2021/04/04

2021年4月4日3分メッセージ



 イザヤ12章3節をお読みします。
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。

 今日はキリストの復活を祝うイースターです。先週の受難週の十字架に続くものとして今日の聖書のメッセージを味わってまいりましょう。
 乾燥した中東のイスラエルにおいて、井戸は生きるために欠かせないものでした。それだけに、井戸に関わる争いは大昔より度々起きてきました(創世記21章25節)。ですから、「喜びをもって井戸から水をくむ」ことは、平和が保たれてこそ実現可能なことです。
 キリストはこのように語られました。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4章14節)。キリストは信じる者に、救いの井戸から永遠の命をもたらす水を与えられます。
 この「永遠の命」は、キリストの復活の命に由来します。キリストは私たちに永遠の命をもたらすため、私たちの罪に下る神の怒りを、十字架の上で身代わりとして引き受けられました。その結果、私たちは怒りに代えて慰めを得ることができました(イザヤ12章1節)。
 私たちはキリストの十字架と復活のゆえに、平安といやしを得ました(イザヤ53章5節)。今年のイースターも喜びをもってキリストをほめたたえましょう(イザヤ12章4節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは十字架の死を経て復活されました。それは、私たちの代わりに苦しまれ、私たちに先立って命に満たされるためでした。私たちは喜びをもってイースターを祝います。キリストとともに永遠に生きることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/04/01

2021年4月4日の聖書日課

(写真:タチツボスミレ)

イザヤ12:1-6
 12:1 その日あなたは言う、
「主よ、わたしはあなたに感謝します。
あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、
その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。
 12:2 見よ、神はわが救である。
わたしは信頼して恐れることはない。
主なる神はわが力、わが歌であり、
わが救となられたからである」。
 12:3 あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。
 12:4 その日、あなたがたは言う、
「主に感謝せよ。
そのみ名を呼べ。
そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。
そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。
 12:5 主をほめうたえ。
主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。
これを全地に宣べ伝えよ。
 12:6 シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。
イスラエルの聖者はあなたがたのうちで
大いなる者だから」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/03/28

2021年3月28日3分メッセージ



 マタイ27章37節、38節をお読みします。
そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

 今週はイエス・キリストの十字架の苦しみを覚える受難週です。キリストはユダヤ人による不正な裁判で有罪とされ(マタイ26章66節)、ローマ人の手によって十字架刑に処されました(マタイ27章26節)。
 ローマ総督のピラトはキリストに罪を認めませんでしたが(マタイ27章23節)、十字架刑の細かい指示を与えたのはピラトでした。ピラトは「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげさせ、二人の強盗の間、すなわち十字架刑の主犯格の位置にキリストの十字架を据えさせました。
 人々はキリストにいばらの冠をかぶらせ、皮肉を込めてキリストを王様扱いしてあざけりました(マタイ27章29節)。ある人々は「ユダヤ人の王」という罪状書きを改めるよう抗議しましたが、ピラトはその要求を拒みました(ヨハネ19章21、22節)。
 このように、イエス・キリストは罪のない王様として十字架にかけられました。キリストは自ら十字架から降りることなく、また誰も十字架から引き下ろすこともできませんでした。十字架はキリストの不動の玉座だったのです。
 キリストはこのように語られました。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10章11節)キリストの十字架は、か弱く迷える羊である私たちに命を与えるための犠牲です。十字架を覚えつつ、キリストの命に与りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは今年もキリストの十字架を覚える季節を迎えることができました。クリスチャンに、またキリストの教会につけられた十字架を心に担いつつ、キリストとともに命に溢れる日々を生きることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/03/22

2021年3月28日の聖書日課

(写真:ミツマタ)

マタイ27:38-44
 27:38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
 27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
 27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
 27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
 27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
 27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
 27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/03/21

2021年3月21日3分メッセージ



 創世記25章31節、32節をお読みします。
ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。

 ヤコブとエサウは、信仰の父アブラハムの孫であり、アブラハムの子イサクの二人の息子です。ヤコブとエサウは双子ですが、体質や性格がまるで違いました。二人のうち、エサウが先に生まれて兄とみなされ、ヤコブは弟とみなされました(創世記25章24~26節)。
 二人には生まれ持った違いがありましたが、それとは関係なく、その後の生涯を分けたのが「長子の特権」の取り引きの事件でした。
 長子の特権とは、当時の社会の慣習上の権利であり、長男が家のすべてを相続することを意味します。それは本来、取り引きによって売り渡せるようなものではありませんが、ヤコブは大胆不敵にも一杯の食事と取引しようとしました。ところが、エサウは空腹に耐えかねて、長子の特権を売り渡す誓いをして、ヤコブから食事を得ました(創世記25章29~34節)。
 エサウは目先の利益しか考えない人でした。一方、ヤコブは将来に対して希望を持っていましたが、彼の生き方は必ずしも正しいものではありませんでした。そのため、ヤコブは生涯にわたって神から試練を与えられていきます。しかし、ヤコブの生涯は聖書の神とともに歩む生涯でした。このヤコブに神は祝福を与えられました(詩篇24篇)。
 「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ29章11節)神の祝福を求めて歩んでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは祝福を失う人生ではなく、祝福を得る人生を歩みたいと思います。どうぞ私たちの人生を正しく導いてくださり、神の祝福にふさわしい者へと私たちを作り変えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/03/15

2021年3月21日の聖書日課

(写真:ビンカ)

創世記25:29-34
 25:29 ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。
 25:30 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。
 25:31 ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。
 25:32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
 25:33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
 25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/03/14

2021年3月14日3分メッセージ



 出エジプト24章11節をお読みします。
神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 私たちにとって食事は大変重要なことです。私たちは、生きるために食事するだけでなく、家族や様々な人々と一緒に食事する中でお互いの絆を深めることができます。一緒に食事ができないことは、私たちの絆が失われる危険があります。
 聖書の民イスラエルは、食事(11節)を含む様々な儀式を行うことを通して、神との絆を深めました。出エジプト24章では具体的な儀式として、民のために神の言葉を書き記し、それを朗読して教えること(3節)、祭壇を築くこと(4節)、雄牛を生け贄とすること(5節)、生け贄の血を注ぎかけること(6節)などが行われました。すべての儀式は、民がそれを体験することで神との交わりをよく知ることができるために行われました。
 今日の教会で行われるすべての行事も同じ意味があります。教会の行事に出席して、賛美歌を歌い、祈りを捧げ、聖書の御言葉の朗読に耳を傾けることで、私たちは聖書の神との交わりを深めることができます。すべての行事の意味がわからなくても、ぜひ教会の行事に身を任せて、体験してみてください。そうすれば聖書の神が私たちに近づいて、私たちの心に悟しを与えてくださいます。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブ4章8節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神様は教会の諸行事を私たちのために開いておられます。私たちが教会の諸行事に参加する時、御言葉の通り私たちに近づいてください。そして賛美を通して、祈りを通して、神様との交わりを深めることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)