2025/10/05

「鷲志 第五号」(1962年)より

本年度受洗者の証し・深められて行く信仰 長谷川隆一

 信仰とは何か、三ヶ月前の私は全くこの言葉に無頓着でした。それがどんな働きをするのか、又あえて知る気にもなりませんでした。それまでの私の生活は本当に惨めで絶えず不安、恐怖、羞恥などに心は動揺せられ、それらのわざわいがいつまでもからみ、だんだんと成長し、それが大きな悩みとなるのです。その様な状態が過去何んども繰り返されるので、気の弱い私はしばしばそのわざわいに負けて全く無気力感を感じ、厭世的になっていた時が常でした。

 ある時、私は大きな悩みのうちに沈んでいた時に、信仰、特にキリスト教の信仰という台詞が突然ぱっと明りがともったようにうかび上り、私のねむっていた魂をゆりおこしたのです。それ以来、信仰という念が心に執着し始め、今までの心の空白状態がそれにより充されました。

 それからの私の心はそれに導かれるように教会に出かけました。そして何回か教会に導かれているうちに、少しずつ牧師さんの教えがわかりかけて来ました。そして神様を知る事により今までの自分の気付かなかった多くの罪悪を自覚出来るようになり、そうして初めに憶えた『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』という聖言が痛切に私の心をつきさしました。そして反射的に思いうかんだ心の悩み、少しも平安が与えられず苦しんでいた原因がわかりました。

 心に平安と喜びを与えてくれる人は、キリスト・イエス様だと言う事が、はっきりと確信出来、その時は全く喜びに充され感謝しつつ御前にひれ伏して、へりくだって罪のざんげを乞いました。すると不思議な事に私の内心は、かつて経験した事の無い潤いと喜びに充され、今まで暗い人生の歩みを続けて来た私の前途は急にそれらの尊い神様のめぐみにより明るくされ、大いなる心の支えとなってくれ、思わず私は何んとも言えない喜びを感じ、感謝の気持でいっぱいでした。

 それからという私の生活は本当に神様に救われた喜びに充されてうきうきしていました。ある時あまり喜びすぎて愚かな私は高慢な振舞いをしてしまったのです。これが罪だということがわかり、私の良心は非常にとがめられ、又悩みました。又神様が私から離れて行く様な気もしました。それからというものは、私は神様を本当に恐れる様になり、信仰はきびしく真剣なものであるということに気付きました。

 関東大聖会の最後の日、帰宅中に牧師さんに、キリスト・イエス様の救いを信じたなら洗礼を受けないかとすすめられ、そして洗礼の意義を説明してもらった時、私の信仰は深められて真剣なものにならしめて下さいました。

 そして、私は生涯通してキリスト・イエス様に殉教者として捧げようと決心するまでに導かれ、一九六二年十月二十一日が私にとって生涯忘れることの出来ない感謝感激の日となりました。洗礼のバプテスマを受け、今までの罪で汚れていた自分はそこで死に、新しい聖なる復活の命に与り、聖なる天国に自分の名前がしるされたのです、と教えを聞き、私はそれを確信しました。

 その時の感想は言葉で言い表せない喜びとある一種の優越感を感じました。

 それから後、幾度か試練に会い、悩みましたけれど、イエスの御霊の導きにより正しい道を踏みはずさないで現在に至り、イエス様の御手の内にあって本当にめぐまれた日々の生活を送っております。

 これからも聖書を通し、なお深く信仰が深められ、私の魂を慈しみ育てられます様に、御前に賛美と感謝をもって御祈りして御証しの言葉とさせていただきます。アーメン。

※鷲志(しゅうし)第五号(1962年12月25日発行)