されています。「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/09

2025年3月9日「あなたは命を選べ」

申命記30:15-20
 30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
 30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、
 30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。
 30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。
 30:20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。

 申命記はイスラエル人に対するモーセの最後の説教です。イスラエルの長い荒野の旅路を振り返りつつ、その道中の苦難と神の導き、教えの数々を覚えるべきことを命じています(申命記8:2)。

 聖書の神はモーセを通して、命とさいわいをもたらす善の道と、死と災いをもたらす悪の道を、多くの教えの言葉によって示されました。申命記において、モーセは再度神の教えを語り告げ、民の目の前にはっきりと二つの道を置きました(:15)。命も死も、決して一瞬の出来事でなく、長い旅路の末に至るものです。

 「命を選ぶ」(:19)ということは、神から示された正しい人生を選択するということであり、その結果は自分一人だけでなく子孫に、他の人々にも残すことのできる遺産となります。命に至る道をしっかりと見極め、神の祝福を受け継ぐものとなりましょう。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)