2020/04/20

2020年4月26日の聖書日課

(写真:ネモフィラ)

ヨハネ21:1-14
 21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
 21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
 21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
 21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
 21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
 21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
 21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
 21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
 21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
 21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
 21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
 21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
 21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
 21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/04/19

2020年4月19日3分メッセージ



 出エジプト15章2節をお読みします。
主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。

 旧約聖書の出エジプト記は、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトの国を脱出する出来事を語っています。イスラエル人はエジプトでは奴隷として苦しみ、エジプトを脱出した後は生き延びるために様々な苦しみを味わいました。
 エジプトを脱出した直ぐ後に、イスラエル人はかつての支配者であったエジプト人から追いかけられましたが、海を割って渡る奇跡によって救われました。彼らは多くの救いの体験を振り返り、神に感謝してこの出エジプト15章の言葉を賛美歌として歌いました。
 イスラエル人はエジプトで苦しむことによって、神に救いを求めて祈り始めました(出エジプト2章23節)。そして、大きな奇跡を体験することによって、神に感謝して賛美することを始めました(出エジプト15章1節)。イスラエル人は神に祈り、神に賛美することで、神の民として整えられていきました。
 彼らと同じ聖書の神を信じるクリスチャンも同じです。クリスチャンは必ずしも清くて強く、助けを必要としない者ではありません。悩み、苦しむ時、神に助けを求めて祈るのがクリスチャンであり、助けを得て神に賛美するのがクリスチャンの本来の姿です。

 神の救いを必要としておられる方は、今日もご一緒にお祈りしたいと思います。
 天の父なる神様。私たちは神による大きな奇跡を必要しています。イスラエル人が救いを求めて祈り、救いを得て賛美したように、私たちも大いなる神の力を賛美しつつ、救いを祈り求めます。病に苦しむ全世界の人々を救ってください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年4月19日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)「いと高(たか)き方(かた)を称(たた)える」
出(しゅつ)エジプト15:1-6(お持(も)ちの聖書(せいしょ)をお読(よ)みください)

 今日(きょう)はモーセと神(かみ)の民(たみ)イスラエル人(じん)の歌った賛美歌(さんびか)を聴(き)きましょう。イスラエル人(じん)は奴隷(どれい)として苦(くる)しんだエジプトを脱出(だっしゅつ)しました。その直(す)ぐ後(あと)に、エジプト人(じん)がイスラエル人(じん)を追(お)いかけて来(き)ましたが、神様(かみさま)が海(うみ)を分(わ)けて、イスラエル人(じん)は海(うみ)を渡(わた)って救(すく)われました。出(しゅつ)エジプト15章(しょう)の言葉(ことば)は、このような神様(かみさま)の大(おお)きな奇跡(きせき)に感謝(かんしゃ)して歌(うた)った賛美歌(さんびか)の歌詞(かし)です。
 今(いま)、皆(みな)さんは賛美歌(さんびか)を聴(き)いたり、歌(うた)ったりすることのできる心(こころ)の状態(じょうたい)でしょうか。ある人(ひと)は、心(こころ)が石(いし)のように重(おも)く、とても賛美歌(さんびか)を聴(き)いたり、歌(うた)ったりできないような気持(きも)ちであるかもしれません。
 そうであったとしても、この賛美歌(さんびか)を歌(うた)っているイスラエル人(じん)のことを考(かんが)えてみてください。彼(かれ)らは決(けっ)して悩(なや)みや苦(くる)しみを知(し)らない人々(ひとびと)ではありません。私(わたし)たちと同(おな)じように様々(さまざま)な問題(もんだい)で悩(なや)み、苦(くる)しみ、神様(かみさま)の救(すく)いを切(せつ)に祈(いの)り求(もと)めている人々(ひとびと)です(出(しゅつ)エジプト2:23)。彼(かれ)らが祈(いの)った結果(けっか)、神様(かみさま)の大(おお)きな救(すく)いの御業(みわざ)を体験(たいけん)することができて、そのことに感謝(かんしゃ)して賛美歌(さんびか)を歌(うた)っているのです。
 イスラエル人(じん)が神様(かみさま)を賛美(さんび)できるのは、悩(なや)み苦(くる)しんで沈(しず)んだ心(こころ)を神様(かみさま)が引(ひ)き上(あ)げてくださり、神様(かみさま)が彼(かれ)らの口(くち)に賛美歌(さんびか)を与(あた)えられたからです。「主(しゅ)は、私(わたし)の力(ちから)であり、ほめ歌(うた)である。」(2節(せつ))
 皆(みな)さんの気持(きも)ちが沈(しず)んでしまった時(とき)にも、ぜひ賛美歌(さんびか)のメロディーとその歌詞(かし)に耳(みみ)を傾(かたむ)けてみてください。賛美歌(さんびか)はなんの理由(りゆう)もなく神様(かみさま)をほめ歌(うた)ってはいません。神様(かみさま)は確(たし)かに賛美(さんび)されるにふさわしいお方(かた)です。だからこそ、世界中(せかいじゅう)のクリスチャンが数多(かずおお)くの賛美歌(さんびか)を作(つく)って、歌(うた)っているのです。
 そのような賛美歌(さんびか)が作(つく)られ、歌(うた)われる前(まえ)に、神様(かみさま)は私(わたし)たちクリスチャンのために大(おお)きな奇跡(きせき)を行(おこな)って、私(わたし)たちを救(すく)ってくださいました。私(わたし)たちは、「主(しゅ)は輝(かがや)かしくも勝利(しょうり)を収(おさ)められ」(1節(せつ))たことを実際(じっさい)に体験(たいけん)して知(し)ることができます。神様(かみさま)の救(すく)いを体験(たいけん)すると、私(わたし)たちの心(こころ)は高(たか)く引(ひ)き上(あ)げられ、自然(しぜん)と私(わたし)たちの口(くち)に神様(かみさま)への「ほめ歌(うた)」がわき上(あ)がってきます。
 私(わたし)たちが心(こころ)から感謝(かんしゃ)して賛美歌(さんびか)を歌(うた)う時(とき)、神様(かみさま)は私(わたし)たちの賛美歌(さんびか)を聴(き)いてくださいます。また、私(わたし)たちの周(まわ)りの人々(ひとびと)も賛美歌(さんびか)を聴(き)いて、私(わたし)たちの神様(かみさま)が賛美(さんび)にふさわしいお方(かた)であることを知(し)ることができます。確(たし)かに聖書(せいしょ)に記(しる)されている通(とお)り、私(わたし)たちの神様(かみさま)は「イスラエルの賛美(さんび)を住(す)まいとしておられます。」(詩篇(しへん)22:3)
 最後(さいご)にもう一度(いちど)、私(わたし)たちはイスラエル人(じん)の賛美歌(さんびか)に耳(みみ)を傾(かたむ)けましょう。「主(しゅ)よ。あなたの右(みぎ)の手(て)は力(ちから)に輝(かがや)く。」(6節(せつ))私(わたし)たちも神様(かみさま)の力強(ちからづよ)い御手(みて)に頼(たよ)り、神様(かみさま)の救(すく)いの御業(みわざ)を体験(たいけん)してまいりましょう。そして、神様(かみさま)に心(こころ)からの感謝(かんしゃ)を込(こ)めて賛美歌(さんびか)を歌(うた)っていきたいと思(おも)います。
(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2020/04/13

2020年4月19日の聖書日課

(写真:ハナニラ)

出エジプト15:1-11
 15:1 そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、
「主にむかってわたしは歌おう、
彼は輝かしくも勝ちを得られた、
彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。
 15:2 主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、
彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、
彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
 15:3 主はいくさびと、その名は主。
 15:4 彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、
そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ。
 15:5 大水は彼らをおおい、彼らは石のように淵に下った。
 15:6 主よ、あなたの右の手は力をもって栄光にかがやく、
主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
 15:7 あなたは大いなる威光をもって、
あなたに立ちむかう者を打ち破られた。
あなたが怒りを発せられると、
彼らは、わらのように焼きつくされた。
 15:8 あなたの鼻の息によって水は積みかさなり、
流れは堤となって立ち、
大水は海のもなかに凝り固まった。
 15:9 敵は言った、『わたしは追い行き、追い着いて、
分捕物を分かち取ろう、
わたしの欲望を彼らによって満たそう、
つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう』。
 15:10 あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、
彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ。
 15:11 主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、
だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、
ほむべくして恐るべきもの、
くすしきわざを行うものであろうか。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/04/12

2020年4月12日(日) イースター礼拝


 今年のイースターは、志村キリスト教会の創立以来、初めての休会となりました。しかし、礼拝はそれぞれの家庭で、また個人ででも捧げることができます。主イエス・キリストの復活を思いつつ、それぞれの場所でご一緒にイースター礼拝をささげましょう。

「春に会う花、百合 夢路より目覚めて 限りなき命に 咲き出づる姿よ
 うるわしの白百合 ささやきぬ昔を 百合の花 百合の花 ささやきぬ昔を」

                          (讃美歌496番2節)

2020年4月12日3分メッセージ



 詩篇30篇4節、5節をお読みします。
主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。

 今日はイエス・キリストの復活を祝うイースターの日です。しかし、世界中の多くのキリスト教会は一つの場所に集まることができず、寂しさを覚えながらそれぞれの家庭でイースターを祝っています。
 このような事態はイースターという喜びの日には、ふさわしくないと思われるかもしれません。ですが、イースターが祝うキリストの復活とは、キリストの十字架による死と切り離して考えることができません。キリストの十字架と復活は、キリスト教の信仰には両方とも無くてはならないものです。私たちが悩んだり、苦しんだりする時、その時こそキリストの十字架の苦しみを味わう良いきっかけとなります。
 そして、私たちは同時にキリストの復活による勝利を仰ぎ見て、「主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝」して、今日も神を礼拝することができます。
 私たちが人生の大きな試練にあう時、ある人は「神の怒り」を思うかもしれません。たとえそうであったとしても、「その怒りはただつかのま」です。試練は決して永遠に続くものではなく、必ず終わりの時が来ます。それに対して、神の恵みは「いのちのかぎり長い」のです。キリストが与えると約束しているものは、「永遠の命」です(ヨハネ3章16節)。
 「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」今年のイースターも、聖書の約束を信じて、ご一緒に喜んで主をほめたたえましょう。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今年のイースターは世界中の人々と共に、喜びと苦しみを味わっています。まさに私たちの苦しみのためにキリストは十字架にかかられ、私たちの喜びのためにキリストは復活されました。苦しみよりも喜びが増していきますように、キリストの復活を思いつつ願い求めます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)