2025/09/28

2025年9月28日「自由をもたらす律法」

ヤコブ2:8-13
 2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
 2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。
 2:10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
 2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
 2:12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。
 2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(:8)とは、キリスト教の最も有名な教えです。キリストも「これより大事ないましめは、ほかにない」と言われ(マルコ12:31)、旧約聖書(レビ19:18)にもあり、聖書全巻で一貫している教えです。

 「愛する」とは、人によって意味する内容が異なっていて、具体的な言葉でないかもしれません。ヤコブ書では、愛することは「分け隔て(えこひいき)」をすることではない(:9)、と教えています。人によって違う好みを持つ、ということは聖書の教える愛ではありません。

 「神は愛である」(ヨハネ第一4:8)とあります。神は分け隔てせず愛する方であり、先に「まずわたしたちを愛して下さった」(ヨハネ第一4:19)お方です。神はキリストによって愛を示されました。「ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)

 神の命令である「律法」は教えでもあります。私たちは神から愛を学び、愛することを実践できます。神から賜った律法は束縛ではなく自由をもたらします。「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は…実際に行う人である。」(ヤコブ1:25)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/21

2025年9月21日「神の手で一つになる」

エゼキエル37:15-22
 37:15 主の言葉がわたしに臨んだ、
 37:16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。
 37:17 あなたはこれらを合わせて、一つの木となせ。これらはあなたの手で一つになる。
 37:18 あなたの民の人々があなたに向かって、『これはなんのことであるか、われわれに示してくれないか』と言う時は、
 37:19 これに言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる。
 37:20 あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にあるとき、
 37:21 あなたは彼らに言え。主なる神は、こう言われる、見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
 37:22 その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。

 エゼキエルは、バビロン(カルデヤ)捕囚期の預言者です(エゼキエル1:1-2)。「彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である」(エゼキエル12:2)と評されたイスラエル人に対し、エゼキエルは驚くべき幻、不可解な行為によって、なお神の使信を語り続けました。

 二本の木(:16)はイスラエルの反逆の歴史と現状を示します。イスラエル(ヤコブ)の十二人の息子のうち、ヨセフがエジプトに売られましたが(創世記37章)、神は一家をエジプトへ送って飢饉から救われました(創世記46章)。出エジプトが国家の原点となりました(エゼキエル20:5-6)。国家はダビデ王が統一しましたが(エゼキエル34:23)、ユダ族の国とエフライム族の国に分裂し(:16)、滅亡、捕囚の憂き目にあいました。

 神は彼らのなし得なかったことを、神の手でなすと約束されました。神が人々を「取り出し」、「集めて」、「みちびき」、「一つの民」とします(:21-22)。神は愛のわざにより私たちの心を一つにしてくださいます。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3:14)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/14

2025年9月14日「天の宝を見つける」

マタイ13:44-52
 13:44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
 13:45 また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
 13:46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
 13:47 また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
 13:48 それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
 13:49 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
 13:50 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
 13:51 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
 13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

 キリストは多くのたとえ話を語りました。マタイ13章にはその多くがまとめられています。その共通する主題は「天国」です。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)

 元より「天国の奥義」(マタイ13:11)は言葉で伝えられるものではありません。しかし、キリストは天国の奥義をたとえにより、イメージを通して伝えました。私たちはそのイメージを開封するように、中身の宝である奥義を見つけなければなりません。

 天国の特徴について、多くのたとえ話を通していくつかの点にまとめることができます。1)天国は計り知れない価値のあるものである。2)天国は捜し求められた末に発見されるものである。3)天国は選び抜かれた最良のものである。キリストが「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)と言われたのは、まさにこの天国を見いだすことの約束です。

 私たちは「御国の言を聞いて悟らない」(マタイ13:19)者ではなく、「御言を聞いて悟る人…そういう人が実を結び」(マタイ13:23)と言われる者でありたいと思います。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/09/07

「教会日誌」(1955年)より


昭和二十九年二月
 日曜日、礼拝は中蓮根協同組合もしくは佐々木兄宅において継続。日曜学校は藤化成倶楽部において。伝道会は舟渡町佐々木氏宅で続けられてきたが、この月より神の約束にたち、兄弟姉妹は聖なる主の御名により信仰にいり、その選民として、証人として立つべきときに至り、聖霊の働きは益々つよめられ、初めの確信を終わりまで堅く保たばキリストにあずかる者となる決意をなし祈る体験をあたえられた。そこで、木曜日に祈祷会を大塚姉宅で行うことになる。これよりのち、一同舟渡の町にキリストの体たる教会があたえられるように、真剣に祈祷が続けられた。
 山脇(久治)神学生は卒業と同時に志村地区牧師として赴任に決定。

(昭和二十九年)三月
 一同の祈りに応えられて教会があたえられることが決定。土地の交渉に山脇師、献身活動された結果、初めに浮間町に空地をあたえられたが、地理的条件に難があって見合せておったところ、岡田医院(現在地)が新築移転に伴って売却の話があって交渉の結果、成立し現在地に教会が建設されることになる。肉体をいやす元医院が、霊肉共にいやす教会としてあたえられたことは、まさしくくしき御業と言うほかない。
 この教会建設のために、マリヤ(ジュルゲンセン)先生、弓山(喜代馬)先生、全国の信徒の方々の熱心なお祈りの結果が神様の御手を動かすことになり、舟渡町に十字架の旗じるしが高くたてられたのである。

2025年9月7日「わが救の神によって喜ぶ」

ハバクク3:16-19
 3:16 わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に悩みの日の臨むのを静かに待とう。
 3:17 いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。
 3:18 しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。
 3:19 主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる。

 ハバククはイスラエルの王国時代の預言者です。エルサレムの神殿で聖歌隊の奉仕に携わっていました(:19)。その預言の言葉は断片的によく知られています(1:5、2:4等)。

 当時、イスラエルは異国カルデヤ(バビロニア)の侵略の脅威にさらされていました(1:6)。そこにハバククが預言者として立てられ、当時のイスラエル(ユダ王国)に神からの幻を示しました(2:2)。それは、神が暴虐を行う者をさばかれるということでした(2:8)。

 しかし、イスラエルは神の救いを待たなければなりませんでした(:16)。それは慣れ親しんだ祖国が荒らされるのを見て忍ぶことでした(:17)。「もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。…義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)信仰は隠された神の力を見させ(3:4)、沈んだ心を高く引き上げるものです(:19)。そこにこそ、神による喜びがあります(:18)。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/31

2025年8月31日「神のあわれみの器」

ローマ9:18-24
 9:18 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。
 9:19 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
 9:20 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
 9:21 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
 9:22 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
 9:23 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
 9:24 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

 私たち人間が生活する世界は、今も昔も変わらず明らかな格差があります。ある者はイスラエルの奴隷の家に生まれ、ある者はエジプトの王(パロ)の家に生まれ、それぞれ全く違った環境で育ち、将来の身分は自ずから決まっています。それにも関わらず、「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさる」(:18)結果、神の御心次第で奴隷が救われ、王が滅ぶことが起ります。人がどんなに言い争っても、大いなる力には抗えないことを歴史は証明しています。

 人は陶器、神は陶器師にたとえられます(:21)。「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。」(創世記3:19)陶器は材料が同じでも、陶器師の手のわざにより価値が何倍にも変わります。神は、私たち土けらに過ぎない人間を、尊いものにしようと握っておられるのです。「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」(コリント第二4:7)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/24

2025年8月24日「へびのように賢く」

マタイ10:16-20
 10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
 10:17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。
 10:18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。
 10:19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
 10:20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。

 キリストは十二人の使徒をつかわすに当り訓示しました(マタイ10:5)。キリストの教えは知恵の言葉をふんだんに取り入れたものでした。天国の奥義を多くの譬(たとえ)を用いて教えたのと同じです(マタイ13:34)。

 キリストは使徒たちを「イスラエルの家の失われた羊のところ」(マタイ10:6)につかわしました。しかし、つかわした先では「おおかみ」のような凶暴な迫害が起こりうることを警戒したのでした(:16)。キリストの福音を伝える使命を果たすためには、その前途の危険を察知しつつ前進して行かなければなりません。

 聖書の「へび」は動物の方よりも、創世記にある悪魔の誘惑(創世記3:1)の方を多く意味します。悪魔は「羊」を亡き者としようと今の世でも狡猾に働きます。私たちは悪の策略を察知し、悪ではなく善のために知恵を駆使しなければなりません。

 聖書の神が私たちに賜う知恵は清く、平和をもたらすものです(ヤコブ3:17)。悪の知恵に勝る神の知恵に頼り、キリストの御言葉に学び続けましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)