創世記15:1-615:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
アブラムは、後に「多くの国民の父」を意味する名の「アブラハム」に変えられました(創世記17:5)。彼は神の約束を信じて神の召しに従い(ヘブル11:8)、地上の利権に目を留めず神の約束のみを追求しました(創世記14:23)。そのため、新約聖書でも彼は「信仰の父」とみなされています(ガラテヤ3:6-9)。
しかし、アブラムへの約束はなかなか実現しませんでした。彼の思いを見通すように、神は「恐れてはならない」(:1)と語りかけました。その言葉に応じ、アブラムは心の思いを言い表しました(:2-3)。彼の信仰は盲従とは違っていたことがわかります。
その応答に対し、神は言葉とともに幻(映像)を示しました(:5)。言葉では十分に表現できないもの、特に将来について、神は幻やたとえ話のようなイメージを用いて伝えています。
神の約束は言葉で表現しても、その中身は言葉では伝えられません。しかし、アブラムは神の示しをそのまま「信じた」のです。神はそれをよし、「義」と認められました(:6)。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)