2020/11/22

2020年11月22日3分メッセージ



 ミカ2章12節をお読みします。
ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、イスラエルの残れる者を集める。わたしはこれをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく。

 預言者ミカはこのように言って、神からのメッセージをヤコブ、すなわちイスラエルの人々に伝えました。その内容は、羊のように散らばった人々を狼のような危険から守るために、神は羊飼いのようにイスラエルを集めて守られる、ということです。
 しかし、イスラエルの人々は預言者の言葉に耳を貸さず、「説教するな」と言いました(ミカ2章6節)。紀元前8世紀頃のミカの時代、イスラエルの国は外敵に悩まされながらも一時の平和を味わっていました。そのため、人々は預言者の言葉をたわごとであると思ったのです。
 しかしながら、イスラエルの歴史を顧みると、ミカの時代には二つに分かれた北の王国が既に滅亡しており(紀元前721年)、南の王国も後の時代に滅亡してしまいます(紀元前586年)。そのことは、ミカの預言が知らせた「災」の通りです(ミカ2章3節)。結局、ミカの時代の人々は目先のことだけしか考えていなかったのです。
 聖書の神は、私たちが今見ていることより遥かに広く、遠い視野を持ってメッセージを語られます。私たちは聖書の言葉に謙虚になって耳を傾けましょう。そうすれば、私たちは人の知恵を超えた、神の知恵に学ぶことができます。神は良い羊飼いとして私たちを守り、養ってくださいます(詩篇23篇1節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたの思いは私たちの思いより遥かに高く、私たちのすべてを見通しておられます。私たちは聖書の言葉に目を留め、神のメッセージに耳を傾けます。どうぞ私たちに知恵を与え、迷いのない人生を歩ませてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/16

2020年11月22日の聖書日課

(写真:カキノキ)

ミカ2:12-13
 2:12 ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、
イスラエルの残れる者を集める。
わたしはこれをおりの羊のように、
牧場の中の群れのように共におく。
これは人の多きによって騒がしくなる。
 2:13 打ち破る者は彼らに先だって登りゆき、
彼らは門を打ち破り、これをとおって外に出て行く。
彼らの王はその前に進み、
主はその先頭に立たれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/15

2020年11月15日3分メッセージ



 使徒3章16節をお読みします。
イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くした…

 この言葉は、イエス・キリストの弟子ペテロが語った言葉です。
 ペテロは同じ弟子のヨハネとともにエルサレムの神殿に行きました。そこで足の不自由な男の人に出会いました。この男の人は、神殿を出入りする人々に施しを求めていました。ペテロたちにも同じように施しを求めました(使徒3章1~3節)。
 この男の人に対するペテロの返事は期待外れな内容でした。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3章6節)。しかし、その後に起きた出来事は期待以上のことでした。それは、足の不自由な男の人が立ち上がり、歩き出したのです(使徒3章7~8節)。
 周りの人々はこの出来事にひどく驚きました(使徒3章11節)。そして、このような奇跡を起こしたペテロとは、どれほどの大人物かと思ったことでしょう。しかし、ペテロは冒頭の言葉を語り、人々の期待から外れるような答えをしました。
 ペテロはこの言葉でキリスト教の本質を語っています。それは、クリスチャンや教会がキリスト教の名のもとに様々な立派な働きをしたとしても、キリスト教の本質はキリストを信じる信仰にある、ということです。そして、すべての良い出来事の源はキリストにある、ということです。それゆえにクリスチャンや教会はキリストを語るのです。
 クリスチャンは単なる人に過ぎません。しかし、クリスチャンは聖書を通してキリストの言葉を聞き、キリストの意志に従います。そして、キリストはクリスチャンを通して偉大な力を発揮されます。皆様もキリストを信じる信仰を通して、キリストの偉大な働きが現われ出るようになりますように、祝福をお祈りいたします。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ペテロは驚くべき奇跡の源としてキリストの名を語りました。私たちも良い物事の源であるキリストをよく知ることができますように。そして私たちの生涯を通してキリストの栄光が現われ出るようになりますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/09

2020年11月15日の聖書日課

  

(写真:ノコンギク)

使徒3:11-19
 3:11 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。
 3:12 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。
 3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。
 3:14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、
 3:15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。
 3:16 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。
 3:17 さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。
 3:18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。
 3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/08

2020年11月8日3分メッセージ



 マタイ3章11節をお読みします。
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

 この言葉は、バプテスマのヨハネがイエス・キリストについて説明したものです。
 当時のイスラエルでは、身を清めるために水を浴びる、バプテスマという儀式が行われていました。ヨハネは多くの人々にこれを行ったので、バプテスマのヨハネと呼ばれました(マタイ3章6節)。
 しかし、ヨハネが人々に説いたのは「悔い改めよ」ということでした(マタイ3章2節)。悔改めとは、形だけ水を浴びることではなく、自分の罪を告白して、罪から決別する意志を持つことです。むしろ、ヨハネは見せかけだけのバプテスマを止めさせようとしたのです(マタイ3章7節)。
 さらにヨハネは、自分より力のあるのはキリストであると告げます。ヨハネのバプテスマは水でしかないが、キリストのバプテスマは火のように人々から罪を除き去る力がある、と告げているのです。
 キリスト教会は、クリスチャンになろうとする人に水のバプテスマ、すなわち洗礼式を授けます。それは、洗礼の水に特別な力があるというのではなく、キリストに真の罪の清めの力があることを示すものです。罪や罪責感に苦しんでいる人は、キリストによる罪からの清めを得るために、キリストのバプテスマを受けてください(使徒2章38節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち人間には罪に打ち勝つ力はありません。ただ、聖霊と火のバプテスマを授けられるイエス・キリストにこそ、罪に打ち勝つ力があります。私たちは自らの罪を告白します。どうぞ私たちを罪の力から救い出してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/07

2020年11月7日3分メッセージ



嵐から平安の人生へ  志村キリスト教会 生田ハエノ

 青春時代、元気で仕事に勉強にまっしぐらでしたから、信仰とか神に頼るとかは心も体もひ弱い人がすることで、私は違うと思い込んでいました。
 聖書を最初に手にとったのは、岡山県津山市の高等看護学院の学生時代でした。正看護師の資格を取るために、昼は看護学院で学び、夜は津山基督教図書館高校で学びました。高校の授業の一つに聖書の時間がありました。友逹に借りた聖書を机に立てて眠り、授業が終わって寮に帰ったら、国家試験に向けて一生懸命合格を目指して勉強しました。
 クリスチャンになってから思うのは、聖書を教えておられたのは校長の森本慶三先生でした。どの学科よりも大切な時間に寝ている私を憐れんで祈って下さり、また職員室の多くの先生方、皆さんで私の救いを神様に祈っていただいたのだと思っています。
 卒業して九州の大学病院に就職しました。看護師として楽しく働き、夜勤が終わった後、寝ないで遊びに行ったり、そんな無茶苦茶な生活がたたって、日本脳炎の疑いで隔離病棟に入院させられました。40度近い高熱が4日間もつづき、死ぬか脳障害になって生きるか、絶望的な中にいた時、ベットの脇に白い衣の人が立って「安かれ」と声をかけられました。私は1年前に亡くなった父だと思って「父ちゃん」とよびました。それから不思議に熱も下がり回復に向かいました。
 その後、結婚のため上京して、子育てが始まり、私の心は大風が吹き荒れていました。そんな時、トラクトを持って訪ねて来られた人(今は牧師先生になられた大越喬子先生)に誘われて教会に導かれました。祈りの時、涙はボロボロ、鼻水は滝のようにぐしゃぐしゃ、終わってから救われたと言われ、受け入れました。3ヶ月後、私は31才で洗礼を受けました。自我の壁が崩れたけれど、私という人間が作り上げられるまで年月がかかりました。今もその途上です。
 そして入院の頃、ひしがれている私の所に来てくださった「白い衣の人」はイエス・キリスト様だとわかりました。私が初めて聖書の御言葉を覚えたのは、マタイ10章26節です。「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」最初、心の隅まで見通されて私は怖いと思いましたが、本当の神様を感じました。そして、信仰は私の人生にマイナスになったことは一度もありません。今は平安の中で、魂の休息地の中で生きています。

2020/11/02

2020年11月8日の聖書日課

  

(写真:キチジョウソウ)

マタイ3:7-12
 3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
 3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
 3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
 3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
 3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
 3:12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)