昭和二十九年二月
日曜日、礼拝は中蓮根協同組合もしくは佐々木兄宅において継続。日曜学校は藤化成倶楽部において。伝道会は舟渡町佐々木氏宅で続けられてきたが、この月より神の約束にたち、兄弟姉妹は聖なる主の御名により信仰にいり、その選民として、証人として立つべきときに至り、聖霊の働きは益々つよめられ、初めの確信を終わりまで堅く保たばキリストにあずかる者となる決意をなし祈る体験をあたえられた。そこで、木曜日に祈祷会を大塚姉宅で行うことになる。これよりのち、一同舟渡の町にキリストの体たる教会があたえられるように、真剣に祈祷が続けられた。
山脇(久治)神学生は卒業と同時に志村地区牧師として赴任に決定。
(昭和二十九年)三月
一同の祈りに応えられて教会があたえられることが決定。土地の交渉に山脇師、献身活動された結果、初めに浮間町に空地をあたえられたが、地理的条件に難があって見合せておったところ、岡田医院(現在地)が新築移転に伴って売却の話があって交渉の結果、成立し現在地に教会が建設されることになる。肉体をいやす元医院が、霊肉共にいやす教会としてあたえられたことは、まさしくくしき御業と言うほかない。
この教会建設のために、マリヤ(ジュルゲンセン)先生、弓山(喜代馬)先生、全国の信徒の方々の熱心なお祈りの結果が神様の御手を動かすことになり、舟渡町に十字架の旗じるしが高くたてられたのである。