2019/10/10

教会日記(2011年以前)

1949年、板橋区蓮根の藤化成(現・藤倉化成株式会社)
の厚生施設を借用して日曜学校が始まる

1954年6月13日、 現在地にて献堂式が行われる
初代牧師は山脇久治師(任期1954年~1957年)

1958年、第二代牧師の堀川満也師家族を囲んで
(任期1957年~1958年)

1961年、第二代教会堂の献堂式

1962年、第三代牧師の松崎実也師を囲んで
(任期1959年~1973年)

1974年、献堂20周年記念聖会
第四代牧師は長屋勇師(任期1973年~2007年)

1983年、第三代教会堂(現教会堂)の起工式
(同年竣工)

第五代牧師 内田信恵師(任期2007~2011年)
写真右端、現姓は立木

2019/10/06

2019年10月6日3分メッセージ



 詩篇49篇7節および8節をお読みします。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──

 聖書は繰り返し、財産やお金の関わり方について警告をしています。財産そのものが悪である訳ではありません。しかし、財産に強く執着することに問題が生じてきます。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であるとも聖書は語っています(第一テモテ6章10節)。
 古今東西の人類の歴史において、また私たちの身近な社会においても、財産を巡るトラブルには事欠きません。人が財産を自らのものにしようとするあまり、逆に財産がその人のすべてを支配しているような状況もよく見られるものです。
 そのような私たちに、聖書は大切な点を気づかせてくれます。それは、人が財産を持てるのは束の間のことであり、人生の終わりと共に財産とも別れを告げなければならないのです。人はどんなにお金をつぎ込んだとしても、この世で永遠に生き続けることはできません。全世界の富よりも人の命は遥かに高価で大切なものです。
 聖書の神は、私たち一人びとりに素晴らしい人生を、無償で与えてくださいました。そのことは神の愛の具体的な形です。最後に、ヨハネ3章16節をお読みします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。あなたは私たち一人びとりに、決してお金に換えることのできない大切な命を与えてくださいました。その神の愛に感謝しつつ、自分自身を愛して日々を過ごすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/29

2019年9月29日3分メッセージ



 創世記37章18節から20節までをお読みします。
兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。彼らは互いに話し合った。「見ろ。あの夢見る者がやって来た。さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」

 聖書の民イスラエル人の先祖、ヤコブには十人の息子がいました。年を取ってから、ヤコブは更に一人の息子、ヨセフをもうけました。ヤコブは息子たちの中でヨセフを一番かわいがり、ヨセフのために特別に作らせた袖つきの長服を与えました。この長服はヨセフの兄たちの憎しみの的となりました。
 兄たちを更に怒らせたのは、ヨセフが見た夢でした。その内容は、兄たちがヨセフに向かっておじぎをすることを意味するものでした。
 憎しみを募らせた兄たちは、ヨセフを殺してしまおうと思いました。彼らが話し合った結果、ヨセフは奴隷として売られてしまい、遠いエジプトの国へ連れて行かれました。兄たちはヨセフの長服を動物の血で汚し、父親のヤコブにはヨセフが猛獣に殺されたと嘘をつきました。
 兄たちはヨセフから長服を奪いましたが、ヨセフの夢は奪うことができませんでした。その後、何年も経ち、ヨセフはエジプトの国の大臣となり、兄たちがヨセフにおじぎをするという夢の内容がその通り実現しました。ヨセフが見た夢は自ら思い描いたものではなく、神から与えられたものであったからです。
 聖書の神は私たち一人びとりに対して願い、夢を持っておられます。神を信じる者は、神の夢と共に神の守りを受けることができます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。あなたは私たち一人びとりに夢を授けてくださいます。神の夢とともに私たちをお守りください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

2019/09/22

2019年9月22日3分メッセージ


 ガラテヤ6章14節をお読みします。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 この聖句の著者パウロは、自らが体験した出来事をこの言葉に重ね合わせて、私たちに向かって激しく迫るように語りかけています。
 パウロは元々はクリスチャンを敵とみなし、捕らえて牢に投げ込ような強硬なキリスト教の反対者でした。しかし、天からイエス・キリストの声を聞くという劇的な体験をして、その後はキリスト教を伝える宣教師として活躍しました。
 パウロの思いとしては、過去の自分はキリストがはりつけられて死んだ十字架に、一緒にはりつけられて死んでしまいました。そして、過去の自分が良いと思っていたこの世の価値観を失いました。それだけではなく、キリストと一緒になることによって新しい価値観を得て、キリストから与えられた新しい命によって生きていることを証言して、「私は十字架だけを誇る」と言っているのです。
 同じガラテヤ書の2章20節で、パウロはこのように言っています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちがすべての希望を失ってしまうような時に、このパウロの言葉を思い出させてください。パウロがキリストのうちに見いだした新しい命を得て、私たちも誇りをもって新しい一歩を踏み出だすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/15

2019年9月15日3分メッセージ


 ルカ14章11節をお読みします。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 この言葉は、イエス・キリストがとある食事会の場で語られたものです。聖書の民であるイスラエル人にとって食事は大変重要なものです。そこでは、食事や会話を楽しむだけではなく、宣伝やアピールをする場であり、重要な物事が決められる場でもありました。そのため、イスラエルの人々は会話の主導権を取ることのできる上座を競うようにして座ろうとしたのでした。
 イエス・キリストはその様子を見て、この世の考え方に勝る、神の国の法則を教えました。それは、神に祝福された良い働きは謙遜な人に任される、ということです。神の良い働きをしたいと思う者は、他人の上に立とうとするのではなく、かえって他人に仕えるようにしなさい、とイエス・キリストは教えました。謙遜になって自分を低くする者は、神によって高く引き立てられる。この「謙遜」こそが、キリスト教の根本的な行動原則です。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。イエス・キリストの御言葉は私たちに謙遜な心を持つよう教えています。どうぞ私たちに人に仕える、奉仕の心を得させてください。そして神の御旨にかなう者として私たちを取り立ててくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/08

2019年9月8日3分メッセージ



 詩篇92篇12節、13節をお読みします。
正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

 何が正しく、何が正しくないのか。聖書は私たちに正しい事と正しくない事、すなわち善と悪について教えています。歴史や民族の壁を越えて、全人類に共通する正しさは、人それぞれの考え方や状況判断により変わるものであってはなりません。聖書の神は根本的な大原則として、モーセを通して十戒を与えられました(出エジプト20章)。
 聖書は神から与えられた教えに従う者を「正しい者」とし、正しい者の生涯をナツメヤシやレバノンスギのような長く生きる植物に例えています。逆に、神の教えに従わない「悪者」については、短い命でしかない青草に例えて、悪は繁栄しているように見えても、長く続くものではないことを教えています。
 神が聖書を通して教える「正しさ」に頼る者は、とこしえまでに至る繁栄を受けることができます。神は信じる者に永遠の命を約束しています(ヨハネ3章16節)。
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちに正しい生き方を教えてください。正しい者に約束された、とこしえまでに至る栄えを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/09/01

2019年9月1日3分メッセージ


 アモス5章24節をお読みします。
公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

 川の流れというものは古今東西、様々な歌でも歌われているように、人生を振り返させるものです。時に流れが曲がりくねることがあっても、絶えず水が注ぎこみ、流れ去っていきます。思い描かれる川の情景は人それぞれ違うでしょう。同じように、人生というものも人それぞれ違うものであり、川の流れに例えるならば、人それぞれの流れ方というものがあります。
 正義というものも、川や人生と同様に、人それぞれに違ったイメージを持たれるものです。そのために、意見の食い違いや争いが起きることがあるかもしれません。しかし、だからといって正義や正しさは必要ない、と言うことはできません。人間が本当の意味で仲良く、平和な生活を営むためには正義が守られていなければなりません。
 川の流れが人それぞれに違うように見えたとしても、すべての川は水が流れています。同じように、正義が私たちの人間関係の根底に流れているようにせよ、というのが聖書のメッセージです。イエス・キリストはこのように言っています。「わたしを信じる者は…その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章38節)

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちはしばしば正義を守ることの大切さを見失ってしまい、心に潤いを失ってしまいます。聖書の約束の通り、私たちの心に正義を保つことができ、心から生ける水の川が流れ出るようにしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)