イザヤ63章9節をお読みします。
彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。
イザヤ書は、神の民イスラエルの罪に対する裁きと、その罪から救われる希望の道筋を伝える預言書です。イザヤ63章からは、それまでに語られた裁きと希望の言葉のまとめに入ります。
そこでは、裁きの厳しさが語られながらも(イザヤ63章1~6節)、その後に来る救いを仰ぎ見て神に賛美をささげています(イザヤ63章7節)。同じイザヤ書でこのように歌われています。「『あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ』とあなたをあがなわれる主は言われる。」(イザヤ54章8節)
聖書の神は正義の神であり、正義にそむく者はクリスチャンであっても罰を受けます(イザヤ63章10節)。しかし、神は悩みながら神の民を罰せられ、同時に罪からの悔い改めの道も備えられます(イザヤ63章9節)。創世記のノアの時代に、神が人の悪を見て心を痛め、滅びの洪水とともに救いの箱舟を用意されたのと同じです(
3月5日メッセージ参照)。
神は、人が弱さのゆえに悩み、悪になびきやすいことを知られ、人と共に悩まれます。モーセの時代、イスラエルの民が荒野をさまよった時も、神は離れることなく民とともに荒野を歩まれました(イザヤ63章11~14節)。
神は人の弱さを思いやることのできないようなかたではありません(ヘブル4章15節)。神は人のように弱くはなく強いかたであり、人を救うために悩み、確かな救いの道を備えてくださいます。ですから、わたしたちは神のあわれみを受けて、はばかることなく恵みの御座に近づきましょう(ヘブル4章16節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。悩みの多い私たちのために、あなたは人とともに悩み、私たちを悩みのうちより救い出す大きな力をお持ちであることを感謝いたします。私たちも自らを正しく見つめ直すことができますように。そして、私たちが行くべき道筋を正し、神のあわれみに導かれてまっすぐに歩むことができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)