2023/04/09

2023年4月9日の聖書日課

(写真:ハナモモ)

ローマ6:3-11
 6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/02

2023年4月2日3分メッセージ



 ルカ19章28節をお読みします。
イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。

 ルカによる福音書において、イエス・キリストがエルサレムに向かったのは、並々ならぬ決意をもっての事であったことがわかります(ルカ9章51節)。エルサレムは神の民イスラエル人の都であり、キリストが神の言葉を取り次ぐ預言者として向かわなければならない場所でした(ルカ13章33節)。
 旅を続けるキリストの周りにいたのは、キリストに従って行く弟子たちだけではありませんでした。ある時にはキリストを中傷する目的で、わざわざエルサレムからやって来た敵対者もありました(ルカ5章17節)。しかし、エルサレムに向かうキリストの旅路を妨害できる者は、誰一人いませんでした。
 そして、ついにキリスト一行はエルサレムに到着しました。それに先立って、キリストは二人の弟子をつかわし、途中にある村からロバの子を引いて来るように命じました。このことは、ロバの持ち主と予め約束していたことかどうかは、わかりません。しかし、「主がお入り用なのです」との言葉を受けて、持ち主はロハを渡してくれました(ルカ19章29~34節)。
 キリストはこのようにして神の預言者の務めを果たし終え、預言者としてエルサレムの地で十字架にかけられ、死なれました。十字架に至るすべての出来事は、このエルサレムから始まった罪のゆるしの福音の始まりでした(ルカ24章47節)。イエス・キリストはこのように言って私たちを招いています。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章32節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはイエス・キリストの復活のイースターを来週に控え、キリストの十字架の道を思い見ます。キリストがエルサレムで死なれた理由は、私たちに罪のゆるしを得させるためでした。キリストは今日、私たちに向かって招いておられます。どうぞ私たちの罪をゆるし、新しい人間へと造り変えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月2日の聖書日課

(写真:チューリップ)

ルカ19:28-35
 19:28 イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。
 19:29 そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、
 19:30 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。
 19:31 もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。
 19:32 そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。
 19:33 彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、
 19:34 「主がお入り用なのです」と答えた。
 19:35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/03/26

2023年3月26日3分メッセージ



 ルカ20章17節をお読みします。
そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。

 キリストは宮、すなわちエルサレムの神殿に集まっている人々に福音を宣べておられました。人々の中には、キリストの話に耳を傾ける者もありましたが、キリストに敵対して反論する者もありました(ルカ20章1~2節)。
 キリストは多くの譬(たとえ)話を語られました。なぜ譬話を語ったかといえば、耳を傾けはするが、キリストの話に込められた教えを悟らず、教えに従わない者に、理解しがたい謎として心に残すためでした(ルカ8章10節)。そのように、キリストは神殿において、敵対する人々に背を向けて、多くの民衆に向けて譬話を語ったのでした。その譬話とは、主人に分け前を出さない不正な農夫の話でした(ルカ20章9~16節)。
 キリストの譬話は、その本当の意味を探求する者や、キリストの弟子となって教えを求める者には、神の奥義が示されます(ルカ8章9節)。そしてその奥義を心に留めて、その教えに従う者には頼もしい人生の礎となります。まさに、「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」(詩篇118篇22節)と書かれている通りです。
 後にキリストは、この譬話の本当の意味を、自らの身をもって示しました。すなわち、彼を憎む人々の手によって、神の愛する御子として十字架にかけられ、死なれました(ルカ20章13~15節)。キリストを憎む人々は彼の命を奪いましたが、彼の命はキリストに従う者に与えられました(ルカ18章28~30節)。聖書にこう書いてあります。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」(ペテロ第一2章6節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書の御言葉は、時に私たちの心に大きな謎を残します。しかし、そこから神の奥義を見出すことができますように。御言葉を探求する時、私たちに永遠の生命に至る道を歩ませてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年3月26日の聖書日課

(写真:ムラサキハナナ)

ルカ20:9-18

 20:9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。

 20:10 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。

 20:11 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。

 20:12 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。

 20:13 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。

 20:14 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、

 20:15 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。

 20:16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

 20:17 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、

『家造りらの捨てた石が

隅のかしら石になった』

と書いてあるのは、どういうことか。

 20:18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/03/23

2023年4月9日(日) イースター礼拝

作者:太田玲子(川崎中央福音教会)


2023年4月9日(日) 10:30~11:30
イースター礼拝

志村キリスト教会 牧師:横山唯一
〒174-0041 東京都板橋区舟渡2-7-10
TEL&FAX 03-3969-7040
E-mail: jag4mura_kyokai@yahoo.co.jp

2023/03/19

2023年3月19日3分メッセージ



 コリント第二3章6節をお読みします。
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

 聖書の神は、私たち人類に約束を与えてくださいました。そして、その約束が破られることのないように、言葉を文字に起こして、契約書としてモーセに十戒の石の板を与えられました(出エジプト31章18節)。しかしその時、人々は神の戒めに背いて偶像を造ったため(出エジプト20章4節)、モーセは怒りに燃えて契約の石の板を砕いてしまいました(出エジプト32章19節)。
 神から頂いた祝福の約束の言葉も、正しく受け取られなければ祝福をもたらすことができません。しかし、一旦文字となった約束、すなわち契約の言葉は、契約を無視する者をも縛り、契約違反の罰を下す力があります。人類は神からの契約を無視することによって、祝福を受け取ることができないだけでなく、罰を逃れることができません(ローマ2章12節)。神の契約(律法)は、契約を守り、それに従う者に命をもたらしますが、従わない者には死をもたらす力があります(ローマ10章5節)。
 神はモーセを通して授けた古い文字による契約に代えて、新しい契約を与えてくださいました。それはイエス・キリストによる十字架の血による契約であり(コリント第一11章25節)、神の霊によって命をもたらす契約です。古い契約は従わない者に罪を宣告しますが、新しい契約は神の霊に導かれる者に義を、すなわち無罪であることを宣告します(コリント第二3章9節)。古い契約は恐怖を、新しい契約は栄光に満ちた喜びを人類にもたらします。
 新しい契約、すなわちキリストを信じることは私たちに大きな力を与えます。それはすなわち、神から与えられた契約を守り、それに従う力を新しく与えます。私たちは神の力によって正しい人生を歩むことができます。神に従い、神の力に満たされて日々を歩ませていただきましょう(ローマ16章25~26節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。イエス・キリストの十字架の言葉には、神の力が込められていることを私たちは知ることができました(コリント第一1章18節)。私たちは命の通わない文字に囚われるのではなく、神の霊に導かれて、神の働きに従うことができますように。私たちに神の良き業を行う自由と力を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)