2025/01/16

聖書の教理~(18)新約の贖罪

  新約聖書も、旧約聖書が示した贖い(あがない)の教理を示しています。イザヤ書の「苦難のしもべ」(イザヤ42:1等)の生き方を、イエス・キリストはその生涯において実践しました(マタイ3:17等)。キリストは聖餐のパンと杯によって自らの苦難を示し、弟子たちに「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)と命じました。

 贖罪が必要である理由は、a)神の聖(完全)の実現のため(マタイ5:48)、b)人の罪の赦しのため(コロサイ2:13-14)、c)神の怒りを鎮めるため(ローマ2:5)です。

 贖罪がもたらす効力は、a)罪の赦し(エペソ1:7)、b)罪からの解放(ローマ6:14)、c)死からの解放(ヨハネ11:25-26)、d)永遠の命(ヨハネ3:15)、e)悪魔からの解放(ヘブル2:14-15)です。今日も贖罪の恵みは、キリストによって私たちに示されています(コロサイ1:14)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/01/12

2025年1月12日「主に寄り頼む者はさいわい」

詩篇2:7-12
 
  2:7 わたしは主の詔をのべよう。 
主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。
きょう、わたしはおまえを生んだ。
 2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を
嗣業としておまえに与え、
地のはてまでもおまえの所有として与える。
 2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、
陶工の作る器物のように彼らを
打ち砕くであろう」と。
 2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、
地のつかさらよ、戒めをうけよ。
 2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
 2:12 その足に口づけせよ。
さもないと主は怒って、
あなたがたを道で滅ぼされるであろう、
その憤りがすみやかに燃えるからである。
すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

 詩篇2篇はイスラエルの王が即位したことを祝う歌です(詩篇2:6)。ここではイスラエルの王を「神の子」と呼んでいます(:7)。「神の子」は生まれながらの血統を意味するのではなく、神によって任命され、神から王としての権限と権力を授けられた者(:8,9)を示します。

 イスラエルの歴史において、ダビデ王はつえをもって牧する羊飼いから選ばれ(サムエル上16章)、ソロモン王は民をさばく賢さを神に求めました(列王紀上3章)。詩篇2篇にはイスラエルの歴代の偉大な王の記憶がうたわれています。

 イエス・キリストの「神の子」(マルコ1:1)という呼び名(称号)も同じ意味あいが込められています。また、キリストは私たちに「神の子となる力を与えた」(ヨハネ1:12)と言われています。おそれ多くも尊い「神の子」への呼びかけに応じて、私たちも主キリストに仕え、日々を生きるための賢さを頂きましょう。「すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」(:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/01/09

聖書の教理~(17)旧約の贖罪

 贖い(あがない)とは、「ある物を代償として差し出して、他の物を手に入れること」を意味します。聖書においては「罪を償うこと」を意味し、贖罪(しょくざい)とも言われます。

 旧約聖書においては、イスラエル人が罪の贖いのために動物をいけにえ(犠牲)として殺し、祭壇でそのいけにえを燃やし、神にささげました。アブラハムは息子のイサクの身代わりとして雄羊を全焼のいけにえ(燔祭)としてささげました(創世記22:13)。

 また、アダムとエバが罪を犯したためエデンの園を追放された時、神は彼らに皮の着物を着せられました(創世記3:21)。つまり皮の着物を造るために動物が犠牲となって、人の裸が覆われたのでした。これらの出来事は、新約聖書のキリストの十字架による贖罪を予め示しています(使徒2:23、黙示録5:9)。

 旧約聖書で示された贖罪の出来事を通して私たちは、a)神が贖罪の手段を制定されたこと(レビ4:26)、b)犠牲は心を込めてささげられるべきこと(詩篇50:14)、c)動物犠牲は贖罪の手段としては不完全であり、キリストにより完全な贖罪が全うされる(ヘブル10:3-7)ことを知ることができます。 

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/01/05

2025年1月5日「慰めに満ちたる神」

コリント第二1:3-7 
 1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
 1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
 1:5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
 1:6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。
 1:7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。

 コリントの町の教会の人々は、使徒パウロが自ら伝道した人々です(使徒18章)。パウロは遠隔地から多くの手紙を送る等をして多大な労力をかけました。この手紙の言葉にはパウロの多くの思いが込められています。

 彼らとパウロは多くの患難(:4)を共に味わいました。パウロは直接顔を合わせて(コリント第二10:14)、また手紙を通して(コリント第二7:8)、彼らを熱心に教育しました。再び彼らに向けて筆を取ったとき、パウロの心からあふれ出たのはキリストの父なる神の「あわれみ」と「慰め」(:3)でした。

 パウロの確信は、神が「あらゆる患難の中にある人々を慰める」(:4)ことができるということでした。それはパウロ自身が受けた慰めであり、パウロがよく知るコリント人たちも得ることのできる慰めです。

 クリスチャンであるゆえに受ける「キリストの苦難」(:5)があります。しかし、同時にクリスチャンであるゆえに得られる「慰め」もあるのです。聖書の御言葉に耳を向けましょう。「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」(イザヤ40:1) 

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/12/29

2024年12月29日「やみの中で光を放て」

イザヤ60:1-5

 60:1 起きよ、光を放て。

あなたの光が臨み、

主の栄光があなたの上にのぼったから。

 60:2 見よ、暗きは地をおおい、

やみはもろもろの民をおおう。

しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、

主の栄光があなたの上にあらわれる。

 60:3 もろもろの国は、あなたの光に来、

もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。

 60:4 あなたの目をあげて見まわせ、

彼らはみな集まってあなたに来る。

あなたの子らは遠くから来、

あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。

 60:5 その時あなたは見て、喜びに輝き、

あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。

海の富が移ってあなたに来、

もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。


 毎年冬至の後に迎えるクリスマスを経て、昼の時間が長くなり始めましたが、冬の寒さはいよいよ厳しくなっていきます。「義の太陽」(マラキ4:2)なるキリストが現れても、暗きは地をおおっています(:2)。しかし、季節が進むにつれて昼の光は夜のやみを追い払っていきます。

 主の栄光を受けると(:2)、私たちは主の栄光を反映するようになります(:3)。そのためには「世の光」(ヨハネ8:12)たるキリストに従って、光のもとに身を出す必要があります。

 キリストが私たちに言われています。「あなたがたは、世の光である。」(マタイ5:14)その光は弱々しいものではなく、やみの中に沈む人々を照らす強い光です。多くの人々も光を求めて集まって来ます(:3-4)。「起きよ、光を放て。」(:1)きたる年、私たちも「喜びに輝き」(:5)ましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/12/22

2024年12月22日「やみの中に輝く光」

ヨハネ1:1-5

 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 1:2 この言は初めに神と共にあった。

 1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

 1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 クリスマスは毎年冬至の時期に祝われるキリスト教の祭りです。寒く日の短い季節にイエス・キリストの誕生を祝い、キリストのうちに光を見出して(ヨハネ1:14-17)新しい年を迎えます。

 ヨハネ伝1章冒頭の言葉は、ギリシャ文化の中で生活する神の民イスラエル人に馴染みのある言葉によって、著者のヨハネが特別なメッセージを伝えています。「言(ことば)」(:1)はギリジャ語では「ロゴス」と言い、物事の道理を意味します。また「初めに」(:1)という言葉は、イスラエル人には聖書の最初の言葉、「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1:1)を思い出させます。

 当時のローマ帝国という多国籍社会で生活しながらも、イスラエル人たちは父祖から受け継いだ聖書の神への信仰を失うことがありませんでした。それだけに留まらず、ヨハネたち、キリストの弟子であるクリスチャンたちは、聖書の言葉を用いて異文化に息づく信仰を言い表わしました。「一寸先はやみ」のような世界にあって、彼らはキリストの光を頼りとし、キリストの言に命を見出して(:4)力強く生き、今日の私たちに光と命を伝えてくれています。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2024/12/15

2024年12月15日「広く開かれた心」

ピリピ4:4-7

 4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

 4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。

 4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

 4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 著者パウロは手紙の結びに「喜びなさい」(:4)と記しました。この言葉はギリシャ語の日常的なあいさつ(カイレテ)ですが、本来の意味である「喜び」を繰り返して強調しています。またその喜びの根拠は「主にあって」ということです。

 パウロは他の手紙でも「心を開いてほしい」(コリント第二7:2)と書いていますが、その理由は「主は近い」(:5)からです。誰でも信頼をおけない人に対して心を開くことはできません。しかし、「心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」(:7)お方が私たちの近くにおられるのです。

 この世は思い煩いに満ちています。そのため私たちの心も固く閉じてしまうのです。しかし聖書は語ります。「思い煩わず、感謝をもって祈りをささげなさい」(:6)と。祈るとき、私たちの心に神の平安(:7)が訪れ、寛容な心(:5)へと造り変えられます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:16-18)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)