2025/04/17

聖書の教理~(31)死の問題

 聖書は、死は人間の罪の結果であると言っています(ローマ5:12)。そして、「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示された」(テモテ第二1:10)と宣言しています。

 人間は、必ず死ぬ定めにあるだけでなく、「死んだ後さばきを受ける」、すなわち死後の存在があることも聖書は教えています(ヘブル9:27)。善人も悪人も、さばきを受けるために死からよみがえると、キリストは教えています(ヨハネ5:29)。

  キリストの救いに与ったクリスチャンにとって、死は休みであり(黙示録14:13)、眠りである(テサロニケ第一4:13-14)と言われています。「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」(エペソ5:14)。

 聖書には死からの救いの約束が多く記されています(ダニエル12:1-3等)。

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(テサロニケ第一4:13)

「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(テサロニケ第一4:18)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/04/13

2025年4月13日「主のみもとに帰る」

哀歌5:15-22
 5:15 われわれの心の喜びはやみ、
踊りは悲しみに変り、
 5:16 われわれの冠はこうべから落ちた。
わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。
 5:17 このために、われわれの心は衰え、
これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
 5:18 シオンの山は荒れはて、
山犬がその上を歩いているからである。
 5:19 しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。
あなたの、み位は世々絶えることがない。
 5:20 なぜ、あなたはわれわれをながく忘れ、
われわれを久しく捨ておかれるのですか。
 5:21 主よ、あなたに帰らせてください、
われわれは帰ります。
われわれの日を新たにして、
いにしえの日のようにしてください。
 5:22 あなたは全くわれわれを捨てられたのですか、
はなはだしく怒っていられるのですか。

 「哀歌」は聖書の民イスラエルの「悲しみの歌」です。イスラエル人にとって最悪の経験の一つが、預言者エレミヤの時代の「バビロン捕囚」でした。イスラエル人は数々の苦難を経験して、神への賛美である詩篇とともに哀歌も今日まで歌い継いできました。

 苦役の叫び(出エジプト2:23)から始まったイスラエルの祈りは、心からの訴えを含む歌にまで昇華しました(哀歌5章)。家も(:2)、家族も(:3)、資源も(:4)、自由も(:5)、ことごとく敵国に奪われてしまいました。日常生活だけでなく、祭りの踊りも絶えて、喪の儀式に変わり(:15)、民の心も衰え(:17)、最も尊い聖所が山犬の住みかに変わってしまいました(:18)。

 しかし、イスラエルの民は消え失せませんでした。国を失えど、聖書の神への信仰を失わず(:19)、変わらない神にすがって自らを保ちました。「主よ、あなたに帰らせてください」(:21)との祈りに主は応え、イスラエルを回復されました。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/10

聖書の教理~(30)教会の働き

 キリストは昇天する前、地上に残る弟子たちに数々の使命を授けました(マタイ28:19-20、マルコ16:15、ルカ24:46-49)。弟子たちはキリストの使命と約束を胸に抱きつつ、祈り続けました(使徒1:15)。ペンテコステ(五旬節)の日になり、その約束の通りに聖霊に満たされ(使徒2:1-4)、弟子たちは「キリストの証人」(使徒1:8)として活動し始めました。

 彼らの活動内容は、今日まで引き継がれている教会の使命と同じです。すなわち、a)伝道(使徒2:40)、b)礼拝(使徒2:46)c)交わり(使徒2:42)、d)きよい生活(使徒2:42)などです。

 教会では特に二つの儀式を「礼典」として守り行っています。ともにキリストご自身によって制定されたもので、キリストの与える「永遠のいのち」にあずかることを意味しています(ヨハネ6:51)。

 a)洗礼(バプテスマ、マタイ28:19)。洗礼を受けることは、「キリストを着た」(ガラテヤ3:27)ことであると言われています。

 b)聖餐(ルカ22:19)。聖餐のパンは「キリストのからだ」、聖餐の杯(ぶどう酒、またはぶどうジュース)は「キリストの血」を示すものです(ルカ22:19-20)。

 礼拝を中心とする教会の活動は、信者だけではなくすべての人に開かれていて、参加することができます(使徒2:42)。それぞれの活動の意義を理解した上で参加し、「キリストのいのち」を体験してください。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/04/06

2025年4月6日「主の杯を飲む」

マタイ20:20-28
 20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
 20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
 20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
 20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
 20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
 20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
 20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 キリストは弟子たちに繰り返し神の国の奥義を教え(マタイ6:33)、エルサレムでの受難について予告しました(マタイ20:18-19)。ある者たちはその意を誤解したまま主にお願いしました(:20)。主は彼らの誤解に対して適切にたしなめました。

 「御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように」(:21)との願いはかなえられませんでした。そのことは、「ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた」(マタイ27:38)と言われる形で実現しました。

 「わたしの飲もうとしている杯を飲むこと」(:22)はかなえられました。しかし、それは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と主が祈られた、十字架の苦難を示すものでした。

 弟子たちが願ったことは、彼らの理解とは異なるものでした。しかし、主は願う者たちに「神の国」を賜ります。「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/03

聖書の教理~(29)教会の性質

 教会は、a)キリストのからだ(コロサイ2:19)、b)神の宮(ペテロ第一2:4-6)、c)キリストの花嫁(コリント第二11:2)にたとえられています。それぞれ、キリストはかしら、礎石、花婿(夫)として教会に属しています。

 新約の「教会」(マタイ16:18)は、旧約の「会衆」(出エジプト12:3)がひな型となっています。荒野に「幕屋」が神の宮として建てられた(出エジプト40章)のに対し、ペンテコステの日に教会に聖霊が注がれ(使徒2:4)、「聖霊の宮」(コリント第一6:19)が誕生しました。ダビデが神のすまいを建てたいと願った(サムエル下7章)のを受けてソロモンが「神殿」を建てましたが(列王紀上5~8章)、新約は教会こそ「神のすまい」であると言います(エペソ2:20-22)。

 キリストは昇天する前に弟子たちにこう命じました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマ(洗礼)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイ28:19-20)私たち教会は今日も主の命に従い、キリストを信ずべきことを教え、洗礼を授け、教会の交わりを保っています(使徒2:38-47)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/30

2025年3月30日「キリストに現れた神の威光」

ペテロ第二1:16-19
 1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
 1:17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
 1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
 1:19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

 キリストと言われるイエスは、ベツレヘムに母マリヤから生まれ(ルカ2:6-7)、父ヨセフの子としてナザレで育ちました(マタイ2:21-23)。「神の子キリスト」(マタイ16:16)という呼び名は弟子たちによるものです。

 弟子のペテロは「主イエス・キリスト」(:16)を私たちに知らせています。「主」という言葉は、聖書の民イスラエル人にとっては聖書の神のみを意味し(マタイ4:10)、支配者であるローマ帝国では君主たる皇帝カイザルを意味します(ヨハネ19:15)。つまり当時の人々にとって到底受け入れられない呼び名を、ペテロたちは伝えているのです。

 ペテロたちはイエスがキリストであることを、イエスとともに様々な体験をしたことによって認めました(マタイ17:1-8)。その体験は人間の力によるものではなく、まさに神の力の現われでした(コリント第一1:22-25)。私たちもイエス・キリストを通して神の力を体験し、心に神の光を受けることができます(:19)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/29

2025年4月20日(日) イースター礼拝

作者:太田玲子(鶴見福音教会


 イースター礼拝
2025年4月20日(日)10:30~11:45
※礼拝後、希望者による昼食会を予定

志村キリスト教会 牧師:横山唯一
〒174-0041 東京都板橋区舟渡2-7-10
TEL&FAX 03-3969-7040
E-mail: jag4mura_kyokai@yahoo.co.jp

2025/03/27

聖書の教理~(28)聖霊の賜物

 聖霊の賜物とは、教会の益となる働きをするため聖霊によって与えられる力です(コリント第一12:4-7)。コリント第一12:8-10には以下の具体例が挙げられています。一緒に参考聖句も示します。

 a)知恵の言葉(ローマ11:33)、b)知識の言(ペテロ第一3:19)、c)信仰(マタイ17:20)、d)いやしの賜物(ヤコブ5:15)、e)力あるわざ(奇蹟を行う力、ヨハネ14:12)、f)預言(コリント第一14:3)、g)霊を見分ける力(使徒5:3)、h)種々の異言(コリント第一14:5)、i)異言を解く力(コリント第一14:5)。

 聖霊の賜物の取り扱いについて、コリント第一14章で三つのことが教えられています。a)吟味されるべきである(コリント第一14:29)。b)制御されるべきである(コリント第一14:32)。c)熱心に求めるべきである(コリント第一14:39)。

 「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」(ペテロ第一4:10)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/23

2025年3月23日「天から示されるさいわい」

マタイ16:13-18
 16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
 16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
 16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
 16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
 16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
 16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 イエス・キリストは自らを「人の子」と言いました。その言葉は本来、人間そのものであることを意味します(民数記23:19)。

 キリストは「ダビデの子」、すなわちイスラエルの王族として生まれました(マタイ1:1)が、自らを「キリスト」であるとは言いませんでした。しかし、他者から「キリスト」(:16)、「ダビデの子」(マタイ9:27)、「神の子」(マタイ27:54)と呼ばれ、他の人々は疑いをもってキリストを見ていました(マタイ12:23)。

 ペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という言葉は、それこそ画期的でした。他の人々はせいぜい「預言者」(:14)と言うに留まりました。キリストはペテロの言葉を「さいわいである」(:17)といって受け入れました。

 聖書の神は、人知によらない天の知恵によって私たちに名前を授けられます(イザヤ45:4)。神の御言葉の上に私たちの人生を築き上げましょう。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/03/20

聖書の教理~(27)聖霊の体験

 聖霊(神の御霊)は、キリストが約束された通りクリスチャンにくだり、様々な体験を与えます(使徒1:4-8)。

 a)罪を認めさせる。「(聖霊は)罪と義とさばきについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネ16:8)

 b)新しく生まれる。「霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならない…」(ヨハネ3:6-7)

 c)内に住まわれる。「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮」(第一コリント6:19)

 d)聖なる者とされる。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)

 e)力を受ける。「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。」(使徒4:31)

 f)永遠に体験し続ける。「わたし(キリスト)が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)

 御言葉に証しされている聖霊の体験を日々、豊かに受けましょう。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」(ガラテヤ5:25)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/03/16

2025年3月16日「聖なる道が開かれる」

 イザヤ35:1-10 
 35:1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
 35:2 さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
 35:3 あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
 35:4 心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。
 35:5 その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
 35:6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
 35:7 焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。
 35:8 そこに大路があり、
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 35:9 そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 35:10 主にあがなわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。

 聖書の国イスラエルは、雨の降る季節(冬)と雨の降らない季節(夏)で、一年が二つの季節に分かれます。その二つの季節の合間のごく短い期間に、花は一斉に開き、大地は一面の花畑に変わります。「さばくは喜びて花咲き…かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」(:1-2)

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道3:1)このことを神の民は生活の中で体験し、人間の歴史にも時が定められていることを悟ります。花が開く一瞬の出来事の前に、長い忍従の時があること、そして忍従の後に喜びの季節が必ずやって来ることを、私たちも信仰によって期待し、待ち望むことができます。

 聖書は神の民に語りかけます。「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」(:3)「ぶどうの木から葉の落ちる」(イザヤ34:4)季節の後には、必ず新しい芽吹きの季節がやって来ます。「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。」(:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/13

聖書の教理~(26)新約の聖霊

 新約聖書において聖霊の現われは、イエス・キリストの全生涯を通して示されています。

 a)聖霊による誕生。「その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。…その名をイエスと名づけなさい。」(マタイ1:20-21)

 b)聖霊によるバプテスマ。「イエスはバプテスマを受けると…神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。」(マタイ3:16)

 c)聖霊による奉仕。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために…」(ルカ4:18)

 d)聖霊による受難。「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」(マタイ4:1)

 e)聖霊による復活。「イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊」(ローマ8:11)

 f)聖霊による昇天。「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」(使徒2:33)

 今日、キリストを信じる者に、キリストによって聖霊が授けられることが約束されています。「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/09

2025年3月9日「あなたは命を選べ」

申命記30:15-20
 30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
 30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 30:17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、
 30:18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。
 30:19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。
 30:20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。

 申命記はイスラエル人に対するモーセの最後の説教です。イスラエルの長い荒野の旅路を振り返りつつ、その道中の苦難と神の導き、教えの数々を覚えるべきことを命じています(申命記8:2)。

 聖書の神はモーセを通して、命とさいわいをもたらす善の道と、死と災いをもたらす悪の道を、多くの教えの言葉によって示されました。申命記において、モーセは再度神の教えを語り告げ、民の目の前にはっきりと二つの道を置きました(:15)。命も死も、決して一瞬の出来事でなく、長い旅路の末に至るものです。

 「命を選ぶ」(:19)ということは、神から示された正しい人生を選択するということであり、その結果は自分一人だけでなく子孫に、他の人々にも残すことのできる遺産となります。命に至る道をしっかりと見極め、神の祝福を受け継ぐものとなりましょう。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/03/06

聖書の教理~(25)旧約の聖霊

 聖霊について、旧約聖書でも多く言及されていてその性質が示されています。

 a)創造の霊。前回学んだように、聖霊は創造の働きに関与しています(創世記1:2)。聖書において「霊」は「息」と表現されることがあります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)

 b)力の霊。神はモーセに与えた御霊を七十人の長老にも分け与え、民の重荷を担う力を与えました(民数記11:17)。人に神の力が臨むことを「主なる神の手がわたしの上に下った」(エゼキエル8:1)と表現しています。

 c)再生の霊。神はエゼキエルに「息よ、四方から吹いて来て…彼らを生かせ」と預言させ、死人がよみがえる幻を示されました(エゼキエル37:9-10)。この幻は捕囚の民が回復し、再生することを示すものでした。

 d)約束の霊。神は「わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ」(ヨエル2:28)と約束されました。新約聖書はこれを受けて、「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれた」(使徒2:33)と証ししています。

 聖霊の働きは旧約時代にも散発的に行われました。しかし、旧約時代すなわちキリスト以前は「御霊がまだ下っていなかった」(ヨハネ7:39)と言われ、「すべての者に注ぐ」という約束は後の時代に実現しています。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/02

2025年3月2日「主のいつくしみはとこしえに」

詩篇107:10-16
 107:10 暗黒と深いやみの中にいる者、
苦しみと、くろがねに縛られた者、
 107:11 彼らは神の言葉にそむき、
いと高き者の勧めを軽んじたので、
 107:12 主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。
彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。
 107:13 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、
主は彼らをその悩みから救い、
 107:14 暗黒と深いやみから彼らを導き出して、
そのかせをこわされた。
 107:15 どうか、彼らが主のいつくしみと、
人の子らになされたくすしきみわざとのために、
主に感謝するように。
 107:16 主は青銅のとびらをこわし、
鉄の貫の木を断ち切られたからである。

 詩篇107篇は「主のいつくしみ」(詩篇107:1,43)に囲まれた賛美歌です。主のいつくしみは、救いを求めて主に呼ばわる者に注がれます(:13)。主は「もろもろの国」の「東、西、北、南」に住む人々にいつくしみを注がれます(詩篇107:3)。

 ここで歌われている人々の救いは、主なる神の救いを示す少数の例に過ぎません。迷う者には導きを(:4-9)、縛られた者には解放を(:10-16)、病む者にはいやしを(:17-22)、悩む者には平安を(:23-30)、「主のいつくしみ」は求める者に適切な救いをもたらします。

 キリストは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」(マタイ7:7)と語られます。私たちがなすべきことは主に救いを求めることであり、「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝する」(詩篇107:31)ことです。「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」(詩篇106:48)と叫んで主の救いを賛美しましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/27

聖書の教理~(24)聖霊の性質

 聖書の神の第三位格である「聖霊」について、聖書はその呼び名によって聖霊の性質を説明しています。

 a)神の霊。神による天地創造の業に、神の霊が関与していることが示されています(創世記1:1-2)。神の霊はキリストに下り(マタイ3:16)、キリストの弟子たちに下りました(使徒2:2-4)。

 b)キリストの霊。神の霊が「キリストの霊」(ローマ8:9)と言い換えられています。

 c)助け主。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…るであろう。」(ヨハネ14:16)

 d)聖霊(聖なる霊)。「ところが彼らはそむいてその聖なる霊を憂えさせたので、主はひるがえって彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」(イザヤ63:10)

 e)約束の霊。「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」(使徒2:33)

 f)真理の霊。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16:13)

 これらの聖霊の性質はクリスチャンを助ける力となります。「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」(エペソ1:13)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/23

2025年2月23日「小さな者の大きな信仰」

マタイ15:21-28
 15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
 15:23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
 15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
 15:25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
 15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
 15:27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
 15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

 キリストの地上での宣教の主な対象は、異邦人ではなくユダヤ人でした(マタイ10:5-6)。しかし、ユダヤ人の一部の人々がキリストに反発し(マタイ15:1-2)、そのために宣教の旅路が変えられることも度々ありました。「ツロとシドンとの地方」(:21)は宣教の目的地ではありませんでした(:24)。

 しかし、カナン人の女性がキリストに向かって「ダビデの子よ」と叫びました(:22)。異邦人である彼女はユダヤ人の信仰に学んで、娘の回復のためワラをもつかむ思いでキリストの奇跡を求めたのです。キリストは彼女の高度な信仰的理解に応じて、「小犬とパン」のような高度なたとえで諭されました(:26)。

 「小犬」のたとえは侮辱とも捉えられる言葉でしたが、彼女はキリストの言葉を活用し、「小犬もパンくずはいただきます」と応答しました(:27)。キリストは「あなたの信仰は見あげたものである」(:28)と言って癒やしの奇跡を行われました。信仰が山を動かす力を持つ一例をここに見ます(マタイ17:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/20

聖書の教理~(23)救いの保証

 キリストは「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)と言われました。キリストから救いを受けたクリスチャンは、救いを失うことがあるでしょうか。既に受け取った救いをないがしろにしないように、キリストはこのような戒めを語られたのです。

 一方で聖書は、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)とも言っています。救いは神の業であり、神が間違いなく保証しておられますが、受け手である私たち人間には救いの事実を忘れてはならない責任があります。

 「クリスチャンの完全」という言葉があります。私たちが救いを忘れず確保するために、以下の事柄が求められます。a)罪を避けて神の御旨に従う(申命記18:13)。b)神の定めた目標に達する(マタイ5:48)。c)御霊により導かれる(ガラテヤ3:3)。d)時間をかけて結実する(ガラテヤ5:22-23)。

 神の完全な救いに与るためには、私たち自らの意思で神の御旨に従う必要があります。その時、私たちを神の御霊が助けてくださいます。「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」(ガラテヤ5:5)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/16

2025年2月16日「道を教える師」

イザヤ30:18-21
 30:18 それゆえ、主は待っていて、
あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、
あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。
 30:19 シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。
 30:20 たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。
 30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。

 預言者イザヤの時代、イスラエル王国の身の周りも戦争が多くあり、諸国は戦いのために馬を多く集めていました(イザヤ30:16)。しかし、聖書は「馬を多く獲ようとしてはならない」(申命記17:16)と忠告しています。

 私たち人間は、いつ来るかわからない災難を恐れて不安に陥りがちです。必要な備えを整えつつも、災難に遭うことを思い描くばかりではいけません。なぜなら、「あなたの神、主が共におられるから」(申命記20:1)です。

 聖書の神は災いの神ではなく、恵を施される神です。神は人に幸いをもたらすために待っておられます。それゆえ、「すべて主を待ち望む者はさいわいである」(:18)と言われています。

 人は何の指針もないと不安になります。しかし、聖書の神は教師であり、私たちに行くべき道を教えられます(:21)。私たちに必要なのは、当てもなく何もしないことでなく、神の幸いを信じて行動することです。「これは道だ、これに歩め」という声は信仰をもって前進する者に与えられます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/13

聖書の教理~(22)聖化

 「聖化」とは、人が「聖となる」(出エジプト40:9)ということです。聖書の言葉から学ぶと、聖化とは礼拝用具のように、神への奉仕のために取り分けられる(聖別)ことを意味します。

 聖化はいつ起こるのでしょうか。聖書は、神のわざによって瞬間的に聖化される(コリント第一1:2)ことと、人の努力によって時間をかけてゆっくり聖化される(ヘブル12:14)ことの両方を教えています。これは、人の聖化の過程には、神の働きと人の働きの両面があることを示しています。

 聖化は神によって始められます。その手段は、a)キリストの血(ヘブル13:12)、b)神の霊(コリント第一6:11)、c)神の真理の御言(ヨハネ17:17)によります。

 続いて、聖化は人の努力が求められます。その努力とは、a)聖なるものとされる信仰(ローマ6:11)、b)御霊の導きへの従順(ローマ8:13)です。キリストも語られました。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/09

2025年2月9日「見ているから、さいわい」

マタイ13:10-17
 13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
 13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
 13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
 13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
 13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
   『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
   見るには見るが、決して認めない。
 13:15 この民の心は鈍くなり、
   その耳は聞えにくく、
   その目は閉じている。
   それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
   悔い改めていやされることがないためである』。
 13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
 13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

 キリストの譬(たとえ)話は、簡単に心に思い描けるような、明快な情景を題材としています。しかし、日常生活を思い描くことだけで終わってしまうなら、そこから何の知恵も得ることができません。

 キリストに一時的に従っていた群衆は、多くの者はキリストの話に満足しながら、何も得るところなく帰っていきました。しかし、弟子たちはキリストの元に留まり、そのたとえ話の説明を求めました(マタイ13:36)。

 同じ話を聞きながら、一方は得るところなく、他方は天国の奥義を知る(:11)という結果の違いは、真意を聞き取る耳を持つか否かによります(マタイ13:9)。キリストは拒むことなくすべての人に天国の奥義を語られています。「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(:16)といわれるキリストの御言葉を聞いて悟るものとなりましょう。「そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイ13:23)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/06

聖書の教理~(21)新生

 「新生」について、聖書にその多様な意味が示されています。a)神から生れること(ヨハネ第一5:1)。b)洗われて新たにされること(テトス3:5)。c)新しき人を着ること(コロサイ3:10)。d)新しく造られること(コリント第二5:17)。e)新しいいのちに生きること(ローマ6:4)。

 キリストは「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と教えています。また聖書は、父なる神が「わたしたちを…真理の言葉によって…生み出して下さった」と言っています(ヤコブ1:18)。これらの聖書の言葉を神の約束として受け取ることが、新生された人生を歩むことに必要なことです。

 さらに、新生した人は次のような結果に至ることが約束されています。a)アブラハムに約束された神の特権の相続人となる(ガラテヤ3:29)。b)主なる神と一つの霊になる(コリント第一6:17)。c)神を愛し、罪を憎むようになり、罪を犯すことができなくなる(ヨハネ第一3:9)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/02

2025年2月2日「主のあかしを受け継ぐ」

使徒7:44-50
 7:44 わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。
 7:45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
 7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
 7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
 7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
 7:49 『主が仰せられる、
   どんな家をわたしのために建てるのか。
   わたしのいこいの場所は、どれか。
   天はわたしの王座、
   地はわたしの足台である。
 7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

 「幕屋」とは、出エジプト時代の聖所、すなわちイスラエル人の礼拝場所でした(出エジプト25:8-9)。民が神の約束の地に向かって旅する間、神が民と一緒に旅をし、共に住まわれることを示すものでした。幕屋の最奥には十戒、すなわち神の戒めをあかしする板を納めた「あかしの箱」(出エジプト25:21-22)が納められました。

 その後のイスラエル王国時代に、確立した王権のもとに堅固な宮(神殿)が建てられ、もはやモーセの時代のように移動する必要がなくなりました。しかし、堅固な宮は神の永遠の住まいではありませんでした。「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。…ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。」(列王紀上8:27)

 聖書の神は場所や物によって、まして人間の願いで固定できるものではありません。天地の造り主であられる神に祈りをささげられることを感謝しましょう。「われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。」(詩篇124:8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/01/30

聖書の教理~(20)義認

 「義認」とは、「神が人を正しい(義)と認めること」を意味します。聖書のことばによって、義認の様々な側面を確認していきましょう。

 a)義認は、神を裁判官と見て、「神によって無罪判決が下されること」にたとえられます(ローマ8:33)。神による裁定に対しては上訴ということがなく、異議申し立ても許されないものです。

 b)義認が示す「正しさ」は、人の準拠すべき標準を示します。神によって立てられた標準に達する人はひとりもなく、すべての人が有罪とみなされています(ガラテヤ3:22)。しかし、神は信仰によって義とみなされる道を開いてくださいました(ガラテヤ3:24)。

 c)義認は、神の恵みによってのみ実現します。義とみなされるために人が代価を支払う必要がありません。キリストの血が代価として支払われたからです(ローマ3:24)。

 d)義認は、キリストの義を着せられることにたとえられます(第一コリント1:30)。神は罪人を覆うため着物を用意して着せられました(創世記3:21)。

 e)義認は、信仰によって私たちのものとすることができます。私たちは「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」(ピリピ3:9)のです。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/01/26

2025年1月26日「暗黒に光がのぼった」

 マタイ4:12-17
 4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
 4:13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
 4:14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
 4:15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、
   海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
   異邦人のガリラヤ、
 4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
   死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
 4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」

 キリストは、荒野で悪魔に試みられた後(マタイ4:1-11)、バプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤへ退き(:12)、カペナウムの町で宣教をはじめました(:13,17)。これらの出来事は思いがけない災難だったと見えるかもしれません。しかし、キリストは「御霊に導かれ」(マタイ4:1)た結果これらの出来事を経験したのであり、神からの預言の言(ことば)が成就するためであった(:14)と聖書は語っています。

 私たちも見えることだけに捕われていると、目に見えない真実を見逃してしまいます。不当な逮捕の結果、ヨハネの宣教は中断させられました(マタイ14章)。しかし、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)との宣教の言は、キリストによって継承されました(:17)。人の悪事は神の言を縛ることができません(ルカ3:20)。キリストの宣教の言は「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見」(:16)させました。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/01/23

聖書の教理~(19)救いの性質

  聖書の約束する「救い」には三つの側面があります。a)義認:義と認められること(コリント第二5:21)。b)新生:新しく造られること(コリント第二5:17)。c)聖化:聖なるものとされて神に召されること(コリント第一1:2)。外見からは義認・新生・聖化の順番で、救いが人の外面から内面へ及ぶように見えますが、実際は救いの三面は同時に始まります。

 救われるための条件は人のうちにはなく、神からの賜物です(使徒11:18)。しかし、神の賜物が動因となって、人は二つの行動を示すことで救いに至ります。すなわち、悔い改め(マルコ1:15)と信仰(ローマ10:9-10)です。神から与えられたこれらの行動は知識に留まるものでなく、人の心を造り変え、明確な変化をもたらします。

 悔い改めは「回心」とも表します。その心の変化は一時的なものに留まらず、人生の方向を転回させるものです。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒3:19)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/01/19

2025年1月19日「人の子よ、立ちあがれ」

エゼキエル2:1-7
 2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
 2:2 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
 2:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
 2:4 彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。
 2:5 彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
 2:6 人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
 2:7 彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。

 エゼキエルは神殿に仕える祭司でしたが、多くの民とともにバビロンへ捕囚となりました。そこで彼は神から新しい使命を与えられ、預言者となりました(エゼキエル1:1-3)。

 彼は恐ろしい幻を見て顔をふせました(エゼキエル1:28)。しかし「人の子よ、立ちあがれ」(:1)という声がかかりました。そして恐れるエゼキエルを立ちあがらせたのは神から送られた「霊」(:2)の力でした。

 エゼキエルの使命は大変困難なものでした。神の言葉を伝えるべき相手であるイスラエル人は「反逆の民」(:3)であり、「厚顔で強情な者たち」(:4)であると予告されました。しかし、エゼキエルのうちに宿った「御霊」が彼を奮い立たせ、神の言葉を告げさせました。

 今日の私たちもエゼキエルの姿から学べることがあります。私たちが「あざみといばら」(:6)の道を行くことがあっても恐れてはなりません。「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」(テモテ第二1:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/01/16

聖書の教理~(18)新約の贖罪

  新約聖書も、旧約聖書が示した贖い(あがない)の教理を示しています。イザヤ書の「苦難のしもべ」(イザヤ42:1等)の生き方を、イエス・キリストはその生涯において実践しました(マタイ3:17等)。キリストは聖餐のパンと杯によって自らの苦難を示し、弟子たちに「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)と命じました。

 贖罪が必要である理由は、a)神の聖(完全)の実現のため(マタイ5:48)、b)人の罪の赦しのため(コロサイ2:13-14)、c)神の怒りを鎮めるため(ローマ2:5)です。

 贖罪がもたらす効力は、a)罪の赦し(エペソ1:7)、b)罪からの解放(ローマ6:14)、c)死からの解放(ヨハネ11:25-26)、d)永遠の命(ヨハネ3:15)、e)悪魔からの解放(ヘブル2:14-15)です。今日も贖罪の恵みは、キリストによって私たちに示されています(コロサイ1:14)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/01/12

2025年1月12日「主に寄り頼む者はさいわい」

詩篇2:7-12
 
  2:7 わたしは主の詔をのべよう。 
主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。
きょう、わたしはおまえを生んだ。
 2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え、
地のはてまでもおまえの所有として与える。
 2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、
陶工の作る器物のように彼らを
打ち砕くであろう」と。
 2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、
地のつかさらよ、戒めをうけよ。
 2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
 2:12 その足に口づけせよ。
さもないと主は怒って、
あなたがたを道で滅ぼされるであろう、
その憤りがすみやかに燃えるからである。
すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

 詩篇2篇はイスラエルの王が即位したことを祝う歌です(詩篇2:6)。ここではイスラエルの王を「神の子」と呼んでいます(:7)。「神の子」は生まれながらの血統を意味するのではなく、神によって任命され、神から王としての権限と権力を授けられた者(:8,9)を示します。

 イスラエルの歴史において、ダビデ王はつえをもって牧する羊飼いから選ばれ(サムエル上16章)、ソロモン王は民をさばく賢さを神に求めました(列王紀上3章)。詩篇2篇にはイスラエルの歴代の偉大な王の記憶がうたわれています。

 イエス・キリストの「神の子」(マルコ1:1)という呼び名(称号)も同じ意味あいが込められています。また、キリストは私たちに「神の子となる力を与えた」(ヨハネ1:12)と言われています。おそれ多くも尊い「神の子」への呼びかけに応じて、私たちも主キリストに仕え、日々を生きるための賢さを頂きましょう。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/01/09

聖書の教理~(17)旧約の贖罪

 贖い(あがない)とは、「ある物を代償として差し出して、他の物を手に入れること」を意味します。聖書においては「罪を償うこと」を意味し、贖罪(しょくざい)とも言われます。

 旧約聖書においては、イスラエル人が罪の贖いのために動物をいけにえ(犠牲)として殺し、祭壇でそのいけにえを燃やし、神にささげました。アブラハムは息子のイサクの身代わりとして雄羊を全焼のいけにえ(燔祭)としてささげました(創世記22:13)。

 また、アダムとエバが罪を犯したためエデンの園を追放された時、神は彼らに皮の着物を着せられました(創世記3:21)。つまり皮の着物を造るために動物が犠牲となって、人の裸が覆われたのでした。これらの出来事は、新約聖書のキリストの十字架による贖罪を予め示しています(使徒2:23、黙示録5:9)。

 旧約聖書で示された贖罪の出来事を通して私たちは、a)神が贖罪の手段を制定されたこと(レビ4:26)、b)犠牲は心を込めてささげられるべきこと(詩篇50:14)、c)動物犠牲は贖罪の手段としては不完全であり、キリストにより完全な贖罪が全うされる(ヘブル10:3-7)ことを知ることができます。 

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/01/05

2025年1月5日「慰めに満ちたる神」

コリント第二1:3-7 
 1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
 1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
 1:5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
 1:6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。
 1:7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。

 コリントの町の教会の人々は、使徒パウロが自ら伝道した人々です(使徒18章)。パウロは遠隔地から多くの手紙を送る等をして多大な労力をかけました。この手紙の言葉にはパウロの多くの思いが込められています。

 彼らとパウロは多くの患難(:4)を共に味わいました。パウロは直接顔を合わせて(コリント第二10:14)、また手紙を通して(コリント第二7:8)、彼らを熱心に教育しました。再び彼らに向けて筆を取ったとき、パウロの心からあふれ出たのはキリストの父なる神の「あわれみ」と「慰め」(:3)でした。

 パウロの確信は、神が「あらゆる患難の中にある人々を慰める」(:4)ことができるということでした。それはパウロ自身が受けた慰めであり、パウロがよく知るコリント人たちも得ることのできる慰めです。

 クリスチャンであるゆえに受ける「キリストの苦難」(:5)があります。しかし、同時にクリスチャンであるゆえに得られる「慰め」もあるのです。聖書の御言葉に耳を向けましょう。「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」(イザヤ40:1) 

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)