2025/02/13

聖書の教理~(22)聖化

 「聖化」とは、人が「聖となる」(出エジプト40:9)ということです。聖書の言葉から学ぶと、聖化とは礼拝用具のように、神への奉仕のために取り分けられる(聖別)ことを意味します。

 聖化はいつ起こるのでしょうか。聖書は、神のわざによって瞬間的に聖化される(コリント第一1:2)ことと、人の努力によって時間をかけてゆっくり聖化される(ヘブル12:14)ことの両方を教えています。これは、人の聖化の過程には、神の働きと人の働きの両面があることを示しています。

 聖化は神によって始められます。その手段は、a)キリストの血(ヘブル13:12)、b)神の霊(コリント第一6:11)、c)神の真理の御言(ヨハネ17:17)によります。

 続いて、聖化は人の努力が求められます。その努力とは、a)聖なるものとされる信仰(ローマ6:11)、b)御霊の導きへの従順(ローマ8:13)です。キリストも語られました。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/09

2025年2月9日「見ているから、さいわい」

マタイ13:10-17
 13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
 13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
 13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
 13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
 13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
   『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
   見るには見るが、決して認めない。
 13:15 この民の心は鈍くなり、
   その耳は聞えにくく、
   その目は閉じている。
   それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
   悔い改めていやされることがないためである』。
 13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
 13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

 キリストの譬(たとえ)話は、簡単に心に思い描けるような、明快な情景を題材としています。しかし、日常生活を思い描くことだけで終わってしまうなら、そこから何の知恵も得ることができません。

 キリストに一時的に従っていた群衆は、多くの者はキリストの話に満足しながら、何も得るところなく帰っていきました。しかし、弟子たちはキリストの元に留まり、そのたとえ話の説明を求めました(マタイ13:36)。

 同じ話を聞きながら、一方は得るところなく、他方は天国の奥義を知る(:11)という結果の違いは、真意を聞き取る耳を持つか否かによります(マタイ13:9)。キリストは拒むことなくすべての人に天国の奥義を語られています。「あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(:16)といわれるキリストの御言葉を聞いて悟るものとなりましょう。「そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイ13:23)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/06

聖書の教理~(21)新生

 「新生」について、聖書にその多様な意味が示されています。a)神から生れること(ヨハネ第一5:1)。b)洗われて新たにされること(テトス3:5)。c)新しき人を着ること(コロサイ3:10)。d)新しく造られること(コリント第二5:17)。e)新しいいのちに生きること(ローマ6:4)。

 キリストは「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と教えています。また聖書は、父なる神が「わたしたちを…真理の言葉によって…生み出して下さった」と言っています(ヤコブ1:18)。これらの聖書の言葉を神の約束として受け取ることが、新生された人生を歩むことに必要なことです。

 さらに、新生した人は次のような結果に至ることが約束されています。a)アブラハムに約束された神の特権の相続人となる(ガラテヤ3:29)。b)主なる神と一つの霊になる(コリント第一6:17)。c)神を愛し、罪を憎むようになり、罪を犯すことができなくなる(ヨハネ第一3:9)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/02

2025年2月2日「主のあかしを受け継ぐ」

使徒7:44-50
 7:44 わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。
 7:45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
 7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
 7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
 7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
 7:49 『主が仰せられる、
   どんな家をわたしのために建てるのか。
   わたしのいこいの場所は、どれか。
   天はわたしの王座、
   地はわたしの足台である。
 7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

 「幕屋」とは、出エジプト時代の聖所、すなわちイスラエル人の礼拝場所でした(出エジプト25:8-9)。民が神の約束の地に向かって旅する間、神が民と一緒に旅をし、共に住まわれることを示すものでした。幕屋の最奥には十戒、すなわち神の戒めをあかしする板を納めた「あかしの箱」(出エジプト25:21-22)が納められました。

 その後のイスラエル王国時代に、確立した王権のもとに堅固な宮(神殿)が建てられ、もはやモーセの時代のように移動する必要がなくなりました。しかし、堅固な宮は神の永遠の住まいではありませんでした。「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。…ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。」(列王紀上8:27)

 聖書の神は場所や物によって、まして人間の願いで固定できるものではありません。天地の造り主であられる神に祈りをささげられることを感謝しましょう。「われらの助けは天地を造られた主のみ名にある。」(詩篇124:8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/01/30

聖書の教理~(20)義認

 「義認」とは、「神が人を正しい(義)と認めること」を意味します。聖書のことばによって、義認の様々な側面を確認していきましょう。

 a)義認は、神を裁判官と見て、「神によって無罪判決が下されること」にたとえられます(ローマ8:33)。神による裁定に対しては上訴ということがなく、異議申し立ても許されないものです。

 b)義認が示す「正しさ」は、人の準拠すべき標準を示します。神によって立てられた標準に達する人はひとりもなく、すべての人が有罪とみなされています(ガラテヤ3:22)。しかし、神は信仰によって義とみなされる道を開いてくださいました(ガラテヤ3:24)。

 c)義認は、神の恵みによってのみ実現します。義とみなされるために人が代価を支払う必要がありません。キリストの血が代価として支払われたからです(ローマ3:24)。

 d)義認は、キリストの義を着せられることにたとえられます(第一コリント1:30)。神は罪人を覆うため着物を用意して着せられました(創世記3:21)。

 e)義認は、信仰によって私たちのものとすることができます。私たちは「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」(ピリピ3:9)のです。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/01/26

2025年1月26日「暗黒に光がのぼった」

 マタイ4:12-17
 4:12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
 4:13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
 4:14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
 4:15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、
   海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
   異邦人のガリラヤ、
 4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
   死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
 4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」

 キリストは、荒野で悪魔に試みられた後(マタイ4:1-11)、バプテスマのヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤへ退き(:12)、カペナウムの町で宣教をはじめました(:13,17)。これらの出来事は思いがけない災難だったと見えるかもしれません。しかし、キリストは「御霊に導かれ」(マタイ4:1)た結果これらの出来事を経験したのであり、神からの預言の言(ことば)が成就するためであった(:14)と聖書は語っています。

 私たちも見えることだけに捕われていると、目に見えない真実を見逃してしまいます。不当な逮捕の結果、ヨハネの宣教は中断させられました(マタイ14章)。しかし、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)との宣教の言は、キリストによって継承されました(:17)。人の悪事は神の言を縛ることができません(ルカ3:20)。キリストの宣教の言は「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見」(:16)させました。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/01/23

聖書の教理~(19)救いの性質

  聖書の約束する「救い」には三つの側面があります。a)義認:義と認められること(コリント第二5:21)。b)新生:新しく造られること(コリント第二5:17)。c)聖化:聖なるものとされて神に召されること(コリント第一1:2)。外見からは義認・新生・聖化の順番で、救いが人の外面から内面へ及ぶように見えますが、実際は救いの三面は同時に始まります。

 救われるための条件は人のうちにはなく、神からの賜物です(使徒11:18)。しかし、神の賜物が動因となって、人は二つの行動を示すことで救いに至ります。すなわち、悔い改め(マルコ1:15)と信仰(ローマ10:9-10)です。神から与えられたこれらの行動は知識に留まるものでなく、人の心を造り変え、明確な変化をもたらします。

 悔い改めは「回心」とも表します。その心の変化は一時的なものに留まらず、人生の方向を転回させるものです。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒3:19)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)