(写真:ハナミズキ)
エペソ4:1-8
4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
4:8 そこで、こう言われている、
「彼は高いところに上った時、
とりこを捕えて引き行き、
人々に賜物を分け与えた」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/10
2021/05/09
2021年5月9日3分メッセージ
マタイ6章1節をお読みします。
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
「義」とは、正しい行い、または良い行いのことです。別の聖書の翻訳では、「善行」と言われています。
ある人は、ほかの人からほめられることを目的として、良い行いを人に見せつけたり、自慢話をしたりします。しかし、不純な動機による良い行いであったとしても、良い行いそのものが無効となる訳ではありません。むしろ聖書は、良い行いは当然に行われるべきものであると教えて、こう語っています。「強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 」(ローマ15章1節)
キリストは良い行いについて、人々からほめられること以外の報いがあることを教えています。それは天の父なる神からの報いです。神は人々の目の届かない、隠れたところで悩み苦しむ者を見ておられます。そして、人々の目から隠れた良い行いをする者をも見ておられます(マタイ6章4節)。
私たちが他人のために良い行いをする時、その人から感謝されなかったり、何か特別な報いを得られない場合があります。しかし、聖書の神はそのことを決して見過ごしにされることはありません。隠れたところで助けてくださる神にならって、私たちも隠れたところで良い行いをする「神の子ども」となりましょう(マタイ5章9節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。神の目には、良いことも悪いこともすべてがお見通しです。しかし私たちは、救いを必要とする者の隠れた祈りに応えられる神を信じます。どうぞ私たちも神の子どもとして、正しい、良い事そのものを実行する者とならせてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/03
2021年5月3日3分メッセージ
十字架で新しく 中央聖書神学校2年生 八木原海
私の高校時代は、体は丈夫なほうでしたが、心があまり健全ではありませんでした。インターネット上で悪口を書くのにはまっていたのです。学校と部活から家に帰るなり、親を軽蔑し、学校の同級生や気に入らないテレビタレントを思い出し、一言言ってやりたいと思い投稿しました。「彼らが悪い。私は普通だ」と言い聞かせていましたが、悪いのは私です。そう思いつつもやめられませんでした。そんな自分が恥ずかしかったし、人と会うのも苦痛でした。両親がクリスチャンだったので、子どもの頃から教会は引き続き通っていましたが、「私はこの場所にふさわしくない」と思っていました。実際礼拝堂の端の席に座っていました。しかし、ある時の牧師先生のお話は私に驚きを与えました。
悲惨なイエスキリストの話です。潔白のはずのイエスに罵声が浴びせられ、十字架刑に処せられるのです。「この罵声を浴びせる人たちはなんとひどいことをするのだ」と思いましたが、瞬間的に、いつも周囲を非難する自分に重なりました。イエスはさらに、耐えるどころか、「父よ彼らをお赦しください」と言いました。人の持つ罪を、十字架で背負って死ぬことで赦すという意味だそうです。私の中に拭われない「罪」の気持ちがあることが見透かされているようでした。説教の後の祈りの時間、私は神という存在に祈りました。「神様、私はコソコソ悪口をしています。すっきりすることはなく、ただ苦しいだけのこの生活、あなたに頼るしかありません、救ってください。」
祈り終わったあと、驚きました。自分の肩の荷がふっと下りたようでした。それだけではありません。翌日の朝ご飯で、レタスをシャキシャキっとかじるのが、おいしいのです。自転車で一歩一歩ペダルを踏んで、風を感じるのが心地良いのです。ささいなことでしょうか、しかし「今生きている」と心から思えたのは18年間生きてきて初めてでした。「罪が十字架につけられ、新しくイエスキリストの復活した命で生きられるのだ。」聖書に書いてある通りと思いました。当時の私を知る友人も私の変化に気づいたと言います。現に書き込む悪口は少しずつ減っていきました。そしてニュースでそのような被害を見聞きするたび、申し訳ない気持ちになり、助けを祈るようになっていきました。十字架にかかったイエスキリストは私の罪を除き、全く新しくしました。感謝します。
2021年5月9日の聖書日課
(写真:ガーベラ)
マタイ6:1-8
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
マタイ6:1-8
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/02
2021年5月2日3分メッセージ
エペソ5章4節をお読みします。
また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
聖書は私たちに言葉の使い方について多くのことを教えています。また、立派な言葉を語った人々のことも聖書から学ぶことができます。
イスラエルの王ダビデは戦いの勇士であり、巧みな歌を歌う詩人でもありました。ダビデは先代の王サウルとの間に争いがありました。ダビデはサウルの王子ヨナタンの親友であり、サウルの娘と結婚した義理の息子でもありましたが、サウルはダビデを恐れて命を狙うようになりました(サムエル上18章)。
しかし、ダビデはサウルに剣を向けることはありませんでした。時に、サウルに手をかける機会があっても、ダビデはサウルに歯向かうことはせず、王に対する敬意を失うことがありませんでした(サムエル上24章)。最後、サウルはヨナタンとともに敵との戦いで死にますが、ダビデは哀悼の歌を歌ってサウルの死を悲しみました(サムエル下1章)。
ダビデと同じように、私たちはイエス・キリストに人生の模範を見ることができます。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」(ペテロ第一2章22、23節)聖書の神は、不当な苦しみにあえぐ神の民を見過ごしにされることはありません。神は必ず苦しみのうちから引き上げてくださいます。現状を呪うような悪い言葉ではなく、神の救いを期待する良い言葉を語る者となりましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。キリストは「口から出るものが人を汚す」(マタイ15章11節)と教えられました。どうか私たちも、苦難にあって悪い言葉を語るのではなく、良い言葉を語って神の救いに期待する良い心を持たせてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/01
2021年5月2日の聖書日課
(写真:サクラソウ)
第二サムエル1:17-27
1:17 ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。――
1:18 これは、ユダの人々に教えるための弓の歌で、ヤシャルの書にしるされている。――彼は言った、
1:19 「イスラエルよ、あなたの栄光は、
あなたの高き所で殺された。
ああ、勇士たちは、ついに倒れた。
1:20 ガテにこの事を告げてはいけない。
アシケロンのちまたに伝えてはならない。
おそらくはペリシテびとの娘たちが喜び、
割礼なき者の娘たちが勝ちほこるであろう。
1:21 ギルボアの山よ、
露はおまえの上におりるな。
死の野よ、
雨もおまえの上に降るな。
その所に勇士たちの盾は捨てられ、
サウルの盾は油を塗らずに捨てられた。
1:22 殺した者の血を飲まずには、
ヨナタンの弓は退かず、
勇士の脂肪を食べないでは、
サウルのつるぎは、むなしくは帰らなかった。
1:23 サウルとヨナタンとは、愛され、かつ喜ばれた。
彼らは生きるにも、死ぬにも離れず、
わしよりも早く、
ししよりも強かった。
1:24 イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。
彼は緋色の着物をもって、
はなやかにあなたがたを装い、
あなたがたの着物に金の飾りをつけた。
1:25 ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。
ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。
1:26 わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。
あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。
あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、
女の愛にもまさっていた。
1:27 ああ、勇士たちは倒れた。
戦いの器はうせた」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
第二サムエル1:17-27
1:17 ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。――
1:18 これは、ユダの人々に教えるための弓の歌で、ヤシャルの書にしるされている。――彼は言った、
1:19 「イスラエルよ、あなたの栄光は、
あなたの高き所で殺された。
ああ、勇士たちは、ついに倒れた。
1:20 ガテにこの事を告げてはいけない。
アシケロンのちまたに伝えてはならない。
おそらくはペリシテびとの娘たちが喜び、
割礼なき者の娘たちが勝ちほこるであろう。
1:21 ギルボアの山よ、
露はおまえの上におりるな。
死の野よ、
雨もおまえの上に降るな。
その所に勇士たちの盾は捨てられ、
サウルの盾は油を塗らずに捨てられた。
1:22 殺した者の血を飲まずには、
ヨナタンの弓は退かず、
勇士の脂肪を食べないでは、
サウルのつるぎは、むなしくは帰らなかった。
1:23 サウルとヨナタンとは、愛され、かつ喜ばれた。
彼らは生きるにも、死ぬにも離れず、
わしよりも早く、
ししよりも強かった。
1:24 イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。
彼は緋色の着物をもって、
はなやかにあなたがたを装い、
あなたがたの着物に金の飾りをつけた。
1:25 ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。
ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。
1:26 わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。
あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。
あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、
女の愛にもまさっていた。
1:27 ああ、勇士たちは倒れた。
戦いの器はうせた」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/04/25
2021年4月25日3分メッセージ
詩篇136篇1節をお読みします。
主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
詩篇は、聖書の神に対する賛美歌を集めたものです。私たちは詩篇の言葉から、聖書の神を主と呼んで信じ、従う人々の心に触れることができます。
詩篇136篇は、神に対する感謝の言葉が歌われています。感謝する根拠を並べて挙げて、それらの事柄すべてに神の恵みといつくしみを見出して、そして心からの感謝をもって神を賛美しています。
この詩篇の歌い手は、「もろもろの神の神」(詩篇136篇2節)というような、神の性格を説明する名前を挙げています。また、その名前の通りに、神は世界の歴史の中に生きて働いたことを挙げて(詩篇136篇10節)、さらに自ら体験した神の救いの業をも含めて(詩篇136篇23節)、それらすべてに「恵みといつくしみ」が一貫して働いていることを告白しています。
聖書は私たちに、「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5章18節)と命じています。私たちは詩篇136篇から、感謝することの秘訣を学ぶことができます。それは、私たちの全生涯の中から感謝すべきことを見出すことができること、また全生涯に一貫して流れている「神の恵み」を見出すことができることです。
私たちは様々な問題に直面したり、また感謝できないような苦しい体験をすることがありますが、後になってそのような苦しい体験にも感謝すべきことがあったことを知ることがあります。また信仰というものは将来を見通す力でもあります。今は「神の恵み」を見出すことができなくても、いつくしみ深い神は必ず私に恵みを注いでくださる、と信じて将来に臨むことができます。ですから、聖書は「すべての事について、感謝しなさい。」と語っているのです。
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」決して尽きることのない神の恵みがあります。神の恵みに支えられて、今日という日を過ごすことができますように。
神の恵みを求めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。聖書の神に向けられた賛美歌は古来より現在に至るまで尽きることがありません。その賛美の流れに私たちも加わることができますように。主の恵み深さを味わいつつ、神に賛美をささげることができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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