2025/01/09
聖書の教理~(17)旧約の贖罪
2025/01/05
2025年1月5日「慰めに満ちたる神」
コリント第二1:3-7
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。
1:5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。
1:6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。
1:7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。
コリントの町の教会の人々は、使徒パウロが自ら伝道した人々です(使徒18章)。パウロは遠隔地から多くの手紙を送る等をして多大な労力をかけました。この手紙の言葉にはパウロの多くの思いが込められています。
彼らとパウロは多くの患難(:4)を共に味わいました。パウロは直接顔を合わせて(コリント第二10:14)、また手紙を通して(コリント第二7:8)、彼らを熱心に教育しました。再び彼らに向けて筆を取ったとき、パウロの心からあふれ出たのはキリストの父なる神の「あわれみ」と「慰め」(:3)でした。
パウロの確信は、神が「あらゆる患難の中にある人々を慰める」(:4)ことができるということでした。それはパウロ自身が受けた慰めであり、パウロがよく知るコリント人たちも得ることのできる慰めです。
クリスチャンであるゆえに受ける「キリストの苦難」(:5)があります。しかし、同時にクリスチャンであるゆえに得られる「慰め」もあるのです。聖書の御言葉に耳を向けましょう。「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」(イザヤ40:1)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2024/12/29
2024年12月29日「やみの中で光を放て」
イザヤ60:1-5
60:1 起きよ、光を放て。
あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったから。
60:2 見よ、暗きは地をおおい、
やみはもろもろの民をおおう。
しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、
主の栄光があなたの上にあらわれる。
60:3 もろもろの国は、あなたの光に来、
もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
60:4 あなたの目をあげて見まわせ、
彼らはみな集まってあなたに来る。
あなたの子らは遠くから来、
あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。
60:5 その時あなたは見て、喜びに輝き、
あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。
海の富が移ってあなたに来、
もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。
毎年冬至の後に迎えるクリスマスを経て、昼の時間が長くなり始めましたが、冬の寒さはいよいよ厳しくなっていきます。「義の太陽」(マラキ4:2)なるキリストが現れても、暗きは地をおおっています(:2)。しかし、季節が進むにつれて昼の光は夜のやみを追い払っていきます。
主の栄光を受けると(:2)、私たちは主の栄光を反映するようになります(:3)。そのためには「世の光」(ヨハネ8:12)たるキリストに従って、光のもとに身を出す必要があります。
キリストが私たちに言われています。「あなたがたは、世の光である。」(マタイ5:14)その光は弱々しいものではなく、やみの中に沈む人々を照らす強い光です。多くの人々も光を求めて集まって来ます(:3-4)。「起きよ、光を放て。」(:1)きたる年、私たちも「喜びに輝き」(:5)ましょう。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2024/12/22
2024年12月22日「やみの中に輝く光」
ヨハネ1:1-5
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
クリスマスは毎年冬至の時期に祝われるキリスト教の祭りです。寒く日の短い季節にイエス・キリストの誕生を祝い、キリストのうちに光を見出して(ヨハネ1:14-17)新しい年を迎えます。
ヨハネ伝1章冒頭の言葉は、ギリシャ文化の中で生活する神の民イスラエル人に馴染みのある言葉によって、著者のヨハネが特別なメッセージを伝えています。「言(ことば)」(:1)はギリジャ語では「ロゴス」と言い、物事の道理を意味します。また「初めに」(:1)という言葉は、イスラエル人には聖書の最初の言葉、「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1:1)を思い出させます。
当時のローマ帝国という多国籍社会で生活しながらも、イスラエル人たちは父祖から受け継いだ聖書の神への信仰を失うことがありませんでした。それだけに留まらず、ヨハネたち、キリストの弟子であるクリスチャンたちは、聖書の言葉を用いて異文化に息づく信仰を言い表わしました。「一寸先はやみ」のような世界にあって、彼らはキリストの光を頼りとし、キリストの言に命を見出して(:4)力強く生き、今日の私たちに光と命を伝えてくれています。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2024/12/15
2024年12月15日「広く開かれた心」
ピリピ4:4-7
4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
著者パウロは手紙の結びに「喜びなさい」(:4)と記しました。この言葉はギリシャ語の日常的なあいさつ(カイレテ)ですが、本来の意味である「喜び」を繰り返して強調しています。またその喜びの根拠は「主にあって」ということです。
パウロは他の手紙でも「心を開いてほしい」(コリント第二7:2)と書いていますが、その理由は「主は近い」(:5)からです。誰でも信頼をおけない人に対して心を開くことはできません。しかし、「心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」(:7)お方が私たちの近くにおられるのです。
この世は思い煩いに満ちています。そのため私たちの心も固く閉じてしまうのです。しかし聖書は語ります。「思い煩わず、感謝をもって祈りをささげなさい」(:6)と。祈るとき、私たちの心に神の平安(:7)が訪れ、寛容な心(:5)へと造り変えられます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:16-18)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2024/12/08
2024年12月8日「クリスマスの奇蹟」
マタイ13:54-58
13:54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
13:55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
13:57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
イエス・キリストは郷里のナザレ(マタイ2:23)に行き、会堂で礼拝する人々に向かって説教をしました。ナザレの人々は、山上の説教を聞いた人々と同じように驚きました(マタイ7:28)。彼らはキリストの教えの深さを頭では理解し、キリストが行った奇蹟をも見聞きしていました。しかし、ナザレの人々はキリストを信じませんでした(:57-58)。彼らは今日の私たち以上にキリストの身近にいて、キリストの家族関係まで詳細に知っていたにも関わらず…(:55-56)。
キリストの誕生を祝うクリスマスは、日本でも身近な年中行事の一つです。しかし、クリスマスの中心的な意義について、どれほど理解されているでしょうか。クリスマスに秘められた大切な教え、その奇蹟について、はたから眺めているのではなく、自ら飛び込んでその醍醐味を味わってみませんか。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。」(ルカ2:10)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2024/12/01
2024年12月1日「さあ主の山に上ろう」
イザヤ2:2-5
2:2 終りの日に次のことが起る。
主の家の山は、
もろもろの山のかしらとして堅く立ち、
もろもろの峰よりも高くそびえ、
すべて国はこれに流れてき、
2:3 多くの民は来て言う、
「さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家へ行こう。
彼はその道をわれわれに教えられる、
われわれはその道に歩もう」と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。
2:5 ヤコブの家よ、
さあ、われわれは主の光に歩もう。
預言者イザヤが「終りの日」、つまり終末の時代の預言を語りました(イザヤ2:1)。終りの日とは、すべてが終り、無くなってしまう日ではありません。終りの日に新しい事が起き、新しい神の業が行われると預言で語られています(:2)。
クリスマスは一年の「終りの日」であり、「始まりの日」でもあります。最も暗やみに包まれる季節(冬至)に、キリストがいのちの源として、「主の光」(:5)として私たちに与えられました。
川は、高い山の頂から低い海の底に向けて流れて行きます。終りの日に起きる奇跡、それは主の山に向けて川が遡るように、もろもろの国の民が主の山、エルサレムに流れてくることです。それは、人々が神のみことばに自ら行くべき道を(:3)、光を(:5)見出したからです。神が教える道は平和の道です(:4)。「さあ、われわれは主の光に歩もう。」(:5)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)