2025/04/27

2025年4月27日「初めで終りで生きている」

黙示録1:12-18
 1:12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
 1:13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
 1:14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
 1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
 1:16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
 1:17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
 1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(ヨハネ第一1:1)と言うほど、キリストの弟子であるヨハネは師をよく知っているという自負がありました。しかし、流刑地パトモス(黙示録1:9)でヨハネが見たキリストの黙示(黙示録1:1)は様子が違っていました。

 黙示録の内容は、キリストから示された未来の出来事をヨハネが記録したものです。そのすべての意味が明らかであるわけではありませんが、一部について理解の鍵となる解説が与えられています。七つの燭台は七つの教会を示しています(黙示録1:20)。その教会の間にいる者とは、教会のかしらたるキリストを意味します(エペソ5:23)。

 キリストご自身が自らを証言します。「わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。」(:17-18)十字架の死による贖罪を成し遂げたキリストはよみがえり、今も生きて教会とともにあるだけでなく、これからも私たちを導いてくださいます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/24

聖書の教理~(32)新しい命

 死からのよみがえり、新しい命について、旧約聖書も新約聖書も多く証言しています。

 「神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府(死)の力からあがなわれる。」(詩篇49:15)

 「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24)

 「両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。」(マルコ9:47)

 「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」(黙示録2:7)。

 昇天される前、キリストは私たちに約束を残しました。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)

 聖書の神が約束される永遠の命があなたのものとなりますように祈ります。「神はそのひとり子(キリスト)を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/04/20

2025年4月20日「わたしにはわからない」

ヨハネ20:11-18
 20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
 20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
 20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
 20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
 20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
 20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
 20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
 20:18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

 ヨハネ伝のイースターは、マグダラのマリヤの出来事から始まります。彼女は他の者とともに連れ立ち、葬られたキリストの弔いのため墓に来ました。それは週の初めの日、すなわち日曜日の早朝のことでした(マルコ16:1-2)。そこで彼女は空の墓を発見し、他の弟子たちに報告しました(ヨハネ20:1-2)。

 その後もマリヤは墓から離れることができませんでした。そこで天の御使いを見たりしますが(:12)、彼女の心はキリストの死体の在りかだけに向かっていました(:13)。そこにキリストご自身が立っておられたのにも関わらず気がつかなかったのです(:14)。

 弟子たちはその目で見、ごく身近に触れていた(ヨハネ第一1:1)にも関わらず、復活の主がわからなかったのです。しかし、主の声を聞くなり、マリヤも復活の主がわかるようになりました(:16)。キリストが言われた通り、「羊は彼(羊飼)の声を聞く」(ヨハネ10:3)のです。

 「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)とキリストは言われました。主は捜し求める者に現れて、御声をかけてくださいます。その時、私たちも「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23:1)と言うことができます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/17

聖書の教理~(31)死の問題

 聖書は、死は人間の罪の結果であると言っています(ローマ5:12)。そして、「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示された」(テモテ第二1:10)と宣言しています。

 人間は、必ず死ぬ定めにあるだけでなく、「死んだ後さばきを受ける」、すなわち死後の存在があることも聖書は教えています(ヘブル9:27)。善人も悪人も、さばきを受けるために死からよみがえると、キリストは教えています(ヨハネ5:29)。

  キリストの救いに与ったクリスチャンにとって、死は休みであり(黙示録14:13)、眠りである(テサロニケ第一4:13-14)と言われています。「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」(エペソ5:14)。

 聖書には死からの救いの約束が多く記されています(ダニエル12:1-3等)。

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(テサロニケ第一4:13)

「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(テサロニケ第一4:18)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/04/13

2025年4月13日「主のみもとに帰る」

哀歌5:15-22
 5:15 われわれの心の喜びはやみ、
踊りは悲しみに変り、
 5:16 われわれの冠はこうべから落ちた。
わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。
 5:17 このために、われわれの心は衰え、
これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
 5:18 シオンの山は荒れはて、
山犬がその上を歩いているからである。
 5:19 しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。
あなたの、み位は世々絶えることがない。
 5:20 なぜ、あなたはわれわれをながく忘れ、
われわれを久しく捨ておかれるのですか。
 5:21 主よ、あなたに帰らせてください、
われわれは帰ります。
われわれの日を新たにして、
いにしえの日のようにしてください。
 5:22 あなたは全くわれわれを捨てられたのですか、
はなはだしく怒っていられるのですか。

 「哀歌」は聖書の民イスラエルの「悲しみの歌」です。イスラエル人にとって最悪の経験の一つが、預言者エレミヤの時代の「バビロン捕囚」でした。イスラエル人は数々の苦難を経験して、神への賛美である詩篇とともに哀歌も今日まで歌い継いできました。

 苦役の叫び(出エジプト2:23)から始まったイスラエルの祈りは、心からの訴えを含む歌にまで昇華しました(哀歌5章)。家も(:2)、家族も(:3)、資源も(:4)、自由も(:5)、ことごとく敵国に奪われてしまいました。日常生活だけでなく、祭りの踊りも絶えて、喪の儀式に変わり(:15)、民の心も衰え(:17)、最も尊い聖所が山犬の住みかに変わってしまいました(:18)。

 しかし、イスラエルの民は消え失せませんでした。国を失えど、聖書の神への信仰を失わず(:19)、変わらない神にすがって自らを保ちました。「主よ、あなたに帰らせてください」(:21)との祈りに主は応え、イスラエルを回復されました。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2:6)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/10

聖書の教理~(30)教会の働き

 キリストは昇天する前、地上に残る弟子たちに数々の使命を授けました(マタイ28:19-20、マルコ16:15、ルカ24:46-49)。弟子たちはキリストの使命と約束を胸に抱きつつ、祈り続けました(使徒1:15)。ペンテコステ(五旬節)の日になり、その約束の通りに聖霊に満たされ(使徒2:1-4)、弟子たちは「キリストの証人」(使徒1:8)として活動し始めました。

 彼らの活動内容は、今日まで引き継がれている教会の使命と同じです。すなわち、a)伝道(使徒2:40)、b)礼拝(使徒2:46)c)交わり(使徒2:42)、d)きよい生活(使徒2:42)などです。

 教会では特に二つの儀式を「礼典」として守り行っています。ともにキリストご自身によって制定されたもので、キリストの与える「永遠のいのち」にあずかることを意味しています(ヨハネ6:51)。

 a)洗礼(バプテスマ、マタイ28:19)。洗礼を受けることは、「キリストを着た」(ガラテヤ3:27)ことであると言われています。

 b)聖餐(ルカ22:19)。聖餐のパンは「キリストのからだ」、聖餐の杯(ぶどう酒、またはぶどうジュース)は「キリストの血」を示すものです(ルカ22:19-20)。

 礼拝を中心とする教会の活動は、信者だけではなくすべての人に開かれていて、参加することができます(使徒2:42)。それぞれの活動の意義を理解した上で参加し、「キリストのいのち」を体験してください。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/04/06

2025年4月6日「主の杯を飲む」

マタイ20:20-28
 20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
 20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
 20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
 20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
 20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
 20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
 20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 20:28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

 キリストは弟子たちに繰り返し神の国の奥義を教え(マタイ6:33)、エルサレムでの受難について予告しました(マタイ20:18-19)。ある者たちはその意を誤解したまま主にお願いしました(:20)。主は彼らの誤解に対して適切にたしなめました。

 「御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように」(:21)との願いはかなえられませんでした。そのことは、「ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた」(マタイ27:38)と言われる形で実現しました。

 「わたしの飲もうとしている杯を飲むこと」(:22)はかなえられました。しかし、それは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と主が祈られた、十字架の苦難を示すものでした。

 弟子たちが願ったことは、彼らの理解とは異なるものでした。しかし、主は願う者たちに「神の国」を賜ります。「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)