2024/03/31
讃美歌21・328「たたかいは終わり」
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
1)たたかいは終わり 主は死に勝たれた
主をほめたたえよ ハレルヤ
2)主は敵を破り 死はいま滅びた
高らかに歌え ハレルヤ
3)永遠のいのち われらにくださる
主を宣べ伝えよ ハレルヤ
4)すべての栄えは よみがえりの主に
よろこびたたえよ ハレルヤ
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/03/24
2024年3月24日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・311「血しおしたたる」
聖書:ヘブル10:19-25
ヘブル人への手紙は、聖書の民であるイスラエル人、別名ヘブル人に宛てて、聖書(旧約聖書)を用いて神の御子イエス・キリストを説明する手紙です(ヘブル1章1~2節)。
イスラエル人は、モーセを通して神の宮である聖所を与えられ、聖所の前で神に礼拝をささげました(出エジプト15章17節)。その地上の聖所は、天にある真の聖所の模型であり、キリストは真の聖所で仕える大祭司であるとヘブル書は教えています(ヘブル9章24~25節)。大祭司であるキリストはあわれみ深く、神の民を助けてくださいます(ヘブル2章17~18節)。
地上の聖所には最も奥にある至聖所があり、大祭司が一年に一度しか入ることができませんでした。すなわち、聖所での礼拝では、神のみまえに簡単に近づくことができません(ヘブル9章1~9節)。大祭司が聖所に入るためには犠牲の血が必要です(ヘブル9章25節)。キリストは自らの血を用いて、すなわち十字架の死によって全人類の罪の清め(あがない)を成し遂げられました(ヘブル9章12節)。そのため、今日私たちはキリストへの信仰によって、はばかることなく神のみまえに近づくことができるのです(ヘブル10章19節)。
キリストを信じクリスチャンになるとき、教会では水を用いた洗礼式が行われます。それもモーセ時代の聖所の型と同様、罪の清めを意味する型です(ヘブル10章22節)。その意義を踏まえて、教会の諸儀式も味わっていただきたいと願います。教会の営みに加わって神のみまえに行き、ご一緒に神の祝福に与りましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは聖書が示す出来事を通して、また教会で行われる様々な行事を通して、神ご自身が私たちを招いておられることを学びました。その意義を正しく理解することができ、私たちも神が賜る至福の恵みに豊かに与ることができますよう願い求めます。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:ヘブル10:19-25
わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ…(ヘブル10章19節)
ヘブル人への手紙は、聖書の民であるイスラエル人、別名ヘブル人に宛てて、聖書(旧約聖書)を用いて神の御子イエス・キリストを説明する手紙です(ヘブル1章1~2節)。
イスラエル人は、モーセを通して神の宮である聖所を与えられ、聖所の前で神に礼拝をささげました(出エジプト15章17節)。その地上の聖所は、天にある真の聖所の模型であり、キリストは真の聖所で仕える大祭司であるとヘブル書は教えています(ヘブル9章24~25節)。大祭司であるキリストはあわれみ深く、神の民を助けてくださいます(ヘブル2章17~18節)。
地上の聖所には最も奥にある至聖所があり、大祭司が一年に一度しか入ることができませんでした。すなわち、聖所での礼拝では、神のみまえに簡単に近づくことができません(ヘブル9章1~9節)。大祭司が聖所に入るためには犠牲の血が必要です(ヘブル9章25節)。キリストは自らの血を用いて、すなわち十字架の死によって全人類の罪の清め(あがない)を成し遂げられました(ヘブル9章12節)。そのため、今日私たちはキリストへの信仰によって、はばかることなく神のみまえに近づくことができるのです(ヘブル10章19節)。
キリストを信じクリスチャンになるとき、教会では水を用いた洗礼式が行われます。それもモーセ時代の聖所の型と同様、罪の清めを意味する型です(ヘブル10章22節)。その意義を踏まえて、教会の諸儀式も味わっていただきたいと願います。教会の営みに加わって神のみまえに行き、ご一緒に神の祝福に与りましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは聖書が示す出来事を通して、また教会で行われる様々な行事を通して、神ご自身が私たちを招いておられることを学びました。その意義を正しく理解することができ、私たちも神が賜る至福の恵みに豊かに与ることができますよう願い求めます。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
讃美歌21・311「血しおしたたる」
1)血しおしたたる 主のみかしら
とげに刺されし 主のみかしら
悩みと恥に やつれし主の
痛ましきさま だれのためぞ
2)主の苦しみは わがためなり
われこそ罪に 死すべきなり
かかるわが身に 代わりましし
主のあわれみは いととうとし
3)慕わしき主よ わが牧者よ
はかり知られぬ 愛の泉
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかしき
4)主よ 主のもとに 帰る日まで
十字架のかげに 立たせたまえ
かくも悩める 主をはなれて
われはいずこ 去り行くべき
5)なつかしき主よ はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん
6)死すべき者を あがなう主よ
十字架の光 見させたまえ
み傷をあおぎ み手によらば
いまわのときも 安けくあらん
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
とげに刺されし 主のみかしら
悩みと恥に やつれし主の
痛ましきさま だれのためぞ
2)主の苦しみは わがためなり
われこそ罪に 死すべきなり
かかるわが身に 代わりましし
主のあわれみは いととうとし
3)慕わしき主よ わが牧者よ
はかり知られぬ 愛の泉
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかしき
4)主よ 主のもとに 帰る日まで
十字架のかげに 立たせたまえ
かくも悩める 主をはなれて
われはいずこ 去り行くべき
5)なつかしき主よ はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん
6)死すべき者を あがなう主よ
十字架の光 見させたまえ
み傷をあおぎ み手によらば
いまわのときも 安けくあらん
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/03/17
2024年3月17日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」
聖書:コロサイ2:8-15
キリストの使徒パウロ(コロサイ1章1節)は、コロサイ人への手紙において「むなしいだましごとの哲学」(コロサイ2章8節)と言っています。この言葉は哲学一般を指しているのではなく、当時のギリシャ文化圏に存在した特定の哲学学派を指しています。パウロはアテネにおいて「エピクロス派やストア派の哲学者」と議論を戦わせたことがあります(使徒17章18節)。
パウロが問題とした哲学の具体的な内容は記されていません。しかし、人をとりこにして、キリストの教えに反するような教えに従ってはならない、と命じているのです。キリストの教えは「神の徳」をもたらすものです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(コリント第一8章1節)と言われているように、知識を得た結果、人を見下すようになるならば、その種の知識は人の徳を高めるとは言えません。
今の時代においても、人々は支配や権威を得るべく、知識においても相争うことがあるかもしれません。神の民であるイスラエル人であっても、イスラエル人の身のしるしである割礼を誇りとし、無割礼の者を差別しました(ガラテヤ6章13節)。それに対し、パウロは「手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼」(コロサイ2章11節)を重視しました。
そして、キリストこそ「すべての支配と権威とのかしら」(コロサイ2章10節)だと言っています。そして、「無学な、ただの人たち」(使徒4章13節)であろうとも、「罪の中にあり、かつ肉の割礼がない」者であろうとも、「キリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして」(コロサイ2章13節)下さる神を知る知識に勝るものはない。そのことを至高の知識として守りなさい、とパウロは教えています。
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2章12節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。ありとあらゆる情報にあふれ、さまざまな知識に翻弄されるような時代に私たちは生かされています。その中にあっても、私たちは間違いのない確かな知識により頼んで歩むことができますように。キリストの祈りを私たちもいたします。「真理によって…聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネ17章17節)
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:コロサイ2:8-15
キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。(コロサイ2章9~10節)
キリストの使徒パウロ(コロサイ1章1節)は、コロサイ人への手紙において「むなしいだましごとの哲学」(コロサイ2章8節)と言っています。この言葉は哲学一般を指しているのではなく、当時のギリシャ文化圏に存在した特定の哲学学派を指しています。パウロはアテネにおいて「エピクロス派やストア派の哲学者」と議論を戦わせたことがあります(使徒17章18節)。
パウロが問題とした哲学の具体的な内容は記されていません。しかし、人をとりこにして、キリストの教えに反するような教えに従ってはならない、と命じているのです。キリストの教えは「神の徳」をもたらすものです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(コリント第一8章1節)と言われているように、知識を得た結果、人を見下すようになるならば、その種の知識は人の徳を高めるとは言えません。
今の時代においても、人々は支配や権威を得るべく、知識においても相争うことがあるかもしれません。神の民であるイスラエル人であっても、イスラエル人の身のしるしである割礼を誇りとし、無割礼の者を差別しました(ガラテヤ6章13節)。それに対し、パウロは「手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼」(コロサイ2章11節)を重視しました。
そして、キリストこそ「すべての支配と権威とのかしら」(コロサイ2章10節)だと言っています。そして、「無学な、ただの人たち」(使徒4章13節)であろうとも、「罪の中にあり、かつ肉の割礼がない」者であろうとも、「キリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして」(コロサイ2章13節)下さる神を知る知識に勝るものはない。そのことを至高の知識として守りなさい、とパウロは教えています。
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2章12節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。ありとあらゆる情報にあふれ、さまざまな知識に翻弄されるような時代に私たちは生かされています。その中にあっても、私たちは間違いのない確かな知識により頼んで歩むことができますように。キリストの祈りを私たちもいたします。「真理によって…聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネ17章17節)
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
讃美歌21・306「あなたもそこにいたのか」
1)あなたもそこにいたのか
主が十字架についたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
2)あなたもそこにいたのか
主がくぎでうたれたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
3)あなたもそこにいたのか
主が槍でさされたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
4)あなたもそこにいたのか
主を墓におさめたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
5)あなたもそこにいたのか
主がよみがえられたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い愛に
わたしはふるえてくる
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
主が十字架についたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
2)あなたもそこにいたのか
主がくぎでうたれたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
3)あなたもそこにいたのか
主が槍でさされたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
4)あなたもそこにいたのか
主を墓におさめたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い罪に
わたしはふるえてくる
5)あなたもそこにいたのか
主がよみがえられたとき
ああ いま思いだすと
深い 深い愛に
わたしはふるえてくる
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/03/11
2024/03/10
2024年3月10日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・300「十字架のもとに」
聖書:詩篇2:7-12
イエス・キリストは「神の御子」と呼ばれています(ローマ1章4節)。キリストが洗礼を受けた時(マタイ3章17節)、また高い山で姿が変わった時にも(マタイ17章5節)、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声が天からかかりました。この「神の御子」という言葉は、詩篇2篇で歌われているように、神によって立てられた王または君主であることを意味します(詩篇2篇6節)。
神によって立てられた「神の御子」に支配地(嗣業)と支配力(鉄のつえ)が与えられました(詩篇2篇8~9節)。「神の御子」は他の諸国と異なり、私利私欲ではなく神の意志を実現するために権力を振るいます。「神の御子」たる王には、神からの任命を示す油そそぎが行われました(サムエル上9章16節)。キリストという言葉は「油そそがれた者」(詩篇2篇2節)を意味します。
イエス・キリストを信じる者はクリスチャン(キリスト者)と呼ばれます(使徒11章26節)。クリスチャンという呼び名は、このような力強いキリストによる守りが約束された名前です。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(詩篇2篇12節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。イエス・キリストに神の特別なご愛顧がかけられています。私たちにはそのキリストに従い、「これに聞け」(マタイ17章5節)と命じる御言葉がかけられました。どうぞその御言葉の通り、私たちもキリストの栄光に与ることをお許しください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:詩篇2:7-12
わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。(詩篇2篇7節)
イエス・キリストは「神の御子」と呼ばれています(ローマ1章4節)。キリストが洗礼を受けた時(マタイ3章17節)、また高い山で姿が変わった時にも(マタイ17章5節)、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声が天からかかりました。この「神の御子」という言葉は、詩篇2篇で歌われているように、神によって立てられた王または君主であることを意味します(詩篇2篇6節)。
神によって立てられた「神の御子」に支配地(嗣業)と支配力(鉄のつえ)が与えられました(詩篇2篇8~9節)。「神の御子」は他の諸国と異なり、私利私欲ではなく神の意志を実現するために権力を振るいます。「神の御子」たる王には、神からの任命を示す油そそぎが行われました(サムエル上9章16節)。キリストという言葉は「油そそがれた者」(詩篇2篇2節)を意味します。
イエス・キリストを信じる者はクリスチャン(キリスト者)と呼ばれます(使徒11章26節)。クリスチャンという呼び名は、このような力強いキリストによる守りが約束された名前です。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(詩篇2篇12節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。イエス・キリストに神の特別なご愛顧がかけられています。私たちにはそのキリストに従い、「これに聞け」(マタイ17章5節)と命じる御言葉がかけられました。どうぞその御言葉の通り、私たちもキリストの栄光に与ることをお許しください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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